濁流
突然とぷんと放り込まれた赤黒い川。それは荒々しく渦巻いていて、気づけば私はその重い濁流に翻弄されていた。
(――くっ)
息もできないまま渦に飲まれて身の危険を感じたその時、蛍光ピンクの瞳……アヤナの姿が脳裏に浮かぶ。
(そうだ、あの時みたいに……)
私はアヤナの試練――滝壺に落とされてから水と一体になり、くるくると舞った心地よさを再現しようと試みた。
しかしこの重い水と私とは、まるで相容れない。水になろうとしている私にとって、この川の力はまるで油のようだった。
他人であるだけでなく、ここはそもそも違う力の中。完全に一体化するのは難しそうだ。
一体化できないのであれば、交渉を重ねるしかない。そう考え直した私は、白妖精の力を繭玉のように纏って激流との対話を試みる。
(お願い、どうか鎮まって……!)
小さな身体の中で暴走している赤黒い力を時に叱咤し、時になだめるようにして徐々に寄り添っていく。
『――無駄に考えるんじゃない。全身で全てを感じることだけに集中しろ』
これは書庫のギベオリード叔父様から、いつも言われている言葉だ。
白妖精の力は、その美しい見た目とは裏腹にとても荒々しい。この力に繊細な制御を加えるのはひどく難しいけれど、考える事をやめて集中した。
私を包む繭玉にした白妖精の力。その絹糸を徐々に解き、細く長く激流へと放っていく。
隅々までその糸を広げながら感覚を研ぎ澄まし、赤黒い流れの急所を探った。
私の白い力が赤黒い流れの方々にある急所に触れた途端、濁流は急激に飛び跳ねようとする。その乱暴な力を優しく包んで押さえこみながら、反動で落ち込もうとする渦を大きく掬い上げて整え……ひたすらこれの繰り返しだ。
(お願い……鎮まって……)
――もう何百回同じことを繰り返しただろう。
時間の感覚も無いままずっと濁流の中で揉まれていた私は、今では上下の感覚すら無くなっている。
(……あれ?)
ふと気付けば、魔力の激流が止まっていた。いつの間にか私は凪いだ銀色の水面にプカリと浮かんでいて、少し目が回ったように頭が痛い。
そこへ遠くからエドの声が聞こえた。
「……様……サンディ様!」
軽く揺さぶられる感覚で目覚め、ゆっくりと目を開く。私の両手は王子の胸に乗ったまま、両肩をエドに支えられていた。
「サンディ様、気づかれましたか……?」
見れば王子の小さな身体を覆っていた痛々しいアザは消え、本人は穏やかな表情で眠っている……ああ、本当によかった。
私はエドに支えられたまま、最後の仕上げを施した。
(立ち去る私に気づかなくていい。そのまま、眠っていて……)
私は流して繋がったままの白い力をできるだけ細くしながら、フェイドアウトするように力を抜いて止めた。
喉の奥から深いため息が溢れる。
「終わりました……」
明確な根拠は無いけれど『きっとこの子はもう大丈夫』……そんな気がしている。両手を小さな胸から離し、背もたれに身体を預けるとやっと肩からエドの手が離れた。
「大丈夫ですか? 急に力が抜けたように見えたので……」
「ええ、もう凪いだから。きっと大丈夫よ」
(本当によかった……)
穏やかな表情で眠る王子の顔は、とても可愛らしい。そばにあったタオルで額の汗を拭いてあげていると、やや苛立ったようなエドの声がした。
「いや、そっちじゃなくて」
(……?)
言っている意味がわからないままエドを見ると、ひどく心配そうに私を見つめている。
「サンディ様の方ですよ。急に項垂れて動かなくなったから……」
そうか、エドは私の心配をしてくれてたんだ。その気遣いが本当に嬉しくて思わず笑んだ。
「ありがとう、私は本当に大丈夫。少し目が回ってしまっただけなの」
「お疲れ様、サンディ。ねえエドアルド、これって成功……だよね?」
「ええ、恐らく。とりあえず殿下には、このまましばらく休んで頂きましょう」
エドが王子の額に手を当てると、ふわりと青い光が放たれてすぐに消えた。
「エド、今のは何?」
「夢すら見ずに眠らせる催眠です。身体だけでなく、意識を休ませる効果があるんですよ」
やっぱりエドはすごいと思った。私もいつか、癒し側の術をもっと教えてもらおうと改めて思う。
レオンが渡してくれたタオルで額の汗を拭っていると、ステートが隣室で待っていた侍女や騎士たちを連れて入室してきた。その中には先ほど皆が退出した時にはいなかった美しい女性の姿が見える。
そのきちんと結い上げられた髪は、少年と同じミルクティーのような優しい色合いだ。やや吊り上がった目は一見強気に見えるけど、その淡いブルーの瞳は今にも雫をこぼしそうなほど潤んでいる。
ステートだけでなく、騎士や侍女達の全員がその女性に対して最敬礼をとっていた。きっと彼女はとても身分の高い人なのだろう。
シンプルだが上質そうな生地のドレスを纏ったその女性は、安らいだ表情で休む王子を見て安心したように微笑んだ。そのままエドの前に立つと美しいカーテシーを披露したが、よく見ればそのドレスを摘む手がわずかに震えている。
「精霊師様、初にお目にかかります。妾はフランチェシカと申す者。我が息子フェルを……フェルディナントを救って頂き、感謝の伝えようがありませぬ。この御恩には必ず相応の報いを――」
この人は第一王子の母……ということは、この国の王妃という事になる。エドはすかさず跪き、天界騎士の最敬礼を取った上でその挨拶を遮った。
「妃殿下、恐れながら申し上げます。此度は私ではなく、森の魔女のお弟子様にしかできない施術のおかげでございました。史上初の試みではありましたが、見事に成し遂げられたのはお弟子様の功績にございます」
(ちょ、エド!?)
突然盛大に持ち上げられて慌てていると、妃殿下は私と目が合った途端に落涙する。
「なんと……魔女のお弟子様! この御恩は決して忘れませぬ……!」
フランチェシカ妃殿下は椅子に座ったままの私の両手を取ると、床に膝をついてぽろぽろと泣き崩れた。
(こんな高貴な人に、お礼とはいえ膝を付かれるなんて……!)
慌てて椅子から降りて屈もうとしたその時、視界が突然ぐらりと揺れた。
「サンディ!」
倒れ込む前にすかさずレオンが上体を支えてくれたけど、私は意図せず床に横座りする形になった。すぐ目の前にはこの国の王妃……いや愛息を心から心配する、母親の泣き腫らした顔がある。
ふとテレシアを思い出しつつ、今私を支えてくれているレオンの手の温みを感じる。
(母の愛、か……)
ささやかな羨望を自覚しつつ、妃殿下の淡いブルーの瞳を見つめながら私は精一杯の笑顔を向けた。
「殿下がご無事で本当によかったです。くれぐれもお大事になさってください」
「魔女のお弟子様。本当に、心から感謝いたします……」
するとすぐ隣にエドが来て、床に片膝をついた。
「――妃殿下。お弟子様はお疲れのようですので、先に部屋に戻る事をお許しください。レオン、付いてやってくれ」
「はい」
レオンに支えてもらいながら私が立ち上がると、すかさずヴィオラが飛んできて私の肩に止まった。そして妃殿下は美しい所作ですっと立ち上がる。
「……ええ、もちろんです。疲れているところを引き止めてしまったこと、お許し下さい。どうかゆるりと休んで下さいまし」
ハンカチで涙を拭う妃殿下の足元では、侍女がドレスの裾を整えている。その光景を横目に、私とレオンはゆっくりと部屋を退出するのだった。





