宿題
ギベオリードはいつもどおり、書庫の一番奥にいた。黒革表紙のノートへ文字を綴っていると、聞き慣れた女の声が降ってくる。
「こんばんは、叔父様」
視線をあげるとアレクサンドラが笑顔で立っている。もう日課になったこの挨拶。
しかし我の生活に朝も昼も夜も関係ない。最初どう返したらいいのかわからずに黙っていたら、それが当たり前になってしまった。
我の返事がない事にすっかり慣れた様子のアレクサンドラは、スタスタと書庫の奥へと歩いて行く。
毎回幻術の訓練をしているが、その日によって読書時間が前後する。今日は先に読書から片付けるつもりらしい。
我はノートへの書き込みを再開しようとした。
時の経過がわからぬこの書庫での出来事は、黒革表紙のノートへ記した記録だけが頼りだ。なんせこうなってしまった以上、我とていつまで存在し続けられるのか怪しいものだ。このノートの作成は、せめて自身の存在の証を残しておこうというささやかな抵抗でもある。
しかしそう思うようになったのはつい最近……書庫でアレクサンドラと出会ってからだった。
ふと思い立ち、アレクサンドラとの邂逅を記した頁を開いてみた。
***
我は、長い眠りについていた。
ある日、若い女の悲鳴混じりの嬌声、そして男の下卑た笑い声で目を覚ました。ここは我の記憶と知識の書庫。他の者は入れないはずのこの場所に他人、しかも複数の声が聞こえる事自体が異常事態である。
それにしても、ひどく寝覚めの悪い光景だった。
娘は身体中を薄汚い魔物の刃で貫かれており、石床を流血で染めている。しかも幻術をかけられた上でいいように嬲られているその娘は、よく見れば自分が生涯で唯一愛した女と瓜二つではないか。
我は昔から他人の生死に興味がない故に、本来なら看過する所だ。しかしその姿に免じ、あえて兄ウルスリードの得意技である重力制御を使って魔物を処分した。
しかしその直後。自分は治癒系の技術は全く持っていない事を思い出す。
とにかく呼吸を整えるよう促すと、我の事を叔父様と呼ぶ。もしやとは思っていたが、やはりこれはマリエラの娘、アレクサンドラであった。記憶の中ではまだ幼女だったはずのその娘は、息も絶え絶えに母を……マリエラを返せと訴える。
我は自分の半身が犯した大罪を認めつつ、しかし違う存在であることを説明した。その間にもアレクサンドラの呼吸は徐々に浅くなり、目線は虚ろになっていく。
(やはり我は、マリエラと違って何も救えないのだな……)
もう駄目かと諦めかけたその時。
新たに侵入してきたミミズクの妖精と天界人の青年によって、アレクサンドラはかろうじて救われた。
――それにしてもなぜ突然、こんなにも侵入者が増えたのだろうか。
分かたれた欲の権化である我が半身にここへ封じられてから、どのくらいの時が経ったのかはわからない。しかしあれ以来ここから出ることは叶わなかったし、ましてや誰かが来る事なんて事は一度たりとも無かったのに。
(もういっそこの場所は、誰かに委ねてしまった方がよいだろうか……)
そう思った時、目の前に横たわる瀕死の娘に目がとまった。
正直、もう自分の存在などどうでもよかった。自分の持つささやかな知識と経験。こんなもので母を奪ってしまった罪滅ぼしになるとは思えないが、愛しき人と瓜二つのこの娘に全てを託してみようか。
今考えれば、それは只の気まぐれだった。娘が運良く助かったなら、再び我の元へ来るだろう。しかしもし助からなければ、自分の存在は世界から完全に忘れ去られることになる。
(それもまた、一興……)
全力で治癒をかけ続けた同族の青年は、もう余力が乏しそうだ。自分が今どれだけひどい顔色をしているのかも自覚せぬまま施術を続けようとするので、正論をもって制止する。この場で娘と共倒れされては困るのだから。
石床に広がる血を吸った精霊王のローブを娘の身体にかけ直し、自身の左手をその胸部に置いた。
「我の記憶と知識が納められたこの書庫は、今後アレクサンドラとその許しを得た者に対してのみ扉を開くと伝えよ。まあ、無事に生き延びられれば、だがな……」
こうして書庫の鍵――精霊王から賜った指輪をアレクサンドラ、そして同族の青年に託した。
***
彼らがミミズクの妖精に乗って去っていった後、しばらくは何の変化も訪れなかった。
とりあえず、時間だけはある。黒革表紙のノートに先ほどの出来事を記録していると、アレクサンドラは突然現れた。どうやら一命は取り留めたらしい。
「あら、ここは……?」
――愛しいマリエラにそっくりの娘。間近に見るその姿に、ささやかな喜びと郷愁を感じる。
しかし先程までの血濡れた姿とは一変して、傷も含めて全てが綺麗に戻っている。きっとあの青年が相当頑張ったのだろう。よくもあれだけの傷を塞ぎきれたものだ。
アレクサンドラは、たいへん素直で飲み込みの早い生徒だった。
ここの書庫のルール、順番を飛ばして本を取り出すことは出来ない事、理解せず読み飛ばせば次頁は開かない事を教えると、素直に一番端から手にとって読み始める。
聞けばアレクサンドラは、学院へは全く通っていないという。我が半身の襲撃によって地上に長く落とされていたせいで、自分には天界人が持つ一般的な知識が欠けていると嘆いていた。
しかしどうだろう。一旦本を読み始めると、その集中力は凄まじかった。しばらく放っておくと、あっという間に高等学院卒業レベルを読み終えている。そして今では大学院レベルの論文や研究の結果を読み始めているほどだ。
それにしてもアレクサンドラは、分たれた我の半身……欲望の塊とどうあっても対峙する気らしい。なんとしても母マリエラを取り戻すと言ってきかないのだ。
それがどれだけ難しいかを説いても、決して受け入れようとはしなかった。一旦こうと決めたら決して引かぬその意思の固さ、悪く言えば頑固さは、おそらく……いや確実に母親似だろう。
我の半身とやりあう為という理由で攻撃の幻術を知りたがっていたので、試しに一度教えてみた。
最初は目も当てられぬほどの酷さだったが、たった数回の訓練でそれなりに形になってきている。最近では徐々に遮断の腕も上がり、その映像も殆ど見せなくなってきた。
それならばと少し大きな力を叩きつけてみれば、ひどく辛そうな顔をしながらも綺麗に拒絶してみせる。
この生徒は、とても筋がいい。聞けばアヤナの試練を十日で終えたという。おそらく魔術の素養については、兄である父ウルスリードよりも、叔父である我の血が濃いのやも知れぬ。
アレクサンドラへの『幻術授業』は、いつしか我のささやかな楽しみになっていた。それと同時に、教師としての教える喜びをも思い出しつつあることに苦笑する。
(我ながら、いまさら柄にもない事をしているものだ……)
いつか我という存在が消えた時、この書庫がどうなるのかはわからない。
精霊王から賜ったこの不思議な空間は、将来我とともに消えるのだろうか。それとも誰かに継承されるのか。あるいは精霊王に接収されるのか……。
しかし今、書庫内の知識はアレクサンドラへと確実に受け継がれつつある。昔はこの空間の未来について悩んだ時期もあったが、今ではその憂いもなくなった。
(我の本当の最後の時には、このノートがウルスとマリエラに届けば、それでいい……)
アレクサンドラとの邂逅以降、それだけが我の望み……いや、新しい欲となったのだ。
***
ノートの頁を元に戻して視線を上げた。見ればアレクサンドラはいつもと同じく、本棚の脇の椅子に腰掛けて読書をしている。いつもならそろそろ実践の時間だが、今日は読書の進みがやや遅れているようだ。
まあ時間はたっぷりある。気にせずノートへの記録を続けていると、ドサリと重いものが落ちる音が聞こえた。
顔をあげるとアレクサンドラが眉間に皺をよせ胸を抑えている。
――が、それもたった数秒の事。すぐ何もなかったかのように床に落ちた本を拾いあげると、そのまま読書を再開する。
我はその症状について、ひどく気になることがあって尋ねた。
「アレクサンドラ」
「はい、あの! 大切な本を落としてしまってごめんなさ――」
「――いや、そうではない」
その赤紫色の瞳は不思議そうに、でもまっすぐこちらを見つめている。
「以前、同族の青年が蜘蛛の魔物に襲われている幻影を見た後、我が出した宿題を憶えておるか?」
「……!」
すっと逸らされた視線に、その残念な答えを察した。が、そのまま続ける。
「『蜘蛛の魔物に殺されていたのがあの青年でなくても同じように怒れるか、一度真剣に自分の心に問え。それをよく考えてから再訪するように』と言ったはずだが……」
目をそらしたまま、しかし小さくうなずく様子からすると、忘れていたわけでは無さそうだ。
我はアレクサンドラの側へ歩んで屈む。そのまま両肩を掴んで自分の方を向かせ、目線を合わせて問うた。
「お主は我の出した宿題を終えたのか?」
そう尋ねるとアレクサンドラは、今にも泣きそうな顔をしたまま首を横に振る。
「――なぜ怠った!? 自身の本心をきちんと見据えねば、このままでは身体が……いや精神が本当に壊れるぞ!!」
久しぶりに大きな声を出してしまったが、アレクサンドラは表情をこわばらせたまま動かない。
(そのままでは、いつか我のように真っ二つに……)
自分も身に覚えのあるその胸の痛み。それはまさに心が、精神が引き裂かれつつある初期症状だ。それは我も嫌という程経験し、そして無視し続けた結果が今の状況で。
すると再びアレクサンドラは苦しそうに胸を抑えた。しかし今度は、すぐに治まる様子がない。
「っ……ん……うぐっ……」
「しっかりするんだ! できるだけ大きく……深く呼吸しろ……!」
「ッ……ッ……」
呼吸しようとしても、首を締められているように呼吸ができない。心臓はまるで冷たい手で強く握られているかのように痛む。
この苦しさは自分も散々経験してきたからよく知っている。アレクサンドラは酸欠の魚のようにはくはくと口を開閉し、その眦からは大粒の涙を溢れさせている。
ああ、頼むからマリエラとそっくりの姿で、そんな苦しそうな表情をしないでくれ……!
治癒はもちろん、ただ眠らせることすらできない無力な我が身がつくづく嫌になる。結局その背中をさすってやることしかできず、それでも声だけはかけ続けた。
「できるだけ……できるだけ、身体の力を抜け!」
すると突然アレクサンドラの身体が大きく揺れて、その姿が消え失せた。きっと現実世界で誰かに起こされたのだろう。膝から力が抜け、そのまま石床に座り込んだ。
そして自分の中にもう一つの欲が生まれたことを自覚しつつ、それでも願う。
(愛しきマリエラの娘よ、必ず戻って来い。いや……来てくれねば困るのだ、アレクサンドラ……)





