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君が世界に還るまで。  作者: 神宮司亮介
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2話 「勇者」に選ばれた日

 あの日から一週間が経った。まだ、エストの右手には痛々しく白い包帯が巻かれている。

太陽の昇らない夜の深い時間に、エストは目覚めてしまった。同じ部屋のベッドに、ツヴァイの姿はない。わかっていながら、エストはツヴァイがそこにいるのではないかと期待してしまう。そして、その期待は簡単に裏切られる。そこにない温もりを感じながら、エストは目を伏せる。

「ツヴァイ……会いたいよ……」

 一体いつまでこんなことを続けるのか。自問自答しながらも答えは出ない。ただ一つ言えることは、エストが心を痛めて、目を腫らしながら泣き続けても、朝は必ずやって来るということだった。

 その日の朝、エストはまだ晴れない面持ちのまま食堂の席に座る。既に朝食のパンとスープは並べられていたが、最近は席が開けられていたエストの隣にも、朝食が置かれていることにエストは気付いた。

(また、新しい家族が増えるのかな)

 口には出さず、エストは包帯を巻いた右手に目を移す。ヌルに踏み付けられた時の痛みがじんわりと蘇った。

(ツヴァイが、帰って来てくれたらいいのに)

 あの日から姿を見せないツヴァイを思うと、エストは叶わない夢を見ようとしてしまう。だが、その夢はあっさりと掻き消される。食堂にゆっくりとした足取りで入って来るクロムの後ろに、ぴたっと張り付いたように歩く水色の髪の少女をエストは見つけてしまった。

 周囲の子供たちは、新たな家族の登場に湧いた。エストは座ったまま、その輪に入れない。

「今日から、新しい家族が増えるぞ」

 クロムの低く逞しい声が部屋に響く。その声に合わせて、子供たちは歓声をあげた。

 だが、そこからしばし沈黙が続く。エストが見る限り、クロムの傍に立つ少女は口を開かない。孤児院を離れた誰かのお下がりであるベージュのカーディガンと紺色のスカートを着ている少女は、クロムの影に隠れるように立ち尽くしていた。

「無理しなくていいんだぞ」

 クロムに優しく声をかけられた少女は、小さく頷くとそのまま目を伏せた。

「彼女の名前はエトランゼ。あまり人と話すことは得意ではないが、真面目で優しい女の子だ。みんなも、仲良くするんだぞ!」

「はい!」

 子供たちの答えは明らかで、少女が心を開かなくとも、この孤児院にいる子たち達は彼女を責めることはない。ただ、エストは彼女の様子を、どこか懐かしく思っていた。

 まるで孤児院に初めて来た時の、自分のようだと。



 部屋に戻り、エストはふと、本棚から一冊の絵本を取り出す。ツヴァイのことを思い出すのと同じで、ヌルに宣告された『勇者の末裔』という言葉を、エストは疑わずにいられなかった。

 昔、ツヴァイが夢の話をしたときに読んでいた本は、もう何年も読んでいなかった。段々、勇者という言葉を口にすることは恥ずかしくなって、いつからか考えることもなくなった。

 改めて読んでみると、絵本に登場する勇者の髪の色と、自分の髪の色が同じであることに気付く。だから自分が勇者の血を引いているとは断定できないが、エストは胸のざわつきを隠せない。

(ボクが勇者だなんて……そんなこと)

 勇者は強いものだ。魔物を倒し、世界を平和にしたくらいに。そんなおとぎ話の人物と自分が同じだとは、到底思えない。エストは絵本を閉じて、本棚にそれをしまった。

「友達一人、助けられないのに」

 返ってこない言葉を残し、エストは部屋を後にした。

 廊下に出ると、エストは窓の外をぼんやり眺めている少女を目撃した。朝、クロムの隣で一言も喋らなかった、エトランゼだ。

「エトランゼ、だよね?」

 エストが声を掛けると、エトランゼはびくりと体を小動物のように震わせた。その様子に、エストは両手を振って彼女の警戒を解こうとする。

「あ、無理に話さなくても大丈夫だよ。ボクも、昔そうだったから」

 エストがそう言うと、エトランゼはゆっくりと顔をエストへ動かした。初めてお互いが、お互いの顔を認識した瞬間だった。

「ボクの名前はエスト。これからよろしくね」

 白い歯を見せて、エストは手を差し出した。

「そうだ、急で悪いけど、ボクと友達にならない?」

 その手は友達になるための握手を求めるしるし。エストはかつて、自分が受けた優しさをエトランゼに施そうとしていた。そう、今はもうここにいない、ツヴァイから差し伸べられた手のように。

 エトランゼは、すぐには手を差し出さない。それでも手を引っ込めないエストを見て、彼女は彼女自身の両手を握り締める。

「私と……とも、だち……」

「うん。あ、でも、ボクらはもう家族だからね! ただ、友達って、家族とはちょっと違う気がして、ボクは好きなんだ」

 孤児院の子供たちは皆家族だとクロムから伝えられる。もちろん、エストはその気持ちで子供たちと接している。ただ、ツヴァイから教えられた友達という言葉の魔法に、エストは魅了されていた。何か特別で、家族には話せないことも話せる、不思議な関係に。

 しかし、エトランゼはとうとう俯いてしまい、エストは彼女に無理をさせてしまったと焦り始めた。

「ああ、ゴメン! 気が向いたらで良いから……ボクもここへ来たばかりのとき、全然馴染めなかったからさ……だから気にしないで……」

 今はまだ早かったのだと、エストは手を引こうとした。

「ま、待って、ください……」

 突然、エトランゼがエストを呼び止める。か細く、触ると壊れそうなほど脆いガラス細工のような声が、彼女の悲壮感を際立たせた。

「わ、私と……と、いっしょになったら……あなたが、不幸に……なります……でも、私…………友達が……ほしい、です」

 一緒になったら、不幸になる。その言葉にエストはハッとする。家族がいなくなり、初めて出来た友達が姿を消した記憶がエストに蘇る。エトランゼが友達になれば、彼女もまた自分の前から離れる日が来るかもしれないと、エストは一瞬考えた。

「私と……友達になってください……」

 しかし、ここまでエストの手を受け取ろうとしなかったエトランゼから、今度は手が差し出される。小刻みに震える手は、エストの腕を掴む。エストには彼女の体温が伝わった。そんなエトランゼの願いを断る理由が、エストには見つからない。彼女に対する答えは、ただ一つだった。

「もちろんだよ」

 エトランゼの不器用で、不自然な笑顔が広がった。そしてこの日から二人は、友達になった。



 エトランゼは次第に、孤児院のみんなとの関係を築いて行った。そして、その関係が築かれるほど、彼女はエストとの絆を深めていた。どんな時も二人は必ず一緒で、しまいには男女で部屋を分けていたにもかかわらず、エトランゼはエストと一緒の部屋を希望し、同じ部屋で生活することとなった。

 また、二人は炊事場で一緒になることが多く、二人の作る料理は院の中でも評判になっていった。周囲からは友達以上の関係になっているのではと見られていたが、エスト自身はあくまで彼女と友達である、というスタンスを崩さなかった。

 二人の関係を象徴する出来事は、エトランゼが孤児院へやって来て二年が経ち、二人が十三歳になった頃のことだった。エトランゼはすっかりエストに懐いていて、エストも彼女を守りたいという想いが強くなっていた。しかし、年齢が変わることで、周囲との関係性も変容していく。エストとエトランゼの関係を良く思わない子たちによってからかわれることは少なくはなかった。

 ある日の夜、エトランゼは突然、エストに部屋を分けたいと切り出したことがあった。

「エストくん……あの、やっぱり、部屋、分けた方が、いいかなって……」

 ベッドの縁に座るエトランゼは、スカートから顔を出した膝の上に手を置いたまま、肩を震わせていた。鼻をすする音で、エストは彼女の気持ちがわかってしまう。

「……私は、エストくんと、ただ、一緒がいいだけなんです……でも、私がここにいると、エストくん、独り占めすることになっちゃいます」

「……そんなこと言われたの」

「え……」

「そんなの、ボクは許せないよ。ねえ、教えて。ボク、その子とちゃんと話したい」

 エストも他の男の子たちから「好きなんだろ」程度にからかわれることはあった。しかし、裏を返せばエストが言われていることはその程度だった。だから、自分が知らないところでエトランゼが傷つけられていることを知らなかったことにエストは腹が立ち、そして何よりエトランゼを傷つけた誰かがいることを許せなかった。

「……いいんです」

「どうして! エトランゼは悪くないのに!」

「エストくんが、優しすぎるんです!」

 エトランゼの背中が、泣いていた。

「……ごめんなさい。勝手なこと、言ってるの、わかります……」

「エトランゼ……」

「……私、少し、聞いちゃいました。エストくんには、すごく、仲の良かった友達がいたって……。私は、何を言われてもいいんです。でも、私、不安で……」

 今まで、エストはエトランゼにツヴァイの存在を話したことが一度もなかった。エトランゼにする話ではないと考え、ずっと押し黙っていた。それが、間接的にエトランゼへ伝わっていたことに、エストは反省する。

「……ごめん。黙ってて。でも、ボクは、エトランゼを、その子の代わりにしたなんて、そんなこと思ってないよ」

「え……でも」

「ボクはただ、エトランゼがひとりぼっちだと、寂しいんじゃないかなって、思っただけだよ」

 だから、エストはエトランゼに本当の気持ちを伝える。

 助けたい、その気持ちだけで動いたことを、エトランゼに知ってもらいたかった。

「エトランゼが嫌なら、部屋は分けよう。一緒にいるのも少なくしよう。でもボクは、エトランゼが一緒だと、楽しいんだ」

 背を向けているエトランゼの顔は見えない。でも、エストは伝えることをやめない。自分が後悔しないように。

 すると、エトランゼはゆっくりとベッドから立ち上がった。

「……やっぱり、エストくんは……優しすぎます」

 まだ、彼女は傷付いたままだとエストは思っていた。他に何を言えばいいだろうかと、エストは手を口に当てて考えていた。

 だから、エストはエトランゼが目の前で立っていることに気付くと、「うわあっ」と驚き、情けなく一歩、後ずさりした。

 エトランゼは涙を拭いて、少し瞳を潤ませながら、笑っていた。

「……やっぱり、私は、エストくんと、一緒がいい、です」

 こうして、エストとエトランゼの絆は深まった。

ただ、時を同じくしてエストは、孤児院を離れることが増えた。そのため、二人が一緒にいられる時間は必然的に少なくなった。

 エストが孤児院を離れることが増えたのは、クロムと行動する機会が増えたことが要因だった。元々、帝国の騎士団に所属していたというクロムの経歴を知ったエストは、弟子入りを志願した。その日から、エストは剣術や狩り、野営の方法を教わることが増えた。孤児院の外へ出る機会には必ず同行し、外の世界を見るようになってからは、いつかはクロムと同じで騎士団員として、人を守れるような存在になりたいという夢が出来た。もちろん、願うだけでは夢は叶わないので、エストは一日を無駄にすることなく、強くなることを考え、行動し続けた。

 エストが十四歳になった日の夕暮れ時も、エストは外で練習用の木剣を振るっていた。

「いい剣筋になって来たな」

「そうかな」

「ああ。エストの、努力の成果だ」

 隣でエストの練習を見守っているクロムが褒めても、エストは納得していないようだった。あくまで今は体を鍛えるための練習であり、実際の戦いで通用するとは限らない。ただ、夢中に剣を振って、前より回数を重ねても息が切れなくなれば、エストは成長を実感できた。

 今日も、クロムによって止められるまで素振りは続いた。既に他の子供たちは夕食を終えており、エストは一人食堂で食事を済ませると、その足で部屋へ戻ろうとした。

「エトランゼ、まだ寝てなかったの?」

 エストの部屋の前で、エトランゼが普段着のスカートとカーディガンを着たまま待っていた。エストが声をかけると、エトランゼは目線を泳がせた。

「あ、あの。私、その、エストくんに、その、伝えたい、ことがあります」

「何?」

「でも、こ、ここで言うのは、ちょっと……あ、あの、エストくんが良ければ、私、来てほしいところがあるんです」

「それって、どこ?」

「一緒に、来てくれませんか」

 積極的なエトランゼに、エストは初めて出会った。友達になってから、朝食を作るとき、本を読むとき、絵を描いて遊ぶとき、寝る前に星を眺めるとき、全て、話を切り出すのはエストからだった。

「うん、じゃあ、そこで話そうか」

「……ありがとう、ございます。その、エストくんには、一度、見てほしくて」

 そのとき、エストは何も疑わなかった。エトランゼの向かおうとする先が、エストにとって苦い思い出のある場所だとは。だから、エストは真っ直ぐな瞳をエトランゼに向けると、柔らかな笑顔を返した。



 向かう先に気付いた頃には、エストはもう引き返せないところまで来ていた。眼前に見える水面の輝きが、エストに苦い過去を思い出させる。

(エトランゼ……やっぱり、遅いから戻ろうよ……なんて、今さら言えないしなあ……)

 人が一人通れるかどうかの狭い道を、エトランゼはどんどん進んで行く。その後ろで、エストは彼女に疑われないようついて行く。そして、二人がやって来たのはエストがツヴァイと別れた、星空を鏡のように映す湖のほとりだった。

 エトランゼはエストの顔も見ず、この場所について語り始める。

「私、しばらく孤児院で馴染めなかった時、ここを見つけて……クロムさんから、敷地の外へ勝手に出るなと言われていたので、危ないってわかっていたんですけど、ここに来ると、心が洗われていくようで」

 エトランゼの言葉に、エストはかつてツヴァイとこの場所へ来たことを思い出す。ツヴァイもここで、心の傷を癒していた。あの時ツヴァイはどんな気持ちでここにいたのだろうか、そんなことを考えてしまう。

「あの、エストくん……」

 過去に気を取られて、エストは今目の前にいるエトランゼのことをすっかり忘れてしまっていた。エトランゼの強い声にエストは気付いて、目線を彼女に合わせた。

「え、あ……うん、そう、なんだ」

「……エストくん、何か、ありましたか」

 物憂げなエトランゼの視線をエストは嫌った。冷たい夜風が鼻の上を撫でていく。湿った土の香りを肺に送り込んで、エストは静かに首を振った。

「……ここは危ない、逃げよう、エトランゼ」

 エトランゼの気持ちを聴く余裕が、今のエストにはなかった。咄嗟にエストはエトランゼの手を掴むと、孤児院への道を戻ろうとした。

「え、エストくん!?」

「ここはダメなんだ! だって、この場所は」

 そう、この場所でツヴァイはエストの前から姿を消した。同じことが起こるとは限らないが、エストはもう後悔をしたくなかった。あの時、クロムの言いつけを守って、勝手に孤児院の敷地から出なければ良かった、せめて、あの時ツヴァイを助けられたら良かった、と。

 だから、エストは急いで戻ろうとした。戸惑うエトランゼに構うことなく。だが、前を向いたエストの足が、ぴたりと止まる。

「三年ぶりだね……勇者君」

「お、お前は……」

 三年前、この湖でエストとツヴァイを襲った、ヌルという存在が、エストとエトランゼの前に現れる。

「そう、きっと君がこの三年間、憎しみ続けた存在だよ。ふふ、随分大きくなったね……」

「さ、触るな!」

 ヌルがエストへ伸ばそうとした手を、エストは払いのける。確かにヌルの手を払いのけたはずが、何かに触れた感覚をエストは感じなかった。にもかかわらず、ヌルの手は実体を伴って、エストの頬に触れた。

「あらら、嫌われちゃったみたい……まあ、君のそういう顔、僕はもう少し見ていたいところだけど」

 うるさい、勝手に触るな、エストはヌルへそんな言葉を投げかけて早くここから逃げたかった。しかし、不思議と体が動かない。足から地面に根を張っているかのようだった。

「ふふっ、思うように動かない、って顔しているね。君の四肢の自由を封じることくらい、私には容易いことさ」

 怪しく輝くヌルの瞳がエストを離さない。胸の内が読まれているようで、エストは顔を背ける。すると、ヌルはエストの耳元へ顔を近付ける。ねっとりとした口調でエストに囁いた。

「私はね、君の絶望に打ちひしがれる顔を見るのが好きでね。また、君の顔を見に来たのさ」

 ヌルの言葉に、エストは青ざめる。

「そう、君はまた、大切な人を失う。だって、君は無力だから」

 エストは目を見開いた。無力、その言葉がエストに重くのしかかり、同時に突発的な怒りを掻き立てた。自然と手は、練習用の木剣に伸びていた。そして、エトランゼの手を離していた。

 動かなかった体が、言うことを聞いた。エストは怒りに任せて、木剣を振るった。しかし、空を裂く音が響いただけだった。

「残念。私の体は、そんな飾りじゃ斬れないよ」

 ヌルの声が聞こえたが、エストの目の前に彼の存在はなかった。

「エストくん!?」

 そして、エトランゼの悲鳴が聞こえた時、エストの体は力なく仰向けに倒れた。自分の体から放たれる血飛沫が、視界に飛び込んだ。

「所詮、君は無力な人間さ。君は一生、何も守ることなく死んでいくのさ!」

 ヌルの冷たい声すら、エストにはもう届かなかった。

 エストの意識は、深い闇へ落ちていたからだ。


***


 体を斬られた。血が飛んで、そこからの記憶はない。それが長い時間経ったものか、一瞬のことだったかはわからない。ただ、エストは目を覚ましていた。

「あれ……傷が……」

 エストの体に傷は一つもついていなかった。

「あれ……ここは……エトランゼは……」

 そもそも、エストは見たことのない場所にいた。そこはただ真っ暗な景色の広がる世界だった。エトランゼと、ヌルの姿はそこにない。不可解な現象に戸惑いながら、エストは直前の出来事を思い出していた。

 この三年間、ツヴァイを失った苦い経験から、クロムに剣術を叩き込まれた。何かがあったとき、近くにいる誰かを守るために。しかし、エトランゼを守るどころか、エトランゼの前で、あっさりとヌルに体を斬り裂かれた。その事実が、エストに重くのしかかった。

「ボクは……やっぱり、無力だ……」

 エストの頬に、一筋の雫が伝う。マリアを亡くし、ツヴァイと別れ、悲しみに明け暮れたあの日のように、涙が止まらなかった。

『本当にそうかい?』

 そんなエストに突然、穏やかさを持った声が降りかかる。孤独の淵に落ちていたエストは、その声の主を探し求めた。

「だ、誰!?」

 人影はない。足音一つ聞こえない。エストはもう一度、声の主に居場所を問おうとした。

「私は、ここにいるよ」

 エストの耳の裏から、囁く声が届いた。慌ててエストが振り返ると、そこには真っ白な光を放つ、中性的な顔立ちの、人間の体をした存在が顕現していた。放たれる光と同じ白い髪は柔らかく波を打って、肩のあたりまで伸びている。煌びやかな装飾がちりばめられた外套もまた、汚れのない白に染まっていた。

「うわあっ!?」

 驚いて、エストは情けなく背中から倒れこんだ。腰をさすりながら起き上がろうとしたとき、エストは彼の存在が、人間でないことを察する。

 地面に足が、ついていなかったからだ。

「あなたは、何者、なんですか」

 ほんの少し警戒心を強め、エストは問う。彼の存在は、無表情な笑みを見せた。

「私はレイという名前を与えられている。何者かと問われれば答えてあげたいのは山々だが、今は自己紹介をしている時間などなさそうだ」

 レイ、と自称する存在の言葉に、エストは立ち上がる。そして、湿った頬を掌で拭った。

「そうだ、このままだと、エトランゼが……」

 また大切な人が自分の前から消えてしまう。その恐怖、苦痛、悲哀に、エストはもう耐えられない。しかし、ここから出る手段はわからない。エストは、レイにそのことを訊ねようとした、その時だった。

「君に問う。君は、戦う力が欲しいかい? それとも、護る力が欲しいかい?」

 エストより先に、レイからの問いがやって来る。

 レイの問いはシンプルでいて、難しかった。

「え……っと、それって、具体的には……」

「残念だが、君たちが言う具体的を、誤解なく説明している時間はない」

「そ、そんな……」

 あまりに漠然としていて、エストはどちらかを選べなかった。さらに、レイが凝視して来るもので、エストは焦りを隠せない。

「そ、それなら……」

 だが、エストは自分が欲しい力を知っていた。震える拳を握り締め、エストは大きく呼吸をする。そして、レイの瞳を射抜くような鋭い目つきに変わると、エストは高らかに宣言した。

「もう、ボクは大切な人を失いたくない! ボクはただ、大切な人たちを守れるくらい、強くなりたいんだ!」

 言い終わっても、エストはレイから視線を離さなかった。全く変わらない表情から、レイの感情はまるで読み取れない。エストは拳を胸に当て、己の鼓動を確かめる。

 幾ばくかの沈黙を経て、レイはゆっくりと口を開いた。

「君は、正解した。そんな君に、相応しい力を授けよう」

 正解。レイの言葉から、エストは自分が試されていたことを悟った。喜びより先にレイの思考が気になり、エストは眉間に寄せた皺を消すことが出来なかった。

「正解、って……」

「すまない。つい、私情が挟まってしまったようだ。君に今、私の素性を気にしている余裕はないというのに」

 エストは喉を鳴らす。敵のようには感じないものの、レイから漂う不気味さは否めなかった。それでも、エストは決心する。

「……わかった。それなら、詮索しない」

「感謝する。君は私の予測より、物分かりの良い人間のようだ」

 そう言うと、レイは瞼を閉じる。すると、レイの体は白い世界へ溶けるように消えてゆく。エストは思わず「待って!」と叫び、手を伸ばす。だが、レイの体は完全に消滅し、エストの手は空を切った。

『最後にもう一つ、確認がある。君にはこれから、逃げたくなるような困難が訪れ続けるだろう。それでも、君は受け入れてくれるかい』

 姿が見えなくなったレイから、二度目の問いをエストは受ける。エストは辺りを見回したが、レイは何処にもいない。ただ、もうエストの答えは決まっていた。レイの姿が見えなくとも。

「どんなことも、受け入れる……それで、みんなを守れるなら!」

 エストの叫びに、レイの声が返って来た。

『よろしい。私は、君を選んで正解だったようだ。あとは好きにするといい。君はもう、立派な勇者だ』


 ***


 立派な勇者だ、そんなレイの言葉が聞こえて、エストの視界はまた真っ暗な海へ投げ出された。しかし、エストの意識は消えていなかった。それどころか、今まで感じたことのない熱量が、体の中からどんどん溢れ出してくる。

「これが、ボクに与えられた力……」

 変化はそれだけではなかった。両手を見れば、使い古した革の手袋をはめていた部分は、黒い布地の手袋と金属製の篭手に変わっていた。

「あれ……ボクの手袋が……って、ええっ!?」

さらに、白銀の鎧を纏っている自分の姿に、エストは驚きを隠せない。手袋越しに鎧に触ってみるが、どんな攻撃でも身を守ってくれそうな硬さが伝わってくる。また、首元から背中にかけて伸びる赤いマントにエストは目を移す。この姿はまるで、レイが言うように『勇者』そのものだった。

「ボクが……『勇者』に……」

 今、エストは力を得た。そしてまず、エストにはすべきことがあった。無意識に、エストの手は腰に提げられた鞘に収まっている剣へ伸びる。ゆっくり鞘から剣を引き抜くと、これまた鎧と同じ、白銀の刀身が姿を現す。

「エトランゼを、助けなきゃ」

 決意が言葉になって表れた時、エストの視界が次の世界へ変わった。いや、最初の場所に戻ってきた。

「ぐっ……かはっ……」

「良い顔をしている。残念だけど、エストくんは死んでしまった。だから君は、誰にも救われない。ここで孤独に、死ぬんだよ」

「い、やあっ……」

 エトランゼのかすれた声がエストに届いた。彼女はヌルによって首を絞めあげられている。足を必死にばたつかせているが、それももう限界なのか、動きがどんどん鈍くなっていく。

「エトランゼを……エトランゼを離せ!」

 剣を握り締め、エストはヌルへと斬りかかる。振り切った剣の先が、何かを斬った感触をエストは覚えた。

「ほう……そう来たか」

 ヌルは微動だにしない。しかし、エストが斬った背中の傷跡から、黒い粒子が空へと浮かび上がった。

「やはり、干渉し過ぎたようだね。となると、エスト君は私を殺す力を得たということか」

 そう言うと、ヌルはエトランゼを離す。地面にバサっと、エトランゼは倒れ込む。

「エトランゼ!」

 エストは彼女の元へ駆け寄る。酷く咳き込むエトランゼを心配しつつ、エストはヌルへ鋭い眼光を向けた。

「ボクは、お前を許さない!」

 エストが抗おうと、ヌルは不敵な笑みを崩さない。

「……そう、エスト君は私に楯突くつもりなのかい」

「ああ。でも、ボクは別にお前を倒したい訳じゃない。ボクは、ボクの大切な人を守りたいだけだ!」

 エストは剣を構える。すると、ヌルは突然、気の抜けた声で言った。

「なーんか、つまらなくなった。飽きた。今日はこれで終わりにしよう」

 ヌルはエストに背を向ける。黒の外套を翻すと、闇夜の中へと消えてしまった。

「ま、待て!」

 エストは叫んだが、ヌルの姿はもうない。その代わりに、ヌルの声がエストへ降り注いだ。

「しばしのお別れさ。だが、エスト君、覚えておくといいよ。世界中のどこに君がいようと、私の仲間が君をきっと、殺しに行くからね……」

 殺気に満ち溢れた声を、エストは恐れなかった。

 不思議と、この力があれば何にも負けないような、そんな気分になっていた。だから、ヌルの脅しにエストは怯まなかった。

「ボクは、負けない……」

 剣を構え、エストは自分にそう誓った。そして、戦いの終わりを確かめるように、鞘へ剣を収める。すると、エストの体は光に包まれ、その光は粒子となり、空へと昇っていく。エストは元々着ていた革鎧姿に戻った。

「うぐっ……」

 そして、その瞬間から、エストの視界は歪み始める。瞬く間に、エストは地面に崩れ落ちる。

「はあっ、はあっ……」

 ここで倒れるわけにはいかない。エトランゼを孤児院へ連れて帰るまでは。その思いとは裏腹に、体を起こすことは出来なかった。

「エトランゼを、守らなきゃ……」

 そこで、エストの意識は途絶えた。



 次にエストが目を覚ましたのは、自室のベッドの中だった。

「ここは……」

 自分の居場所を確かめようとするエストに、人影が覆い被さった。

「エストくん!」

 エトランゼの声がした。彼女の腕の中に、エストは包まれる。柔らかな感触が、エストの頬へと伝わってくる。

「エ、エトランゼ……あの……っ……」

「……あ、ああっ、エストくん、ご、ごめんなさい!」

 エストの申し訳なさそうな声に、エトランゼは慌ててエストから離れた。恥ずかしそうにするエトランゼの瞼は赤く腫れていた。

(心配、かけちゃったしな……)

 エストはエトランゼに笑いかける。すると、エトランゼはつられて笑ってくれた。

「良かったです……エストくん、丸一日、眠ったままだったので……」

「え、そんなに!?」

「はい……でも、大丈夫って、信じてました」

 予想以上に眠っていたが、エストは無事、生きているエトランゼを見て、ほっとする。

「ボクも、エトランゼが無事で、良かった……」

 そして、今度はエストからエトランゼに手を伸ばす。腕の中へエトランゼを引き入れ、壊さないように、それでも強く抱きしめると、エトランゼの温もりが服から通じて感じられた。そのまま、エストは生の余韻に浸ろうとしていた。

「そういえば……」

 ここで唐突に、エトランゼが切り出す。エストは彼女の顔を見るために、エトランゼの肩を少し向こう側へ押し出した。

「どうかした?」

 エストは訊ねたが、エトランゼは口を開けないようだった。その間に、エストも一つ疑問に感じていたことが浮かび、彼女に質問する。

「ボクを、ここまで運んでくれたの?」

 エストが聞くと、エトランゼは何かを思い出したように、口を開ける。そして、一瞬唇を噤んだが、ゆっくり瞼を閉じると、静かに息を吐いた。

「私では……ありません」

「じゃあ、誰が?」

「……えっと、黒い服を着た……顔はフードをかぶっていて、見えなかったけど……髪の色が、銀色で」

 エトランゼの言葉に、エストの表情が変わる。笑顔と驚きが入り混じり、戸惑いの声がエストから漏れた。

「……もしかして、それって」

 エトランゼは何かを察したように話し出す。

「名前……は、明かされませんでした。ただ、言われたことがありました。『僕が彼を助けたことは、彼に言わないでほしい』と。約束、破ってしまいましたが……」

 浮かない表情に変わるエトランゼを見て、エストは彼女から手を離した。

「……また、落ち着いたら、そのこと、詳しく聞いてもいいかな」

 エトランゼは静かに首を縦に振った。

「いや、忘れないうちに、話します。何があったかを」


 ***


 エストが意識を失って暫く時間が経過した頃、エトランゼは途方に暮れていた。エストを運ぶ力がエトランゼにあるはずはなく、彼を背負おうと試みるも歩くことが出来ず、何度も倒れては立ち上がりを繰り返していた。

「このままだと……エストくんが」

 死んでしまうかもしれない。せっかく出来た友達を、失いたくない。気持ちは溢れていたが、気持ちだけではどうしようもなかった。

「クロムさんを呼びに……でも、その間に、エストくんが、いなくなったら……」

 エストを置いて助けを呼びに行くことを考えたものの、目を離した間にエストがもし、あの黒装束の存在に連れていかれたら。そんなことを考えると、エトランゼはエストと一緒にいる、という手段しか取ることが出来なかった。

「誰か……エストくんを……」

 無力さに胸が潰れそうになったが、首を振って弱気を空に飛ばした。エトランゼは自分の背の上で意識を失っているエストを運ぼうと、もう一度立ち上がろうとした、その時だった。

「彼を、貸して」

 夜の闇に紛れて、エトランゼはすぐ視認することが出来なかった。見上げればそこに、ヌルに似た黒い装束に身を包む、エトランゼより少し背の高いくらいの少年が立っていた。顔はフードを被っていたせいで良く見えなかったが、首元に垂れ下がる銀色の髪が、月明かりに照らされていた。

「貴方は……」

 エトランゼが問うが、少年は無言でエストを背負って、そのまま湖のほとりから去ろうとする。エトランゼは彼が何者かわからないまま、彼の後を追っていく。

 服装がヌルの着ていたものに似ていたこともあり、エトランゼは彼の正体を疑っていた。しかし、少年は何も言わず進んで行く。そして彼が進む道筋は、孤児院への帰り道だった。エトランゼは後ろを追いながら、あることを考え始めた。

(エストくんのことを、彼は、知っているのかも……)

 エトランゼが彼の正体を考えているうちに、三人は孤児院の前まで辿り着いた。少年は玄関のドア前まで進むと、そこにエストを下ろした。

「あ、あの」

 ありがとうございます、と言ったあとに、エトランゼは彼の名前を聞こうとした。

 しかし、少年はフードを深くかぶり直すと、彼女へ次の言葉を言い残した。

『僕が彼を助けたことは、彼に言わないでほしい』

 そして彼はエトランゼの隣を駆け抜けていく。

「待って」

 エトランゼは振り返ったが、驚くことに、彼の姿はもう見えなくなっていた。


 ***


 エトランゼから話を聞いたエストは真っ先に、彼を思い出した。

「ツヴァイ……きっとそうだ。銀色の髪で、孤児院までの道のりを知っているのは、彼しかいない」

「……エストくんの、友達、ですよね」

 エストは首肯する。

「うん。ボクの……」

「……私、彼のこと、全然知りません。彼はエストくんにとって、どんな存在だったんですか」

 部屋を分けたいとエトランゼが懇願したあの日ですら、エストはツヴァイのことを細かく打ち明けることはしなかった。だが、彼女の目は、訴えかけていた。もっと、彼のことが知りたい、と。

「……ボクが孤児院に来て、初めて出来た友達。ずっと一緒で、仲良しで、でも、ある日、いなくなった」

「それって……」

「三年前、ボクらはヌルに襲われた。ボクは気を失って、ツヴァイは、ボクが目を覚めた頃には、もう……」

「……悲しかった、ですか」

「……うん。あの頃は、ずっと泣いてた。寂しくて、仕方なかった、かな」

「……どうして、言ってくれなかったんですか」

「……」

「……私たち、友達なのに、どうして、どうしてそんな大切なこと、言ってくれなかったんですか!」

 エトランゼの怒声が、雑音のない部屋に響き渡る。そして彼女は怒ったまま、部屋を出てしまった。一人きりの部屋でエストは、天を仰いだ。

「また、一人ぼっちだ」



 夜風は冷たく、エストの頬を撫でる。孤児院の外にある大きな一本の木にもたれ掛かり、曇りかかった星空を眺めていた。

「浮かない顔してるな」

 一人きりの世界に、重く渋みの効いた声が割って入ってくる。エストはその声の方に視線を移した。

「クロム……」

 ろうそくの炎に、毛布を羽織っている大きなクロムの体が照らされていた。腕にはもう一枚、毛布を抱えていて、クロムはそれをエストに渡し、隣に腰を下ろして来た。

「エトランゼには、ずっと黙っていたんだな。あの日の、ツヴァイのこと」

「うん。過去のことだから。でも、エトランゼに怒られちゃった。友達なのに、何でそんな大事なことを言ってくれなかったのかって」

 一人になって、エストは考えていた。ツヴァイのことを打ち明けなかった理由を。理由は簡単だった。ツヴァイのことを思い出して、今の友達との関係を邪魔したくなかったから。エトランゼとの今の関係を大切にしたかったからだ。

「どうして、言わなかったのかなって」

 それでも、エトランゼを傷付けてしまったのなら、避けるべき行動だった。エストは毛布を握り締める。すると、クロムがエストの頭をくしゃくしゃと撫でた。

「そりゃ、エストにとってエトランゼが友達だから、だよな」

 クロムの言葉をエストはすぐには理解できなかった。首を傾げていると、クロムは続けてきた。

「もし、エストがエトランゼの立場で、昔の友達について色々話されたら、気分いいか? 俺は良くない。なんだよ、そいつの方がいいなら、わざわざ俺と友達じゃなくていいだろって思うだろ?」

 クロムにそう言われて、エストは何かに気付いたように口を開けた。ツヴァイのことを話し始めたら、きっと止まらなくなってしまう。だから無意識のうちに言わないようにしていたのかもしれないと、エストは一人頷いた。

 そしてまた、毛布を握り締める。

「……ボク、ここを出ようと思う」

「ほう。捜しに行くのか? ツヴァイを」

「……エトランゼから話を聞いて、ボクはツヴァイがまだ生きているって、希望が持てたんだ。それに、ボクはあの日ツヴァイを助けられなかったのに、ツヴァイはボクを助けてくれた。もう、ボクばっかり守られてるのは、ボクが嫌だから……」

 エトランゼの言う少年がツヴァイであれば、エストはまた彼によって救われた。孤児院に来たばかりの時、ヌルに襲われた時、そして、今回で三度目。しかし、エストはまだ一度もツヴァイに何も返せていない。その想いが強く高まっていた。

「理由はどうだっていい。でも、その気持ちは、忘れるんじゃねえぞ」

「クロム……それって」

「ああ。行ってこい。ちゃんとツヴァイを連れ戻してくるんだ。エストとツヴァイは、親友なんだぞって」

 まだ早い、もう少し大きくなってから、そんなことをクロムには言われると思っていたエストは、予想外の答えに驚いた。そして、嬉しくなった。

 ポロポロと涙がこぼれる。エストはクロムの大きな体に、顔を埋めた。

「……おいおい、泣くなって……お前は泣き虫だなぁ」

 クロムのゴツゴツした手が、エストの背中を優しくさする。この優しさに触れるのもしばらくはなくなるのだと思えば、胸は苦しくなった。

 旅立ちへの支度はあっという間だった。動きやすい普段から装着している革鎧と金属製の両手剣、一日分の食料に野営用の道具を鞄に詰めた。この三年間、クロムから教えられたこと、鍛えられたことを実践する時が来たと思えば、不安よりワクワクとする気持ちが先行する。

 孤児院を出る朝には、みんなが見送ってくれた。

 エトランゼを除いては。

 少し寂しかったが、それは仕方ないとエストは思っていた。結局、選んだのは今孤児院にいなくなった親友の方だから。

 クロムには、孤児院から一番近い村へ行き、そこの村長に会うよう促された。その村にはクロムに連れられて何度か行ったことはあったものの、一人でそこまで行くのは初めてだった。

 しばらく道なりに歩いていると、分かれ道に辿り着く。クロムには右側に行くよう言われていたことを覚えていたので、エストはそちらへ体を向ける。次の目的地へと足を進めようと一歩、踏み出した瞬間、その出来事はやって来た。

「エストくん!」

 自分を呼ぶ声が、背後から聞こえる。エストは振り向くと、水色の髪を振り乱す少女が、肩を震わせていた。茶色のローブを着る彼女の姿はさながら、絵本で読んだときに見た魔法使いのようだった。

「エトランゼ……どうして」

「私、エストくんのいない世界が、考えられないんです!」

 あの日、湖のほとりに呼ばれたときには聞けなかったエトランゼの告白だった。

「だから、私、ついて行くって決めていました。でも、今まで言えなくて……」

 立ち止まるエストに、エトランゼが近付いてくる。彼女の白い、冷たい手が、エストの手を握った。

「エストくん、すぐに抱え込むから……辛いことは、私に全部、ぶつけてください」

 エストがエトランゼに手を差し伸べた時のようだった。凛とした、エトランゼの瞳、エストは吸い込まれるよう、笑った。

「……ごめんね。エトランゼに僕の大事なこと、話せてなくて」

「私は、エストくんのそういうところが、好きだから……」

 え、とエストが声を出したことに気付いて、エトランゼは慌てて首を横に振った。

「あ、これはその、あの、友達として、ですっ!」

 友達として。その言葉を心で抱き締めて、エストは白い歯を見せた。

「ありがとう。じゃあ、行こうか」

 エストの、一人じゃない旅が始まろうとしていた。


 ***


「随分勝手なことをしてくれたね」

 ヌルは怒っていた。尖ったヒールの踵で踏みつけていたのは、少年の白い肌に包まれた手だった。

「君は私の奴隷なのに、どうして自我を持ってしまうのかな?」

 ヌルはしゃがみ込んで、うつ伏せに倒れている少年の、銀色の髪を掴む。強引に引き上げた少年の顔は傷だらけで、蒼色の瞳が虚ろに揺れていた。

「何でも……します……でも、エストは、エストだけは、僕の大切な友達だから……」

「駄目だよ。彼はこの世に不要な存在だ。消す必要がある」

 少年に付けられた首輪の鎖がジャラジャラと音を立てる。

「なら……せめて、最後にエストと、会わせてください」

 ヌルは笑った。しかし、その目は、笑っていなかった。

「君に、最後なんて来ないよ。君はもう、私と全てを共にしなければならないのだから」

 少年は絶望する。この果てしない牢獄から、一生抜け出すことは出来ないのだと。

「ねえ、ツヴァイ。いつか君にプレゼントしよう。君が愛してやまない友達をね。まあ、生きている保証は、全然ないのだけど!」

 狂気に満ち溢れたヌルの声が、少年の耳から遠くなっていく。

 助けて。エスト、もう、これ以上は。

 もう、耐えられない。

 早く、僕をここから、救い出して――。

 ツヴァイの叫びはもう、誰にも届かなかった。

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