エドアルドの決意
汗でずぶ濡れの服が、肌にピッタリと張り付いてくるのがひどく不快だった。この嫌な汗を流すため、僕はマリン殿に一声かけてから浴場を借りる。
身体を清めている最中も、深い溜息が止まらない。何故ならさっきサンディ様の幻術によって見せられたものは、僕が知らなかった僕の願望そのものだったからだ……。
***
「――というわけで、場数を踏むためにも、今度は僕で試してみますか?」
「え……エド、いいの?」
「ええ。サンディ様の練習になるなら、喜んでお受けしますよ」
もちろんこれは本心だ。ギベオリードは幻術の達人。実際に幻術を習得できなければ、直接対峙など夢のまた夢で。僕の申し出に、サンディ様は嬉しそうに微笑んだ。
ああそうだ。少しはレオンとの経験値の差を見せつけておくか……。僕の中に少しだけ、見栄を張りたいという欲が湧いた。
「さあどうぞ。……ああ、僕はそう簡単に中身はお見せしませんからね」
余裕ぶって笑ってみせてから地面に座ると、細い手が首筋に触れる。
――サンディ様の両手はひんやりとしていて、訓練で火照った肌に心地いい。
決して僕に害を与えないようにという気遣いなのか、限界まで細く制御された優しい力が恐る恐る流れ込んできた。それはゆっくりとうなじを登って、後頭部から頭……いや、脳を直接包んでいく。
この感覚は精霊師として旅をする前に、必須訓練として他人の術を受けた時以来か……。その暖かく安らぐ感触を、今は素直に受け入れる。
その反面、自分の方からは一切の出力を意識して遮断した。映像はもちろん、感情や体調まで遮断するのはかなり慣れた人間でないと出来ないはずで。
この機会に『レオンと違って何も見えない状況』を実体験してもらうつもりだ。
さあ何を見せられるのか……寿命を迎えるその間際、自身の記憶を利用して、願望が叶う夢をみさせる『虹の夢』。その術名は、死者の魂は虹の橋を渡って輪廻の輪に戻る、という言い伝えから由来しているという。
ぼくは目を瞑り、その幸福の幻術に身を委ねた。
――ふと、首筋にあるはずのサンディ様の手が離れた。
(……?)
まだ術の途中のはずなのに何かあったのだろうか。目を開けて振り返ろうとしたその時、細い両腕が僕の両肩越しに伸びてやさしくおぶさるように抱かれた。背中に柔らかな双丘を感じたのと同時に、左の耳元で声がする。
「エド……いつも、本当にありがとう……」
その囁きは殆どが吐息で……そのくすぐったさと甘さに大きく心臓が跳ねる。
「サンディ様、何を……」
僕の問いは無視されたまま、左の翼越しに伸びている細腕が持ち上がると、ひんやりとした手が僕の右頬に添えられる。
そのまま顔をそっと左側に向けさせられると、鼻同士が付いてしまうかと思われる程の距離であの赤紫色の瞳が僕を見つめていた。そのさらに奥で輝く深い青緑が、潤んで揺れながら僕の視線を捉えて離さない。
サンディ様はふわりと微笑んだ。
「エドは、私のこと、好き……?」
「……!?」
この距離で、その質問……。
僕は胸が締め付けられるように苦しくて、呼吸すらままならない。
「私は、エドの事、大好きだよ……」
そう囁きながら目を瞑るサンディ様の顔が近づいてきて、その唇が重なりそうになった、その時……。
(違う違う! これは断じて、違う!!!)
恥ずかしさか、それとも自分への怒りなのかよくわからない。顔面が燃え上がりそうなほど熱くなるのを自覚しつつ全力で拒否……いや、拒絶した。
――気づけば地面に両手をついていた。全身から冷たく不快な汗が噴き出ている事を自覚する。
「エド、大丈夫!? ……っ!」
すぐにサンディ様の声が聞こえて……僕の肩に触れようとするその手を思いがけず強く払いのけてしまった。
「サンディ様すみません……。今は……今は、僕に触らないでください……」
それだけ言うのが精一杯だった……なんてザマだ。
あまりの情けなさと自己嫌悪に鳩尾に強い不快感を覚え――本気で吐きそうになるが、なんとか全力で堪える。
その上僕は今、悪意のある幻術への抵抗である拒絶を使ってしまった事に気づいた。
『虹の夢』は悪意を伴わない分、拒否だけで止められるのにもかかわらず、だ。
――レオンの拒否と比較して、僕のそれが桁違いに強いという事は既に伝わってしまっただろう……。
レオンが渡してくれた布に顔を埋め、懸命に息を整える。顔をあげたら心配そうな顔をしたサンディ様が水を渡してくれたけど、まだそのお顔を正視できない。――水を一気に呷って大きく息を吐いた。
そう……あれは僕にとって確かに幸せな夢であり願望で……。今初めてそれを自覚してしまった。
しきりに僕のことを心配する二人には悪いけど、僕はもっと心配な事があって……できるだけさりげなく、それを尋ねた。
「――サンディ様は、何か見えましたか?」
何も見えなかったし感情も伝わってこなかったという返事に、僕は心の底から安堵した。
学院生時代に幻術の授業を真面目に受け、自身の感情を守る遮断まできっちりと練習した。そんな昔の自分を、今は心から褒めてやりたい。
それでも体調だけは漏れ伝わってしまったようで、逆にそれが心配の度合いを跳ね上げているようだけど……まあそれは些細な問題だ。それにこれは、それだけサンディ様の幻術の資質が高いという証左でもある。
僕の遮断をあっさりと破り、一番浅いところではあるけど、相手の体調を拾ったその資質の高さは流石だ。
立ちあがろうとするとレオンが手を貸そうとする。いや本当に……そんな事をしてもらう程の事じゃないんだ。僕は差し出された手をやんわりと断って自力で立ち上がった。
――そう、これは完全に僕の中の問題で。
サンディ様の幻術は初回とは思えない程見事に成功したし、その制御も抜群だった。さすが魔術の天才と名高いギベオリード陛下の血縁者であり、本人もアヤナの試練をたった十日で終える程の事はある。その資質の高さとセンスの良さは、将来を考えると空恐ろしさすら感じる……。
「サンディ様の術は全く問題ないですし、制御もこのまま練習していけば大丈夫でしょう。ただ、今回は色々と僕の方に問題がありそうなので……。すみませんが、少し……休ませて下さい……」
……とても取り繕いきれてるとは思えないけど、かと言ってこのままここでサンディ様と顔を合わせ続ける事はできそうにない。
そのまま逃げるように屋敷へ戻ってきたのが、つい先程の出来事だった。
***
汗を流して自室に戻ってきた。さっぱりした分、今はいくらか冷静になっていると思う。
お祖母様……トーヴァ侍従長は、僕が奥手だからお付き合いする女性がいないと思っているようだけど、実はそれは大間違いだ。
自慢じゃないが今まで異性からのアプローチはたくさんされてきたし、貴族のお嬢様連中からのお誘いの手紙なら今でも山ほど届いている。
それでも地上を旅したことのない殆どの天界人は、特権意識が強すぎたり地上人への差別感情が強かったり……。つまりあまりに幼稚なのが多すぎて、付き合う気になれないだけだ。
地上を旅している間に出会った女性相手ならそれなりに経験もあるし、そのうち何人かはわりと真剣にお付き合いしたこともある。まあ添い遂げたいとまで想える人にはまだ巡り会えていないけど。
――それなのにサンディ様へのこの感情は、今まで全く自覚していなかった。
初めて地上へと旅立つ若かりし日の僕に、直接手を取って励ましてくださった憧れのマリエレッティ妃殿下。
妃殿下はお美しいだけでなく、その飾らない性格と偉ぶらない態度で皆に人気があった。しかも治癒を始めとした癒やし系統の術は天界一の腕前で、その筋の研究者としても第一人者だ。
――そういう意味でも、僕の中では特に憧れの人。
その憧れの人が命がけで隠した愛娘――サンディ様だけは絶対に守り抜いて、決して失わせないという使命感。
自分の中の恋心を、いつの間にか僕はそれと錯覚……いや、無自覚にすり替えていたのかもしれない。
(うん……これは絶対にナシだな)
この感情は永遠に封印する事に決めた。
この迷いを含む危うい感情は、これからの任務の中で大きな判断ミスを誘いかねない。僕がサンディ様の臣下であることは揺るぎない現実だし、この気持ちは全て王や妃殿下、そしてアレクサンドラ殿下への忠誠心へと振り替えてしまえばいいだけだ。
そしてそれは、決して不可能じゃないはず……。
僕はベランダに出て跪き、天に向けて天界騎士の最高礼の姿勢を取った。
「――精霊王陛下。僕は臣下として、サ……アレクサンドラ殿下に心からの忠誠を捧げ、この命に代えてもお守りする事を誓います」
――今回天界王陛下ではなく、あえて精霊王陛下に向けて誓いを立てた。
これは、天界王には既に忠誠の誓いを立てているという事が一つ。そして精霊王の祝福を持つ王女殿下は、精霊王の愛し子でもあるからというのがその理由だ。
思えば今までの色々な出来事の中で、距離が近くなりすぎていたのかもしれない。ここは改めて初心を思い出すべき頃だろう。
僕は心の中でそう自分に言い聞かせながら、天に向かって頭を下げ続けていた。
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