災難と決意
グレンダは木々が大きく開けた場所で右手を胸に当て、長杖を持ったままの左手を横へ伸ばしてお辞儀をしてみせた。
「愛しの我が家へようこそ」
そうは言っても、ここはどう見てもただの広い空き地である。レオンが首を傾げていると、グレンダは長杖を高く掲げた。すると杖の先の石がひときわ明るく光り、目の前に大きな屋敷が現れた。
驚いている暇もなく、案内されるまま中へ入る。広い庭は手入れが行き届いているし、屋敷の中はシンプルでとても清潔だ。
笛の少女はグレンダの屋敷に着いてからも目を覚さなかったので、そのまま別室のベットで横にしてもらう。手持ち無沙汰なままキョロキョロしていると、奥から子供が飛び出してきた。
「お帰りなさいませお師匠さまぁ~!……あら、お客様ですかぁ~?」
少し癖のある、明るい茶色のショートカットが揺れている。くるくるとよく動く青緑色の瞳の少女は、マリンと名乗った。彼女はグレンダの『弟子』だという。
マリンはレオンの為に、湯浴みの用意をしてくれた。彼女は子供にしか見えないのに、水の入った大きな桶を軽々と担ぐ。聞けばマリンはドワーフ族で、身長が低いのもそのせいだという。
レオンは湯を貰い、血と泥に汚れた全身を洗った。汚れを洗い流し終えたその鮮やかな紅い毛並みはとても美しく、マリンが一瞬見惚れてしまった程だ。
マリンの用意した食事はとても美味しかった。数日間まともな食事をしてなかったこともあって、レオンは全力でがっつきたかった……が。
「急に食べると身体に良くないよ、ゆっくり食べな」
グレンダに窘められたレオンは、ちぎったパンを温かい野菜のスープに浸しながらゆっくりと口に運ぶ。
空腹が落ち着いてからは、少し話をした。マリンは見た目は幼いが、実は自分の倍の年齢――二十歳だという。あと、グレンダは人間なのに、既に四百年以上生きているという。
マリンが口を尖らせた。
「女性の年齢を根掘り葉掘り聞くなんて、ほんとに失礼な子ですぅ~」
「あっマリンさん、グレンダさん、ごめんなさい……」
(だってこの人って、喋り方とか絶対僕より子供っぽいじゃないか……)
そう思ったけど口にはしない。
「私はかまわないよ。もう三桁過ぎれば年齢なんて有って無いようなもんさ。年々、数えるのが億劫になるばかりだ。あと、私らの事は呼び捨てで構わないよ」
食後のワインをついと飲み、一枚の生ハムを指でつまんで眺めながら、グレンダはとてもご機嫌そうである。
「お師匠さまぁ~、お酒は程々になさってくださいね~。もう三杯目ですよ、それ~」
「悲しい事を言うねぇ。あんたを年寄りの楽しみを奪うような非道い子に育てた覚えはないよ」
その泣き言のような言葉に反して、嬉しそうに生ハムを口に放り込むグレンダ。マリンは両手でコップを持ったまま、諦めたように首をすくめてみせる。
マリンは「自分もお酒は強いし好きですよ〜」と言いつつ、「でも明日も早くから忙しいから~」とレオンと同じホットミルクを飲んでいた。
「……で、レオン。どうしてあんな所に居たのか、教えて貰えるかい?」
優しい濃紫の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。レオンは自分の身に起きたことをポツポツと話しだした。
***
その日レオンは森へ狩りに来ていた。とてもいい天気で、短めの尻尾をふるりふるりと振ってしまう位には気分がよかった。
弓で鳥を撃ち、川で魚を銛で突き、木の実を籠いっぱいに採取する。両親と自分、三人家族全員の三日分程獲ったところで日が落ちようとしていた。
これだけあれば、身重の母も十分に栄養が摂れるだろう。もうすぐ産まれてくる、自分にとって初めての「姉弟」。
――弟でも妹でもどちらでもいい。とにかく元気に産まれてきて欲しいと思っている。
父は暗灰色の毛並みで、鋭く金色に光る瞳を持つ大山猫族だ。しかし狩りの最中に大怪我を負い、足が少し不自由になってしまったため畑を始めた。
その代わり、狩りはレオンがするようになった。父の大人用の弓は十歳の自分には些か剛すぎたので、自分専用の小さめの弓を誂えて貰った。レオンは訓練を積み、器用にそれを使いこなした。今では余程大きな獲物でない限り、急所を狙って確実に仕留める腕もある。
母は鮮やかな紅色の毛並みと明るいオレンジ色の瞳を持つ美しい大山猫族で、とても手先が器用な人だ。
手触り良く美しい織物を造り、手ずから繊細な刺繍を施したストールは街で高く売れた。今は身体に無理のない程度に仕事を続けているが、そろそろゆっくり休んで欲しいものだ。
少し時間は遅くなってしまったが、これだけあれば明日は狩りを休めそうだ。弓とナイフの手入れをして、あとは父の畑を手伝おう。そんな事を考えながら帰路につく。
集落についた頃には、とっぷりと日が暮れていた。しかし、何か様子がおかしい。この時間なのに、集落入口の松明が灯されていない。――こんな事は初めてだ。
よく見れば、家々の窓からも灯りが見えず、この時間に夕食の支度をする香りもしない。
(――何が起こっているんだ?)
……とても嫌な予感がした。
集落の入り口から少し離れた場所に木の実の入った籠を地面に降ろし、魚や鳥などの獲物をその脇に置く。ナイフが腰にある事を手で確認してから、近くの大きな木にするりと登った。安定した枝に陣取り、弓を取りながら耳を澄ます。
「キャー!」
「やめてえ!」
「早く逃げろーっ!」
悲鳴と共に、集落の奥から仲間達が必死に逃げてくる足音が聞こえた。夜目の効く目をこらして見れば、逃げ惑う彼らの背後から大きな翼を広げた人間? のような影が追いかけてくる。
素早く矢を番え、狙いを定め、放った。手応えを感じたところで、翼をもつ人影の歩みが止まる。
レオンは大声で告げた。
「みんな早く逃げろ!!」
「おい、あれはレオンだ!」
「逃げろ! 今だ! 逃げろっ!!」
仲間は自分の声に気付いた。放った矢は、身体は外したが翼に当てた。的への視線を外さないまま、背中の矢籠から次の矢を取ろうとした、その瞬間。
――うおおおおおおおおおぉぉん!!!
空気を震わせる恐ろしい咆哮。
そして明らかに自分を睨む赤い双光が見えた途端、自分とそいつの間で逃げていた村人が、突然液体を噴き上げながら崩れ落ちるシルエットが見えた。それから半瞬遅れて、自分の腕や足の至る所に焼けつくような痛みを感じる。
(うぐっ……!)
とっさに木の幹に隠れたが、周囲の枝が所々大きく切り払われ、幹にも生々しい切り傷がある。
(風刃?!)
自分の村に、このレベルの攻撃魔法の使い手はいない。
(それにしてもこの遠距離でこの威力、そしてあの翼……まさか、『翼人』?)
翼人は文字通り『翼を持つ人型の生き物』で、精霊に愛されるが故に『人間の上位種』と言われている。その翼を使って自由に空を飛び、精霊の意思を行使し『世界の調和を保つ者』……と教わった。
翼人の国は天界にあり、地上では『精霊師』として働いている事が多いそうだが、レオンは今までその姿を一度も見た事がない。自分よりもっと小さな子供が読む絵本に、その絵姿があったのを憶えているだけだ。
『世界の調和を保つ者』が、何故自分の仲間達を襲っているのかは全く解らない。だが自分の持つ小物狙いの狩りで使うようなレベルの弓で、太刀打ちできるような相手ではないことは明白だ。さっきの攻撃で手足に受けた傷は多かったが、幸いそんなに深くは無い。ここは一旦退いて作戦を……。
――うおおおおおおおぉぉん!!
再び雄叫びが聞こえた次の瞬間、身を預けていた大木がミシリと最後の悲鳴を上げ、足元がぐらりと傾いた。
「マジかよ!」
直径一メートル以上はあろうかという大木の幹が、いとも簡単に切られた。木はレオンを乗せたまま、ゆっくりと倒れていく。
倒れていく最中に追加の一波が到達した。首から上は咄嗟に腕で庇ったが、上半身は風刃に嬲られ、装備は服ごと切り裂かれた。
(……っ!)
地響きと共に倒れた大木から放り出される間際、黒い翼を持つ者が集落の其処彼処に火球を放つのを見た。その後は地面に叩きつけられ、なす術もなく傾斜を転がり落ちる感覚だけが最後の記憶だった。
***
「レオン、まずはよく生き残った」
「本当に……よく頑張ったね~」
二人とも涙ぐみながらしみじみと言った。無事を喜んでくれる女性達の優しい声に、思わず母を連想してしまう。レオンは目の奥の熱さを懸命にこらえた。
「もう歩けなくなって本当にダメだと思った時、あの女の子に助けられたんだ。だから僕は、あの子に恩返しをしたい。あと……」
「あと?」
金の瞳をじっと見つめ、グレンダが問う。
「僕はもっともっと、強くなりたい」
決意を感じさせる、はっきりとした言葉に場が静まる。
「黒い羽のやつは、ものすごく強かった。今の僕じゃ全然太刀打ち出来なかったし、何も守れなかった……」
マリンが、レオンとグレンダを交互に見比べる。
「お師匠様~……」
「まあ今日はまず、ゆっくり休みな」
グレンダはマリンに微笑んでみせてから、グラスに少し残ったワインを一気に呷った。
「これからの事はお嬢ちゃんが起きて、話を聞いてから考えても遅くはないんじゃないかい?」
「……うん」
赤毛大山猫の少年は頷き、屋敷の女主人をまっすぐ見つめる。魔導ランプの優しい灯りに照らされた少年の瞳は、深く強い金色に輝いていた。