新たな学びと決意
「こんばんは、叔父様」
サンディの挨拶に一瞥をくれたギベオリードは、一瞬机に戻りかけた視線を改めてエドアルドらに向けなおした。
「……彼らは?」
「急にごめんなさい。今日から彼らにも叔父様の本を読ませてあげたいの。あと幻術の訓練もお願いしたいのだけど……」
「アレクサンドラが許し連れてきた者であれば、本を読むのは好きにしろ。ただし幻術は基礎知識のない者は無理だぞ」
エドアルドは思わずレオンを見た。でもレオンはその意味をすぐに理解したようで、同じく心配そうに見ているサンディに笑顔を向ける。
「僕はまず、読書だけさせてもらうよ」
「ごめんなさいね、レオン」
「ううん、サンディが謝ることじゃないよ。っていうか僕だって、すぐにサンディやエドアルドに追いついてみせるからね!」
そう言ってすぐに本棚へと向かったレオンに、サンディはどこから読み始めればいいのかを教えている。
その説明によれば、ここの書籍は段階を追って学ぶように並んでいるという。手前の巻を理解していない者は、次の巻を取り出せない。そして前章を理解していないと、次章への頁は開かないそうで……なんという徹底ぶりだろうか。
試しにエドアルドも学院で習う辺りだというエリアの本に指をかけてみた。するとどれも簡単に取り出せたし、自由に頁を開くことも出来る。
「さっすが主席卒業者サマだね」
「その呼び方はやめてくれ」
揶揄うレオンに苦笑いしながら応えると、エドアルドはさらに先の本棚へと足を向けた。
タイトルを見ればおおよそのレベルは判別できた。おそらくここは高等学院卒あたりか。ということは、その隣は大学院……エドアルドが学んだ知識の境界線にあたるエリアのはずだ。
ふと目についたのは『幻術理論Ⅱ』というタイトルの本だった。確か『Ⅰ』は自分が使っている癒し系の理論で、Ⅱ以降は攻撃に関するものだったはずだ。
これからギベオリードに教わる攻撃の幻術。少し予習でもしておこうかと思って何気なく指をかけた。しかしそれは、何かが引っかかっているかのように棚から取り出すことができない。そこで『Ⅰ』も試してみたが、そちらも取り出すことができない。
やや心拍数が上がるのを感じながら、さらに隣の『幻術基礎理論』に指をかける。するとあっさり取り出せた分厚い本が手に落ちてきた。
(『基礎からやり直せ』ということか……)
――正直、これはかなりショックだった。確かに攻撃の幻術は経験が無いものの、癒やしの幻術は幾度となく行使してきたはずなのに。
アヤナの試練を史上最短で終え、その生涯の殆どを魔術研究に費やしているギベオリード。彼のもつ高度な知識を手に入れるのは、やはり一筋縄ではいかなそうである。エドアルドは改めて初心に戻り、学び直す覚悟と決意を固めざるをえなかった。
***
エドアルドが『幻術基礎理論』を読み終えた頃、サンディがギベオリードとの訓練から戻ってきた。やや疲れた表情をしているものの、深刻なダメージを受けているようには見えない。エドアルドが本を読んでいる間、映像や記憶が一切流れ込んでこなかったことを考えると『抵抗・遮断・拒絶』がごく自然に出来ているのだろう。サンディの魔術や幻術の上達の速さには、本当に驚かされてばかりだ。
エドアルドは、サンディと交代するようにギベオリードの元へ向かった。改めて名を名乗り、書庫で襲撃されたサンディを救ってくれた礼を述べると、彼の明るい琥珀色の瞳が少しだけ大きくなる。
「――そうか、思い出したぞ。お主は学院初の全科目主席卒業者……トーヴァの孫、エドアルドだな」
「まさか憶えて下さっているとは思いませんでした。光栄です」
エドアルドは軽く頭を下げた。そのまま幻術訓練の相手を願うと、ギベオリードの口の端が少しだけ上がる。
「お主はアレクサンドラと違って、幻術基礎はすでに会得済みと考えて良いのだな」
「癒やしの幻術はそれなりの自負はあります。しかしお恥ずかしながら、攻撃の方は学院で習った理論だけで止まっております」
「ふん……存外向上心の無いことだな」
無表情に戻ったギベオリードに、思わず一瞬奥歯を噛み締めた。
(――あまり舐めてもらっては困る)
この数十年間、ただ漫然と地上を旅していたわけじゃない。旅程中も術の訓練を怠ったことは無いし、癒やしの方面ではそれなりに実績だって上げてきた。いちいち数えてはいないが、救ってきた人数だって数千には届くはずだ。
(僕はギベオリードとは違う。攻撃や禁術ではなく『癒やし』を選択し特化してきただけのことだ……)
確かに攻撃の幻術についての実践経験は無いに等しい。でもそこまで言われてしまったら、こちらも本気でやらせてもらおうじゃないか。もし必要以上の手加減をしてくるようなら、反撃だって厭わない。
……と、思ったはずだったが。
ギベオリードの右手がすっと上がったのを合図に、苦悶が畳み掛けるように襲ってきた。苦悶は攻撃の幻術の中では一番軽いはず。そしてギベオリードと自分との間はかなりの距離がある。それなのに彼が繰り出す幻術は、想像以上の強力さだった。
苦悶は相手が潜在的に一番見たくないと思う光景を見せつけて動揺を誘う。そして本人がその状況を精神的に受け入れてしまえば、あとは術者の思う壺。もうそこから自力で抜け出すことはできず、そのまま精神世界での死……つまり現実世界での意識喪失につながる。
エドアルドはまず抵抗を繰り返した。なのにギベオリードの幻術は、抵抗なんてまるで無いものかのように突き刺さってくる。それは精神の一番柔らかく暖かい場所を的確に探り当てると、容赦なく深々と、何度も何度も繰り返し抉ってきた。
あとこれは最初から覚悟はしていたものの……見える内容はすべてサンディ絡みだった。時に彼女が酷く傷つく様を見せられたり、時に正視できぬ程の淫らな誘惑をしてきたり……。
術者に対して怒ったところで意味がない事はよくわかっている。これはエドアルド自身の中にある闇であり願望なのだ。それを自覚しつつその闇が溢れ出すのを遮断し、拒絶によって自身を護りながら精神の平静を保つ事に集中する。
高等学院では幻術科目においても学年主席だったが、そんな自負も今となっては全く役に立たない。徐々に、しかし確かに威力を増していく強い幻術を前に、エドアルドは防戦一方である。
一番弱い苦悶とはいえ、こんなに連続して掛け続けられた経験は今までに無い。エドアルドが疲弊を自覚しはじめると、やや集中が甘くなった。そのタイミングを狙ったギベオリードの差し込むような攻撃に、うっかり飲み込まれそうになること数回。
自分の中にあるひどい映像が抑えきれず、溢れ出してギベオリードへ伝わりそうになる。
(くっ……そ!)
イメージが漏れるのをかろうじて遮断したところで、とうとう集中と余力が尽きた。同時に目の前に現れたのは、以前見たこの書庫での惨状の再現……いや、それよりも更に凄惨な光景だった。
血の池に浮かぶように倒れているサンディの瞳からは、すでに光が失せている。明らかに息絶えているその遺体は首から下がズタズタに裂かれ、ほとんど原型を留めていない。
妙にリアルな血生臭い風を感じて石床に膝を付いた時、それはもうエドアルドの中で現実になっていた。
(サンディ……様……)
ボロボロと零れ落ちるのは大粒の涙。必死に手を伸ばしているのに、目に見えない壁に阻まれて彼女に近寄ることができない。腹の底から叫んでいるつもりなのに、締め付けられた喉から出るのは細く掠れた悲鳴にもならない音だけだ。
(僕はまた、守れなかったのか……)
全てに絶望し、エドアルドが自らの命をすら放棄してしまいたくなる衝動に駆られたその時。額の辺りで何かがパチンと弾けるような感覚がした。
――徐々に手足の感覚が戻ってくる。気づけば頬にひんやりとした感触を感じた。そこで初めてエドアルドは、自分が石床に倒れている事を自覚する。
「戻ったか?」
薄らと目を開くと、ギベオリードの手が自分の額に当てられていることに気づく。
「……はい」
まだ身体にしっかり力が入らないが、ギベオリードの手は借りずになんとか自力で上体を起こした。目尻に残る涙の跡を袖で拭っていると、慌てた様子のサンディが駆け寄ってくる。
「エド大丈夫!? 怪我はない!?」
「ええ……大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ありません」
なんとか笑ってみせたエドアルドだったが、顎に手をやったギベオリードは無表情なまま呟いた。
「その顔色は、とても大丈夫そうには見えぬがな」
「ああ、エド。目覚めが近いのね……」
サンディの視線は自分の足の方へと向いている。見れば足が徐々に透けてきているところだった。
「時間切れだな」
「そういえばいつの間にか、レオンもいないわ」
二人の声と姿がぼやけたように遠のいていく。エドアルドは、自分の意識が書庫からみるみる離れていくのを感じていた。
***
先ほどまで頬にあった冷たい石床の感触は、いつの間にか柔らかく暖かい布のそれへと変わっていた。薄らと目を開くと、目の前にサンディの寝顔があって思わず息が止まる。
(そうか。僕は先に目覚めて……)
いつもよりずっと暖かい布団の中。こちら向きに眠るサンディは、まるでおくるみに包まれた赤子のように両手を首の辺りに置いている。いつの間にかお互いの手は離れているが、恐らく眠りに落ちる時にだけ触れていれば書庫に連れて行くことができるのだろう。
それにしても、こんな至近距離で彼女の寝顔を見られる機会が来るとは……。エドアルドが密かな感慨に浸っていると、サンディが身動ぎをした。
「ん……」
動いた拍子に顔に掛かった銀髪を、エドアルドは指先でそっと後ろに退かす。すると露わになった桃色の唇が微かに動いた。
「……エド」
ほぼ吐息だけで呟かれたのは自分の名前。心臓が大きく跳ね上がるのを自覚しつつ、その頬に手を触れてあわよくば口付けしたくなる衝動が……いや、待て、いかん。
自身の理性を過去最大に酷使しつつ、そっと振り向くようにベッドから出ようとした。そこでエドアルドの目に入ったのは魔弓を銛のように持ち、まるで川魚を狙うが如く自分へと向けているレオンだった。
「……っ!!」
思わず叫びそうになったが、かろうじてそれを飲み込む。慌てて振り向けばサンディ様は……よかった、起こさずにすんだようだ。
『――おはよー。もしエドアルドが寝惚けたら止めようと思ってたんだ。そう頼まれてたからね』
思念でそう語りつつ、レオンはニヤニヤしている。
『ああ、助かる』
エドアルドは苦笑いしながらも、レオンの世話にならずに済ませた自分の理性を内心で褒め称えた。
『レオンはいつ起きたんだ?』
『ついさっきだよ。エドアルドが幻術の訓練で倒れたところまではあっちで見てたんだけどさ。こっちでベッドから落ちたみたいで、起きちゃったんだ』
『そうか……』
エドアルドはゆっくり起き上がると、まだ目覚めないサンディの肩へ布団をそっとかけ直した。立ち上がるとまともに幻術をに受けた影響か、今もまだ少し頭痛が残っていることに気づく。
カーテンの隙間から外を覗くとまだ太陽は顔を出しておらず、やっと空が白み始めたところだ。
『先に湯を浴びてもいいか?』
『うん、いいよ』
エドアルドは浴場に入ると手早く脱衣して熱い湯を作り出し、それを頭から被り続けた。少し残っていた頭痛と若干の気だるさが、湯に溶けるようにして流れていくのを感じる。
エドアルドは改めて考えていた。
サンディは書庫での襲撃を受けて以来毎日同じ場所で知識の書を読み、苦しい訓練を積み続けていたのだ。その並大抵ではない努力について、エドアルドは感心すると同時に焦りを感じていた。
(今からサンディ様に追いつくことができるのか?……いや、追いつかねばならない、か……)
魔術や幻術の先天的な素質について、自分はギベオリードやサンディにはとても届かないだろう。それでもあの書庫に入り、そして知識の書を読んでエドアルドは決心した。近いうちに必ず、ギベオリードの知識を全て自分のものにしてやろうと。
「――必ず、守り抜いてやる」
自分は決してサンディの足手纏いにはならぬ。その決意に満ちた呟きは水音にかき消され、湯と共に排水溝へと流れていった。





