笛
やや低い月が、周囲の木々をぼんやりと照らしていた。
(――ここはどこだろう?)
いつの間にか、自分が知らない森に一人で佇んでいる事に気づく。それどころか着ているものや身につけているもの、その全てが身に覚えがない。
周囲を見ると夜の森だ。人家の気配や灯りは無い。所々に茂る草むらは深く、地面は枯れ葉で覆われている。しんと静まり返っているが、耳をすませば小さく鳴く虫の声が聞こえていた。
とりあえず着ている服を触って確かめると、羽織っている不思議な色のローブの内側に何か入っている。内側にポケットがある事に気づいてそっと手を入れると、淡く白く光る20センチ程の穴の空いた棒が出てきた。
(横笛……かな?)
首を傾げると、自分の黒髪がフードからこぼれ出るのが視界に入った。しかし、自分は横笛なんて吹いた事が無いので、そのまま元の内ポケットに戻す。
左手首には、細く繊細な鎖を編んで作られているようなブレスレット。チャームのように付けられた濃い青紫の小さな石が、揺れて光っている。
(綺麗な石……あれ?)
自分の手の細さに違和感を覚え、改めて手のひらをじっと見た。
(ちっさ!)
まるで幼稚園児のような小さな手。しかし身につけている物は、妙に高級感があるものばかりだ。
それにしても『ここはどこ? 私は誰?』状態である。これが記憶喪失ってやつなのか。でも実際に憶えていないのは今世の……この身体の記憶だけ。
私は、正確には前世の記憶だ。残念な事に前世では成人式を迎える直前、十九歳で病死してしまった。
前世の私は小さな頃から病弱で、学校もあまり通えなかった。少し歩くだけで息切れがして、すぐ座り込んでしまう。入院していることが多くて、学校より病院のほうが友達が多かった。
細く青白い腕には点滴の針跡がいつまでも残っていて、たまに学校に行けば、それをいつもからかわれて泣いていた。
でも、大きくなったらきっと身体も強くなって健康になれる。周りからもそう言われていたし、自分もそれを信じて頑張っていた。それでも結局最後は流行風邪を拗らせて、あっけなく死んでしまったのだ。
当時の私は確かに同年代の平均よりずっと痩せていたし、背もそんなに伸びなかった。だからといって、手は流石にここまで小さくはなかった。よく見ると、いま履いている革靴だってとても小さい。
(これ、どう見ても子供の身体だよね……)
子供の身で高価そうなアクセサリーを付けて、夜の森に丸腰で独りきり。うん、どう考えても危険すぎる。
「と、とにかく。朝まで安全に隠れられる場所を探さなきゃ!」
自分を元気付ける為、あえてしっかり声を出した。ローブのフードを深く被って歩き出すと、少しして違いに気付く。
(あれ? 息が切れない?)
アスファルトと違い、森の地面はふかふかで少し足を取られるがまったく苦しくない。今の身体はとても小さいけど健康らしい。それだけで嬉しくなって、ちょっと早歩きになった。
(全然息が切れない! すごい身体!)
嬉しさのあまり思わず大きい声を出してしまいそうになるけど、ふと目の奥に熱さを感じて歩みを緩めた。
(前世でももっと走って、みんなといっぱい遊びたかったな……)
記憶の中の友達の顔は、靄がかかったようであまりよく覚えていない。でも一緒に遊べなかった悔しさと残念さは、今も強くはっきりと覚えている。小さくため息を吐き、とぼとぼと歩いていると何かにつまずいて転んだ。
「きゃっ!」
地面に思い切りハグしてしまったけど、ふかふかした枯れ葉のおかげでそんなに痛くない。振り返って見ると、大きな赤っぽい猫? が倒れている。どうやらこれにつまずいたようだ。
(ええっ、生きてるのかな?)
前世ではちょっと驚くだけでひどく咳き込んだりしたので、身を守るために『好奇心』という物は封印していた。でも今は早歩きでも息切れしなかった事で、ちょっとだけ強気になっている。ムクムクと膨らむ好奇心を、今は止められそうにない。
さっと立ち上がって、ローブに付いたホコリや葉っぱを両手で叩き落とす。近くの小枝を拾い、赤い猫の大きな耳をそっと突いてみた。
「もしもーし……大丈夫ですかー……?」
すると突かれた耳がピクリと動き、伏していた顔がゆっくりとこちらを向いた。薄く開いた目は、鈍く金色に光っている。その猫は少年のような、でもひどく掠れた声を出した。
「……ここは……死者の国?……君は……天の使い?」
(わーーーー! 喋った!! 猫が! 喋ったっ!!!)
前世だったら絶対、ここで咳込んでいたに違いない。でも今は大丈夫。ちょっと息が止まった気がしたけど、身体はなんともない。
「ち、違うよ、私は普通の人間だよ。あなたも、生きてるよ」
「……そう……か……」
赤っぽい猫はそう言って目をつむり、疲れたように笑った。
月明かりを頼りによく見てみると、猫の顔をしているけど人間のような体型だ。全身赤みを帯びた毛に覆われていて、簡単な腰巻きをしている。毛は泥で汚れ、あちこち束になって固まっていた。
「具合悪いの? 大丈夫?」
少し近づいて、しゃがんで顔をのぞき込みつつ聞いてみた。
「水……あるか」
「ごめんなさい、私、何も持ってないわ」
「そうか……」
赤い猫は再び目をつむり、黙ってしまった。どうしよう、このままじゃ猫の人が死んでしまうかもしれない。ひどく弱っているみたいだし、明るくなるまで持つだろうか?
自分の身体が思うように動かせない辛さは、私自身が一番よく知っている。
何とかしてこの猫の人を助けたいけど、自分の手持ちの道具は、ブレスレットと白い横笛だけ。食べ物どころか、水すら無い。
ああ、そうだ。夜の笛はよくないと何処かで聞いたことがあるけど、吹いたら誰か気づいてくれるかもしれない。
でも私は、横笛の経験がなんて無い。前世で習った吹けば鳴る縦笛の様に、簡単に音が出るのだろうか。
それでも、そうした方が良いように思えてならない。意を決して目をつむり、笛を構えてみた。
(――誰か、助けて。猫さんを、助けて……)
祈りを込めて笛に口付けると、口は勝手に息を吹きこみ、指は自動的に音階を紡ぐ。記憶は無くとも『この身体』が覚えているのだろうか? 意識せずとも吹けているようだ。
それにしても、この笛の音は何だろう? 笛本体に音の振動を一切感じないまま、耳の奥に直接音が届く。
(綺麗な音色……)
自分でもどこかうっとりとしつつ、不思議な笛を吹き始めてから少し経った頃――異変は起こった。
ざあっと風が一斉に木々を揺らす音に驚いて目を開くと、吹いている横笛と目の前に横たわる猫の人が、同じ淡い水色に光っている。
――ピチョン ピチョン……
雨垂れのような音が頭に直接聞こえてくる。それに混ざって鈴のような高く澄んだ声が響いた。
――モウ ダイジョウブ
そこで笛を止めると、水色の光はすうと収まった。風は止み、ただ最初と同じように、月明かりがぼんやりと森を照らしている。
(ああ、『もう大丈夫』だ)
よくわからないまま、それでも何故か確信のようなものを感じて安心した。
そして横笛の光が収まるのを確認して内ポケットに戻すと、徐々に視界が暗く狭くなっていくのを感じる。
(あれ、こんな時に、貧血?)
前世で何度も体験したそれを思い出す。が、だからといってそれに抗えるわけではない。しゃがみこんで地面に両手を付くと、頭の奥で優しい女性の声がかすかに聞こえた。
『まだ、無理しちゃだめ』
(……誰?)
そのまま視界は暗転し、私の思考は途切れてしまった。