大山猫の憑依
一台の荷馬車が街道を進んでいた。御者台では、鳶色の髪を持つ長身の青年が手綱を握っている。
ここはザーシカイム王国領内、王都の北側に敷かれた街道である。
ザーシカイム王国はここ千年以上に渡って戦争が無く、平和と繁栄を謳歌している。広域に渡って比較的平坦な国土は街が発展するのに適していたし、大きな河川も農耕を発達させた。東から南にかけては海が広がり、水産資源も豊かである。
近隣諸国同士は常に小競り合いが続いている。しかし王国の北から西の国境にかけては険しい山々が連なり、諸外国の侵攻を阻む天然の壁となっていた。その山々は豊かな鉱物資源を含んでおり、王国側の採掘場は常に賑わっている。
山の麓には豊かな森林が広がっていた。中でも王都北側の大森林地帯は特に広く、そして豊かである。
北の大森林地帯には、守り人として代々魔女が住むと伝えられている。魔女は精霊とともにあり、世界の調和を保つ為に生涯をかけて精霊に祈るという。その屋敷は森の奥深くにあり、魔女に許された者しか会えぬと伝えられていた。
王都の歴々の冒険者たちは、その伝説を確かめようと幾度となく北の森に挑んだ。しかしそこはただ優しく、そして豊かな森であった。そして魔女に会えたものは誰一人として居なかったのだ。
そしていつしか『北の森の魔女』の存在は伝説になりつつあった。
しかし街に出回る薬の中で、ひときわ効能が高く、それでいて良心的な値段のそれには、必ず北の森の魔女の印がある。
王都の人々は北の森の魔女に感謝し、今ではその生活を徒に脅かそうとする者はいない。
青年が手綱を引く馬車は、北の森へと続く街道にいた。他に道を同じくする馬車はなく、別の村への分岐を過ぎた昨日からは、他の荷馬車とすれ違う事も無くなる。
道は使われていないが故に徐々に荒れてくる。荷台からはカチャカチャという音が微かに聞こえていた。大量の割れ物を気遣いつつ、青年はのんびりと馬を歩ませている。
今は日が昇り始めてまだ間もなく、空気はひんやりと冷たい。
――ピーィッ
荷馬車の遥か上空を、小型の猛禽が旋回している。その猛禽は狙いを定めたように滑空し、御者台の縁にばさりと止まった。見れば鳩くらいの大きさしかないが、その嘴と爪は鋭く曲がり、猛禽であることを主張している。青みを帯びた灰色の羽毛はとても艷やかで、まだ若い個体のようだった。
「……お、朝早くからお出迎えか? ありがとよ」
青年はその猛禽の頭を、指で優しくカキカキした。猛禽は青年の指に頭を押し付け、嬉しそうに羽毛を立てる。しばらく青年に甘えた後プルプルッと首を震わせた小さな猛禽は、再び風を掴み北の森の方へ飛び立っていった。
「またな!」
大きく手を振って見送る。それにしても……。
「――たった二週間程度で、随分と上達したじゃねーか」
オリーブグリーンの奥に赤い光を宿す瞳の持ち主……ロムスは朝日を浴びながら思わず笑みが漏れる。彼は引き続きゆっくりと、荒れた街道を北に向けて馬車を歩ませていった。
***
レオンは起床後、自室のベランダに出て外の空気を吸っていた。
目をこすってうーんと伸びをすると、遥か頭上を小さな猛禽が旋回している。ふと思いついて椅子に座り、目を瞑って精霊の感覚に身を委ねてみた。
最近は野生動物と感覚を同じくすることにかなり慣れたし、狩りの時はその訓練がとても役に立っている。しかし今は狩りではない。純粋に空を飛ぶ感覚を共有したくてそれを願った。
(うわぁ……!)
気がつくと、今までより遥かに高所を飛翔していた。狩りで狙う山鳩や雉とは全く違い、高度も風を切る速度も段違いだ。
はるか遠くの地平線には登る朝日が見える。白む空から地上を俯瞰し、集中すれば地面の小さな小動物も視界に捉えられた。大山猫は『空の捕食者』の能力に、純粋に驚愕する。
(もうちょっと遠くまで見せて貰えるかな……?)
……ちょっと欲が出た。実の所、自分の能力がどの程度の距離まで通用するのかはわからない。それでも今は、この空を切る能力を体感したくて仕方なかった。
(ごめん、あとで何かお礼をするから……もうちょっと貸してね……)
その猛禽を、まるで自分の身体のように操る。風の粒子に翼を預け、時に浮き、時に切り裂きながら森林の上を自由に飛翔した。
しばらく飛ぶと、森林地帯の切れ目が見えた。その先の荒れた土地の中に、一本の道が見える。さらにその先、道の遥か向こうに見覚えのある荷馬車を視認した。レオンは猛禽の視力を存分に堪能しつつ、十分な高度を保ちながらその荷馬車に向かう。
(……ロムスだ!!)
鳶色の髪、綺麗なオリーブグリーンの瞳をもつ長身の青年。見覚えのある幌付きの荷馬車をやたらとゆっくり歩ませているのは、荷物に空き瓶が多いからだとレオンは知っている。
(ふふっ……ちょっと脅かしてみよう)
年相応の悪戯心が芽生えたレオンは、猛禽の姿のまま滑空した。派手に翼を広げ、風の粒子をロムスの顔にワザと当てるようにして御者台の縁に止まる。
ロムスはニカっと笑っていた。
「お、朝早くからお出迎えか? ありがとよ」
――まるで自分だとバレているような挨拶だ。いやまて、ロムスの正体は妖精だ。この程度の野生の生物との触れ合いは日常茶飯事なのかもしれない……。
やや迷いながら考えていると、ロムスは自分――いや猛禽の頭や頬、嘴の下を、その指を使って絶妙な力加減でカキカキしてきた。
(……うあぁぁぁ……)
猛禽が背筋にぞわぞわとした快楽を感じれば、それはそのまま自分にも反映される。ロムスの猛禽に対するツボを心得た指使いは、まるで母親にブラッシングされている時と同じようなむず痒い快感をレオンにもたらした。
――気づけば自らロムスの指に頭を押し付け『もっとカキカキしろ』とねだっている。これは猛禽の欲求なのか、それとも自分の……。
(……いやいやいやいや! 僕は鳥じゃない!大山猫だ!!)
ブルブルっと首を振るとそのままトットットッと御者台の縁に乗り、再び翼を広げて風の粒子を強く掴んだ。軽い身体はすぐに浮き上がり、瞬く間にロムスが遠ざかる。
「またな!」
そんな声が聞こえた気がして振り返ると、ロムスは大きく手を振っていた。
(――そうだね、また後で!)
挨拶代わりにひゅるりと一旋回し、そのまま北の森へと戻った。
***
「レオン、遅いです~」
「レオンが寝坊とは珍しいねえ」
「……大丈夫? 具合でも悪いの??」
朝食の時間に少し遅れたレオンは、女性陣に総じて取り囲まれた。
「えと、遅れてごめんなさい。僕は大丈夫! あと……ロムスがもうすぐ来るよ!」
「わぁ! じゃあ、『まよソース』をたくさん作っておかなきゃですね~!」
「ねえマリン、あの『ますたあど』をまよソースに混ぜたら絶対美味しいのよ!」
「きゃ~~サンディ!! それ最高のアイデアです~!!!」
騒ぐ娘らをよそに、グレンダはレオンを見ていた。
(まだロムスは私の結界にも引っかかっていないのに……)
グレンダの視線に気付いたレオンは、無邪気にニコッと笑んで言った。
「ロムスは今回もいっぱい荷物を載せていたよ。僕、荷卸し頑張るね!」
仔猫の無邪気な笑顔は、本人の自覚のないまま脅威的な破壊力を発揮した。
結果グレンダがレオンのサーチ能力について確認する事は後回しにされ、先に朝食を取る事に成功する。
その後レオンは朝食に出た鹿のハムを数切れ、こっそりと部屋に持ち帰った。そして自室のベランダにあの小さな猛禽を再び呼び、ささやかなお礼をしている所をグレンダは庭から目撃する。
師匠は少々呆れつつも、レオンの目覚ましい成長ぶりに目を細めるのだった。





