2 Vin rouge chaud (恭子)
※1
ショッキングな内容を含みます。残虐な表現は少ないですが、内容的な問題として、人によって気分を害する恐れがあります。ネタバレを含みますので、具体的な内容は申し上げません。
自己判断でご覧ください。
※2
R15と「残酷な表現あり」の二つのタグを付加しておりましたが、はじめに書き上げた酷薄な回想シーンが「なろう」には不適切だと判断したため、内容を修正してR15タグのみを残しています。そのため、回想シーンではなく、会話の内容から察してもらうようになっています。
ご了承ください。
「ねえ、汚いでしょ?」
陸さんは私の長い話を黙って聞いていた。
おねだりをして、彼の隣に添い寝をさせてもらった。だから、全部話せた。
背中に感じる陸さんのぬくもりが、私の奥深くまで届いているような気がした。
淡々と告げた私の過去を、陸さんはどんな思いで聞いたのだろう。
本当は顔を見るのが怖くて背中を向けたなんて、今更言えない。
陸さんに軽蔑されるのが怖かった。
「お母さんは私が殺したんだよ。私が追い詰めたから飛び降りた。それをお父さんが殺したと言ったのも私。だって、そうでもしなきゃ、私はお父さんから逃げられなかったから。お父さんが塀の中に閉じ込められて、ようやく安心できた」
一体何人の男がこの身体を通り抜けていったことだろう。
この傷を見るのが嫌で、いつも決まって後ろからという男もいた。
でも、この傷が――父親の所有物として、窓ガラスの脆い破片で刻まれたこの傷跡こそが――今の私を作っている。
「陸さんもね、抱きたいなら、私を好きにしていいんだよ? ずっと一人だと溜まっちゃうよね」
陸さんは何も言わなかった。
軽蔑されたのだ。
怖かったはずなのに、なぜか少しホッとする。
私はこの家から、陸さんの前から消えるだけ。
元の私に戻るだけ。虐げられ、支配される安堵に身を任せる日々に。
でも、陸さんは私を後ろから抱き締めた。
それは私をこれから犯そうという意思ではなかった。
噛み殺すような嗚咽に震えて、私の苦しみを、柔らかいコットンで包むような抱擁だった。
「……どうして、陸さんが泣くの?」
初めて陸さんが私の傷跡を見たときも、彼は私を抱擁して泣いた。
まるで私の代わりに泣いてくれるみたいに。
きっと、陸さんは優しすぎるのだと思う。
感受性が強いのか、想像力が豊かなのか、私にはわからない。でも、彼は人の痛みというものにとても敏感だ。
共感して、私の心を代弁してくれる。上辺を取り繕う暇もなく抱きすくめられて、温かい彼の心に引き込まれてしまう。
でも、このままではいけない。
私は、陸さんをダメにする。
あの映画を観て、そう思った。『ムーラン・ルージュ』は別れた奥さんの趣味なんだろう。
奥さんはきっと純粋な人。
物語のヒロインに憧れて、悲しい結末に涙する。
きっと文句なんて言わない。
瑞々しい二人の情熱に心を震わせて、その唐突な終焉に涙を流せる人。
陸さんは奥さんと別れたことを、妻の不倫だとしか言わなかった。
けれど、奥さんのことを責めないのは、きっと奥さんが陸さんを責めなかったからだ。
自分の責任をしっかりと受け止めて、陸さんのせいにはしなかった。
そうじゃなきゃ、陸さんはこんなに奥さんのことで苦しむわけがない。苦しんでいいはずがない。
不貞を働いた事実に、きちんと自分を悪者にできる人だから、陸さんは今も悩んでる。
だって、陸さんは全部自分ひとりで抱え込んでしまうから。
自分が悪者になれなかったことに、後悔してる。
その理由はわからないけれど、彼は離婚を自分のせいだと思い込んでいる。
このままではいけない。
私が陸さんと一緒にいると、彼は自分を見つめられない。
自分を許してあげられない。
私を守ってくれる。心を温めてくれる。
それはとても嬉しいこと。彼の腕に抱かれて、私は自然と心が落ち着くのを感じている。
でも、本当に向き合わなきゃいけないのは、私ではない。
こんなに汚れてしまった、壊れてしまった私なんかじゃない。
もう戻りっこない私よりも、陸さんに……。
――今夜で、終わりにしよう。
たとえそれが、私の思い上がりだったとしても。
都合のいいお為ごかしだったとしても。
「ねえ、陸さん」
私は彼の腕を優しく払い、上体を起こす。
彼も私につられて身体を起こした。
向き合って、見つめ合う。
額をぶつけてみる。彼は何も言わなかった。
「私ね、陸さんのこと、好きだよ。大好きなんだ」
口に出してみて、意外にすっきりしたことに驚いた。
そうか、私は彼を異性として好きだったのだと、自分でも納得した。
でも、もう匙は投げられた。
お互いに踏み込まないという暗黙のルールを壊して、一方的な好意を伝えてしまったんだ。
もう私たちは今まで通りではいられない。
壊してしまおう。
このぬるま湯のような平穏を。
そして、戻るのだ。
私の在るべき場所へ。
「だから、最後のわがまま、聞いて欲しい」
そっと裾に手を掛けて、ゆっくりと服を脱ぐ。
数瞬、驚いた表情をして、陸さんは悲しそうに眉根を寄せる。
「覚えてる? 三年前。陸さんは私を抱かなかったよね。嬉しかった。抱き締めて、私の代わりに泣いてくれて、陸さんがお父さんだったら良かったのにって、本当にそう思ったんだ。私は、普通の父親を知らないから、たぶん陸さんをお父さんかお兄ちゃんみたいに思ってたのかもしれない」
でも、今は違う。
わがままなのはわかってる。でも、私の気持ち、私の心に、ボロ雑巾みたいな私の過去に、応えて欲しい。
冷め切って澱んだ私の奥底に、温かい重しをひとつだけ沈めるみたいに。
いずれ温もりを失うものだとわかっていても。
「忘れさせて欲しいの、今だけは」
でも――。
私の淡い期待は打ち砕かれる。
違う。最初から期待なんて良心的なものではなかった。
絶望を笑うための予防線だったんだ。
「僕は恭子さんを抱けない」
その一言は、予想していたよりも私の心を揺さぶった。
陸さんなら、私の最後の願いを聞き入れてくれると思ったから。
彼なら、私の思いを何もかも感じ取って理解してくれると思ったから。
彼の愛撫なら、私が知らなかった、暴力のない優しい微睡みに身を任せられると思ったから。
「……どうして?」
彼は戸惑い、逡巡し、口を開きかけて私を見つめる。
その瞳に灯る虚しさに気づかない私が馬鹿だったのかもしれない。
「私が汚いから?」
「違うよ」
「軽蔑したんだよね?」
「違うんだ」
「子どもができたら困る?」
「違う。僕は――」
「大丈夫だよ。気にせず、好きに抱いていいんだから」
「そんなこと言っちゃダメだ」
「それとも、もう何人に抱かれたかもわからないような女、抱きたくない?」
「そういうことじゃないんだ」
自分でも、自分が信じられなくなるくらい、私はどこにこのエネルギーが眠っていたのかと思うほど、我を失っていた。
彼を責めることでしか、自分を制御することができなかった。
いっそ、今の自分が本当の恭子のように思えるくらい。
「きれいごとなんていらない。本当に私は汚い女なんだから」
「恭子さんは汚くなんかない」
「汚いよ。ねえ、信じられる? お母さんね、私がお父さんに犯されてるのに、お父さんの汗を拭いてニコニコしてたんだよ。そして私を見下ろしながら罵倒するの。お前は売女だって。生まれつき淫乱な娼婦だって。おかしいよね。おかしいよ。おかしくないわけがない。だって、そうじゃない? 私はお母さんを守るために我慢していたのに。お母さんが大好きだったから、お母さんが殴られるのが嫌だったから、お父さんに何をされても我慢してたのに。どうして?」
「恭子さん」
「信じられないよね。嫌なのに、気持ち悪くて仕方ないのに、身体は反応するんだよ。お母さんが言ったとおり、私はどうしようもない女だった。薄汚くて、淫乱で、嫌で嫌で仕方ないのに感じて、喘いじゃってさ!」
「違うよ、恭子さん」
「――でも、痛いんだよ! 身体も、心も、全部! 辛くて苦しくて、もう死にたくて、何度だって張り裂けてバラバラになりそうだった! でも、怖かった! 怖くて抵抗なんてできなくて、ずっと心の中で叫んでたんだ! だから……。
だから、お母さんなら助けてくれると思ってた! あの家から連れ出して二人だけで仲良く暮らせると思ったもん! あははっ、意味わかんないよね。お母さんを守るために我慢したのに、助けてくれるって信じてたなんてさ。だって、お母さんはいつも優しかったんだもん。でも、助けてくれなかった! お母さんはお父さんをとったんだ。
私はお母さんを守るためにお父さんに犯されたのに! いつだって、何度だって!」
「恭子さん!」
取り乱した私を、陸さんの声が通り抜けていく。
それは叱りつけるような声色ではなく、ただ僕を見て欲しい――そう言っているように聞こえた。
顔をあげる。
陸さんは苦しそうに顔を歪めていた。
目尻にたっぷりの涙を湛えて。
彼は震える声で言った。
「自分を傷つけちゃいけない」
どうして。私は事実を言っただけ。
そんなことで私はもう傷つかない。
だって、もう傷がつくような繊細な感情は、全部壊れてしまったから。
「愛してるだなんて、そんな薄っぺらい言葉を吐きたくない。そんな言葉、恭子さんも信じられないだろう?」
彼の顔色に差す陰りに、私は少しばかり冷静さを取り戻して頷いた。
ハッとするのとは違った。ただ、その続きの言葉を聞きたかった。
私の探していた言葉を、彼が教えてくれるような気がしたのだ。
「大切なんだ。誰よりも、何よりも、君が」
いつも君の喜ぶ顔が見たくてたまらない、と陸さんの頬に涙が伝った。
それならばなぜと問うよりも先に、彼は自嘲するように目を擦る。
「今までの日常が幸せ過ぎて、それが変わるのが嫌だったんだ。謝りたい。そのせいで恭子さんを傷つけてしまっていたなんて、僕が馬鹿だったんだ。本当に、大切なんだ。大事にしたいんだ。いくら本人でも、僕の大切な人を傷つけてほしくなんかないんだよ」
「だったら! そこまで言うなら、抱いてよ……」
「ダメなんだ。僕じゃ、恭子さんを幸せにはできないんだよ」
その時の彼は、ひどく苦しそうで、まるで何かが内側で暴れ回っているような、そんな痛みに耐えているようにも見えた。
「僕には、子どもを作る能力がないんだ」
結婚五年目にそれが発覚したと、彼は告げた。
そのせいで、セックスレスになり、奥さんとの仲は上辺だけになったのだと。
「妻がね、言ったんだ。子どもができなくても、愛し合うことはできるって。でも、できなかった。彼女が僕との子どもを切に願っていたことはよく知っていたし、妻はそもそも性に淡泊というか、あまりセックスに積極的ではなかったから。だから、妻は僕を慰めるつもりで、子どもができなくてもいいからセックスをしようって、誘ってくれていたんだと思う。でも――」
陸さんは小さく息を漏らして私を見つめる。
「自分にその能力がないとわかって、それから。僕はもうセックスをする能力も失った。簡単に言ってしまえば、勃たなくなった。妻に勧められて病院にも行ったよ。医者からは心理的なストレスだろうって。まあ、そうだよね。薬で治す方法も提案されたけど、断ったんだ」
――ようやく解放されると思ったから。
陸さんはくしゃくしゃになったタオルケットを広げて、私の肩にかける。
開けた私の肌を優しく覆ってくれる。
目を背けるためではなくて、大事なものをしまっておくように。
「逃げていただけなんだよ、僕は。自分に子どもが作れないという事実を、男性機能を失った事実で上塗りにして」
違う。それは違う。
その言葉の続きを、陸さんは決して言わない。
まるでそれは自分への言い訳で、責任転嫁だと思ってるんだ。
本当は、奥さんのためだったんだよね。
自分を慰めるためにセックスをして、その度に子どもができない事実を突きつけてまで、健気な奥さんの作り笑顔を見たくなかったから。そうでしょう、陸さん?
「この前ね、偶然別れた妻と会ったんだ。子どもを抱いていたよ。すやすや眠っててさ。やっぱり彼女に似ていた。強がっていたけれど、やっぱりシングルマザーだから、経済的に厳しいところがありそうだった。でも、彼女は僕の知らない間に、母親になっていたんだ。本当に、幸せそうな顔だった。僕と離婚して、よかったんだ」
違う。それも、嘘だ。
でも、それを私が指摘しても、彼はきっと苦笑するだけ。
そうかもしれない、なんて言って。
だって陸さんは〝人を憎む自分〟を許せないから。
あなたも、ほら。こんなに自分を傷つけ続けているじゃない。
愛の深さは憎しみの深さだと言うけれど、それはもしかしたら、虚飾に塗れた独占欲――身勝手に溢れたわがままなのかもしれない。
私には、期待を裏切られて怒っているようにしか見えない。
そんな塗り重ねた嘘を、さも素晴らしいことだと喧伝する世の中は狂気じみている。漠然と、どこか遠くのことのように感じて、空しくなった。
――私の知っている狂気と、一体なにが違うの?
問いかけるように覗き込んだ彼の瞳は、どこか遠くを見つめていた。
梅雨空の曇天に、小さな青空を探すように。
「僕の過去と、恭子さんの過去は比べようもないことはわかってるんだ。こんな言い方はよくないと思うし、恭子さんを傷つけてしまうかもしれないけれど、僕は君に同情した」
「知ってるよ」
「かわいそうな子だと思ったんだ」
「そんなことで傷ついたりしなかった」
嬉しかった。
陸さんと出会うまで、私の事情を知って、好奇の目を向けない人は滅多にいなかった。都合のいい女だと知ってすり寄る男ならいくらでもいた。そんな有象無象に身を任せても、愛してると嘯いて、飽きたら捨てられるだけだった。
親身になったふりをして、自分を大事にしろと言う無責任な人もごまんといた。でも、その人たちが具体的に私を助けてくれたことは一度もない。それどころか、優しいふりをして近づいて、私を抱いたらどこかに消える人も大勢いた。
裏切られたとは思わなかった。
男なんてみんなそういうものだと思っていたし、肉体関係のあるうちは、痛みに呻く快楽で全てを忘れたような気分になれたから。
でも、それは勘違いでしかなかった。
陸さんだけだ。
私の傷跡を見ただけで泣いてくれた人は、陸さんだけ。
甘えていた。すがっていた。利用していた。
本当に、ずるくて汚い女だった。
「そんな顔をしないで、恭子さん」
陸さんが私の頬に触れる。
温かい。男らしいごつごつとした手。
でも、爪はきちんと切られていて、かさつきもない。
何より、手の平で私の頬を包むその大きさにホッとする。
荒んでいた心がたちまち平静を取り戻していく。
魔法みたいだ。
「安っぽい言葉だけれど、恭子さんにも未来があるんだ。まだ、遅くはないんだ」
そんなもの、私にはないのに。
私は、今を生きているだけ。
陸さんとの安穏とした生活に、つかの間の休息を得ているだけ。
ふとした拍子に過去は追いかけて来る。
薄汚いボロ雑巾みたいな過去が、血に濡れた音を立てて。
「それがどんな未来なのかはわからない。誰にもわからない。僕にも、恭子さんにも。でも、あるんだよ。確かに」
「空しいだけだよ、それは」
そうだね、と彼は苦笑した。
私は希望を否定する。
希望を抱けば絶望が待っているだけなのだから。
「今日がなければ明日はないもの。昨日がなければ、今日がないのと同じ。一度汚れてしまったものは、どんなに洗っても落ちないんだよ」
真っ白なワンピースに落ちたシミのように。
突然、陸さんは私を抱き寄せる。
力なく彼の胸元に顔を寄せて、私は自分が彼に身を任せていることに一抹の不安を覚えた。
これから犯される恐怖とは全く違った。
むしろ、今までの自分が全て打ち壊されて、その瓦礫を集めてくれるみたい。包み込むような温もりに覆われて、もう一度、恭子という私を新しく積み替えてしまうような。
こんなこと一度だってなかった。
初めてだった。
男の人に抱き締められて、この関係が一歩前に進むことを怖れたのは。
いけない。期待してはいけない。
希望の先には絶望しか待っていないことを、私は嫌と言うほど知っている。
でも、そんな不安はすぐに小さくなった。
陸さんの穏やかな心音が、とくん、とくんと、私の不安を労るように折りたたんでくれたから。
心が落ち着くと、自然と周囲の音が耳に入ってくる。
閑静な住宅街に響く雨音。
窓ガラスを叩く雨粒と、雨垂れから細く滴る水滴。
五月闇に沈む人の営み。その残滓が緩慢な雨に流されていく。
「目を閉じて」陸さんは優しく私の髪を撫でつける。「大丈夫。何も心配なんてないよ」
彼は囁くように言った。
「夢を見よう。優しい世界が広がる夢を」
「そんな世界は存在しないよ」
「何もかも満たされて、思いやりに溢れた、そんな世界を夢想してもいいじゃない」
「現実的じゃないもの」
「でも、いいんだよ。べた凪の海を漂泊するみたいに、身体の力を抜いてごらんよ」
「へなへなになって沈んじゃうよ」
「大丈夫だよ」
「どうして?」
「僕が恭子さんを海の向こうに連れて行くから」
珍しいな。陸さんがこんなことを口に出すなんて。
でも、どうしてかな。
その世界の海は、きっとこんな波音を立てるんだ。
とくん、とくんって。
「ねえ、陸さん」
「なんだい?」
私は名残惜しさを感じつつ、顔をあげた。
「教えて、陸さんのこと」
「長くなるよ?」
「知りたいんだよ、もっとたくさん」
陸さんはふっと微笑んだ。
「ホットワインでも飲みながら?」
「二人でタオルケットに包まって?」
「それもいいね」
彼の苦笑は私を安心させる。
キッチンへ向かう陸さんの背中を見送って、私は内心で問いかける。
ねえ、陸さん。
気づいていないかもしれないけれど、気づかないふりをしているだけかもしれないけれど。
私が見たい夢は、私が夢見る未来は、抱いてしまった希望は。
――あなたと〝ふたり〟で歩む未来なんだよ。
シリアスさんは一旦終了です。