精霊王の宮殿
その日、天界の王ウルスリード・セラフィニウスは、精霊王の宮殿にいた。今は自身の息子であるレナートと共に、豪奢な控室に入ったところである。
本日は精霊王への謁見し、第二子で長男のレナートをお披露目した。そして本日の目的である『祝福の儀式』を終えて、玉座の間を退出したばかりだった。
ウルスリードは燃えるような赤い髪に濃い琥珀色の瞳、がっちりとした長身の男である。今はシンプルなデザインながらも、上質な生地をふんだんに使用した正装姿だ。
その幅広い肩に纏った儀式用の重いマントを、年配の侍従が手際良く外して別室に下がっていく。
ウルスリードは肩を軽く回しながら、一緒に戻った白い翼を持つグレイヘアの侍女に声をかけた。
「トーヴァ、レナートの様子はどうだ」
「はい。立派にお務めを果たされ、今はぐっすりとお休みにございます」
トーヴァと呼ばれた侍女は、赤子を起こさぬように小声で答えた。籠の中ですやすやと眠る乳児を青灰の瞳で愛おしげに見つめている。
「アレクサンドラ様に続き、レナート様も見事に精霊王様のご祝福を受けられまして……本当に誇らしゅうございます」
ハンカチで目元をそっと押さえた後、ウルスリードに向かって満面の笑みを向けた。
「うむ。これでひとまず肩の荷が降りた。トーヴァも長い間、本当によく尽くしてくれたな。――改めて感謝する」
頭を下げるウルスリードに、トーヴァは慌てて深々と頭を垂れた。
「陛下、そのような! 私ごときに勿体ないお言葉でございます」
「ハハッ、トーヴァよ、そんなに恐縮する事はない。アレクサンドラやレニーだけではなく、我自身もお主の世話になって育ったのだ。今回の祝福の成功といい、長年仕えてくれるトーヴァには感謝しかない」
「大変、光栄に存じます」
「そこでトーヴァさえよければもうしばらく――レニーが自らの意見を言えるようになる位までは、導いて欲しいと願っているのだが。……どうだろう?」
トーヴァは頭を上げると、優しく笑んだ。
「ウルス御坊ちゃまは本当に、人使いが荒ろうございますな。この年寄りをまだこき使いますか」
しかしその言葉とは裏腹に、トーヴァはとても嬉しそうだ。
「この老婆、今の生きがいはウルス御坊ちゃまと天界王族の繁栄のみでございます。この身体が動く限り陛下のお側で使えさせて頂けるなら……それが私の何よりの幸せに御座います」
「よかった。それはすなわち我の幸福でもある。是非よろしく頼むよ、トーヴァ」
ウルスリードは満面の笑みで、老女の肩をポンと叩いた。
そのままソファーに腰を掛け、天使のような寝顔で休む愛息の籠を左手でそっと引き寄せたその時、ピシリと乾いた音が部屋に響いた。
(!?)
ウルスリードが左手薬指に付けている指輪。はめ込まれている大粒の青紫色の宝石に、深い亀裂が走っている。
「陛下、どうなさいましたか?」
心配そうに見つめるトーヴァに、ウルスリードは低い声で答えた。
「マリエラが……」
「えっ?」
そこへ忙しないノックが響いた。続いてやや慌てた様子の声が響く。
「天界王陛下、おくつろぎの所大変失礼いたします! 精霊王陛下からの急ぎの使いでございます。今よろしいでしょうか!」
「勿論だ、入ってくれたまえ」
既にトーヴァは乳児の眠る籠を静かに引き、ウルスリードから少し離れた後方に控えている。
ノックをした騎士がドアを開けると、身長二十センチ程の少年の姿をした妖精がふわりと入ってきた。その身体は暗く濃い紫色に光っており、蜻蛉のように細長い羽を震わせながら宙に浮いている。全身には濃紫に光る粉のような昏い煌めきを纏っており、吊り上がった瞳に白目はなく、すべて漆黒に輝いている。
ドアが締められると、妖精はウルスリードの座るソファの前、テーブルの上にあぐらをかいた。
「早速だがウルス。今すぐに帰城せよ。特別に転送陣の使用も許可する」
「黒妖精殿、急に何を……」
「陛下、私共は隣室で控えておりますゆえ、何かありましたらお呼び――」
「――構わぬ。いや、むしろここでお主も話を聞け」
暗紫色の妖精は、トーヴァの言葉をさえぎって命令した。
「はい、承知致しました」
頭を下げると、トーヴァは元の位置に戻って控える。
黒妖精と呼ばれた小さな少年は、ウルスリードの左手を指差した。
「既にお主も気づいただろう。王妃が奪われたぞ」
「一体、誰が……」
それには答えず、黒妖精は続ける。
「石に封じられ、地底界へ持ち去られたようだ」
「地底!?」
ウルスリードは、握り拳をソファーの肘掛けに打ち付けた。鈍く大きな音が部屋に響く。
トーヴァが震える声で尋ねた。
「あの、お嬢様は……アレクサンドラお嬢様はご無事なのですか?」
「過日、我が王の祝福を受けた娘だな。あれはマリエラの手で隠された」
「そんな! 一体何処へ!?」
「トーヴァ、落ち着け。レニーが起きるぞ」
ウルスリードは立ち上がるとトーヴァの肩に手をやり、斜め向かいのソファーに腰掛けさせた。テーブルに置いてある水差しの水を手ずからコップに注ぐと、トーヴァの震える手にそっと渡し、ゆっくり飲むよう促す。
ウルスリードは再び元の席に腰を掛け、愛息の寝む籠を側に引き寄せて続けた。
「サンディは何処に隠されたのでしょうか?」
黒妖精は腕を組んで目を瞑る。
「今探しておるのだが……まだわからぬ。精霊界か天界であればすぐにわかるはずだ。しかし、今の所反応はない。となると、地上に飛ばされた可能性が大だな」
「地上……そんな危険な場所に、お嬢様が一人きりで……」
トーヴァはそこまで言うと、ハンカチに顔を埋めて泣きはじめた。
「トーヴァ、といったな? これからウルスは帰らねばならぬのだぞ、しっかりしろ!」
黒妖精は、驚くほど厳しくトーヴァを叱った。その声にトーヴァの肩はビクッと震え、泣き声は聞こえなくなった。しかしまだ顔は上げられず、ハンカチに埋めたまま声を殺して泣き続けている。
黒妖精はウルスリードの方へ向きなおすと、低い声で続けた。
「咎人は、城内で少なくない犠牲者を出したようだ。早急に城内の浄化と立て直しが必要だろう」
「ご配慮痛み入ります」
「そして本日祝福を受けた王子だが、城内の混乱が落ち着くまでこちらに置いておくがいい。城内の穢に触れずに済む上、咎人は決してこの宮殿内には入れぬ」
「……なるほど」
先程、黒妖精がトーヴァに対して殊更厳しく当たった理由をウルスリードは理解した。この城に滞在する間、トーヴァが王子の母にならねばならぬのだ。
ウルスリードはトーヴァの方を向くと、あえてゆっくりとした口調で願った。
「トーヴァがレニーを見ていてくれるのであれば、我は安心して立て直しに専念できる。――頼めるな?」
トーヴァはハンカチで覆った顔をあげ、真っ赤な目でまっすぐに王を見つめた。その後すぐに立ち上がりハンカチを握りしめると、しっかりとした口調で言いきった。
「お見苦しい所をお見せしてしまい、申し訳ございません。私はもう大丈夫でございます。レナート様の事はお任せ下さい。陛下は陛下にしか出来ぬことに、存分にご専念なさいませ」
元々彼女は賢く気丈で、それでいてとびきり優しい女だ。明るく朗らかな性格で、ウルスリード自身も子供の頃から面倒をみて貰った。
自分の妻でありレニーの実母であるマリエラが不在の今、彼女ほど安心して王子を預けられる女性は居ない。
最近は歳のせいか、トーヴァの気弱な発言が増えていて心配していた。しかし今、彼女はまるで若返ったかのように頼もしい目をしている。
「……大丈夫そうだな」
黒妖精はニヤリと笑った。
「では転送陣を使うぞ。ウルス、付いてこい」
「はっ」
部屋の扉を開けると、侍女姿の女性が数人控えていた。
「この者らがトーヴァ殿の下に付き補佐する。トーヴァ殿が王子から一時も離れずに済むよう働けと命じてある故、好きに使うが良い」
「有難き仕合せに存じます」
トーヴァは深々と頭を垂れた。そして上げた顔に、もう迷いの影は無い。
「では、参る」
ウルスリードは振り返ること無く、黒妖精と共に足早に部屋を出ていった。





