王弟の書庫
サンディは、頬に触れるひんやりとした感触で目が覚めた。
薄ら目を開くと、灰色の石床が視界に映る。ゆっくりと上半身を起こして、まだじんわりと痛みの残る額にそっと触れた――が、特に怪我は無いようだ。
(ここは何処だろう? 私、あの魔法陣に殴られて……)
サコッシュとブレスレットは屋敷に置いてきてしまった。しかし左手首にはバングルに形を変えた笛がある。
(とりあえず武器はあるけど……)
立ち上がって周囲を見ると本棚がずらりと並んでおり、薄暗い部屋いっぱいに本特有の香りが漂っている。厚みのある書籍が壁一面に並ぶ様子は、なかなか壮観だ。
部屋の奥には重厚な造りの机が置いてある。そこにあるランプはかなり古めかしいもので、この部屋の歴史を感じさせた。
サンディは本棚を眺めつつ歩いていく。
(魔導書が一番多いみたい……あとは政治? ……軍政学……諜報?)
やや物騒な方向に偏ったジャンルに違和感を覚えつつ重厚な机まで辿り着くと、机上に無造作に積み上げられたいくつかの書籍が目に入った。
(『“高等部用“魔導書』……これは教科書かしら?)
周囲を見回すが人の気配は無い。恐る恐る椅子に腰掛けると、思いがけず座り心地がいい。そっと手前の引き出しを開けると、中には黒い革表紙のノートがポツンと置いてある。
ノートを取り出して机上に乗せ、ページを開いた。
(これは……)
流麗な筆跡で綴られている内容は、魔導研究の成果や実験に必要な素材のメモばかりだ。しかし頁を読み進めていくと、徐々に日記も兼ねるような内容に変化していく。
それは、毎日必ず綴られているわけではないようだ。何か印象的な出来事があった時にだけ、都度書き留めているように見える。
『王の崩御。ウルスを至急呼び戻さねば』
ウルス……父の愛称を見つけて思わず指が止まる。崩御した王とは先代……つまり、自分の祖父に当たる人だろうか。
『それにしても今だに我の方が王にふさわしいと公言して憚らない者がいるとは……全く持ってけしからん』
『またウルスが違う情報を摑まされた。あの執事はろくなことをしない』
『マリエラが秘書官になれば安心だ。しかし、彼女の身の安全を考えねば』
そこにあったのはウルスリードとマリエレッティに対して心配しつつ、親身になって手を尽くしている王弟ギベオリードの記録だった。
先代の王が急逝して父ウルスリードが即位したが、それを妨害する勢力があったらしい。その勢力とは弟ギベオリードをこそ王にしたいという者達のようだ。
『マリエラはやはり賢い。素晴らしい女性だ。いや……こんな気持ちをいつまで引きずっているのか、情けない限りだ』
『とうの昔に断られた時、我とマリエラの縁は潰えたのだ。しかしいまだに未練がましい感情が残る。――我ながら女々しい男よ、ギベオリード』
(なんだか、切ないな……)
ギベオリードが母マリエラを愛していたのは確かなようだ。ただしそれは未練だと本人が認め、そして拒否している。
サンディはもう一度周囲を見回し、誰もいないことを確認して頁をめくり続けた。
『マリエラに害をなそうとする者らに警告。烏九羽、黒き羽十三枚」
『ウルスは決して無能などではない。周囲の妨害が酷すぎるのだ』
『自ら執務室で手伝えぬのがもどかしい。しかし我が行っては彼奴らに良い口実を与えてしまう……許せ、ウルス』
(……叔父様は確かに二人を応援している……それが、どうしてあんな事に?)
そして次の頁を開いた時、サンディの手が止まった。
『今日ウルスが告白し、マリエラはそれを受け入れた――おめでとうウルス。そしてどうか幸せになってくれ……愛するマリエラ』
(……!?)
サンディは訳がわからなくなった。これは一体どういう事だろう? こんな文章を書く人間が、多数の犠牲を出してまで母を攫ったと言うのだろうか?
気を取り直して、さらに頁を読み進めていく。
二人を祝福した後は日付もかなり飛び飛びで、殆どが実習の記録や生徒に対する注意事項、そして調達すべき素材のメモ書きばかりになった。が、しかし……。
『人の心を捕える』
『痛みを別の感覚へ変換できれば』
『幻覚拷問は、本人の記憶を利用してやれば』
(……??)
ひき続き同じようなメモ書きの合間に、時折不穏な言葉が挟まっている。中にはぐしゃぐしゃと強く塗り潰された箇所もあったが、たまたまインクの隙間からかろうじて読みとれた内容にサンディは戦慄した。
『ウルスの愛こそが、マリエラの精神を拘束している。一刻も早く私が彼女を解き放つのだ』
その後も度々不穏な言葉が並ぶが、その合間にやや弱気な言葉が挟まる事が増えてくる。
『ずっと耳元で囁く悪魔め。我はそんな卑怯者ではない』
『決して屈せぬ』
『黙れ……黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ……』
そしてその記録の終わりは突然現れた。白い頁の真ん中に一言だけ。
『マリエラを我が手に』
――その先の頁は、全て白紙だった。
しばし考え込むサンディ。
王弟ギベオリードは至って普通の優しい男だったようだ。そして魔導の研究や生徒の指導について、とても熱心に取り組んでいた様子が伝わってくる。
しかし両親二人が結ばれた後、どんな理由かはわからないが徐々にその考えが変わってくる。禁術の類に手を出しているようだし、見たことも聞いたことも無い素材の名前がメモに記される事が増えていた。
そして耳元で囁く悪魔……この存在が気になる。
考え事に耽っていると、突如頭上から声が響いた。
「おやぁ……これはこれは……ここに人間……しかも女が迷い込むなど、今日は何てついているんじゃぁ……」
「誰っ?」
いつの間にか、本棚の無い壁に知らない男……いや、男の顔をした大きな蜘蛛が張り付いている。そいつはひゃひゃひゃと下卑た笑いを上げながら、じわじわと机に近づいてきた。
「ギベオリード様の記憶に踏み込むとは、お前も相当な好き者なのだな?」
「好き者……一体何のことかしら?」
サンディは腰掛けたまま、左手に付けているバングル――アヤナの笛を剣に変える準備をしつつ応える。
「ひゃひゃっ……無理に誤魔化さんでもいい。ここに来るものは、皆目的は同じじゃて。幻術に興味を持ち、その匠を我が物としようとする身の程知らずばかりで――お前もどうせその一人であろう? しかし残念だったな。その匠はもう既に我のものだし、それを誰かに渡す気もさらさらない」
「一体何の事……イタッ!?」
一瞬首筋にちくりと刺された感触があり、咄嗟に手で抑えた。掌には異物感があり、見れば小さな蜘蛛が潰れている。机から離れ、蜘蛛男から距離を取る――が、急に足から力が抜け、膝を付いてしまった。
「――ここは既に我の手の内。既にお前の自由は頂いた……おっと、魔法は使わせぬぞ」
部屋の四方から、黒い煙のようなものが立ち込めてくる。咄嗟に風魔法で吹き飛ばそうとしたが、何故か魔法が発動しない。蜘蛛の毒か、あるいはこの煙が特殊なのか……?
とにかく、この煙を吸ってはいけない……そう判断して腕で口元を抑えたが、それだけで煙を防ぐのは厳しそうだ。
そこへ蜘蛛の糸……と呼ぶには些か剛すぎるものが飛んできて、サンディの四肢を絡め取った。両手両足を固く抑え込んでギチギチと締め上げるその力に、魔法を奪われたサンディは抵抗できない。
自由を奪われ、乱暴に石畳に投げ出される。蜘蛛の毒のせいか、ぼやける視界と背中にじっとりにじむ汗……その恐怖と不快感になぜか甘く酔いつつあった。
(何か……おかしい……)
不快感、嫌悪感、そして不安……その全てがうっとりとした感情に勝手に変換されて、自分を飲み込んでいく。
(こんなの、だめ……ぐっ!)
左手首に装着したバングルに意識を向けたその時、激しい痛みが全身を襲った。
「おおっと……まだ抵抗する気になるとは、気の強いお嬢さんだ。――でももうわかっただろう? 抵抗しようとすればするほど激痛がお前を襲う。しかしそのまま身を任せてしまえば、お前は最高の快楽を味わえるのだ」
黒い煙が充満するその部屋では視覚が役に立たない。ただ暗く生暖かい空気の中、自分の感覚だけがどこか別世界へ飛ばされている感覚に陥る。
「それにしてもなんという素晴らしい魔術っ! 刻めば刻むほど快楽を与えるとは……解剖の天才こと、私アズール様に相応しい幻術!! ギベオリード様の編み出したこの幻術は他の誰にも渡さない……ふふ……ふひゃひゃひゃひゃっ!!!」
その時、首すじについと滑る熱さを感じた。その熱は首筋を舐めるように伝っていき頬に伸びていく。それに遅れて、熱い液体が溢れるのを感じた。
最初だけは確かにピリッと痛みが走った。しかしすぐにそれは優しい感触に変わり、ただただこそばゆいだけだ。
「ん? おやおや、こそばゆいだけか……そうか、お嬢さんはまだ男を知らないようだの。……それではゆっくり、最後まで殺さないようにせねばのう……ひっひっひ……」
下卑た笑いに対する不快感すら、自分の中で勝手な期待感へと変換される。いやだ……こんなのいやだ……。
突然、左脇腹に鋭い熱を感じた。肌を浅くなぞられると背筋にぞわりと快楽が走る。思わず声をあげそうになるが必死に堪えていると、続けて腿裏から内腿、そして足先と辿り、終いには右臀部と左の乳房脇に別の熱がそれぞれ刺さった。
「ンッ……ああっ!」
堪えきれずに声を上げると、目の前で何かがチカチカと明滅する。痛い。すごく痛いし、身体を何かで抉られている実感もある。
しかしその痛みが、不自然な形で無理矢理『快感』として感じるように強制されている。冷たい汗で全身はぐっしょりと濡れ、ひたりと肌に張り付いた服がその動きを妨げる。
(だめ……痛い……痛い、よ……)
痛いのか、それとも快感のか、今ではもうよくわからない。身体のあちこちを何度も抉る感触に嬲られる。
(いや……もう、いっそ……殺……いやだめ……エ、ド……)
正常な意識を手放すまいと必死に抵抗しながら、サンディはいつしかエドアルドの顔を思い浮かべるのだった。





