小さな弟
今宵は満月。白妖精の為に笛を奏でる日だ。
サンディは自室のベランダで笛を吹いていた。二曲ほど奏で終わったところで目を開くと、用意しておいた薔薇の花を敷き詰めた水盆の上で、白妖精がうつ伏せに寝そべって頰杖をついている。
「私の愛し子、こんばんは♪」
「こんばんは、白妖精様」
笑顔で挨拶を交わしあうと、白妖精がふわりと浮かんでサンディの目の高さで止まった。
「噂には聞いていたけど……本当にマリエラそっくりね」
「自分でも、少し驚いています」
へへ、と笑いながら改めて思い出せば──取り戻した記憶の中にあるその姿や、トーヴァに見せてもらった肖像画と比べてみても、お母様と自分は、瞳の色以外そっくりだ。
白妖精との短い雑談の後、続けて三曲目の笛を奏でていると、どこからかもう一つの笛の音が聞こえてきた。少したどたどしいながらもサンディの笛の音と合わせたり、軽くハモってみたり……それはまるで、可愛らしいセッションのようになる。
何処の誰が合わせているのかはわからない。吹いていて悪い気分ではないものの、今は白妖精の為に笛を奏でている時間だから──少し心配になって白妖精の様子を見てみると、彼女は大変満足げな笑顔で目を瞑り、薔薇の絨毯の上に寝そべっている。
(これなら、続けていて大丈夫そうね……)
また目を瞑ってそのまま吹き続けていると、もう一つの笛の音が少しずつ近づいてくるような気がする。最初は遠くから……そのうち、上の方から……そして、急に間近でもう一つの笛の音が響いたその時──サンディが目を開くと、白い満月を背景に燃えるような赤い髪をもつ少年が宙に現れた。
実体のない小さな翼は月光を透かして白金に輝き、手に持った横笛は淡く青く光っている。長いまつげに縁取られた深い青紫色の瞳が真っ直ぐにサンディを捉え、その目が大きく見開かれた次の瞬間──。
「お母様ぁぁぁっ!!」
宙から真っ直ぐ落ちるような勢いで、少年がサンディに抱きついた。サンディは思わず椅子から転がり落ちそうになるが、そこは翼を駆使して何とか受け止める。頬に触れる空気が急に暖かくなり、ごうという音を立てて風が強く吹いた。
「お母様ぁぁー! 僕……僕……会いたかった……」
その小さな身体は微かに震え、サンディの服を爪が白くなるほど強く握っている。
どうしたものかと思って白妖精を見ると、少々驚いた顔をしつつも小さく頷いている。そこでサンディは、少年を抱いたまま、背中をぽんぽんと優しく叩きつつ、時折その柔らかな赤髪を撫でながら語りかけた。
「よしよし、大丈夫。大丈夫よ……」
少年は、少し経つとようやく落ち着いてきたようだ。泣きはらした顔をそっとあげ、サンディを見つめる。少年はまだあどけなさの残る可愛らしい顔だが、どことなく父ウルスリードに似ていて……。
「もしかして……あなたは、レナート?」
優しく尋ねると、少年は思い切り首を縦に振る。
「そう、そうだよ、お母様! 僕レナートだよ! ずっと……ずっと会いたかったんだ!」
やはりそうか……サンディは取り戻した記憶を辿る。
ギベオリードによる襲撃の日。レナート──皆にレニーと呼ばれ愛されていた生まれて間もない弟は、精霊王の祝福を受ける為お父様と共に精霊国へ行っていた。
幼かった自分の記憶の中でも、彼についてはまだ小さな赤子の姿しか残っていない。あれから時が経ち、今レニーは五歳になっているはずだ。
チラと視線を送ると、白妖精は薔薇の絨毯の上で黙って見守りながらも笑顔で頷いている。サンディはふぅと小さく息を吐き、レナートの目を見てゆっくりと語りかけた。
「ああ、私も会いたかったわ、レニー。──でもね、私はレニーのお母様じゃないのよ」
「嘘だ! ……だってお父様の言ってた通りの白い笛を持ってるし、お顔だってお部屋に飾っている絵と同じだ!」
小さな手でサンディの寝巻きの布を強く掴んで反論するレニー。父とそっくりの燃えるような赤い髪の上にそっと手を置き、優しく撫でながらサンディは告げた。
「私は、アレクサンドラっていう名前なの。レニー……私は、あなたのお姉さんよ」
「お姉……様?」
サンディがこくりと頷くと、みるみるうちに少年の表情が泣き顔へと崩れていく。
「僕は……お母様が来てくれることを願って笛を吹いていたんだ……そしたら綺麗な笛の音が聞こえた。居なくならないように、音を合わせながら探したら、ここにお姉様がいて……でも僕……お母様だと、思ったのに……」
少年は、ポロポロと大粒の涙を落とし始める。恐らく、物心ついた頃から肖像画を眺め続けては、母を恋しく想い続ける日々だったのだろう。それを想像すると胸がキュッと苦しくなり、小さな肩に置く手に少しだけ力がこもる。
「ねえお姉様……お姉様は今までどこにいたの? いつ帰ってきたの? お母様はいつ戻ってくるの? 悪いやつに連れて行かれたんでしょ?」
レニーの畳み掛けるような問いに合わせ、急に空が曇り満月の白い光が遮られる。空気が急激に冷え、パラリと落ちてきた雨粒はあっというまに勢いが増していき……。
「やだ! なによ、この雨! ちょっと急すぎない!?」
「一旦部屋に戻りましょう!」
慌てる白妖精に声をかけ、サンディがレニーの手を引いて部屋に戻ろうとしたその時、急に雨がやんだ──いや、上空に大きな水の傘が現れて、雨を防いでいる。
「レニー、あまりお姉様を困らせるんじゃないぞ」
そこにはウルスリードが立っており、両腕でそれぞれサンディとレニーの肩を抱いた。──騒ぎを聞きつけ、透視石をつかって来てくれたのだろう。
「お父様! あの……ごめんなさい。でも僕、お母様にどうしても会いたかったんだ……」
レニーの瞳からポロポロと落ちる大粒の涙に合わせるように、ますます雨は酷くなる。
「レニー、もう泣くな。我は怒っているわけじゃない。……さあ、皆で部屋に戻ろう」
ウルスリードの言葉を合図に、全員がサンディの部屋へと戻った。





