優しい魔女
ひとけのない広大な森の一角に、一軒の大きな屋敷があった。
その屋敷の最上階。三階にある広々とした一室では、初老の女が一人で作業台に向かっていた。
(精霊達が騒がしいね……)
女は顔を上げ、鼻眼鏡を外して机に置く。窓の外を見ると既に日は落ちて、赤く大きな月が低く登り始めている。
その女の白い肌には浅く皺が刻まれていた。ゆったりと結われた髪は殆どが白いが、明るい緑色がまだらに混ざる。はっきり整った目鼻立ちは、若い頃の美貌を想像させるに十分だ。
薄暗い部屋に置かれた広い机の上には、くすんだ青色のガラスボトルが綺麗に二十本程並んでいる。女は幾つかの開いているボトルの蓋を締めて立ち上がると、魔導ランプの灯りを強くした。部屋中に広がる暖かい白色の光が、深い紫色の瞳に反射する。
(森に何か、ある?――いや、居るんだね?)
精霊たちの小さな囁きを聞き逃さぬよう耳を澄ませながら、背後のハンガーにかけられた黒いローブを纏う。ラックに立てかけられた幾つかの長杖の中から一際長く、赤みを帯びた紫色の石が嵌め込まれたものを手に取って部屋を出た。
「お師匠様、お出かけですかっ? もう夕食の準備が出来ますのにぃ~!」
くせっ毛で明るい茶色の髪をした少女が、明るい緑色の瞳をまん丸にして立っている。両手で持つサラダの入ったボウルはやたらと大きく見えるが、それは少女がとても小柄なせいだ。
テーブルには既にパンやチーズが乗った食器が並べられており、スープの鍋は食欲をそそる芳香を漂わせながら出番を待っている。
女はかがんで、少女の目線に合わせた。
「悪いね、マリン。精霊達に急ぎで呼ばれているんだよ。ちょっと様子を見てくるだけだから、すぐ戻るよ」
マリンと呼ばれた少女は小さな口を更にちょっと尖らせる。
「うぅ……わかりました~。なるべく早く帰って下さいね!」
「ああ」
女は、優しく微笑んだ。
「念の為結界は張っておくが、私が帰るまで誰も家に入れてはいけないよ」
「はい! お師匠様もお気をつけて~!」
笑顔で元気よく返事をするマリンに、もう一度微笑みで答えて外に出た。
屋敷のドアの前に立つと女は右手を前に出し、口の中で小さく何かを呟く。すると屋敷全体が一瞬淡く光って視界から消える。
続いて両手で長杖を持ち、目をつむってまた小さく呟くと、先端にはめ込まれた石がふわりと白く光った。それほど強い光ではないが、足元を照らすには十分な光量だ。
空にある赤い月は先程よりやや高くなり、徐々に白くなっている。
(さあ精霊たちよ、案内しておくれ)
そう願って、かれこれ十分程歩いた頃。近くで高く澄んだ笛の音が聞こえ、その直後に水精霊の強い力を感じた。
(一体、何が起きているんだ?)
ここまで大きな水精霊の力を感じたのは久しぶりだ。周囲に飛び交うイタズラ好きな風精霊たちが楽しそうにはしゃいでいるのを感じると、女は先へと急いだ。
***
赤毛大山猫の少年は、ゆっくりと目を開いた。
目に映るのは、枯れ葉が積もる地面。先程見知らぬ自分を心配してくれた少女と、やさしい水の音をぼんやり思い出す。あとひんやりした極上の綿に包まれるような心地さや、そしてどこかくすぐったい感触も。
上体を起こすと、小さな手が自分の足に乗っているのが見えた。しかし、手の持ち主の身体が見えない。木の葉にでも埋もれているのかと思い手をのばすと、不意にコツンと何かに当たった。
(……?)
一見枯れ葉の山にしか見えないそれを、そっと撫でた。すると、するりと布が落ちる感触と同時に、艷やかな黒髪と青白い面が現れる。
どうやら気を失っているようだが、これは先程の少女に間違いない。頭の位置から推測し、肩のあたりをそっと触れると……よかった、身体もある。
このローブには目隠し効果があるようだ。周囲の景色を写しこみ、目視ではとても見つけづらい。少年からは、まるで枯葉の山がそこにあるように見えていた。
座ったまま自分の身体を確かめると、無数に負っていたはずの傷は全て癒えていた。泥や自らの血で汚れ、所々束に固まってひどく荒れた毛並みはそのままだが、喉の乾きや身体中の痛みはすっかり消えている。
少年は考えた。現時点で彼女がどこの誰かはわからないが、命の恩人と呼んで間違いないだろう。何やら高価そうな装備を身に着けているが、自分とそれほど歳の変わらない子供に見える。見たところ武器も持っていないようだ。
彼女が夜の森にたった一人で、何をしていたのかはわからない。しかし『恩返し』として、そして男性として、彼女を無事に家まで送り届ける位はせねばなるまい。そう思うと、なんとなく背筋が伸びる気がした。
とりあえず、少女の顔色が優れない事が気に掛かる。今はこのまま休ませて気がつくのを待とう。そして明るくなってから、元気な自分が背負って森を抜ければいい。
そんな事を考えていると、前方でガサガサと茂みの動く音が聞こえた。
(獣か……それとも人? あるいはそれ以外の何かか……?)
とっさに少女のフードを頭に被せ直して隠す。一歩前に出て地面を探り、手探りで小石を二つほど拾って低く構え、そして願った。
(この子の家族か、捜索隊だったらいいんだけど……)
今は丸腰だし、動けぬ少女を庇って戦うのは難しい。なるべく戦いたくない。そして以前、我が身を襲った恐ろしい出来事を思い出し、身体が一瞬ふるりと震えた。
迫る不安を圧し殺し、精一杯の威嚇を込めて低く唸った。
「……誰だ」
威嚇か、それとも怯えか。全身の毛が総じて逆立つ感覚に、軽く苛立ちを感じる。
「落ち着きな。取って食ったりはしないよ」
以外にもそれは、落ち着いた女の声だった。茂みの向こうに仄かな光が見えたかと思うと、ローブを纏い長杖を持った背の高い女が出てきた。
長杖の先端は柔らかく光っており、自分たちを明るく照らす。その女の髪はほぼ白髪だが、豊かな髪はゆるく結われている。背筋はしっかりと伸び、その姿は威厳すら感じさせた。深い紫水晶色の瞳は強く輝いているが、その表情はとても柔和だ。
「何か困りごとかい? 私でよければ力になるよ」
しかし、急にそんな事を言われても信用できるわけがない。
「……お前は誰だ」
「これはこれは。小さくも勇敢な騎士だね」
女は微笑んだ。
「私はグレンダ。この近くに住む魔導師さ。綺麗な笛の音と水精霊たちが呼ぶので来てみたら、お前たちが困っていた。だから声をかけたんだよ」
このグレンダという女は、自分の背後で眠る少女の存在を既に察知している。しかし、何だろう……この女の声は嫌いじゃない。優しくて穏やかで、まるで母のような……いやいや、まだ油断はできない。
「僕はこの子に恩がある。だから、守らないといけないんだ」
「ふむ……」
グレンダは顎に手を当て、考えるような仕草をした。
「その子は、お前の友達かい? でも夜にこんな森の中で、子供だけでいるのは危ないだろう」
見ず知らずの老女の発言に、警戒しながらも同意してしまう自分の力の無さが……悔しい。
「私の家はすぐ近くだ。暖かい食事と、安全な寝床を用意できる。取り急ぎその子には休養が必要だろう。出て行くのは、いつでも自由だ。とにかくその子の為に、まずは夜が明けるまで休んでいくといい」
「……わ、わかった。夜が明けるまで、少し休むだけだ」
グレンダは優しく微笑んだ。
「うん。そうしなさい。君は大山猫族の子だね。名前は?」
「……レオン」
「よし、レオン。疲れているならその子は私が運んでも良いが、どうするね?」
このグレンダという女は、彼女に触れていいか自分に許可を求めているようだ。
(少しは信頼できるかも……?)
それでもまだ何となく、安心出来ない。
「ありがとう、でも大丈夫。僕が背負って行く」
「そうかい、わかったよレオン。ところで、君の身体は大丈夫なんだね?」
返事はせず、こくりと頷く。
グレンダは、レオンが少女を背負うのを手伝った。目隠し効果の付与されたローブを見て少し目が大きくなったが、それ以外は至って普通の様子だ。
「足元は見えるかい? ほらゆっくり、自分のペースでいいから付いておいで」
レオンが思ったよりしっかりとした足取りで付いてくるのを見て、グレンダは安心しつつも考えていた。
(一体どこのお姫様と護衛騎士だろうね……どちらもまだ、子供のようだけれども)