1 Vin rouge chaud
【恭子】
出張から帰って以来、陸さんの様子がおかしい。
いつも通りに振る舞っているのに、彼の瞳はまるで私の心を覗き込むようだった。
不快感はない。むしろ、彼が何に戸惑っているのかを知りたいと思った。
今までの距離感が、心なしか数センチだけ遠のいたような気がする。それが寂しいような、でもそう感じる一方で、彼の仕草に小さな喜びを感じてしまう。
変化――唐突に、私はそう気づいたのだ。
彼に抱く些細な違和感に、高揚している私がいる。
土曜日。
陸さんは朝から眠そうだった。
昨晩は中々寝付けなかったらしい。
仕事も急ぐものがないから少しお昼寝するのだと、午後になって彼はリビングのソファーに身体を倒す。
ほどなくして、彼は静かに寝息を立て始めた。
穏やかな寝顔とはほど遠い。何かに苦しんでいるような顔。
一体、何があったのかはわからない。
けれど、彼を苦しめる何かがあったのは間違いない。
それが何かわかっても、私に彼の苦悩を払ってあげることができるかどうかもわからない。
それでも、彼が笑顔でいられないのは、私にとっても苦痛だった。
きっと私が尋ねても、彼は「大したことじゃないよ」と苦笑するのだろう。
いつもよりずっと困惑した表情で。
そんなこと、簡単に予想がつく。
彼は全て自分の中に閉じ込めてしまうから。
私はそれを少し寂しく感じている。
陸さんに、頼られたい。
同居人でしかないけれど、もっと彼の中に踏み込んで、深くて暗い水底から、重しを引き上げてあげたい。そうして、彼のホッとした顔を見つめたい。
この感情を、小春だったら恋だというのかもしれない。
本当に、これが恋なのだろうか。
好きという感情なのだろうか。それとも愛?
なんて身勝手で、一方的な思いなのだろう。
陸さんはそんなこと望んでいないはずなのに。
そっと、彼の頬に触れる。
間近で見ると、彼は案外睫毛が長かった。
ふと、彼の唇に視線が吸い寄せられる。
彼は煙草も吸わない。昔は吸っていたという。
周りに合わせて吸っていたから、仕事を辞めた途端吸わなくなったと聞いた。
キスをしたら、彼は怒るだろうか。
そっと指先で触れた陸さんの唇は柔らかかった。
男の人の唇も、案外柔らかいんだな、なんて益体もないことを考えた。
触れ合ったら、きっと温かいのだろう。
不意に自分の中に湧き上がった感情に顔を赤くする。
どうしてだろう。以前はこんな風に自分を見失わなかった。
誰に抱かれたってこんなに気持ちは乱れなかった。
純粋な恐怖と好奇心がせめぎ合う。
もっと、知って欲しい。
私を、陸さんに。
彼は、軽蔑するだろうか。
こんなに汚れてしまった私を。
男が怖くて、けれど、その暴力に支配されることで安堵していた私を。
陸さんは、受け入れてくれるだろうか。
実の父親に刻まれたこの傷跡ごと、愛してくれるのだろうか。
それとも……。
陸さんが寝返りを打つ。
こちらに背を向けて。
大きな背中だと思っていたのに、どこか小さく見えた。
彼も苦悩しているのだろうか。
別れた奥さんのことを、今でも悔やんでいるのだろうか。
私が陸さんのためにしてあげられることは何だろう。
彼はどんなことをすれば喜ぶのだろう。
そのとき、彼はどんな顔で笑うのだろう。
困ったような表情を浮かべるかもしれない。
それも見てみたい。
ゆっくりと立ち上がる。
彼のかけた目覚まし時計がもうそろそろ鳴る。
キッチンに向かう。
コーヒーミルに陸さんお気に入りのコーヒー豆を入れて。
がりがりと音を立てて挽く。彼は起きない。よほど眠たかったのだろう。
コーヒーメーカーにセットしてスイッチを入れる。
すぐにサーバーに黒い液体が滴り始め、あたりを香ばしい薫りが満たした。
お湯を注いで温めた彼のマグカップ。
わずかな茶渋もついていないそれに、黒く透き通ったコーヒーを注ぐ。
リビングに行くと、ちょうど目覚まし時計が鳴った。
陸さんはゆっくりと瞼を開いて頭をがしがしとかいた。
そうして私に気づいて身体を起こす。
「おはよ、陸さん」
「……良い匂いがするね」
「うん。目覚めにどうぞ」
彼はきょとんとして、それからマグカップを受け取ると微笑んだ。
まだどこか眠たそうだ。
「ありがとう。うん、美味しい」
一口飲んで、彼はうんと背を伸ばす。
そうして何かを思い出して立ち上がる。先ほどの眠気なんて吹き飛ばして。
「そうだった。忘れるところだったよ」
「何が?」
「ちょっと待っててね」
彼はキッチンに消える。
追いかけると戸棚の奥から小さな箱を出していた。
「恭子さん、紅茶派だったよね」
「うん。強いて選ぶならね」
「いつもインスタントだったから、たまにはこういうのもいいんじゃないかと思って」
箱の中身は紅茶用のポットだった。
「茶葉も買っておいたんだ」
マリアージュ・フレールのマルコポーロ。
紅茶といえばイギリスを思い浮かべるけれど、フランス流紅茶といえばこれ。
初めて聞いたときは、語感から結婚の香りだなんて勘違いしたけれど、本当はマリアージュ兄弟という意味。素朴な意味で安心した覚えがある。
「紅茶はよくわからなかったから、店員さんに勧められるまま買ったんだ。嫌いだったかな?」
「ううん。私の好きなやつ。ありがとう」
嫌いだったかな、だなんて。そんな風に聞くのは珍しい。
嬉しいに決まってる。
だって、これは陸さんが私のことを思って買ってくれたものなのだから。
お湯を沸かしてポットに。
沸騰したお湯は香りを飛ばしてしまうから、少しだけ冷まして。
甘い香りの中に果実のような爽やかさ。
カップに注ぐと香りが花ひらく。
「もらい物のクッキーも出そうか」
リビングに移って、コーヒーと紅茶。
なんだか匂いが混ざり合って変な感じがする。
でも、つかの間のくつろぎに、私はほっと胸をなで下ろす。
とくに理由もなく、陸さんの隣に座ってクッキーを啄む。
対面に座れば顔を見るのも平気なのに、隣だとそれが中々できなかった。
心なしか陸さんも困惑している。
「せっかくだから、何か映画でも見る?」
「お仕事は?」
「スケジュール通りに進んでなきゃ昼寝なんかしないよ。僕は先に終わらせるタイプだから」
彼は苦笑して立ち上がる。
ソファーが浮き上がり、慌ててカップを両手で支える。
「どんなのが見たい?」
「ラブ・ロマンス」
陸さんは目を点にした。
恋愛映画を観たいだなんて、私が言うのは初めてだから。
「知ってる? うちには恋愛もののタイトルが少ないんだ。お望みは?」
そういってこちらに見えるように持ち上げたパッケージが三つ。
『カサブランカ』と『シザーハンズ』はきっと陸さんの趣味だ。でも、もう一つは彼の好みとはズレている気がした。きっと、彼ではない誰かが選んだもの。
私は迷わずにそれを指さした。知りたかったのだ。彼が愛した人がどんな人だったのか。
「ムーラン・ルージュがいいな」
「名作だね。観たことあるの?」
心なしか皮肉を帯びた口調に聞こえたけれど、気にせず答える。
「ううん。聞いたことはよくあるけど、観たことはないから」
「そう」
陸さんはわずかに逡巡する気配を見せた。
でも、すぐに苦笑する。
レコーダーにDVDをセットして、再生ボタンを押した。
陸さんがまた私の隣に座る。
私は少し楽しみだった。
彼と一緒に恋愛映画を観ることに、少し浮かれていた。
【陸】
『ムーラン・ルージュ』は、二〇〇一年制作のミュージカル映画だ。
監督はバズ・ラーマン。主演はニコール・キッドマンとユアン・マクレガー。
まさか、恭子がこのタイトルを選ぶなんて、僕は全く予想だにしなかった。
これは匡子が好きだった映画だ。
中身は僕もよく知っている。だからこそ、恭子がこれを観たいと言い出して、少し狼狽えた。
けれど、ここで僕が観たくないと突っぱねるのもおかしい。
いざ映画が始まってしまえば、あとは黙って鑑賞するだけなのだから。
単純なラブストーリーだ。
お約束の展開を脚本が支えて、ミュージカルという手法に応じためまぐるしい演出が魅力的だ。
主演二人の熱演もこの映画の要だろう。それに使われている楽曲も有名なものが多くて取っつきやすい。
好き嫌いは分かれるかもしれないが、恭子はどちらだろうか。
「カーテン閉めて」
「いいよ。映画館みたいにしようか」
カーテンを閉めて、明かりを消す。
いよいよ本編が始まると、恭子はテレビ画面に集中した。
パリのナイトクラブ「ムーラン・ルージュ」
ニコール・キッドマン演じるサティーンはそこの花形スターだった。
華々しいクラブだが、資金難に苦しんでいる。
そこで、オーナーは資産家のウースター公爵にサティーンをあてがうことで、資金難を解消しようとする。
一方で、ユアン・マクレガー演じるクリスチャンは英国からパリにやってきた作家志望の青年だ。けれど、すぐに行き詰まってしまう。
しかし、降って湧いた幸運によって「ムーラン・ルージュ」で唄われる歌を書く舞台作家になる。
クラブオーナーがサティーンにウースター公爵を紹介するとき、二人は出会う。
サティーンがクリスチャンをウースター公爵だと勘違いするところから二人の恋が始まるのだ。
言ってしまえば典型的なラブストーリー。
金持ちに目をつけられたサティーンと彼女を愛するクリスチャン。
二人は逢瀬を重ねて愛を育んでいく。
しかし、ウースター公爵から目障りだと殺されそうになり、サティーンはクリスチャンに嘘をついて彼を逃がそうとする。
クリスチャンはそれでもサティーンへの愛を貫き、最後は――。
陳腐ですらある。
古今東西、すでに見飽きた雛形。
けれど、使い古されるほど、いつの時代でも通じる魅力がある。
人がこの世で知る〝最高の幸せ〟は――。
繰り返されるそのフレーズは、どこか薄っぺらい。
やっぱり、僕はこの映画が嫌いだ。
ずっと昔に観たときは、何も感じなかった。別に否定的でもなく、こういう作品もあっていいなと思えたのだ。
なのに今は、二人の愛が純粋で胸が苦しくなる。
その先に何があるのかも、どんな苦悩が立ちはだかっているのかも、何もかもかなぐり捨てて、ただ熱に浮かされて恋心に突き動かされる二人が、僕は嫌いだ。
その情熱を、若かりし日の思い出に重ねて絶賛する人がいるのはわかっていても、僕は好きになれない。
エンドロールが流れ始めて、僕は隣の恭子を見た。
彼女は冷めた紅茶を舐めるように飲んで僕を見る。
「どうだった?」
「――救いがないね」
恭子は自嘲するように笑った。
まるで誰かに自分を重ねるように。
カーテンを開けると、外はすっかり茜色に染まっていた。
恭子はソファーに身体を預けたまま、ぽつりぽつりとこぼれるように呟いた。
「ウースター公爵は嫌い。それに、クリスチャンも嫌い」
中々珍しいことだと思った。
彼女は続ける。
「サティーンも嫌い」
「どうして?」
「可哀想な私を慰めてって感じがしない?」
「そう? でも、なんとなく言いたいことはわかる。好きなキャラクターは?」
「オードリー」
一瞬、誰かわからなかった。
冒頭で、クリスチャンと仕事はしたくないと出ていった女装作家だ。
「どうして?」
「だって、自分に素直だもの」
確かに、彼は自分のプライドに従順だった。
それを由とするか否かは人それぞれだが、多くの人は否定的に見るはずだ。
人を見る目がない自惚れ野郎だ、と。
けれど、現実に生きる多くの人々が、オードリーと同じなのだ。
年下の上司に命令されて嫌な気分になる人は大勢いるし、あとからやってきた才能豊かな若者に追い出されて歯がゆい思いをする人だっている。
ある意味、あの華やかなミュージカルの中で、一番人間味を帯びているとさえ思える。
「ねえ、陸さん」
「うん?」
彼女は唐突に僕の手を握った。
一瞬、僕は彼女が何をしているのかわからなかった。
戸惑い、そして困惑した。
恭子はそっと僕に肩を寄せる。
間近で見つめ合う。
どうしてこんなに胸が高鳴るのだろう。
整った顔立ちに、淡い黄色を帯びた二つの瞳が僕を射抜く。
彼女は目を細め、そして、僕の首筋に顔を埋めた。
どうしてこんなことになったのか、僕にはわからない。
僕からは彼女に触れようとしたことは一度もなかったから余計に。
狼狽して何もできない僕だったけれど、数分と経たず、彼女は顔を上げる。
「ごめんね。ちょっと……。ううん、なんでもない」
恭子はすっくと立ち上がり、自分の部屋に逃げるように駆け込んだ。
それからの彼女は、夕飯のときも口数が少なかった。
一応、僕の問いかけに返事はした。
けれど、目に見えて元気がなかった。
夜。
寝室の電気を消そうとしたとき、彼女が僕の部屋へとやってきた。
話したいことがある――そう告げて。
次話とセットです。