1話 初めての友達
母のマリアに手を握られ、エストは土の道を歩いている。二人が歩く先には赤い屋根のある、白い大きな屋敷があった。
「ヤダ……いきたくない……」
小さな声でエストは呟く。エストは屋敷へと近付くにつれ、前へ進むことを嫌がった。だが、マリアの足が止まることはない。「行きたくない」とエストが駄々をこねているうちに、とうとう二人は屋敷の前に辿り着いた。
今までエストと繋がっていたマリアの冷たい手がエストから離れる。マリアは屋敷のドアに近付き、ノックをしようとする。
「いっちゃダメ!」
マリアを止めようと、エストはマリアが着ているマントの裾を握った。すると、マリアはゆっくりとしゃがみ、被っていたフードをゆっくりと脱いだ。橙色の、肩までかかる長さの髪は、エストの髪と同じ輝きを放っている。
「ごめんなさい、最後まで、守ってあげられなくて」
マリアはやつれて骨ばった頬を震わせ、泣いていた。そして、マリアはエストの体を抱きしめる。力なく伸ばされたマリアの手に、エストは寂しさを感じずにはいられなかった。
「おかあさん……ボク、いいこにするから……だから、ずっといっしょに……」
ずっと一緒にいたい。エストはそう言おうとしたが、抱きしめてくれているマリアの力が緩むと、エストは何も言えなくなった。マリアはエストの髪を優しく撫でているが、その動きはどんどん鈍く、弱くなっていく。
「……貴方は……最後まで……生きて」
エストの体からマリアの手が離れていく。そしてついにマリアの体は力なく、後ろへ倒れた。
ドサっと音を立てて倒れたマリアの顔に、先程まであった生気は宿っていなかった。エストは倒れたマリアの顔を覗く。彼女の瞳からは、一筋の雫が流れていた。
「おかあさん……どうかしたの?」
エストはマリアに呼びかけるが、マリアは返事をしない。今度はマリアの体を揺すってみるが、彼女からの反応はなかった。
「そんな……おかあさん……おきてよ……」
どれだけエストがマリアを呼んでも、彼女の目は開かない。エストは理由のわからない悲しみに襲われた。マリアがずっと遠くへ行ってしまった気がしたからだ。
「まって、ボクを、ひとりにしないで!」
果てしない孤独に苛まれて、エストの琥珀色の瞳から涙が溢れた。
ただ、エストは一人ではなかった。
エストが泣いているところに、男の低く渋みのきいた声が響いた。
「マリア!?」
男の声に驚いて、エストは思わずマリアから手を離し後ずさりする。エストの前には、白いシャツの向こうに逞しい筋肉を備えている男の姿があった。男はすぐにマリアの元へ駆け寄る。「おい、しっかりしろ!」と声をかけるが、マリアの声は返って来なかった。
「嘘だろ……何でお前が……っ」
男は大きな拳を膝に置き、肩を震わせていた。強く口を噛んで涙を堪える男の様子に、エストは思い知らされる。
「おかあさんも、ずっと、ねむっちゃうんだね」
か細い声がエストから放たれる。その声に男は気付いたのか、エストの方へ目を合わせた。彫りの深い男の顔は、眉間に悲しげな皺を作っていた。
男は、首を縦に振った。何も言わず、ゆっくりと。
エストはマリアが二度と目覚めない、という事実を信じたくなかった。
「ボクのせいだ……ボクがいたからおかあさんは……」
エストは自分の膝に拳を置いた。そこにポタポタと涙が落ちる。
「ボクなんか……いなくてよかったんだ!」
肩を震わせ、エストは涙を拭きながら大声で泣いた。今までため込んでいたものが、一気に外へと溢れ出る。寂しくて、無力で、痛い。負の感情がドッと湧き上がる。そして全ての感情には、「ボクのせいだ」という理由が付きまとった。
ここまでエストが自分を卑下するようになったのは、一年程前に溯る。それは、まだエストが三歳の頃の話だった。
***
人里離れた山奥にある小さな家に、エストはマリアと父のセシルの三人で暮らしていた。両親の深い愛情を注がれ、エストは笑顔の絶えない男の子に育っていた。
しかし、エストの運命はある日を境に急転してしまう。きっかけは、両親が繰り広げていた会話を、エストが聞いてしまったことから始まった。
「貴方! どうして戦わないといけないの!?」
「『魔族』は俺たちを狙ってくる。俺は君たちを守るために、戦う必要があるんだ」
「でも、もし、貴方がいなくなったら……」
「死ぬつもりなんかない! ただ、君だって襲われただろ? もう、時間の問題なんだ」
エストが両親の交わす口論を聞いたのは、これが最初で最後のことだった。それからしばらくして、セシルは二人を家に残し、旅へ出ることとなった。銀色の流れる髪を後ろで結び、使い古された革鎧に身を包むセシルの姿はてとても格好良く、輝いて見えた。
「おとうさん……かえって、くる?」
ただ、エストは心配だった。セシルがちゃんと、家に帰って来てくれるか。
「……大丈夫。お母さんの言うことを聞いて、良い子にしているんだ。お父さん、必ず帰ってくるからな」
セシルの大きな手が、エストの頭をポンポンと叩く。セシルが装着している手袋の向こう側に宿る温もりをエストは感じられなかったが、蒼い瞳から涙を流すセシルの優しい笑顔を、エストは忘れなかった。
そして、セシルとエストが交わした会話は、これが最後となった。
数か月が経ったある日、家の外でエストはセシルの変わり果てた姿を発見した。幼いエストはセシルが約束を守ってくれたのだと喜んだが、エストがいくらセシルの体を揺すっても彼は目覚めなかった。さらに、エストは手に冷たさを内包した温もりを感じ取った。不思議に思って両手を見ると、手は真っ赤な液体で染まっていた
その液体は紛れもなく、セシルの血だった。
エストは本能的に恐怖した。そして、マリアを呼んだ。家から出てきたマリアは、血塗れのセシルを見た途端、膝から崩れ落ちた。マリアの姿を見て、エストは悲しいことが起きてしまったのだと認識した。
程なくして、二人は小さなセシルの墓を建て、土の中に彼の体を埋めた。エストはマリアに何度も「いいこにしてたら、おとうさん、おきてくれる?」と聞いた。マリアは笑顔で、「いつまでも、お父さんは貴方の側にいるのよ」と言ってくれた。だが、一年経ってもセシルは目覚めない。エストはマリアの言葉の意味を悟り始めた。もう、セシルは帰って来ないのだと。
時を同じくして、マリアは病に倒れた。エストは傍に寄り添ってやることしか出来ず、ここでも己の力がないことを悔いることになる。エストの前で、マリアは気丈に振る舞っていたが、みるみるうちに生気を失っていった。
***
「エスト……エスト……」
悲しみに暮れているエストだったが、突然、マリアの声が聞こえた。エストは闇に沈んでいた目を開く。しかし、ぼやけた視界の先に、マリアの姿はなかった。
それだけではない。辺りの景色までが一変していた。そこに広がるのは、無機質で、真っ白な世界だった。
「どこ……おかあさん、どこにいるの」
エストの耳に届いたのは、確かにマリアの声だった。グルグルと何周も辺りを見回すが、エストの視界には何も入ってこない。
「ボクを、ひとりにしないで!」
そして、エストは瞬きをした。見えないマリアの姿を見るために。だが、次にエストが見た世界はまた違う場所へ移ろっていた。白い天井へ伸びる自分の左腕と、そんな自分を覗き込む、銀髪で碧眼の少年を認識したエストは、「うわあっ」と驚いて後ろへ下がろうとした。
「ああ、ゴメン! つらそうだったから、しんぱいで……」
銀髪の少年が手を合わせて瞼を塞ぐ。エストは慌てて左右を見たところ、自分がベッドの上で寝かされていることに気付いた。もちろん、マリアの声が夢だということにも。
「そっか……おかあさんは……」
もういないんだと、エストは言いそうになって口を噤んだ。
「クロムもしんぱいしてたけど、だいじょうぶ?」
銀髪の少年が引き続き、心配そうな表情でエストに声をかける。エストは首を縦に振った。
「だいじょうぶ、それより、ありがとう」
ぐちゃぐちゃになった感情を飲み込んで、エストは笑顔を見せる。すると、銀髪の少年は首を捻る。エストはもう一言、だいじょうぶ、と言おうとした。
「さっきクロムにきいたら、きみ、だいじょうぶじゃないってきいたよ。だから、うそついちゃだめだよ」
嘘、という言葉にエストは動揺する。そんなことない、と言おうとしたが、その言葉は出てこない。代わりに出てきたのは、流し終わったはずの涙だった。
「え、ボク……どうしちゃったんだろう……」
エストは鼻をすすり、手で涙を拭き、喉を震わせる。
大丈夫ではなかったのだ。まだ四歳のエストに明確な認識は出来ないにしても、両親を亡くしたという事実は受け止めきれなかった。自分を知っている人間は誰もいない。これからどうすればいいのか、という不安が襲ってくる。
「ボク……どうしたら……」
エストの弱気が素直に口から放たれる。すると、泣きじゃくるエストの手に、銀髪の少年の手が伸ばされた。
「ぼくが、ともだちになる!」
エストの震える手は、少年の手にしっかりと包まれた。銀髪の少年の色白な肌色とは程遠い温かさが、エストへと伝わってくる。
「とも……だち……」
「うん! かぞくみたいなもの! きみはもう、ひとりじゃないよ!」
ひとりじゃない。彼の言葉は、今のエストにとって最高の薬だった。そして彼との出会いは、エストの運命を大きく変えることになった。ただ、この時のエストはそんなことを、知る由もなかった。
エストに手を差し伸べてくれた銀髪の少年は、ツヴァイという名前だった。そしてエストは、マリアの最期を看取った時に屋敷のドアから現れた男、クロムが院長を務める孤児院に引き取られ、十名の子供たちと生活を共にすることとなった。ただ、エストは孤児院にすぐ溶け込むことが出来なかった。初日に挨拶をする時は、結局名前を自分の口から伝えることが出来なかった。孤児院の子供たちに外で遊ぼうと誘われても勇気が出せず、どうしても自分の部屋で籠もりがちになっていた。
この日も、エストは部屋から外で追いかけっこをしている子供たちを眺めていた。みんな笑顔に溢れていて、そこにいることが出来れば楽しいだろうと、エストは漠然と思っていた。
「みんなと、あそびたいけど」
人を好きになれば別れが辛くなる。幼いながらに、エストはこの世の摂理を知ってしまった。
「エスト! やっぱりここにいたんだね!」
外を眺めるエストに、ツヴァイが声をかける。エストはゆっくりとツヴァイの方を向いた。
「みんな、しんぱいしてるよ」
「うん……でも」
後に続く言葉をエストは紡げない。茶色いシャツの裾を握り締めて、エストは口を噤む。そんなエストを見て、ツヴァイは小さく頷いた。
「じゃあ、まずはぼくといっしょにいよう」
「え……」
「みんなといっしょがダメでも、ぼくとふたりなら、だいじょうぶだよ、きっと」
どうして、エストは理由を聞きたかった。しかし、ツヴァイはそれを許してくれない。満面の笑みで小さな掌をエストへ差し出してくる。
「だから、あそぼうよ、ぼくといっしょに」
そしてエストの手をツヴァイは掴むと、強引に部屋の外へと連れ出した。
「ま、まってよ!」
「またない!」
廊下を過ぎ、階段を降り、玄関に辿り着く。そこでツヴァイは一度、エストの手を離した。
「いっしょにあけよう!」
玄関のドアは重く、エストやツヴァイくらいの子供が一人で開けるには一苦労だった。
「……ボク、やっぱり」
エストは怖くなった。外へ出れば、嫌でも他人と関わりを持つことになる。
「やっぱり、ダメ……」
エストは前に足を踏み出せなかった。引きかえして、自分の部屋に籠ってしまおうと思った。ただ、ここまで自分を連れてきたツヴァイのことだから、また引き止められるかもしれないとも考えた。
しかし、ツヴァイがエストにかけた言葉は、エストの予想とは違うものだった。
「そっか……ごめんなさい。エストのこと、たすけたいっておもったんだけど、エスト、イヤっていってるもんね」
穏やかな表情に変わったツヴァイは、優しくエストの手を取った。
「へやにもどろう」
「……つれて、いかないの」
「だって、ともだちになのに、いやがることしちゃったから」
申し訳なさそうに、ツヴァイは笑っていた。
結局、エストはツヴァイと部屋に戻る。何を話すでもなく、ツヴァイは絵本を読み、エストはベッドの上で横になっていた。
外に行けばいいのに、ツヴァイはずっとエストと同じ部屋に居てくれた。
「ねえ、ツヴァイ」
気になって、エストはツヴァイに話しかけた。
「ぼくたち、ともだち、なの」
ツヴァイはすぐに答えた。
「ともだちだよ」
「……どうして?」
「それは、ぼくがかってにきめたから」
「……ほかのみんなは」
「うーん、みんなはかぞくだよ。でも、エストとはともだちがいいなって」
「……ぼくで、いいの」
「うん。だって、わかんないけど、エストのこと、ほうっておけないもん」
ツヴァイに言われて、エストはとても嬉しくなった。 見知らぬ土地で突然大勢の子供たちと生活を共にすることになり、戸惑いはあった。そして、新しい関係を築くことへの恐怖に苛まれていた。そんなエストの闇を、ツヴァイはこじ開けてくれたのだ。
「……ボクと、ずっといっしょにいてくれるの?」
「もちろん。やくそく、ぜったいだよ!」
それは、二人がちゃんと友達になった瞬間だった。
それから、エストはツヴァイだけでなく、他の子供たちとも関わるようになった。孤児院の子供たちはエストよりも年上の子が多く、両親を亡くして元気をなくしていたエストに対して、実の弟のように優しく接してくれた。エストは笑顔の絶えない少年の姿を取り戻し、孤児院の中で愛される存在になっていた。
また、エストにとってツヴァイが大きな存在であることは間違いなかった。エストとツヴァイは同じ部屋で過ごしており、ご飯を食べる時、遊ぶ時、勉強をする時、どんな時も一緒だった。お互いが年を経て成長しても仲の良さは変わらず、むしろその絆は強くなっていった。
そんな二人の絆を深める出来事が、一つあった。
エストが孤児院に来て四年が経った頃、孤児院から一人の青年が旅立つことになった。皆に優しく接してくれた青年との別れをエストとツヴァイは惜しんでいた。
その後、二人は部屋に戻った。そこですぐツヴァイはエストに声をかけた。
「ねえ、ぼくらも、いつかはここを出なくちゃならないのかな」
不安そうな声色のツヴァイに対し、エストは軽く首を縦に振った。
「ちょっと、さみしくなっちゃうよね」
「うん……。実はさ、ぼく、夢があるんだ」
ツヴァイはそう言って、本棚から一冊の絵本を取り出した。それは、よくあるおとぎ話の類の一つ。二人が小さい頃から読んでいた勇者の冒険譚だった。
「ぼく、勇者になってみたい」
ツヴァイは蒼色の目を輝かせた。
本に描かれている内容は、この世界が魔物たちによって支配されそうになるところを、突然現れた『光の勇者』が、彼と仲間の魔法使いや騎士の力によって魔物たちを撃退し、世界に平和を取り戻すというものだった。
この手の物語は男の子が好んで読む類であり、エストとツヴァイも例外ではなかった。特にツヴァイは勇者という存在への憧れをいつも口にしていたが、夢、という言葉で具現化したのは今回が初めてだった。
「……ツヴァイは、どうして勇者になりたいの?」
エストは、ツヴァイへ勇者になりたい理由を訊ねた。
「どうしてって、決まってるじゃん。強くて、かっこよくて、みんなを守るんだから」
「ツヴァイなら、なれるかも。やさしいし、家族想いだし」
「……そんなことないよ。ぼくだって、ほんとはただのさみしがりやだもん」
「そうなの?」
「そうだよ。ぼく、エストが一緒だから、毎日が楽しいんだ。だから、もしエストと一緒じゃなくなることを考えたら、さみしくなっちゃって」
絵本をぎゅっと抱きしめたツヴァイの声が少し、小さくなる。
「エストがここに来る前、ぼくの友達は新しい家族につれていかれちゃったんだ。ぼく、友達、いなくなっちゃって、さみしかったんだ。でも、エストが来てくれて、ぼくの友達になってくれた。それだけでうれしかったけど、エストは今も、ぼくと一緒にいれくれるから……」
エストは初めて、ツヴァイの過去を知った。彼にも別れの寂しさがあり、それがエストを孤独から救い出してくれた原動力にもなっていた。
エストには、新しい感情が芽生え始めた。
「ボクがいたら、ツヴァイは、幸せ?」
両親の死を、エストは自分が生きていたからと思い込んでいた。そのせいか、自分が誰かと一緒にいることでその人が不幸になってしまうのでは、と思う気持ちがあった。それでも、ツヴァイはただ傍にいるだけのエストに、ありがとうと言ってくれた。その言葉がエストに強く響いた。
「もちろん! だって、エストはぼくの友達だから!」
エストは嬉しかった。ツヴァイが自分の問いに淀みなく答えてくれることが。そしてエストは一つ、ツヴァイへの想いを抱き始めていた。
今度は自分が彼のことを守れるようになりたい、と。
月日を経てもなお、二人の絆は深まっていく。友達、と言っていた二人は次第に、「親友」へと関係性を変えていった。孤児院にエストが来たばかりの時こそ、ヴァイがエストを支える役回りだった。二人が十歳になる頃には、朝の苦手なツヴァイをエストが起こしたり、ツヴァイが他の子供たちとケンカをしていると、エストが仲裁に入るようになったり、関係は段々と対等に変化していた。
しかし、二人の関係がある事件を境に一変するとは、二
人が信じていなかっただろう。それはエストが十一歳の誕生日を一か月後に迎える頃のことだった。
ある日の真夜中、エストはツヴァイと些細なことでケ
ンカをしてしまったことがあった。最初は軽い口論だったが、いつの間にか、ツヴァイはエストを部屋の隅へと追いやっていた。
「どうしてエストは僕以外の子たちとも仲良くするの?」
「どうしてって……理由なんか……」
「友達は、僕だけでいいでしょ?」
「え……」
ツヴァイはそう言うと、左手をエストの頬へ伸ばす。
「僕、エストを見てると、不思議な気持ちになるんだ……素直で、優しくて、可愛い君が、僕は好きなんだ」
ツヴァイの左手の爪が、エストの頬に食い込む。エストは慌ててツヴァイの手を掴んだ。
「ツヴァイ、どうしたの……」
ツヴァイの力は強まっていく。エストは痛みに顔を歪めつつ、ツヴァイの顔を見た。いつもは蒼い目をしているツヴァイの瞳が赤く、妖しく輝いていた。
「エストはただ、僕だけを見ていてくれればいいんだ!」
ツヴァイはそう叫び、右手を大きく振り上げる。その手はもはや人間の手ではなくなっていた。刃物のように尖った爪が伸び、それがエストをめがけて振り下ろされた。
エストは目を瞑ったが、ツヴァイの手は部屋の壁に引っかかった。エストはその隙にツヴァイから逃げようとする。
その時、エストの背中に鋭い痛みが走った。壁にめり込んでいたツヴァイの爪は、エストの背中を切り裂いていた。
「ああっ!?」
エストの悲痛な声が響く。だが、ツヴァイまだ、エストへ襲い掛かろうとする。
「……血の匂いがする……エストの血が……欲しい」
ツヴァイは倒れるエストに飛び乗ると、破れた服を引き裂き、傷口から流れ出すエストの血を舌で舐め始めた。
「うぐっ……ツヴァイ、やめて……痛い……痛い」
ピチャ、ピチャと艶めかしい音が部屋中に響く。何度もやめてほしいとエストが懇願しても、ツヴァイはエストの血を吸い続けた。
その日から、ツヴァイはエストとも部屋を分け、一日の大半は自室で籠るようになってしまった。エストはツヴァイのいる部屋の前でドアにノックを繰り返すが、ツヴァイの声は返ってこない。
背中の傷が痛まなくなっても、エストの心の傷は癒えなかった。あの時、どんな言葉をかけていればツヴァイは傷付かずに済んだのか、エストにはその言葉が見つからなかった。
「ねえ、ボク、ツヴァイに一個だけ言いたいことがあるんだ。ボク、ツヴァイに何されたって、友達だってことは変わらない、いや、ボクたちはもう、親友だから……ボクはそう、信じてるから」
本当のことを、エストはドアの向こうにいるはずのツヴァイへ伝える。聞こえていなくとも、エスト自身が後悔しないように。こんなことをエストは毎日続けていたが、成果は出ていなかった。
「やっぱり、ダメか……」
エストはため息をつく。そのまま、諦めて自分の部屋へ戻ろうとした、その時だった。
ゆっくりと、鈍い音を立ててツヴァイの部屋のドアが開く。暗い部屋から、髪を乱れさせたツヴァイが現れた。
「エスト……僕のお願い、一つ、聞いてほしいんだ」
エストは拳を握りしめる。
「うん! 何でも言ってよ!」
エストは嬉しかった。少しやつれて元気はなさそうだったが、ツヴァイの中性的で穏やかな声を聞くことが出来たから。
ツヴァイの願いは、エストにとって難しいものではなかった。夜、一緒に行きたい場所がある、ツヴァイはそれしか言わなかった。もちろん、エストがツヴァイの願いを断ることはなかった。
その日、二人は孤児院を抜け出した。ツヴァイは何も言わず、エストを先導する。
「クロムって厳しいよね。外は危ないから、勝手に孤児院の外に出るなって」
エストは口を尖らせてツヴァイに言うが、ツヴァイは何も答えない。
エストは孤児院で楽しく過ごしていたが、一つだけ不満があるとすれば、クロムから孤児院の敷地より外へ出てはいけない、と言われていたことだった。理由はいくつか言われていたが、エストは体があまり強くないことを理由に、クロムから念入りに注意されていた。
だが、ツヴァイはそんなエストをたまに孤児院の敷地外へ連れ出しては一緒に遊んでくれた。エストはクロムに悪いと思いつつ、退屈しのぎに外へ連れ出してくれるツヴァイに感謝していた。
二人は程なくして、目的地へ着く。エストは自然と、表情を柔らかくした。
「エストに、この景色を見てほしかったんだ」
エストの隣でツヴァイが呟く。エストは空を見上げ、感嘆の声をあげた。
「わあ、きれい!」
「すごいでしょ。こんな景色を見られる場所が孤児院の近くにあるなんて」
広がる夜空には、星の輝きが無数に散りばめられている。そして、二人の先に広がる湖に目を移せば、その夜空が綺麗に映し出されていた。
「湖が夜空みたい……ねえ、ツヴァイ、ここをいつ見つけたの?」
頬を撫でる、冷たい風を浴びながらエストはツヴァイに訊ねた。ツヴァイは目を閉じ、一つ呼吸を置いてから口を開いた。
「エストに、酷いことをしたでしょ。僕、もう孤児院にいられないと思って逃げてきたら、ここに来たんだ」
ツヴァイは少し苦い表情を浮かべる。エストは首を横に振った。
「全然気にしてないよ! ツヴァイが、やりたくてやったわけじゃないんでしょ?」
エストは白い歯を見せた。すると、ツヴァイは空や湖ではない、遠いところに目線を移した。
「……エストって優しいね」
ツヴァイの物憂げな声に、エストは「え?」と疑問を投げた。エストが見たツヴァイの横顔は、悲しい顔をしていた。
「ごめんね、エスト。僕、あの時、本当に自分がわからなかったんだ。でも、気付いた時には……」
ツヴァイはズボンの裾を握りしめた。エストは思わず自分の頬に手が伸びる。
「でも、かすり傷だったし」
エストはそう言ってツヴァイをなだめる。実際はまだ背中には傷跡が残っている。それでも、エストはツヴァイを責めなかった。マリアが目の前で死に、絶望していた自分をずっと見守り、救い出してくれたツヴァイへの想いが、傷付けられた経験を上回っていたから。
「僕、ああやって、たまに自分が自分じゃなくなる瞬間があるんだ。でも、それを誰にも言えなかった。嫌われたらどうしようって。あの日、とうとう耐えられなくて、エストを……」
エストはこの時初めて、ツヴァイの涙を目にした。エストにとって頼りがいのある兄のような存在だったため、彼が涙を流す程にあの事件は重大なことだったのだとエストは思い知る。
「ああ、でも、ほら、孤児院のみんな、あのことは知らないよ! ツヴァイのこと、みんな嫌いになったわけじゃないからさ!」
とは言うものの、ツヴァイに襲われた時、エストは恐怖を感じていた。しかし、それ以上にエストはツヴァイの苦しみを理解しようとしていた。吸血鬼のように変貌したツヴァイの姿を思い浮かべると尚更だった。
「ボクこそごめんね。ツヴァイが、自分のことで苦しんでるなんて、全然、わかってあげられなくて」
だから笑ってよ、とまでは言えなかったが、エストは笑った。ツヴァイは大粒の涙を流しながら、エストの方を見る。口を歪めて何かを堪えようとしているが、ツヴァイはうめき声をあげ続けた。
「エスト……どうして……」
「どうしてって、ボクたち、親友でしょ?」
親友。もはや、エストとツヴァイの関係は友達以上を超えていた。ツヴァイが嘆き苦しんでいるのであれば、そこからツヴァイを救い出したい。それがエストの想いだった。
すると、ツヴァイは握りしめていたズボンの裾から手を離す。クシャクシャに皺が入ったズボンの裾に、エストは視線を移した、その時だった。
ツヴァイの手がエストに伸びる。そのまま、エストはツヴァイにギュッと、抱きしめられた。
「ありがとう……僕、エストが友達になってくれて、本当に良かった!」
ツヴァイの体温がエストにもじわじわ伝わってくる。エストは初めてツヴァイに頼られた気がして、少し嬉しくなった。
「でも、僕、まだ、エストの友達でいていい?」
「もちろんだよ! ボクたちは、ずっと……友達だよ」
ツヴァイの顔は見えなかったが、エストは彼の声色が少しずつ明るくなっているのを感じ取っていた。
「……ありがとう! 僕、もうエストを傷付けたりしないから……だから」
それ以上言わなくてもいいよ、エストはそう言おうとした。
その時だった。
二人を切り裂く冷たい声が、降り注いだ。
「まさかこんなところにいたとはね……憎たらしい勇者の末裔さん」
その声は中性的なものだったが、どこか憎悪を内包しているようにエストは感じていた。二人は抱き合ったまま、同じ方を見た。
黒い装束を体に纏う黒髪の青年が、足を地に着けず浮かんでいる。装束と髪の色とは正反対の白い肌は、二人が眺めていた星の光のように、輝いて見えた。
青年はまず、エストに視線を合わせる。緑色の瞳は柔らかく、それでいて殺意を備えていた。
「やあ、エスト君。初めまして」
「……だ、誰、ですか」
エストはツヴァイの手を解くと、一歩前に出る。初めて会った相手から自分の名前が発された驚きはあったが、不思議とエストは奮い立っていた。
「ああ、自己紹介を忘れていたね。私はヌル。まあ、肩書を伝えたところで君たちにはまだ理解できないだろうから、そこは割愛させてもらうよ。ところで……」
ヌルは言葉を途中で止めると、いきなりその場から姿を消してしまった。
エストは辺りを見回す。しかし、エストの視界にヌルの存在は映らなかった。
逃げないと、本能がそうエストに呼びかけていた。エストはツヴァイの手を取って、早くこの場から逃げようとした。だが、その時だった。
「うぐうっ!?」
突然、呼吸が出来なくなった。首がギリギリと絞められていく。気付けば、エストの足は地面を離れていた。ヌルがエストの首を絞め、そのまま彼の体を持ち上げていたのだ。
「所詮は子供だなあ……勇者の末裔とはいえ、簡単に壊してしまえそうだ……」
恍惚さを帯びた声をヌルは発する。エストはヌルの腕を掴むが、その力に抗う術はなかった。
「エストが、勇者の、末裔?」
取り残されていたツヴァイが、驚いた顔をしてエストの方を見る。エストの琥珀色の瞳が弱々しく、ツヴァイの姿を映していた。
「ツヴァイ……逃げて……!」
エストがそう言うと、ヌルがさらに力を強めてエストの首を絞める。エストは顔を上げて、出来ない呼吸を繰り返した。
「ふふふ……もしかしてエスト君、自分の存在価値を知らなかったのかい? それに、あのクロムという男に散々言われていただろう? 孤児院の敷地の外に出るな、って」
ヌルの声が、エストには遠くに聞こえ始める。楽しい思い出になるはずだった星空すら、エストにはぼやけて見えていた。だが、エストは耐え続けた。ツヴァイの声が絶えなかったからだ。
「もしかして、僕のせい……」
「銀髪の少年、勘がいいね……。そう、この孤児院の周りには、外敵に侵入されないよう特別な魔法が使われていてね……そのせいで、私はエスト君がどこにいるか、把握出来なかったのさ」
「じゃあ、僕がたまに、エストを、森に連れ出した時に……エストは……」
「そう、君がわざわざ彼を外に連れ出してくれたから、私はこうしてエスト君を見つけられた」
「……そんな、僕は、ただ、エストと、一緒にいたかっただけなのに」
ツヴァイの声が、また弱々しくなる。エストは残り少ない力を振り絞る。
「ツヴァイ……早く……逃げて……っ!」
エストの限界は近かった。ただ、エストはツヴァイに助かってほしい、その一心で叫んでいた。
だが、その願いは叶わなかった。
「嫌だ! 離せ、エストを、離せよ!」
ツヴァイは隠し持っていたナイフを取り出すと、ヌルに目掛けて思い切りそのナイフを突き刺そうとした。
しかし、ナイフの先がヌルの装束に触れるギリギリのところで、そこからナイフはピクリとも動かなくなった。ヌルに手を掴まれ、そのままツヴァイは振り払われる。ナイフがヌルの足元に落ち、ツヴァイは武器を失った。
「ふふ……そんなにエスト君を助けたいのかい? 彼が君に、何をしたって言うんだい?」
「エストは僕の、友達になってくれたんだ! 僕とずっと一緒にいてくれたんだ! だから、僕からエストを奪わないで!」
ツヴァイの悲痛な叫びに、ヌルの口角が上がった。
エストの首に込められていた力が一気に解かれる。エストの体はそのまま、地面に崩れ落ちた。
「エスト!」
ツヴァイは慌ててエストに駆け寄る。エストはかろうじて、意識を保っていた。
「かはっ、かはっ……ツヴァイ……どうして……」
「エストと一緒じゃなきゃ、僕、嫌なんだ!」
そう言ってツヴァイはエストの手を取ろうとした。
しかし、その手を、エストは触れることが出来なかった。エストの手を、ヌルは踏み付ける。少年の叫びが、澄み渡る湖に走り渡った。
「あああっ!」
「ふふ、簡単に殺すより、少しずつ、ゆっくり痛めつける方が楽しくなってきてね……手、足、耳、目……一個一個、丁寧に嬲ってあげるよ……」
爪先を立て、ヌルはジリジリと向きを変えながらエストの手を踏み躙る。手がもげるような痛みを抱えながら、エストは歯を食いしばる。
「もう、もうやめて……エストを、エストを傷付けないで!」
蹂躙を楽しむヌルに対して、ツヴァイはヌルの装束を掴む。ヌルは顔色変えず、ツヴァイを睨み付ける。
「ほう……そんなに君は、彼に死んでほしくないのか……ではでは、一つ条件を設けよう。それで、エスト君を助けてあげようじゃないか」
ヌルはエストの手から足を離すと、ツヴァイの傍に実体のない体を移した。そして、ツヴァイの目線と同じ高さにまで腰を下げると、ツヴァイの目を刺すようにじっと見つめて、条件の内容を告げた。
「私の奴隷に、なってくれないかな」
勝手に繰り広げられる会話に、エストは心の中で祈るしかなかった。
そんな条件、飲まないで、と。
しかし、ツヴァイはゆっくりと首を、縦に振った。
「……わかった。だから、エストを、殺さないで……」
ヌルは顔が割れるくらいに口角を上げた。
「決まったね。じゃあ、私はもう、彼に一切関わったりしない、安心して。その代わりに……」
ヌルは何かを言った。しかし、エストはこの後何が起こったかを知らない。意識がパタンと閉じてしまったからだ。
――ボクから、ツヴァイを、奪わないで。
その言葉が、声になることは、なかった。