魔樹の腹
「――さーん、おはようございまーす。今朝は採血しますねー」
長い入院生活。起き抜けの採血ももう慣れたものだ。むしろ寝ぼけている時の方が痛みも少ない気がするんだけど、今朝の採血は妙に痛い。
看護師さん、いつもの人じゃないのかな。腕からの採血なのに何故肩が痛むのか。それと頭もひどく痛いし。
「――ディ……サンディ!」
「!?」
ハッと目を開くと、目の前にレオンの顔があった。心配そうに私を見ているのはいいけど、とにかく近い。
「よかった! 気づいてくれた!!」
「レオン? ここは……っぐ」
左肩に焼かれたような熱さを感じて思い出した。そうだ、さっき私は魔樹の枝に刺されて……。
肩を見ると、レオンが自分の服を切り裂いた布で傷口を強く押さえている。布は真っ赤に染まっており、既に結構な出血をしてしまっている事を悟った。
「サンディ、頭を打ってるから動かないで。あとさっきから肩の出血が止まらないんだ……」
「ちょっと傷口を見せて」
レオンがそっと布を離すと、服の破れ目から親指の先程の小さな傷口が見える──意外と細い枝で助かった。それでも傷口からは、今も溢れるように出血し続けている。
あと肩を動かそうとすると結構な激痛が走るので、もしかしたら骨折位はしてるかもしれない。
正直、かなり無茶をしたという自覚はある。でもあのときの私は、どうしてもレオンを放っておけなかった。
前世の私はとことん無力だったけど、今は違う。魔法も使えれば空も飛べるんだから、目の前で苦しむ人がいるならできるだけ助けたいと思う。しかもそれが友人であるなら尚更だ。
とにかく今は、自分が足手まといにならないようにせねば。
「レオン、ナイフは持ってる?」
「ああ、持ってる」
「悪いけど、肩口が全部見えるように、私の服の袖を裂いてくれる?」
「あ、うん……」
レオンは遠慮がちに服の肩ぐりを大きく切りとる。私は腕から抜いたその布を受け取ると、肩を汚す血をそっと拭った。
すると小さな黒い傷口がはっきりと見えた。その黒い穴からはどくどくと溢れる血に混じり、白い砂のようなものがサラサラと流れ出しては消えていく。
(これは、無ね)
嫌な方に想像が当たってしまった。吸い込むと肺が枯れるという黒い粉。あれは無の類の力なんだと悟る。
(落ち着け私、落ち着くのよ)
以前ロムスが無を受けた時、黒妖精が傷口を撫でるように動かすと黒い穴が塞がった。
あれと同じ事が自分にできるかわからないけど、見よう見まねで試してみる価値はある。私は深呼吸を二回した後、右手に無の力を集中した。
(黒き穴を塞ぎ、血と力の漏れを止めなさい!)
傷口を撫でるように動かすと、穴が綺麗に消えるのが見えた。でも同じ場所から白い粉末状の光が溢れ続けている。
(黒い力では、穴は塞げても精霊力の流出は止められないのね)
なるほど。だから無を受けたロムスを救うとき、白妖精が最後の仕上げをしていたんだ。それなら私もあの時と同じように、白い力をリボンのような包帯に変えて巻いてやればいいはず。もう一度集中してやればなんてことないはず――。
その時ぐらりと、世界が盛大に回るような感覚に強い吐き気を覚えた。少々出血が過ぎたらしく、これ以上の集中は厳しいみたいだ。
「サンディ、キツいだろうけどごめん。ここは危険みたいだから、一旦移動するよ」
私が必死に息を整えていると、レオンが急に場所変えを申し出た。
酷い乗り物酔いのようにふわふわと揺れるような感覚の中、吐き気を必死に抑えながら首を動かすと遠くの床に水が――いやこれは消化液のようなものだろうか? シュウシュウと音を立てながらこちらに迫ってくる。
レオンは手早く私を背負うと、液体の流れ込んでくる反対側へと走った。
走る振動が肩に痛みを与えるのではと少し怖かったけど、レオンは驚くほど滑らかに、そして静かに高低差のある足場を走り抜けていく。
すると少し移動した先に、洞窟のようなエリアが見えてきた。
「なんで魔樹の中にこんな所があるんだろう?」
レオンは独り言のように呟きながら私を背から降ろし、岩に寄りかかる状態で座らせてくれた。
とりあえず出血は止めたけど、今も粉末状の光が微かに肩から出続けているのが気になる。
とにかく目眩とそれに伴う吐き気がひどい。今にも胃が裏返って出てきそうなムカつきを必死で抑えこむ。
(あの時、ロムスもこんな状態だったのかな)
目を瞑ったままロムスの事を思い出していた。そのまま重い頭を背後の岩に預けて上を向くと、まぶたに光を感じて目を開いた。
「えっ、あれは……テレシアさん!?」
「えっ!?」
見上げた先、鍾乳洞のような天井に程近い場所に透明の床が浮いている。そこに寝かされているのは明らかにテレシアだ。
「レオン! あれが……あれがきっとテレシアさんの本体だわ!!」
「!!」
レオンが近くの岩場をつかって宙に浮く床にジャンプするけど、彼の力だけではどうしても届かない。
「くそっ! 風精霊の力がここでは殆ど使えないじゃないか!」
ジャンプの補助が効かないらしく、レオンが苛立ちを隠せずにいる。
「待ってレオン! 私も手伝うから、これを!」
黒妖精のサコッシュから桃色の液体が入ったボトルを出して渡すと、レオンはそれを手にしっかりと握った。
「サンディ、これを母さんに飲ませればいいんだね?」
「うんそう。あとここは風に限らず、精霊達が殆どいないみたい。だから私もどのくらい助けられるかわからないけど、やれるだけやってみるから。最後のジャンプタイミングに合わせて、私も下から押し上げるわ。全力で飛んで!」
「わかった!」
レオンはボトルを口に咥えると、助走をつけて岩の足場を跳ぶ。
(いち、にの――)
「レオンを上まで跳ね上げなさい!!」
(――さん!!)
やはり精霊達が存在していない空間での魔法は厳しい。必死にジャンプしたレオンの身体は、最後にほんの僅かに滞空時間が延びただけだった。
それでもレオンの片手の指が、宙に浮くクリスタルの床に辛うじて引っかかり……あとは筋力だけでなんとか登り切る。
(やった、登れた!)
「母さん! 母さん、無事か!?」
テレシアの頬を軽く叩きながら、レオンは必死に呼びかけた。
「う……」
微かなうめき声を確認すると、レオンはテレシアに飲ませる為に桃色の液体が入ったボトルの蓋を開けた。すると中から爆ぜるような勢いで液体が飛び出す。
「うわっ、何だこれ!?」
桃色の液体はボトルから飛び出た後、宙を一回転した後にテレシアの口に自ら飛び込んだ。白妖精の力は少々勢いがありすぎるみたいだ。
一瞬テレシアの身体が桃色の炎に包まれてすぐにおさまると、その瞼がゆっくりと開く。
「母さん!」
「あ……レオン?」
テレシアは自分で身体を起こすと、レオンの姿を確認している。その明るいオレンジ色の瞳は今までと違い、レオンの鈍い金色の瞳をしっかりと捉えている。
「母さん、もしかして……目が見えてるの?」
「ええ、見える……見えるわレオン。あなたが見える……」
(ああ、よかった……)
目眩に揺れる視界の中、抱き合う母子を下から眺めていると、地響きのような音と共に派手な振動を感じた。天井の岩が僅かに崩れ落ち、パラパラと粉のようなものが天井から落ちてきている。
「レオンまずいわ。早くここを脱出しないと……」
たぶん外ではまだ防衛戦が続いている。私たちが中にいる限り、黒妖精達も手が出せないはずだ。長引けば長引くほど森への被害が広がってしまうに違いない。
レオンはテレシアを背負い、クリスタルの床から飛び降りてきた。
「脱出しなきゃ、ってサンディ!? なんてひどい顔色だ!」
「レオン、私は自分で歩けるわ。早くサンディさんを!」
レオンはテレシアを背から降ろした。代わりに私を背負おうとしたその時、メキメキと木材が割れるような音がしてついには爆発音が響いた。
突然洞窟の壁に大きな風穴が空き、青く輝く鞭を持ったマリンが現れる。
「レオン! サンディ!! えっ、テレシアさんもいる~!?」
(ああ、外気だ……。精霊達がいる……)
ひどい目眩に抗いつつ、強い吐き気を堪えた。目を瞑ってもなお激しく回転する世界に惑わされないように、必死に集中する。
彼らを魔樹からなるべく離れた場所へ飛ばすことをイメージした。
「風よ、彼らを外に連れ出しなさい」
「うわぁっ」
「きゃぁっ」
「ひゃぁ〜!」
なんとか小声で命じるとレオンとテレシア、そして巻き添えを食らう形でマリンも一緒に、風精霊の力によって盛大に弾き出されていく。
うっすらと開けた瞳でその様子を確認すると、そのまま私の視界は暗転した。





