84話 呪縛
ケイトが海に突き落とされた時、ナディアキスタは助けようと手を伸ばした。けれどその手は空を切り、無を掴む。
ケイトは驚くばかりで、手を伸ばせない。驚きながら、海へと消えていくケイトを、ナディアキスタはただ見つめることしか出来なかった。
「うわぁぁあぁあぁぁ!」
ナディアキスタは地面を殴り、悔しさを叫ぶ。身に余る怒りが、彼の脳を蝕み、精神を狂わせる。
嘆きの魔女は、胸を押えて叫ぶ彼の後ろで、『愚か者め』と嘲笑った。
『お前はいつまで経っても、学ばんのぅ。これだから乳臭い餓鬼は嫌いなんじゃ』
嘆きの魔女はナディアキスタの隣にしゃがみ、ナディアキスタに更なる追い討ちをかける。
『大して読み書きも出来ん。雑用ひとつこなせん。何をやらせても中途半端。それでいて自らを驕る、救いようのない愚か者。お前に何が出来る? お前が何を守れる? 認められたいが為に見栄張って、独りよがりという言葉を知っとるかの?』
『お前は何も出来やしない。だから、私の森に捨てられたのだ』
ナディアキスタは何も言い返せなかった。けれど、袖に隠したミリタリーナイフで、振り向きざまに魔女の顔を切りつける。
魔女は腹を立て、ナディアキスタを蹴り飛ばした。
ナディアキスタの胸を踏みつけ、『おのれ!』と吐き捨てた。
『この私に傷をつけるとは! 破門された分際で! 魔女でもない! 弟子にすらなれなかったお前が! この私に!』
「っ! 俺様は、俺は! 魔女だ!」
『お前に何が出来る!』
「師匠を、祠に封じ込めることだ!」
嘆きの魔女は、口が割けんばかりに笑った。
***
水の中は、思っていたより静かだ。
もっとうるさいのかと思っていた。けれど、水の中に広がる光も、揺らいで見える水面も、自分の息が数粒の泡となって消えていくもの、幻想的だ。
陸とは違う景色に、もう少しだけ浸っていたい。
真っ白なドレスがクラゲのように水の中を漂う。
私は沈んでいく体に力を入れることもせず、じわじわと苦しくなっていく中でぼぅっと、海面を見上げていた。
泳ごうと思えば泳げる。けれど、ウェディングドレスは基本的に、見た目重視だから重い。それに剣を腰に提げている。泳いだところで、体は沈んでいくだろう。ならば、無駄に足掻いて苦しみながら死に絶えるより、この目が眩むような景色を焼き付けて死にたい。
私は目を閉じた。
最後のひと息を吐き出して、呼吸を止める。ふと耳元で誰かの声がした。
──馬鹿だねぇ。こんなとこでおっ死ぬ気かい?──
男とも、女とも分からぬ抽象的な声。とても落ち着いているのに、声に似合わぬ軽快さがあった。
私が声の主を確かめようを目を開けた途端、体が海流に巻き込まれ、意図せず海面に顔を出す。
「ぶはぁっ! げほっ、げほっ! ······ごほっ、はぁ! 何なんだ!」
私は崖まで泳ぎ、凹凸に手をかけて少し休む。
ここらで急な潮の流れがあるなんて聞いたことがない。まるで操られたような海流に、私は助けられた。
あれは、精霊か、魔法使いか──魔女か。
誰かは知らない。けれど、私は胸に手を当てて、感謝の意を示す。
(──海の力に感謝する)
深く感謝を示し、私は崖に両手をかけた。
***
「ウェディングドレスで、崖登りってさぁっ! 誰も、やったこと、ねぇ、だろう、なっ! ······っと」
私は崖を登りながら独り言を喋る。
まさかウェディングドレスとヒールブーツで、こんな足場の悪い所を、歩くのですら嫌なのに登るなんて。
普通の令嬢なら泡吹いて卒倒しそうなもんだ。私はくくっ、と笑いながら、崖を登り詰める。
少し足を踏み外した以外は、特に困ることも辛いことも無く、崖を登りきった。
嘆きの魔女は、私を見るとニィと笑う。その気持ちの悪い笑みは、ナディアキスタが悪巧みしている時の顔に似ている。でも彼の方が何倍もマシだ。
「よくも落としてくれたな。亡霊ごときが」
『なんじゃ。戻ってきたのか。じゃが、遅かったのぅ。親愛なる大ホラ吹きは今しがた、死んだところじゃ』
嘆きの魔女は、私に見えるように場所を譲った。
私は血の気が引いた。悲鳴すら上げらない光景なんて、何度だって見てきたのに。私は初めて『恐ろしい』と思った。
──ナディアキスタが、地面に釘付けになっていた。
もちろん比喩ではない。物理的に、だ。
大きな杭が、何本もナディアキスタの上に突き刺さっている。手も、足も、動かないように固定されていた。腹も胸も、首にも、杭が刺さっていて、私は口を押さえて感情を塞ぐので精一杯だった。
嘆きの魔女は高笑いする。『どうだ。これでも私に抗えると言うのか』と。
私は何も出来なかった。······どうしたらいいかも、分からなかった。