72話 出発! 真珠の国
ふわふわの椅子と、石けんの香り。
ほんのり水色の内装は、銀色のヒトデや貝殻の模様が描かれている。
女の子ならば一度は夢に見て、誰もが憧れる『お姫様の馬車』で私は思いつく限りの罵詈雑言を吐き続けていた。
「この馬車降りたら貴様の心臓を掴み出し、目の前でかみ潰してやる。頭をかち割って脳みそを引きずり出して踏み、目玉も抉って口に詰め込んでやる。耳と鼻は綺麗に削いで蝶ネクタイの代わりにでもしてやろう。簡単に殺してやるのは勿体ないな。生まれたことを後悔するまで痛めつけてやる」
聞こえないと分かっていても、女とも、騎士とも言えない事を御者に延々と呟き続ける。御者は窓から私を見ると「怖いなぁ」と笑った。
「ちゃぁんと聞こえてますよぉ。ケェトさん」
驚く私をよそに、御者は窓からぬるりと馬車の中に侵入した。
シルクハットを脱ぐと、トラヴィチカは「ふぃ〜」と姿勢を崩す。私は「やはりな」と腕を組んだ。
「もぉ、気づくの早くなぁい?」
「お前の八重歯は覚えている。左側にあり、なおかつ欠けているからすぐに分かるぞ」
「こわぁい。ってかケェトさん、ボクちゃんだって分かっててあんな事言ったぁの?」
「お前はすぐに面倒事を持ってくるからな」
トラヴィチカは頬をぷくっと膨らませて「酷い〜」と言った。
「ホントはボクちゃん、大臣の脳みそをリセットしとぉくつもりだったの! そうすればぁ、ケェトさんリスアコットに行けるし?」
「行けなくて悲しい〜、なんて一言でも言ったか?」
「違ぁう。ナディーちゃんが悲しむじゃん」
トラヴィチカはニヤッと笑うと、すぐ落ち込んだ表情になる。
「でもぉ、ボクちゃんが呪いの準備してたぁら、リスアコットから『魔報』が届いてぇ」
「魔報?」
「魔女専用の通達のこと。そこにケェトさんが『魔女の花嫁』になったぁって書いててね〜。たまたま近くにいたボクちゃんがお迎え役! リスアコットまでエスコォトする羽目になっちゃった」
「それは災難だな」
私はトラヴィチカに慰めの言葉をかける。
しかし真珠の国からの通達なら、恐らく騎士の国にも正式な書簡が行くはず。なら、他国に行ってもあまり問題ないのでは?
私はそんなことを考える。
だが、『魔女の花嫁』とは何だろうか。騎士の国では『魔女の贄』という、魔女の森に指名された人間を送る風習があったが、それに近いものなのだろうか。
「トラ、『魔女の花嫁』って何だ」
「そぉれは、あっちに行けばわかるよぉになってる。多分ナディーちゃんが説明す〜るよぉ」
トラヴィチカに尋ねても、「リスアコットに着いたらねぇ」としか返ってこない。何を尋ねても、全て同じ返答なのだ。義賊の森の独特な口調のせいか、気が抜けて怒る気にもならず、私は諦めて「そうか」と口を閉じた。
(──ヒイラギの方が、まだ聞き取れるんだがな)
私はトラヴィチカに見えないようにため息をついた。
「そぉろそろ、海が見えるよぉ」
トラヴィチカはそう言って外を見る。
······海? 海だって!?
「まさか! 騎士の国から海なんて」
「知っとぉ〜。馬で三日でしょ。でも、お忘れぇ? ボクちゃんも魔女なんですけぇど」
ナディアキスタのぽんきち同様、トラヴィチカにも似たような魔法が使えるのかもしれない。
私も釣られるように外を見る。目の前には、確かに青くキラキラと光る海があって、トラヴィチカが貿易に使う船もある。
トラヴィチカは「呪いはかけてあるよぉ」と言うが、私は不安が募っていく。
馬車は船の前に停まると、勝手にドアが開く。トラヴィチカに急かされ、私は馬車を降りた。トラヴィチカが降りると、馬車は馬ごと小さく縮んでいき、玩具に変わる。
トラヴィチカはそれをズルズルの袖に入れると、私の背中を押して船に乗った。
「さぁさぁケェトさんいらっしゃぁい! ボクちゃんの貿易船『ファントリップ・チドリ』へ!」
トラヴィチカは両手を大きく広げて空へと伸ばす。
ヘラッと笑って甲板で踊った。トラヴィチカが踊ると、モップは掃除を始め、舵は勝手に回る。
錨を上げて、帆を張り、船は大海原へと進み出した。私はさぁ、と青ざめる。
「トラ! 今すぐ船から下ろせ! 今すぐだ!」
「えぇ〜〜〜? ここまで来て怖気付いたぁ? まっさかまぁさかでしょ?」
「違う! お前といるとろくな事が起きないから嫌なんだ! 下ろせ!」
「んははははっ! ケェトさんは面白いなぁ。そんなこと起きにゃいにゃい! だってボクちゃん──」
船に乗ってまだ一分も立たない内に、海がうねり出す。
水面に顔を覗かせる蛇のような魔物は、絶対的な意志を持って船を狙っていた。
「魔女、だもん、ねぇ······」
トラヴィチカの語尾が萎んでいく。私は「念の為に」と彼に尋ねた。
「この船に、防衛の魔法······魔女は呪いか。かけてあるよ、な?」
「かけてるよぉ」
私は胸を撫で下ろす。それなら安心、と。けれど、水面からゆっくりと頭を上げるシーサーペントは、私たちを見つけると、目を細めてじぃっと見つめる。
私とトラヴィチカは魔物から目を逸らせない。
「かけてるんだぁけど〜」
トラヴィチカはいきなり不穏なことを言い出した。
「昨日でそのお呪い、切れちゃってぇ。まだかけ直してないんだぁよね〜」
「こんの、バカトラブルメーカー!!」
シーサーペントは私たちに襲いかかる。
真珠の国への旅は、甲板を赤く染めるところから始まった。