魔女の願い
――その日の朝。
白妖精は呼びかけに応え、地上に向けて転移していた。魔女からの呼びかけは魔樹の一件以来だが、また何か厄介な異変でもあったのだろうか?
「白妖精様、お呼びたてして申し訳ございません」
心配しながら地上へ現れてみると……なんて事はない。屋敷の自室で、ソファーにゆったりと腰掛けたグレンダが微笑んでいる。昼までまだ数時間はあるというのに、テーブルにはすでに空いたワイングラスまであった。
「全く、こんな時間から――いいご身分じゃない」
「今日はこの幸福な人生を……心から祝したい気分なのですよ」
グレンダの声は、いつになく穏やかだ。その表情は慈母のように優しく、紫水晶の瞳には悟りの光が浮かんでいる。
白妖精は、この表情をよく知っていた。これは覚悟を決めた者の顔だ……。
「――グレンダ、用件を聞きましょうか」
「ありがとうございます。実は……」
グレンダの話はつい先日、精霊王の御前で白妖精を含む側近達が話し合った内容と重なるものだった。
魔樹の騒動以降、森の精霊力がなぜか大きく欠けたことをきっかけに、世界全体の調和が大きく乱れつつある。実際地上で咎人が目撃される頻度も増えていたし、鉱山や海などでは魔物の出現も確認されていた。
そんな中グレンダは地精霊からの警告に悩まされ、今では睡眠不足に陥る程だと言う。白妖精が作った地下結界の縁で、咎人や魔物が多数蠢くのも感じている。
「――白妖精様、真実を教えてください。あの魔樹の一件で、この世界は何か致命的な損失を被ったのではありませんか?」
白妖精は、一瞬迷った。しかし地上の魔女という存在は、決して軽んじられる存在ではない。精霊王ですら敬意を持って対応する相手……ここで嘘をつくという選択肢は、白妖精には無かった。
「――私と黒いのが、最後に魔樹から回収してある程度戻したはずの精霊力……実はあれ、全然大した量じゃなかったの。あの時はバッチリ成功したと思っていたのだけど……」
「なんて事……では、やはり……」
「ええ。悔しいしその原因ははっきりとわからないけど、まんまと相当量の精霊力を削られてしまったわ。――今頃首謀者はさぞ喜んでいるでしょうね」
グレンダは宙を仰いで目を瞑り、大きく深呼吸をした。
「白妖精様。お願いがあるのですが、聞いて下さいますか?」
「――聞くだけは聞いてあげてもいいわ。でも、返事は聞いてから決めさせてちょうだい」
グレンダは真っ直ぐに白妖精を見つめた。
「どうか、私の最後を見届けて貰えないでしょうか」
「グレンダ、貴女……」
白妖精の言葉には応えず、グレンダはそのまま続ける。
「あと、マリンに……新しき魔女に、白妖精様の指輪を受け継がせる事をお許しください。――私の願いは、それだけです」
「――それが森の魔女としての決断であるなら、私にそれを止める権利は無いわ。指輪の件に付いても、今の状況を考えればそれが一番妥当だと思う」
「ありがとうございます……」
軽く俯いて、安心したように微笑むグレンダに、白妖精は改めて尋ねた。
「皆へは、どう伝えるつもり?」
「マリンとは、昨晩ゆっくり話をしました。私の使命と決意、そしてその必要性……緊急性も説明してあります。まあ、その……盛大に泣かれてしまいましたが」
その時のことを思い出したのか、やや涙ぐみながら苦笑する。
「……それでも最後は、『わかった』と言ってくれました。――あと、テレシアには今朝話をしました。彼女なりに色々思うところはあるでしょうが、とりあえず私の決断を尊重してくれています。それに彼女がいてくれるなら、マリンが……いや、私が安心です。あとは……」
そこで詰まるグレンダを見て、白妖精は察した。
「ロムスね。――彼は結構、頑固なんじゃない?」
グレンダは小さく肩をすくめてみせた。
「……彼だけは、首を縦に振ってくれませんでした。その上、『勝手すぎる』と怒鳴られてしまいましたね――それと……」
「……それと?」
「――いえ、何でもありません」
グレンダはその後は語らず、淋しげに笑った。そしてロムスはそのまま、今朝早く街に向けて発ってしまったという。
(全くロムスったら……子供じゃあるまいに……)
白妖精は小さくため息を吐いた。
「――で、いつにする気?」
白妖精の質問に、グレンダは即座に答えた。
「今、これからすぐに」
決意が固まっているのはいいとしても――今の魔女は、独り先走っている感が否めない。
「……サンディやレオンには、一度も会わなくていいの?」
白妖精が尋ねると、グレンダの視線がテーブルに落ちた。
「彼らはマリンと同等の覚悟はありません。それに、最初から私たちとは全く別の目的を持つ者達ですから……」
「巻き込みたくない、っていう気持ちはわかるわ。でも彼らの感情は、それで収まるかしら?」
グレンダはソファーから滑り落ちるように床に膝をつき、そのまま頭を深く下げる。
「白妖精様、どうか……!」
大きくため息を吐くと、白妖精はグレンダの肩にふわりと腰掛けた。
「――わかったわ。これは貸しよ」
「消えゆく者へ貸して下さいますか……お優しいですね」
自嘲気味に笑むグレンダに、白妖精はその頬を寄せた。
「森の魔女グレンダ――私は精霊王の眷属として貴女の勇気ある決断に感謝し、心からの敬意と感謝を贈ります……」
***
大樹の切り株の上、グレンダは独りで立っていた。周囲にはマリン、テレシア、白妖精が控えている。
そして切り株の傍らには茶褐色の髪に黒い瞳を持つ小柄な男――地妖精グノーマがいた。
「グレンダよぉ……俺がこんな事言うのもアレなんだが……本当にいいのか?」
「いまさら何弱気な事を言ってるんだい、グノーマ。――今は、あんたに頑張って貰わないと困るんだよ」
「いや……飲み友達が減るのは、寂しいと思ってな……」
ふふと笑い、長身のグレンダは腰を屈めてグノーマの視線に合わせた。
「大丈夫。酒の相手ならマリンだって負けてないよ――いや、あの子は私なんかよりずっと強いさ。――さあマリン、こちらへおいで」
呼ばれたマリンの目は、昨晩の号泣のせいかやや腫れぼったい。グレンダは切り株から降りると、その左手に光る指輪――白妖精から賜った、大きな月光石があしらわれた指輪を外す。そのままマリンの左手を取ると、中指に繊細な細工の施されたそれをそっと嵌めてやった。
「お師匠様〜……」
「ほら、もう泣かないで。笑顔で送ってくれる約束だろう?」
懸命に涙をこらえ、口角を上げる努力を重ねるマリン――その様子を心から愛おしく感じつつ、グレンダはマリンの両手を包んだ
「今から私の結界を、お前にすべて引き渡すよ。少々やかましくなると思うが――それもきっと、すぐに収まるさ」
マリンは一瞬、包まれた手に焼けるような熱を感じた。しかしそれは次の瞬間には収まり、同時に地精霊達の警告が耳へと押し寄せてきた。
『クルナ』『シズマレ』『デテハ ナラヌ』『オサエキレヌ』……
絶え間なく重なり合って地から湧き続ける低い警告の声――マリンはその薄気味悪さに慄いた。師匠は今までずっとこの声を聞き続けていたというのか……。
驚きと少々の恐怖をその表情に滲ませるマリンに、グレンダはそっと頭を撫でてやった。
「――大丈夫。きっともうすぐ、収まるから。さあ、下がっておいで」
マリンが元の位置に戻ると、その肩にテレシアがそっと両手を置いて寄り添う。心底嬉しそうにその様子を見届けると、グレンダは切り株の上に戻って膝を付いた。
白妖精と目を合わせ、お互いに小さく頷くと、グレンダはグノーマに向かって両手を組む。
「――地を司る妖精、グノーマ様。魔女グレンダは、今ここに預かりし御力をお返し致します……どうか、ご許可を」
グノーマは、寂しげな表情でため息を一つ吐いたが、気を取り直したように微笑む。
「――ああ、許可する」
その直後、グレンダの身体が雲母の風に包まれた。渦巻くそれは煌めきながら、グレンダの身体を淡く溶かしてゆく。
「お師匠様あああっ……」
グレンダはマリンに向けて微笑みを残し、そのまま雲母の風に溶けて消えた。その渦巻く風は急に勢いを増すと、グノーマの掌中へと飲み込まれていく。
「ありがとよ、魔女……これでしばらく持ち堪えられそうだ……」
グノーマがそう呟いた次の瞬間、切り株の脇にあった新芽が一気に育ち、大きな切り株を挟むように二本の若木が立ち上がった。幹はまだやや細身だが、その背は既に屋敷の屋根近くまで伸びて青々とした葉を茂らせている。
そしてマリンは、静けさを感じていた。
「地精霊の警告が……消えた?」
「ああ、そうだ。グレンダのおかげで、ここの結界も持ち直したな」
グノーマがマリンの肩を優しく叩いた。
「結界だけじゃないわね……地上全体のバランスが少し良くなったみたい」
白妖精の言葉に、グノーマが頷く。
「これで魔物の類をかなり抑えられるだろうよ。――まあまだ完全じゃねえけどな」
これでしばらくは大丈夫だろう。白妖精は大きく息を吐いて空を見上げた。
(ありがとう、グレンダ……また後で会いましょう)





