落としもの
1、
岩崎浩二はそそくさと朝食を取っていた。大概はパンとコーヒー。
彼は居住まいを正し、カバンを抱えて玄関に出る。そこへまだ起きたばかりの小学生の娘と妻が一緒にやって来て、
「行ってらっしゃい」と云う。
「行ってきます」
彼はドアを開けて外の空気を吸い、ピリッとした気持ちになった。
これが彼の、日々の姿だ。
ある雑居ビルを仕事で訪れたセールスマンの岩崎浩二はビルの4階にある得意先で注文を受けた。
「それでは、失礼しました」
そう云ってドアを開け外に出た。
このビルは各階に幾つかの小さな会社のオフィスが入っている。
廊下に出ると、岩崎は次の得意先へ行くためエレベーターに乗った。
するとエレベーターの箱の中で片隅にパスケースが落ちているのに気づき拾い上げた。中を見てみると、ある会社の社員証が入っていた。男性の顔と名前で、写真入りの身分証明のようになったカードだった。
「これは、このビルの会社かな」
岩崎は拾ったカードをしげしげ見ながら、ビルの1階でエレベーターを降りたあと、ビルの入り口にある、入居している会社の名前が書かれた案内板と拾った社員証に書かれた会社とを照らし合わせてみた。
「ああ。7階にある会社か」
少しばかり時間のロスだが、届けてやることにした。そんなちょっとしたことも何かの縁。彼の親切心とセールスマンとしての彼の小さな欲も働いていた。
岩崎は今降りたエレベーターにすぐさままた乗り込み、7階のボタンを押して上がって行った。
岩崎が7階でエレベーターを降りるとすぐに目当ての会社の名前が見えた。この7階はワンフロアがこの会社一つで使われていた。
岩崎は、どこかの得意先を訪れたように気軽な気持ちだった。まずは手前の部屋に入ってみれば、まず間違いなく社員証を返す用は終わるだろうと思って細い廊下を進んで行った。
一番手前の部屋はドアが無く、オフィスの中がすぐに見えた。手前に受付台がある。ここが訪問者の受付と云うことだろう。覗き込んだ。
岩崎が入って行くとすぐさま手前の机にいた女性が岩崎を見つけて、「いらっしゃいませ」と笑顔で挨拶をしてきた。明るい感じの女性だった。
「失礼します。このビルのエレベーターに乗りましたら、これが落ちていたもので」
受付の女性に、岩崎は手にしたさっき拾ったこの会社の社員証を見せた。
それを見た受付の女性は、意外そうな顔をしてそれを見た。
「あら。これが今、エレベーターに落ちていたんですか……」
「ええ、そうなんですが」
岩崎は、彼が返した社員証を見た女性の顔が曇ったのを見て変に思った。それにはもちろん何か事情があるのだろう。それに興味が湧いたけれど、とやかく聞いてみるわけにいかない。それに、この雰囲気から営業の話に進めるのは、話が弾みそうに無い。岩崎はすぐにあきらめた。
「それでは」
岩崎はすぐに帰ろうとした。だが、意外な事にそこで受付の女性から声が掛けられた。
「この社員証の人。近くにはいなかったということですよね?」
岩崎はもう体の向きを変えていたが、呼び止められるように質問をされてまた女性の方へ向き直り、
「ええ、一度一階まで降りたんですが、誰も見かけませんでしたねえ」
「あ、そうですか……。スミマセンでしたお引き留めして。ありがとうございました」
女性は顔を曇らせたまま、岩崎にそう云った。
岩崎はその態度に強い興味を持ったけれど、やっぱりそれ以上聞くのはやめて、もう一度挨拶をしてその部屋を出た。
岩崎は社員証のことを考えてみた。
「あの社員証の男は、ここにいてはいけない。意外な人物ということかな。辞めたはずの社員とか」
そんな想像をした。彼は妙な胸騒ぎを覚えた。だがそんな想像も一瞬でやめた。とっとと廊下を引き返して岩崎はエレベーターの呼び出しボタンを押した。
エレベーターは1階から上がって来た。
7階で止まったエレベーターの扉が開いた。岩崎はエレベーターの前で少し右に避けて立っていたが、中からジャンパーにズボンをはいた男が両手にショルダーバッグを持って降りて来た。
岩崎はエレベーターから降りてくる男の顔を何気なく見た。
(今、あの会社の人に返した社員証の男だ)
顔を見てすぐそう思った。
エレベーターから降りた男は、岩崎と擦れ違いに降りて数歩進むとすぐに足を止めてその場にバッグを置いた。入れ違いにエレベーターに乗った岩崎は、ちょっと違和感のある臭いを感じた。
(ガソリンの臭い)
その瞬間、岩崎の頭の中の想像が一つになって危険なストーリーを描いた。落ちていた社員証とそれを見て顔を曇らせた受付の女性とガソリンの臭いを残した男。
『何か会社とトラブルを抱えてクビになった男の無益な復讐』
それが頭に浮かんだ。
岩崎は、「今ならこの場を何事も無く離れられる」と思ったが、瞬時に「それでいいのか。このまま逃げていいのか」とも思った。
岩崎はエレベーターの扉が閉まるのを寸前思わず手で止めた。もう一度扉が開くと、岩崎はエレベーターを降りた。少し前にいてバッグを降ろした男が、岩崎の気配を察知して振り返った。振り返って見た男の顔は真っ青だった。
「あなた。ガソリンの臭いが」
その瞬間、男は岩崎を突き飛ばそうとした。岩城はその腕を半ばかわして腕を握って押さえた。
岩崎が頭の中で作り出した、このガソリン臭い男についての想像の物語は、これで大筋間違っていないと思わせた。
「うぉぉ」
男が声を上げた。岩崎は格闘に自信など無かったが、こうなってはなんとか応戦する意外に無いと腹を決め、無我夢中で男を押さえ込もうとした。
「誰か!誰か!」
岩崎は男ともみ合いになりながら声を張り上げた。 フロアの会社の中から騒ぎに気づいた人々が部屋から顔を出した。人々は格闘している二人の男の片方が、自分達の知った顔をだということに気づいたのだろう、何か云いあって数人が、もみ合う二人の方へ走って来た。
岩崎ともみ合う男は、敵が増えては勝ち目が無いと踏んだのだろう。懐に手を入れるとナイフを取り出した。そして躊躇無く岩崎の腹に突き立てた。「きゃあ」っと女性の悲鳴が上がった。だが岩崎は夢中になっていて、腹を刺されていることに気づかず男に組み付き押し倒した。
倒れた二人のところへ人々が駆けつけ、男はなんとか取り押さえられた。
急に体に力が入らなくなった岩崎は、その場に倒れ込んでいた。それでも岩崎は、立ち上がらなければと思った。「動かないほうがいいわ。ジッとしていて」さっき、拾ったカードを渡した女性が岩崎の横に膝をついて、彼の腕を握っていてくれた。岩崎は、倒れている自分を覗き込む人々の顔をぼんやりと眺めながめ、そういう状態のまま意識が薄れていった。
ジャンパーの男のいきさつは、ほぼ岩崎が想像したとおりだった。男は自分をクビにした会社にガソリンを撒いて火を付けようとしていたのだった。もしその犯行が現実に行われていたら、多くの人の命が奪われていただろう。
残念ながら岩崎は男に刺された腹の傷が深く、手当の甲斐無く命を落とした。
2、
岩崎浩二は白い道を歩いている。地平線まで何も無い空間に続く白い道だった。
ここは「あの世」だった。
岩崎浩二は、ここが「あの世」だと誰かに説明を受けたわけでは無かったが、なぜか「確かにそうだ」という確信があった。
彼はその道を歩きながら、自分の人生を思い返していた。妻と娘の顔、親の顔が浮かんだ。自分のしたことに悔いは無かったが未練は残った。
「あの男が社員証を落とさなければ。自分がそれを拾って届けなければ、自分は命を落とさなかった……タラレバは……ダメだな」
彼は苦笑いした。けれど彼は自分が多くの人の命を救ったかも知れないことに誇りを感じた。
彼がしばらく歩くと、向こうにグレーの事務机がありそこに薄青い制服を着た男性が座っているのが見えた。そして、白い道はその男性がいる場所の前で右と左の分かれ道になっているのだった。
「なんだろう?そうか。右が天国で左が地獄とかかな。俺はどっちなんだろう。天国に行きたいものだが」
岩崎は薄青い制服を着た男のところまで来て立ち止まった。
制服を着た男性は実直そうな、人の良さそうな顔をした中年の男性だった。
岩崎は男性に何か話したかったが、何を話したらいいか、よく分からなかった。
そんな岩崎の戸惑った顔を微笑みながら見ていた制服の男性が先に口を開いた。
「どうしましたか?」
「ああ、ええと。この先はこの分かれ道をどちらへ行けばいいですか?」
「道ですね。ええと、あなたお名前は?」
「岩崎浩二といいますが」
「岩崎浩二さんですね……ああ、資料が届いています。ううん、ご立派ですナァ」
制服の男性は微笑んでいた顔をさらに明るくして、岩崎にそう云った。
「ああ、いあぁ……」
岩崎は、制服の男のことばに、死んだ自分を悲しめばいいのかそれとも自分のしたことを立派と褒められて喜べばいいのか、分からず苦笑いをして頭を掻いた。
「ああ、それでね、岩崎さん、落としものが届いていますよ。これです」
制服の男性は自分の後ろにある小さな棚から何かを取り岩崎の前に差し出した。それは小さな瑠璃色の美しい球体で、ほのかに光を発していた。
「これが私の落とし物ですか?」岩崎はそんなものは初めて見た。
「そうです。先ほど、ここの住人の男性が届けて来られて。
『落とした人は、さぞ困っているだろう』と。
渡しておいて欲しいということでした」
制服の男性はそう云いながら瑠璃色の玉を岩崎の前にそっと置いた。
岩崎浩二が何気なく手を伸ばしその玉を持ち上げると、急に何かに吸い寄せられるように体が宙に浮き、
「ああ、あれ~!?」
今まで歩いて来た道を風に乗って飛ぶように戻って行った。
「お気を付けて~!」制服の男は、飛んでいく岩崎に微笑みながらそう叫んで見送っていた。
岩崎は目を覚ました。そこがどこか、彼にはよく分からなかった。彼はベッドに横たわり周りは人が行き交っている。
「あなた……」
「パパぁ」
彼の妻と娘が顔を覗き込むようにして話しかけた。
そこは彼があの復讐の男にナイフで刺されて収容された病院だった。
妻も娘も涙を浮かべていた。
「手術をした先生が、傷が急所をほんの少し外れていて幸運だったって……命拾いしたって」
妻と娘の後ろには両親もいた。岩崎浩二も涙があふれた。
「よかった。……落としたものは誰かに拾われるんだナ」
岩崎浩二は落とした命をあの世で拾われ、届けてもらったおかげでこの世にまた戻ってきた。
彼は、もう見られなかったかも知れない妻と娘の笑顔を見る機会をまた拾ったのだ。