ピンクの瞳
砂浜に生える樹の下で大の字になって寝転がり、サンディはぼんやりと考えていた。
(何なの、この状況は……)
寄せては返す穏やかな波の音は、絶え間なくα波とやらを放出し続けている。太陽は燦々と輝いているが、空気が比較的乾燥しているおかげで不快感は無い。
私は寝付けなくて、自室のベランダで笛を吹いていたはずだ。
ブレスレット……父から貰った方の石が突然光り、眩しくて目を瞑って──目を開いたらもうここに居た。その証拠に今着ている服は寝巻きのままだし、手には笛とブレスレット、肩から斜めに下げた黒いサコッシュ……あとは何も持っていない。
濃厚な潮の香り……前世で療養を兼ねて連れて行ってもらった、海辺のコテージで感じた時以来だ。当時は身体が弱かったからウッドデッキで一日中本を読んでいたけど、潮の香りは鮮明に憶えている。
(――そうだ!)
ちょっと空から周囲を見てみよう。そしたらここがどういう所か判るかもしれない。勢いよく立ち上がって、空を見ながら地面を蹴る……がしかしそれは叶わなかった。
(……えっ?)
――結論から言うと、飛ぶことができなかった。しかも飛ぶ気満々で前方にジャンプしたせいで、受け身もとれない。全身で砂浜にダイブしてしまい、顔面まで砂だらけだ。
「ゲホッ……ペッペッ!」
「あははは! 僕の許可が無きゃ、ここで飛ぶことはできないよ……って、学院で教えて貰わなかったの??」
一生懸命に全身の砂を払っていると、妙に明るい声が思念で降ってくる。
見上げると大きな漆黒の馬が立っていた。その瞳は蛍光を帯びたピンク色に輝き、額には真っ白い一本の角がすらりと伸びている。黒くウェーブかかった鬣と尾毛は豊かに風になびき、筋肉に覆われた体躯はしっかりと地を踏みしめている。陽に照らされた青毛は艶やかに輝いていた。
「あ、その笛!」
漆黒の一角馬は、私の持つ笛に気づくとすぐ側に近寄ってきた。
「この笛を持っているって事は、君は王族の人だね?」
「……どうして解るの?」
「だってそれ、僕の角を使って作ったものだから。……ほら、みてごらん」
一角馬は、私の持つ笛に頭を寄せ、角をそっと近づけた。すると笛も角もふんわりと白く光り、まるで共鳴しているかのようだ。
「僕の名はアヤナ。君はアレクサンドラ……そうか、サンディって呼ばれてるんだね」
「え、ええ」
……この一角馬は、どうして私の名前を知っているんだろう?
「『どうして私の名前を知っているんだろう?』か……。なるほど、サンディは学院には通っていないんだね。そういう子が来るのは初めてかな。まあとりあえず、僕の背に乗ってくれる? 移動しながら説明するよ。鬣の根本をしっかりつかんで、背中に跨ってごらん」
その黒い馬は足を折り、伏せる様に地面に座った。とりあえず教えて貰ったとおり、鬣をしっかり握ってその背に跨る。
それにしても、この一角馬……アヤナは、今私の考えを読んだ? でもどうして? どうやって?? ……っていうか、此処は何処で、なぜ私はここにいるの? 屋敷のみんなは心配していないかしら……。
「……可哀想に。アレクサンドラは、まだ何も知らないんだね。疑問と不安で、今にも心が破裂しそうじゃないか」
そういいながら、アヤナはゆっくりと立ち上がった。私は裸馬はもちろん、馬という生き物自体に乗った事が無い。ちょっとでも気を抜いたら落ちてしまいそうで、おっかなびっくりだ。
「あと……体調がひどく悪いね。一体何をどうやったらこんなに精霊力を削られるんだい? もしかして、君はとびきりのお転婆なのかな?」
身体の不調までお見通しのようだ。……今からどこに連れて行かれるのだろう。
「ふふっ、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。今から少し飛ぶから、しっかり掴まっててね!」
またもサンディの思考を見透かしたように告げると、アヤナは前脚を高くあげた。サンディは落ちまいと必死に鬣を掴み、ギュッと目を瞑る。
間もなく、躍動する筋肉の存在を足に感じてそっと目を開くと、漆黒の一角馬は既に上空を駆けていた。吹き抜ける風は強いけどとても優しい。時々顔をくすぐるアヤナの長い鬣は、お日様の下で干したお布団のような優しい匂いがする。
サンディはここでようやく、少しだけ冷静になって周囲を観察してみた。
空は青く、太陽は一つ。地上には豊かな森や広々とした草原が点在しており、人家や集落等の気配は無い。所々に美しい川が流れているのが見え、湖沼のような水溜りも見える。どれも今までいた地上世界と何ら変わらないように思えるのだけど……何だろう、この違和感は?
「それはね、下ばかり見てないで、前を見てみるといいよ」
アヤナに促されて前を、そして水平方向に周囲を見る。地上はぐるりと海に囲まれているらしいけど、それはまあいい。遠方に霞がかかってよく見えない、というのもまま在ることだ。
――しかし、その霞が黒かったら……。
霞で先が見えないという事象は同じなのに、その霞が黒いか白いかだけで、こうも印象が変わるものなのか。
「そうだね、サンディ。色なんてただの情報でしかないはずなのに、少し何時もと変わるだけで、人の心を不安にさせたり、逆に安心させたり出来るんだ。──これはとても大切な事だから、よく憶えていくといいよ」
そう言われればそうだ。逆に言えば盲目の人は、こういった状況に違和感を覚えたり惑わされたりする事は無いのだろうから。
アヤナは宙を駆けながら話かけてくる。
「さっきの種明かしだけどね。簡単に言うと、ここは君の中の世界なんだ。僕が君をここに連れてきたんじゃなくて、君の世界に僕がお邪魔している。……だから君の名前は勿論、考えていることも不安も喜びも感動も、何もかも僕には解る……いや、同じ様に感じるんだ」
なんだろう。それって結構恥ずかしい気がする。自分の考えが自分以外に筒抜けなんて、喜ぶ人はいないと思う。
「あはは! 恥ずかしがる事なんて無いよ。だって僕は、別の誰かに君の心の中身を伝える手段を持っていない。唯一恥ずかしいとすれば、それは自分自身だけさ。だから僕の事は、ただの話し相手だと思ってくれればいいよ!」
……ほら、そうやってまた心に浮かんだことを、勝手に読んで答えてるし。
「しょうがないよ、僕はそういう存在であってそれ以上でも以下でもない。これは慣れてもらうしか無いよ。……あ、ほら! 見えてきたよ、サンディ。あそこが僕らの目的地だ」
アヤナの顔の向く方を見ると、森の木々の影に大きな滝が見えた。切り立った崖の天辺からドウドウと水量も豊かに流れ落ちるその滝は、大量の水飛沫を侍らせ美しい虹を纏っている。
「うわぁ……僕、こんな立派な滝は初めて見たよ! サンディはすごいな!」
何を言ってるのか、全く意味がわからない。ここを目的地だと言って連れてきたのはアヤナじゃないか。ここでなぜ、私がすごいという話になるのか?
「僕はね、自分自身との対話を手伝う為に存在するんだ。生きとし生ける者全ての精神世界は、それぞれ独自の景色や環境を持っている。美しかったり、賑やかだったり、たくさんの物に溢れている場所もあれば、とても貧しかったり、時には心の中に凄惨な戦場を持つ人もいるんだよ……」
そう語りながら、アヤナはゆっくりと滝の始まり……崖の上に降り立った。背に乗せた時のように地に伏してくれたおかげで、降りるのに苦はない。
崖の上はゴツゴツとした岩が多く、川幅はかなり広い。深さも結構ありそうで、川の中央部は瑠璃色を湛えている。
アヤナは崖っぷちに立ち、下を覗き込んで感心したように言った。
「いやあ、これはすごい落差だねえ。サンディも見てごらんよ」
いやいや……今の私は飛ぶことが出来ない。それを考えるととてもじゃないけど、崖っぷちになんて近寄りたくない。
それにしてもアヤナは、どうして滝の上に降りたんだろう。
――色々といやな予感しかしないんだけど。
「それはね、精神を自由に解き放つには、自分の持つ高さを克服するのが一番簡単だからさ。……精神世界には、必ず高低差のある場所が現れるんだ。世界の中央に現れる場所がその人の最大値になるんだけど、それはその人の解放に必要な高さになる。……すごいよ、サンディ。君のは今まで見て来た中で、一二を争う高さだ!」
いや、ちょっと待て。そういう話なら、高低差なんて低ければ低い方がいいんじゃないの?
「いやいや、高低差の低い人は、それだけ可能性も低いってことさ」
……また意識を先読みされて答えられてしまった。
「いいかい、サンディ。僕がこれから言うことをよく聴いて欲しい」
漆黒の一角馬、アヤナは、その蛍光ピンクの瞳でじっと私を見つめた。
「さっきも言った通り、この世界は全て君そのものだ。ここでは何があっても君は自由だし、何者にも束縛されないし、何者にも害されない。只々、自由だ。……何が起こっても、それだけは絶対に忘れちゃいけないよ」
言ってることはわかる……ような気がするけど、いまいちピンとこな――。
――ふわっ
抱き抱えられるように身体が宙に浮き、崖の突端から更に先へ運ばれる。
「じゃあ、いってらっしゃーい!」
――ぱっ
私を抱えている見えない腕は消え、即座に引力が仕事を開始する。
「いやああああああ!!」
――やっぱり! やっぱり!! 崖の上、滝の始まる場所に降りた時点で嫌な予感はしてたんだよ!!
「あはは! サンディは勘がいいね!」
アヤナの無邪気な声に軽い殺意を覚えつつ、私は滝壺目掛けて真っ逆さまに落下していくのだった……。





