書庫とサンディ
私はギベオリード……白い翼を持つ叔父様の書庫にいた。気付いた時にはここにいて、それから私は只々ひたすら書庫の本を読み漁っている。
(どのくらい時間が経ったんだろう……)
もう何日もこうして本を読んでいる気がするけど、その確信は無い。
ここにいると時間の感覚が全くわからない。ここには窓も無ければ時計もなくて。そして空腹にもならなければ眠くもならないのだ。
この書庫には驚くほどの知識が詰まっていた。それはどれもすばらしく系統だってまとめられていて、ただ読むだけでスルスルと面白いように理解が進む。
入り口に近い部分は天界の学院……初等部入学から高等部卒業までおよそ十五年間かけて習う内容だったけど、おかげでそのエリアはあっという間に読み終えてしまった。
そのまま本棚に並んでいるとおりの順番に読み進めていく。
この書庫にある本は読む順番が厳格に定められていて、飛ばして読もうとすると本が取り出せない。そして奥に進むにつれて、どんどん内容が高度になっていくのだ。
今はギベオリード叔父様が研究していたという魔術の専門知識や研究内容、そして幻術についての項目を読んでいる。
叔父様は書庫の一番奥にある重厚な机に腰掛けて、あの黒い革表紙のノートにずっと何かを書き綴っていた。
叔父様はここで初めて出会った時と同じように、その髪の毛と同じ色……暗褐色のローブを羽織っており、左手にはその瞳と同じ、明るい琥珀色の石があしらわれた繊細な指輪が光っている。
「読み進むのが随分と早いな」
――叔父様は時折、こうして話しかけてくる。
私を見る目はとても穏やかで、城で襲撃された記憶の中にいるあのギベオリードと同一人物だとはとても思えない。
「我の書庫は、内容を理解できない者に次の書を開かせぬ。もし次の書籍が開かなくなった時は我を呼ぶといい」
「教えてくださるのですか?」
「ああ、構わぬぞ」
――どうして叔父様がこんなに優しくしてくれるのかはわからない。それでもここは居心地がいいし、元々読書は大好きだ。そして今までわからなかったこの世界の事を知れるのは、とても嬉しくて楽しい。
「それにしてもアレクサンドラよ。そなた、幻術への対処を全く学んでおらなんだな」
「え……はい」
「あの程度の蟲ごときに好き勝手嬲られおって……そんな事では我の半身に瞬殺されるぞ」
あの嫌な記憶が蘇り、背筋にぞわりとしたものが走る。
人の心の奥深くに入り込み、相手の急所となる記憶を刺激する幻術。それは思い込みを利用して相手の攻撃を封じることもできるという。
私があの変態蜘蛛へ魔法が使えなかったのは、魔法が使えないという思い込みのせいだと知った時は酷くショックだった。
もちろんその思い込みは魔術によるものなので、そう簡単に解くことはできない。それでも、それを知っているのと知らないのとでは雲泥の差だ。
そして幻術は使い方によってはその人にとって幸せな夢を見せることもできるという。でもその使い方を誤れば、精神に大きな負担をかけることになる……。
そのさじ加減は難しく、使いこなせるようになるには場数を踏む必要がありそうだった。
それにしても、この知識欲が満たされていく快感は病みつきになりそうだ。この静かな空間で、いつまでも膨大な知識を吸収し続けたいという欲が出てきてしまう。
「ふむ……お主は意外と研究職に向いているかもしれぬな」
「ふふっ、そうでしょうか。――でも知識が増えるというのは本当に楽しいですね」
思わず笑んでそう答えた時、少し目の前がぼやけた気がした。
(……あれ?)
急に襲いかかる睡魔――今まで全然眠くなかったのに。
ぐらりと揺れる身体を叔父様に抱きとめられた。
「そろそろか……」
「叔父、さま……?」
「またいつでも来るが良い。再訪したければ、指輪を付けて眠りにつく前に願え。お主が許す者なら、その身に触れたまま共に眠れば連れてこれよう」
(指輪……眠り……?)
叔父様の遠のく声を聞きながら、私の意識はそのまま沈んでいった。
***
「ん……」
エドアルドはその微かな声を聞いてすぐに目を覚ました。仮眠していたソファーから起き上がり、ベッド横の椅子へ腰掛ける。
サンディ様が倒れてからすでに一週間が経っていた。
身体は完治した……いや、させたものの、その意識はなかなか戻ってきてくれない。ただ徐々に顔色が良くなってきている事だけは確かで……それだけが自分にとって細い細い望みの糸だった。
あれから毎日、サンディ様のそばに付いていた。しかし僅かな息遣いの変化でも『目を覚ましたか』と気になって眠れない。そしてとうとう四日目の昼間、レオンとの訓練中にひどい目眩に襲われ倒れてしまった。
屋敷の皆に『一人で全部被ろうとするな』と叱られた。そのままサンディ様の見守りは強制的に日替わり交代にされてしまい、やっと再び自分の番が回ってきたのが今日だったのだ。
そろそろ夜明けが近い。窓の向こうでは濃紺の闇の奥で空が淡く焼け始めている。
「サンディ様……」
小さく声をかけると、少しまぶたが震えたように見えた。
(もしかしたら……)
淡い期待を胸にその細い手を取って両手で包み、もう一度声をかけてみる。
「サンディ様……」
包んだ手がピクリと動いた。キュッと少し震えた瞼が、ゆっくりと開かれる。
――そこに見えた深い赤紫色の瞳が、ひどく懐かしい。
「ああ、サンディ様……よかった……」
待ち焦がれていたその輝きを前にして、思わず涙が溢れた。
「ん……えっと……エド、ただいま」
「ええ……ええ、お帰りなさい、サンディ様」
少し声は掠れているが、石床の上で最後に謝られた時のような弱々しさはない。それだけでもだいぶ回復している事が伺える。
「……んしょっ」
「わっ――急に起きたらダメですよ」
自力で上体を起こそうとするサンディ様の背に、慌てて腕を添えて支えた。
「お水……欲しい……」
「はい、こちらに。……持てますか?」
「……うん、ありが、とう」
上体を支えられたまま、ご自分の両手でコップを持てた。少しずつだけどなんとか自力で水を飲めている。この様子ならこれからの回復は早いだろう。本当によかった……。
水を飲み干したのを見計らってコップを受け取り、サイドテーブルへと置く。
「今朝はスープを用意して貰いましょう。朝食まであと数時間はありますから、それまでもう少し休んでいてください」
「うん……エド、私ね……」
「なんです?」
「ずっと、ギベオリード叔父様の……書庫に、いたの……たくさんの本を読んで、勉強を……」
サンディ様の瞼が再び落ちかけて、上体がぐらりとバランスを失う。慌てて抱き止めると、その頼りない細さと柔らかさに心臓が跳ねた。何かを探すように片手を少し上げているので僕の片手で握り返すと、安心したように微笑む。
「あの書庫に?」
「うん……いつか、エドもいっ……しょに……」
そのまま言葉が途切れると、微かな寝息が溢れる。……再び眠りについたようだ。
自分の腕の中、胸にもたれて眠るサンディ様を思わずそっと抱きしめた。やっと手の届く所へ戻ってきてくれた実感を得て大きな安堵を自覚する。
だがそれにしても……。
(ギベオリードの書庫にいた?……一体どういうことだろう?)
眠っている間の夢の話だろうか?
――いやもしかしたら、まだ記憶が混乱しているのかもしれない。惨い仕打ちを受けたあの場所が忘れられず、精神的な自己防衛のための幻想なのか……。
(何とお労しい……)
このまま強く抱きしめたくなる……が、その衝動を必死に抑える。彼女を起こさないよう細心の注意を払いながら、再び身体を横たえた。
そっと布団を掛け、音を立てないよう静かにソファーへ戻る。
もう横にはならず、そのまま腕を組んで目を瞑った。あと小一時間で皆も起きてくるはずだ――それまで少しでも休んでおこう。
これまでの睡眠不足のせいか、あるいはサンディ様の意識が戻った安堵のせいか……。
ごく短時間ではあったけど、階下でマリン達が立てたであろう物音が聞こえたところで『寝過ごしたか!?』と慌てて飛び起きる程には深く眠れた。
(さて……今日は忙しくなりそうだ)
そう思いつつも、僕の気持ちはふわりと浮き立つようだった。





