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1 牛すじカレー(陸)

「とびっきりのカレーが食べたいな」


 今朝。

 恭子はヒールを履きながら思いついたように言った。

 立ち上がって玄関扉を押し振り返る。


「陸さんのカレー、美味しいから」

「それは嬉しいね。気をつけていってらっしゃい」


 安心したように微笑んで、恭子は家を出る。

 あとを追いかけるように玄関から出ると、住宅街の細い路地を颯爽(さっそう)と歩く彼女の後ろ姿が見えた。

 梅雨の合間に訪れた青空の下を、彼女は足取り軽く歩んでいく。


 角を曲がるまで見守ろうと思ったら、突然彼女が振り向いた。

 まるで僕がいるのをわかっていたかのように。

 日向(ひなた)の中で見せる恭子の微笑みはきれいだ。


 彼女は口を開いて何かを言った。

 けれど、その(ささ)やかないたずらを聞き取るには遠すぎた。

 意地悪な笑みを浮かべて彼女は歩き出す。最後に軽く手を振って。


 家に戻り、口をもごもご動かしながら食器を片付ける。

 彼女はなんと言ったのだろう。

 術中にはまってしまった。


 洗濯機が回っている間に掃除機をかけてしまう。

 洗い終わった洗濯物をベランダに干して、キッチンに戻る。


 少し苦めのコーヒーを淹れてデスクへ。


 数紙の政治経済欄に目を通しながら考える。

 先週、恭子が独白した過去のことだ。


 僕の事情に比べれば、彼女の過去は凄惨(せいさん)で、目を背けたくなってしまう。

 具体的なことはあまり聞けなかった。

 それでも、断片的な情報をもとに調べてみると、十年前の事件にたどり着いた。

 全国的な報道として大きく取り上げられていれば、僕も覚えていたはずだ。実際、そのニュースは地方紙の片隅に小さく掲載されていた。


 詳しいことは書かれていない。

 無職・男(四十五)が妻(三十四)を殺害。男は娘に継続的な虐待を加えており、妻と口論となった末、十二階自宅ベランダから突き落とし、娘を暴行した。地域住民の通報を聞きつけた警察官に取り押さえられた――その事実だけが淡々としていて、かえって気味が悪い。


 恭子の独白が事実ならば、この報道は嘘だ。

 二人が口論になったのは恭子も認めている。だが、彼女は母親が自殺したと言ったのだ。そして、それを父親が殺したと嘘の証言をした。


 つらつらと彼女の語った内容を頭にまとめる。

 発端(ほったん)は恭子の発言だ。それによって母親が激昂(げっこう)し、父親と口論になった。父親は妻の知らないところで恭子にだけ母親を侮辱(ぶじょく)する言葉を漏らしていた。恭子は二人が相対した場面でそれを暴露したのだ。

 事件の日付は……。

 恭子が十五歳になった誕生日だった。

 彼女の話では、父親から初めて強姦されたのが中学二年生の夏。

 秋生まれだから、約一年と少しの間、彼女は性的虐待を受けていたことになる。


 恭子はそれを淡々と語っていたが、推測するに、父親は老けた妻よりも、妻が若かった頃の面影を色濃く受け継いだ恭子に執心(しゅうしん)していたようだ。恭子の年齢から考えると、結婚したのは母親が十九歳かそれ以前。一般的な感覚からするとかなり早い。

 父親は三十歳の時だが、果たして三十路の男が未成年と出会う機会がそう多くあるとは思えない。同世代であればまだ想像はしやすい。若くして交際中に妊娠して結婚する夫婦はいる。


 状況が状況なだけに、恭子に同情が集まったのは理解できる。

 けれども、嘘の証言がそう簡単に通じるのだろうか。

 事件現場を取り押さえた警察官は何を見たのか。


 恭子の胸元から腹部にかけての傷跡は、医療に詳しくない僕でも想像がつくほど、悲惨だ。

 母親が自殺した直後に、自暴自棄になった父親に刻まれたのだと、恭子は教えてくれた。

 血塗れの自分を乱暴した、とも。これが父親の所有物である証拠なんだと。


 正直なところ、残虐さが度を超していて想像が追いつかない。

 そこまでのことを思い浮かべようとしても、心が拒否反応を起こしてしまう。


 普通に考えれば、恭子は男性恐怖症になっていてもおかしくない。

 それだけの仕打ちを受けてきたのだから。

 実際、彼女は男性に対してあまり良い感情を抱いていない。


 けれど、彼女はあえてその恐怖を求めていた。

 暴力に晒されたあとに与えられる、都合のいい優しさに囚われて。


 だから、彼女は僕に抱かれようとした。

 誰かの所有物でいれば、仮初めの愛情に触れることができるから。


 彼女は囚われている。

 母親に淫売だと罵られ、父親の乱暴による生理的反応を、言葉通りに刻み込まれてしまったのかもしれない。


 あるいは、その父親の呪縛(じゅばく)から逃れるために彼女は……。


 言葉が出てこない。


 当時の彼女は十五歳だ。母親が死んだ以上、親権は父親にあるはずだが、行政判断で放棄したことになっている可能性は高い。事情が事情なだけに、住民票の閲覧制限はかけているだろう。


 事件後のことを、恭子は教えてくれなかった。

 ただ、児童養護施設に引き取られたことだけは教えてくれた。


 匡子から里親にならないか、と相談されたことがある。

 二人の間に実の子どもはできないけれど、やっぱり子どもは欲しいと彼女が訴えたからだ。


 実際、里親になるためには多くの教育がある。

 そして、やはり、というか、ある程度成長した子どもを迎えるのには抵抗がある。幼い子どもを自分たちの家庭で、自分たちの子どもとして育てたいというわがままよりも、複雑な思春期以降の子どもが、心を開いてくれるかどうかという不安が大きかった。


 まずは自分たちの気持ちを落ち着けて、納得して子どもを受け入れられるようにしよう――僕たち夫婦はそう結論づけた。それは実現されなかったけれど。


 出会った頃から、恭子は両親のことについて何も話さなかった。

 里親のもとで育ったならば、もう少し話があってもいい。それがないということは、高校を卒業するまで、児童養護施設にいたと考える方が自然か。


 そういえば、奨学金の返済が厳しいと漏らしたことがあった。高校と大学合わせた奨学金となると、かなりの額だ。利子がない奨学金だとしても、大学を卒業した途端に数百万の借金とは。


 むしろ彼女の状況を聞いて納得する。

 恭子は個人的契約を結ぶのに必要なバックグラウンドが明らかに不足している。


 マグカップに手を伸ばす。

 コーヒーはすっかり冷たくなっていた。

 紙面を眺めていたはずなのに、頭に何も入っていない。


 時計を見れば、もう正午を過ぎていた。

 ずいぶん長い間思考に(ふけ)っていたようだ。


 先週から、少しずつ思考に費やす時間が伸びている。恭子の苦しみを、自分の中に落とし込もうとすればするほど、僕は長く、深い場所へと潜ってしまう。


 どうにか、彼女を理解しようとしても限度がある。僕は恭子ではないのだから、想像することしかできない。想像で思い描いた痛みなんて、本物の苦痛とはほど遠い。

 痛みや苦しみに共感を覚えても、あるいは同情を抱いても、それはひどく単調な作業に過ぎない。

 僕はそこで立ち止まってしまいたくなかった。


 恭子に刻まれた呪縛を解き放つ術を、僕は求めていた。


 ***


 午後四時すぎ。

 夕飯のためにいつものスーパーへ行く。

 路地を抜けて大通りに面したその店舗は歩いて一分ちょっと。


 とびきりのカレーを所望されたのだから、彼女の笑顔のために張り切って作ろうか。


 玉ねぎと人参、ジャガイモ。

 いつもなら鶏肉を選ぶけれど、今日は迷わず牛肉。

 国産の赤身と牛すじも少し。


 帰ったらすぐに調理を始める。

 まずは下ごしらえ。

 牛すじを鍋に入れて沸騰させる。大量のアクが出るので、一分ほど茹でたらザルに流し込む。

 流水で洗って汚れをとり、鍋もきれいに洗い直して水を張る。


 今度は生姜とセロリも入れて、水の状態から茹でていく。

 丁寧にアクを取り除きながら、弱火で一時間。


 その間に玉ねぎと人参をフードプロセッサーでみじん切りにする。

 油を引いたフライパンでまずは玉ねぎを炒める。

 時間をかけて飴色になったら、そこに人参を加えてまた炒める。

 全体に火が通って馴染んだら容器に一旦移し、そのままのフライパンに牛すじの茹で汁を少量加え、フライパンについた旨みをこそぎ落とし、炒めた玉ねぎと人参の容器へ。


 深い鍋を火にかける。

 油を引いて十分温まったら、一口サイズに切った赤身肉を並べて焼く。

 一面ずつじっくり焦げ目がつくように焼いたら、そこに先ほどの玉ねぎと人参を入れる。


 焦げも旨み。けれど、度を超すと味が悪くなってしまうから注意が必要だ。

 ローリエを二枚加えて一緒に軽く炒め、一旦火を止める。


 牛すじを取り出して一口サイズに切り、火を止めた鍋に茹で汁と共に加える。


 もう一度火にかけて沸騰したら、弱火にして根気よくアクをとる。


 アクが出ないようになったら、ローリエを取り出す。あまり長く入れておくと爽やかさより苦みが勝ってしまう。

 一度味見。茹で汁だけでは風味が物足りないので、顆粒タイプのコンソメを少量。

 ようやくルーを入れる。もちろん市販だ。自分でスパイスを調合するよりも、企業努力の塊に頼った方がずっと美味しくなる。というか、市販のカレールーはすごい。

 カレーなら恭子は中辛も大丈夫。少し水っぽいぐらいで抑え、ごく弱火にしてコトコト煮る。


 時計を見たら午後六時。

 いつも通りなら、恭子が帰って来るまであと一時間ほど。


 鍋底が焦げないように時々かき混ぜながら待つ。

 その間に上に乗せる野菜も用意しなくちゃいけない。


 よく洗った皮付きのジャガイモを大きめに切り分ける。玉ねぎはくし切りに。

 個人的にジャガイモが溶けたカレーは苦手なので、別にしたい。

 グリルにアルミホイルを引いてオリーブオイルを塗り、その上に並べる。


 七時になる直前。

 珍しく恭子からメールがあった。「帰宅中」の三文字。相変わらずメールの文面が短い。

 いつもはもうすぐ帰って来る時間なのに、今から帰宅だなんて珍しい。


 グリルを中火に。

 カレーもことこと煮る間に水かさが減っている。

 底も焦げ付きがないので成功だろう。

 鶏肉なら最後にバターを一欠片いれてコクと風味を出すけれど、今日は牛肉なのでやめておく。


 鼻歌交じりに冷蔵庫を開けて、今日はビールにしようかと考えていたら、ふと気づく。

 飛ぶように炊飯器の前に移動。保温ランプが点灯していない。開けてみたら空っぽだ。

 今朝洗って入れておいたまま。道理で炊き上がりの音も聞いた覚えがない。

 愕然として開いた口が塞がらない。


「しくじった……」


 慌ててグリルと鍋の火を止める。

 恭子の会社から我が家まで、電車と徒歩で最短四十分。

 早炊き機能を使えばギリギリ間に合うか、帰宅後数分で炊き上がるはず。


 けれど、それだと浸水時間が足りないから、いつも通りに炊き上がらない。


「迷っている暇はない」


 わざわざ口に出す必要もないけれど。

 急いで炊飯の準備を始めようとした瞬間――。


「ただいまー。外まで良い匂いがしてるよ、陸さん!」


 間に合わなかった。

 玄関の閉まる音が聞こえてつかの間、恭子が顔を覗かせる。

 期待に満ちあふれた顔だ。お腹が空いたと言わんばかりの。


「お、おかえり……」

「ただいま。どうしたの? 変な顔して」


 彼女はきょとんと首を傾げた。


「帰宅中って」

「うん。カレーだから温め直すのにちょっとかかるかなって。もうすぐ着くよって意味で」

「ああ、なるほど」


 それなら、「直到着」とか「まもなく帰宅」とかでよかったのではないだろうか。

 文句を言っても仕方がない。どのみち間に合わなかった。


「ごめん、恭子さん。実は……」


 手に持った空っぽの炊飯ジャー。カウンターテーブルに出された米びつ。

 この二つで恭子は察した。片方だけ頬を引きつらせて「なるほど」と呟いた。



 ***



「もう、そんなに謝らないでいいのに」


 恭子は呆れた様子で肩を竦めた。

 僕のカレーを楽しみに、お腹を空かせて帰って来たのに、まさか米を炊き忘れるとは。

 なんたる不覚。カレーに集中しすぎて頭から抜け落ちていた。


 せっかくだからちゃんと浸水させてから炊けばいいのに、と彼女が言ったので、なぜか僕は今土鍋の前にいる。

 恭子が言ったのだ。

 どうせなら土鍋で炊いたご飯がいい、と。


 やり方は知っていたけれど、炊飯器が便利なので実際に土鍋で炊いたことはなかった。

 不安はあったけれど、恭子がそれを食べたいと言うのなら、チャレンジする価値はある。

 失敗したら、その時はその時だ。

 少なくともカレーは美味しくできた。

 いや、真っ白なご飯とセットになってようやくカレーライスは完成するのだけれど。

 沸騰したら弱火で十五分。

 始めちょろちょろ、中ぱっぱ。薪で炊き上げるわけじゃないし、ガスコンロなので、最初からぱっぱだけれど。

 十五分経ったら、布巾で分厚く包んで、十五分蒸らす。


「はあ、空気が甘いね」

「ご飯の炊ける匂いだね」


 恭子が変わったことを言うので苦笑する。

 土鍋の蓋を取ると、むわっと湯気が立ち上る。途端に甘い香りが充満し、わずかな香ばしさにも気づく。


「お焦げだね。お焦げ。お焦げだよ、陸さん」

「わかってるよ。お焦げ好きだね」

「うん。大好き」


 恭子はご飯のお焦げが大好きだ。

 とくに炊き込みご飯のお焦げには目がない。


「ねえ、陸さん」

「うん?」


 お皿にご飯をよそいながら聞き返す。

 彼女は真面目な顔をして言った。


「もう炊飯器いらないね」

「……毎日土鍋で炊くのは嫌だよ。特別なときだけにしよう?」


 恭子は至極残念そうな顔で僕を見上げた。

 僕が首を横に振ると、肩を竦めてみせる。最初から冗談だったらしい。


 時計を見ると、午後八時を過ぎている。

 今日はちょっと遅い夕食だ。


次話とセット

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