新しい家族
グレンダは屋敷の自室にいた。
テーブルには、飲みかけの赤ワインが入ったグラスが置いてある。魔導ランプの仄暗い灯りの下、ソファーに横になって微睡んでいると、自分のベッドに横たわっている黒髪の少女が微かに呟いた。
「おかあ……さま」
目を開くと、少女の目尻からつうと流れるものが光って見えた。悪夢でも見ているのだろうか?
起こすかどうか迷っていると、少女はゆっくりと目を開く。その視線は天井付近を彷徨っているようだ。
「……ここ、どこ?」
呟きを聞いて静かに立ち上がったグレンダは、魔導ランプの灯りを少し強めた。少女はその眩しさに少し目を細めた後、グレンダと視線を合わせる。
少女は黒い瞳だった。しかしその瞳の奥に、ランプの灯りの反射とは別な赤紫の光が見える――なんとも不思議な色だ。
「ようやっと目が覚めたようだね。気分はどうだい? 痛いところはないかね?」
少女の顔に、はっきりと『誰?』と書いてあるのが読める。
「私はグレンダ。ここは私の屋敷だよ。赤毛大山猫の男の子が、気を失ったあなたをここに運んでくれたんだ」
少女の目が丸くなった。レオンの事を思い出したらしい。おもむろに上体を起こそうとするので、背中を支えて手伝いながら、目尻から伝う涙の跡をそっと拭ってやった。
「大丈夫、痛いところはありません。助けてくれて……ありがとう」
少女はとても幼く見えるが、そのわりに言葉遣いは丁寧だ。きっと良い教育を受けているのだろう。黒く艶やかな髪は肩口で綺麗に揃えられており、肌も美しい。生活に不自由している様子は見えない。
「あなたの名前を教えてくれるかい?」
そう聞くと、少女は一瞬目を伏せた。
「たぶん……サンディ」
「歳はいくつ?」
「四歳。来月に五歳……たぶん」
「サンディ、自分のことを覚えていないのかい?」
責めるつもりはなかった。極力優しく尋ねると、少女は小さく頷いて黒髪を揺らす。
グレンダはわざと明るい声を出した。
「そうかい……でも大丈夫、追々思い出していけばいいさ。もし思い出せなくても、その分これから色々憶えていけばいいだけさね」
ニッと笑ってみせるとサンディは少し頬を赤らめ、嬉しそうに笑って小さく頷いた。
窓の外を見ると、東の空が仄かに白くなりつつある。
「まだもう少し寝ていられるが、どうするね?」
サンディは首を小さく横に振る。
「じゃあ皆が起きる前に湯を使おう。この部屋履きを履いて付いておいで」
こくりと頷いてベッドから降りると、サンディには大きめの部屋履きをつっかけ、ペタンペタンと音を立てながらグレンダに付いていった。
***
夜明け前に知らない家のベッドで目が覚めた。
ここはグレンダという背の高いおばあさんの家だという。彼女はとても親切で、起きたらお風呂を使わせてくれた。
浴槽に魔法で出した水をため、火魔法で沸かして手を突っ込む。「アチッ」と手をひらひらさせてすぐ、「ちょっと熱すぎたね」とぼやきながら更に水を追加する――ここはリアルに「魔法」という存在がある世界のようだ。
お風呂場は清潔でとても広い。自分だけ裸になるのは少し恥ずかしかったけど、グレンダは背中だけでなく髪の毛も手ずから洗ってくれてお湯で全身を流してくれる。浴場を出て大きなタオルで全身を拭くと、ふんわりと温かい風魔法で髪の毛を乾かしてくれた。
髪を乾かしている途中に、マリンという同じ歳位の女の子が来た。明るい茶色で少し癖のあるショートカット。明るく綺麗な青緑の瞳が、人懐っこそうに笑っている。
彼女は「小さくなってもう私は着れないので、差し上げます~」といくつかの服を渡してくれた。
朝食の前に皆でリビングに集まってお互いの自己紹介をした。まずグレンダ、そしてマリン……二人の年齢が一番の驚きだった。
レオンは黒い翼を持つ怖い人に襲われ、深い傷を負ったまま森を彷徨っていたという。そんな時に私が命を救ってくれたんだ、としきりに感謝された。
真剣な顔をして両手を握られ、ぶんぶんと強く振られてちょっと驚いたけど、赤い猫の姿なのでむちゃくちゃ可愛らしい。
――最後に私の番だ。
「私の名前は……たぶん、サンディです。本当は憶えていないんだけど、さっき夢の中でそう呼ばれたような気がしたから。あと歳は四歳で、来月五歳になると思います。これも夢の中で聞きました。でも、その他は全然おぼえていません。昨夜はどうして森にいたのかわかりません。これからどうしたらいいのかも、わかりません……」
前世の記憶については、ここで言っても仕方ないだろうから黙っている。唯一の手がかりだと思われる昨晩見た夢……銀髪の女の人にブレスレットを付けてもらう夢は妙にリアルだった気がするけど、今はもう殆ど憶えていない。
私の『自己紹介』を聞くと、皆は黙ってしまった。まあ『紹介』になっていないのだから無理もない。レオンはずっとうつむいているし、グレンダとマリンは目線をチラチラと交わしているようだった。
「そういえば昨晩、笛を吹いたのはサンディかい?」
「え……あ、はい。吹きました」
レオンを助けたいと願いながら吹いた横笛。今も懐にしまってあるそれを取り出した。
「少し見せてもらってもいいかな?」
「はい、どうぞ」
グレンダに笛を手渡すと、マリンも一緒にしげしげと見つめている。縁や口元の作りを確かめるように触れて、また私に返してくれた。
「ふむ……この笛は何やらとても強い力を持っているようだね。大切にするんだよ。もしかしたら、サンディが記憶を取り戻す手がかりになるかも知れないからね」
その後グレンダは、少しうつむいて考えている風だったけど、ふと顔を上げて立ち上がった。
「それじゃ、こうしようか。レオン、そしてサンディ。二人ともしばらく我が家で暮らしてみないかい?」
私とレオンは顔を見合わせ、その後グレンダを見上げた。たぶんぴったり揃っていた私達の様子を見ていたマリンが、クスッと笑う。
「もちろんタダではないよ。二人には家の……マリンの仕事の手伝いをして欲しいんだ」
「はい、やります! ここに居させてください!」
私はすぐに返事をした。だってグレンダさんは優しいし、マリンさんも親切だった。この世界の事は全くわからないし、今の身体は元気だけど幼すぎる。外で働いて独り立ちするのは不可能だろう。そう考えた結果の即答だった。
「ぼ、僕も、お願いします! 狩りと採取なら出来ます!」
レオンもすぐに私の後に続いた。
「おや、有り難いねぇ。豪華な食事を楽しめそうだ――ねえ、マリン」
「そうですね~お師匠様~」
ふたりともニコニコ笑っている。本当に親切な人たちだ。
「仕事の手が空いた時には、私達から少しずつ学ぶといい。私は薬品の調合や精霊との対話、あとは魔法の使い方くらいは教えてやれる。ただ、魔法については向き不向きがあるからね。向いてない時は諦めな」
「私はお料理が得意です~。採取と栽培もしますよ~。調合とか精霊さんとのお話は、まだお師匠様に習っている最中です~」
グレンダが手を2回打った。
「さあ、そうと決まったらまずは朝食にしよう。マリン、準備を頼むよ。レオンとサンディも手伝っておくれ」
「じゃあみんな、台所に行きましょう~」
「「はい!」」
元気よく返事をしたら、思いがけずレオンとぴったり揃った。また顔を見合わせて、今度は笑いあうのだった。