生き写し
天界王ウルスリードは、執務室のソファーに腰掛けて茶を飲んでいた。テーブルには食べ終わった軽食の皿が置いてあり、その傍では黒妖精があぐらをかいている。
黒妖精が天界王城を訪れた時、ウルスリードがサンディと再会するはずの夕食をドタキャンしている所だった。急な執務のためと執事に告げていたが、その後ウルスリードは特に仕事をしているようにも見えない。
後で軽食を持って来させると、一人でモソモソと食べながら考え事に耽るばかりだ。
「それにしても……自分で天界に呼び寄せたくせに、なぜ会ってやらぬのだ。今宵の夕食に誘っていたのであろう?」
そう尋ねると、ウルスリードは悩ましげに目を伏せ、深いため息を吐く。
「サンディがアヤナの試練を受けている最中、部屋に様子を見に行ったんだが……」
そう言って、昨日の出来事をポツポツと話し始めた。
***
ウルスリードがサンディ本人を最後に見た日から、既に五年が経過している。
ブレスレットに琥珀色の透視石をつけて以降、朝晩の挨拶は映像越しに見ていたものの、やはり『現物』が目の前にいるというのは――格別の喜びである。
今目の前で眠っているサンディは十歳。別れた当時と比べるとあどけなさはほぼ消えたものの、まだまだ可愛らしい少女のままだ。
久しく触れる事のできなかった愛娘……絶対に起こすことの無いように気をつけながら頭を優しく撫で、その柔らかい頬にそっとキスをし、目を細めてその寝顔を眺めていたら――それは突然始まった。
それまですやすやと可愛らしく眠っていたサンディが、少し苦しそうに……いや切なそうに眉を寄せて息を吐いた。頬はほんのりと朱に染まり、小さく開かれた唇からは小さく声が漏れる。
「あ……んっ……」
「……サンディ?」
思わず声をかけるが、サンディは目を覚まさない。
「陛下、お声をかけてはなりませんよ」
すぐ傍に控えているトーヴァが嗜めるその間も、サンディの呼吸は徐々に荒くなっていく。
「まだ十日も経っておりませんのに……ずいぶんと早いお目覚めになりそうですね」
小さな額に光る汗を、トーヴァが優しく拭いながら問う。
「陛下、最後まで見ていかれるのですか?」
ハッとして、慌ててサンディの顔から無理やり目を逸らした。
「――いや、私は執務に戻る。その…終了したら教えてくれ」
「承知致しました」
その後すぐ執務室に戻ったものの、仕事は全く手に付かない。ふとした瞬間に、愛娘が頬を紅潮させて身悶える様子を思い出してしまい――心配とも嫉妬とも言えぬ、なんとも複雑な気分になる。
それからは全身全霊をかけて集中力を引きずり出し、なんとか仕事を片付けつつ六時間程が経過した。外はそろそろ日が沈む頃だ。業務内容は日常のルーティン……大した仕事ではないはずなのに、今日は特に疲労が激しい。
少し気分を変えようと思い、執務室に備え付けられた洗面所で顔を洗っていると、扉の向こうから執事の声が聞こえた。
「陛下。侍女長殿からのご伝言です」
水栓を止め、耳を澄ます。
「話せ」
「『無事終了致しました』との事でございます」
「――わかった」
急いで顔を拭き、髪の毛を整える。執事にサンディの元に行く事を伝えて執務室を出た。
部屋の前、侍女が扉をノックすると、トーヴァが出てきてウルスリードを迎え入れ、音を立てぬようにそっと扉が閉められる。見ればベッドは天蓋から降ろされた紗のカーテンが閉じられており、サンディの姿が見えない。
不思議に思っていると、トーヴァが小声で話しかけた。
「あの、陛下……」
普段は冷静沈着な彼女だが、今はいつになく落ち着きが無い事が気になった。
「――サンディに、何かあったのか?」
「いえ、試練は無事にご卒業されたのですが、その、お姿が……かなり……」
アヤナの試練を卒業した者は、多かれ少なかれ変化が起きるものだ。
人間の亜種である天界人は、誕生からある程度までは人間と同じような成長をしていく。しかしアヤナの試練……自身の精神との完全な統合を済ませると、その精神年齢と姿形が突如リンクする。よって、天界人は歳をとっても若い姿のままだったり、逆に寿命半ばであっても老人のような姿になる者がままいるのだ。
しかし十歳前後で卒業したばかりの子供たちは、その段階ではそう激しく変化することは殆どないはずだ。それでも心配そうなトーヴァを不思議に思いつつ、あえて軽く言ってみる。
「まさか老婆になったわけでもあるまい。それにお主の孫も大概だったではないか。……我はあのくらいでは驚かぬぞ」
「――では……どうか、お気を確かに持ってお会い下さいませ……」
一歩下がるトーヴァの前を通り、紗のカーテンにそっと触れる。
(いくらなんでも、急に大人にはなるまい。いや、或いは逆に幼くなってしまったとか……?? いやいや、それはそれで可愛いらしいではないか……)
そんな妄想をしつつ、音を立てないようにそっとカーテンを開く。
(――ッ!)
ウルスリードは思わずカーテンを強く握りしめた。喉元から出かかった声を、口に拳を当てて必死に飲み込む。
(マリエラ……!!)
そこに寝ていたのは、王妃マリエレッティ……愛妻のマリエラに生き写しの娘であった。
マリエラは深い青紫の瞳。サンディは深い赤紫の奥に青緑の光がある瞳。……しかしサンディが目を瞑っている今、瞳の色の違いは完全に無意味だ。真っ直ぐに伸びる艶やかな銀色の髪、白磁の肌と長い睫毛、そして無防備に薄く開かれた薄桃色の唇……。
ウルスリードは、その場で膝から崩れ落ちた。
「陛下!」
トーヴァが慌てて駆け寄ってくるが、ウルスリードの視線はサンディに釘付けになったままである。手を伸ばし、その銀髪をそっと一房掬い上げると、俯いてベッドに顔を埋める。声を殺し、微かに肩を震わせるウルスリードを、トーヴァは黙って見守っていた。
***
「そんなに似ておったのか……」
「――ええ。今の……今の弱い自分に、あの姿は少々荷が重すぎるのです……」
そのまま黙り込むウルスリードに、黒妖精は話題を変えた。
「そういえば明日、サンディは騎士たちの訓練を視察するようだぞ。侍女達が騎士団に伝達をしておったのを見かけた」
ウルスリードはハッと顔を上げ立ち上がると、黒妖精がサンディに与えたサコッシュを、デスクの引き出しから取り出す。
「……おい、何故それがここにあるのじゃ」
「少々考えがありまして……」
ウルスリードはサコッシュから横笛とブレスレットを取り出した。横笛は机に置き、ブレスレットを右手に握る。サコッシュの口の縁に右手の人差し指を向けると、ふわりと優しい光が灯り、琥珀色の石がワンポイントアクセサリーのように付けられた。
「ブレスレットの石を付け替えたのか。……しかし、何故?」
黒妖精が尋ねると、ウルスリードは苦々しい顔で言った。
「この黒い袋を頂いて以来、サンディはブレスレットをそこにしまうようになったのです。以降、我の透視は全く役立たずとなり、今回の魔樹騒動にも気づくことすらできなかった……」
「ああー……」
無の袋にしまわれれば、それはどんな付与すら無意味になる。そこにまさか自分の父が強力な守護付与を施したアイテムをしまうとは……黒妖精も想像していなかった。
「本当にサンディは、我々の想像の斜め上を飛んでいるのう……」
ウルスリードは机上の書類を素早くめくり、ぶつぶつと呟いている。
「明日の訓練は……よし、魔導士部隊もいるな。どうせならサンディにも訓練を受けさせよう」
「卒業の翌日から荒稽古させるのか?」
「ええ。魔導士部隊には、有能な者が多く在籍しております。その中でも特に秀でた才を持つ女性を、サンディに担当させましょう……ふふふ」
「ウルス……お主、とにかく男を近づけさせないつもりだな?」
少々呆れた風に黒妖精が尋ねる。
「当然でしょう。我が王女に虫がついては困る。しかも当日、この袋を装備させておけば、私も護ってやれる――ふふ……完璧だ!」
(だめだ、壊れた……)
黒妖精は諦めた。こうなったウルスリードはもう当分帰ってこない。
以前、自身の透視石をつけたブレスレットに対し、サンディが朝晩の挨拶をするように伝えろ、と言われた時は軽く目眩を覚えたが、その時を彷彿とさせる。
「父バカもほどほどにしておけよ……。そのうち娘に嫌われても、我は知らんぞ…」
黒妖精の至極真っ当な忠告は、今のウルスリードに届くことはなかった……。





