あなごめし(陸)
セミナーでの講演を終えた翌日。
昨晩飲み過ぎたせいでひどい頭痛がした。
主催者に誘われて行った店で、久しぶりに深酒をしてしまった。
ホテルに戻るまでは意識もしっかりしていたけれど、どうやら部屋に入るなりベッドにダイブしてしまったらしい。
起きたら着替えてもいなかった。背広は椅子にかかっている。
歯磨きをしながらシャワーを浴びて、アメニティーのひげ剃りを使う。
ぼんやりした頭のままテレビをつけて、適当にニュースを流す。
時刻はまだ八時過ぎ。チェックアウトには余裕がある。
お湯を沸かしてインスタントコーヒーを淹れる。
苦みで少し頭が冴える。
荷物を整理しながらスマホを確認する。
セミナーの主催者からお礼のメールが入っていた。こんな時間にマメなことだ。
居酒屋で飲んだあとに、主催者が馴染みだというスナックにも行った。
背広のポケットには源氏名の書かれた名刺が入っている。
縁もないのでゴミ箱に放り込む。
僕は昔から、スナックやキャバクラといった場所が苦手だった。
仕事の関係でなければまず行かない。
別に女性と話すのが苦手というわけでもない。ただ、ああいう場所でする商売っ気の強い男女の会話があまり好きではなかった。
おだてられて悪い気はしないけれど、所詮は中身のないセールストークを並べただけだ。
それにしても、昨日僕たちの席についたホステスは、ずいぶんサバサバしていた。
思い出しても少し笑ってしまう。
主催者の顔を見るや否や「増毛したらかっこいいのに」なんて言い出して、それに返す彼も「素材がいいから」と軽口を叩いていた。
聞けば、ずいぶん長く通っているらしかった。
主催者の彼も、僕と同じバツイチだった。
そのためか、彼とはよく話が合った。
彼が離婚した理由は仕事一辺倒で家庭を顧みなかったからだという。
結婚するときに、金の苦労はさせないと約束していたのだと、彼はマッカランの入ったグラスを傾けていた。
今でも連絡は取り合っているらしい。娘の写真も見せてもらった。
あいつに似てよかった――そう漏らす彼は、かわいらしい娘の顔に別れた妻の面影を重ねているようだった。
娘自慢のあとに、彼は僕に子どもがいるかと聞いた。
僕にはその能力がないんです、と返したら、彼は少し考え込んで理解したのか頭を下げて謝った。
知らなかったとはいえ、配慮が足りなかったと。
僕もどうして正直に打ち明けたのかよくわからなかった。
たぶん、彼の寂しそうな横顔にあてられたのだ。
同じ境遇とはいえ、子どもの未来に思いを馳せる彼が、どこか羨ましかった。
彼は僕と違って、自分の存在を未来に繋げることができる、そのことが。
インスタントコーヒーを飲み終えて、背広に腕を通す。
チェックアウトのぎりぎりまでゆっくりしていようかとも思った。
けれど、無性に恭子の顔が見たくなった。
恭子は昨晩何を食べたのだろう。
同僚とご飯に行くとメールが来ていた。
ちゃんと楽しめただろうか。
もっと頻繁に遊んでもいいのに。
けれど、毎日帰って僕の作ったご飯を美味しそうに食べてくれる。
それが嬉しくもある。
チェックアウトを済ませて駅へ。
お土産は何がいいだろう。
帰りの新幹線まではかなり余裕があるから、ゆっくり選べる。
お昼はこっちで食べてもいい。
そう思っていたのだが、色々と見て回るのが楽しくて昼食の時間を逃す。
駅弁を買って新幹線に。
名物のあなごめしに、売店で購入した缶のお茶。
これが旅行ならもうちょっと風情を楽しめるのに、仕事の帰りなので奇妙な感覚だ。
冷めてもふわふわのあなごは、甘辛い煮汁をよく吸っており、それがまたご飯によく合う。
結婚してすぐのころ、妻と宮島に旅行したことがあった。
あのときもあなごめしを食べた覚えがある。
彼女は広島名物の牡蠣に舌鼓を打っていた。
二人で見た厳島神社の鳥居はちょうど干潮時で、砂地を歩いて間近に見た。
観光客が多く、目を離したらすぐにはぐれてしまいそうな妻の手を、僕はぎゅっと握りしめていた。
あの頃の僕たちは、ほどなく離婚することを知らなかった。
僕が子どもを作れないことも、彼女が不貞を働くことも、何もかも。
なんだって二人でいれば乗り越えられると思えたし、肌を触れ合うだけで幸せを実感できた。
帰りの新幹線で、妻が言ったことを今でも忘れていない。
子どもができたら、今度は三人で――それは絶対に叶うことがない約束だった。
暢気に破顔したあのときの僕は、確かに幸せだった。
***
夕刻。
足下も見えない人混みが、絶えず駅の中を往来する。
東京駅のホームに降り立ち、凝り固まった背筋を大きく伸ばした。
都心にはそう頻繁に来ないから、デパ地下でも回ろうかとも思った。けれど、疲労感の方が強い。
真っ直ぐ山手線へ。
電車に揺られながら、東京の街並みを眺める。
整然とした街の中を、オートメーションのように人々が行き交っている。
あらかじめ設定された機械のように、彼らは一心不乱に歩を進めている。
視線を車内に戻せば、密集した乗客たちはそれぞれスマホに目を落としている。誰もが疲れた顔を浮かべ、ここにはない何かをずっと眺めていた。
これ以上眺めていたら変人だと、僕は視線を戻す。
その瞬間、僕は目を疑ってしまった。
驚いてまた振り向けば、そこに別れた妻がいた。
見間違いかと思った。
けれど、どう見ても彼女だ。
何も変わっていない。ただ、彼女の両腕は小さな子どもを抱いていた。
眠っている。すやすやと、母のぬくもりに安心しきって。
疲れた様子の彼女が顔をあげる。
目を逸らそうとして、できなかった。
彼女が僕に気づいて、決まりが悪そうに目を伏せたから。
電車が止まる。
彼女ははっと顔をあげて、子どもを抱いたまま駆け出した。
追いかけちゃダメだ――頭ではわかっていた。
「匡子!」
気づけば、僕は駅のホームで別れた妻の名前を叫んでいた。
周囲の耳目が集まるのも気にせず。
匡子は身を震わせて立ち止まり、恐る恐る振り返る。
その表情をどんな言葉で言い表すことができただろう。
困惑でも、喜びでもない。ましてや、寂しさや苦しさなんかでもない。
ただ複雑で、整理のつかない怖れがあった。
「久しぶり、陸……」
匡子の声色は震えていた。
呼びかけたことを早くも後悔する。
けれど、聞きたかった。
彼女が今どうしているのか。
どんな生活を、どんな風に過ごしているのか。
今、何を思っているのか。
僕はまだ、全てを分かち合ったと過信していた相手に、わがままを突きつけようとしていた。
「少し、話さないか?」
匡子は電光掲示板の上にある時計をちらりと見て――ちょっとだけなら――と小さく頷いた。
改札を出て五分ほど歩いたところに、こぢんまりとした喫茶店があった。
しばしば保育園つながりの友人と一緒に来るのだという。
「いいの? こんなところで。あとで困らない?」
「大丈夫。訳ありで集まってるようなものだから」
シングルマザーはどうしても、苦労を分かち合う意味で同じ境遇の母親と繋がりやすいのだと言う。
軽い罪悪感が湧く。匡子は僕の顔を見て苦笑する。
「変わらないね。コーヒー、ブラックだよね?」
「……ああ」
僕の代わりに、彼女は注文を済ませる。
ブレンドコーヒーと、カフェオレ。
そういえば、彼女は出会った頃からカフェオレが好きだった。
飲み物がやってくるまではどちらも無言だ。
三歳児の寝息だけが聞こえた。
ずいぶん寝入っている。大人しいのか、疲れているのか。
子育てをしたことがないので、このくらいの年頃の子どもがどういう行動をするのか、僕には全くわからない。
ようやく飲み物がやってくる。
彼女は相変わらずの猫舌で、カフェオレにふうふうと息をかけてから口をつける。
ここのブレンドは酸味よりも苦みが強かった。
「何か、話したいことがあったんじゃないの?」
匡子が切り出す。
曖昧に頷いたものの、僕は何を尋ねればいいのかわからなくなっていた。
最初は、彼女の今の生活を聞きたかった。
今、何を思っているのかを。
けれど、すやすやと安心して眠る我が子の額を撫でる母親の顔を見て、僕は何も言えなくなってしまった。
「やっぱり、変わらないね」と匡子は言った。「あなたは他人を見過ぎるから」
「見過ぎる?」
「度を越して心配するっていうのかな。踏み込んで欲しいのに、あなたは一歩引いたところで待ってる。それは優しさなんだと思う。でも、それを突き放されたと思う人もいるんだよ」
それが匡子の本音なのだろうか。
だとしたら、僕と匡子の間に子どもができないと知ったあのときも、僕は彼女を突き放してしまったのだろうか。
「こんなの、ただの言い訳だけどね」
そう言って、匡子はカフェオレに砂糖を入れた。
くるくるとスプーンで混ぜて、口をつける。
「子育て、やっぱり大変か?」
「まあ、どこも似たようなものじゃない? 私立の保育園なんだけど、そこなら時間の融通はつくし、教育内容も充実してるから。ほら、仕事してるとろくに相手もしてあげられないし、ちょっとした英才教育だと思ったら割安だよ」
「仕事、何してるんだ?」
「販売員。基本給は低いけど、歩合がいいの。これでも、店舗トップなんだよ、わたし」
「すごいね」
匡子は昔から人との付き合いが上手かった。
知らないうちに相手との壁をすり抜けてしまう。
相手の思いに寄り添って、共感して。
だから僕は、そんな彼女に甘えてしまっていたのかもしれない。
彼女が傷ついていることに気づこうともせず。
「あなたは? 会社辞めたあと、どうしてるの?」
「今は個人事業主だよ。投資関連の仕事してる。普段は在宅なんだけど、地方でセミナーの講演なんかもやってて、今日はその帰り」
「順調?」
「どうかな。食べるのには困ってないよ」
「そう。よかった」
わずかな沈黙の隙間を縫って、彼女は僕を見つめ返す。
品定めするようなものではなく、何かを懐かしむような瞳だった。
「再婚はしないの?」
「……あてがないよ。それに、わかってるだろ?」
「子どもばかりが夫婦じゃないでしょう?」
「それを君が言うのはずるいよ」
「そうだね。わかって聞いてるもの」
「君はどうなんだ?」
「わたし? さあ。そんな暇もないから。もういい歳だし、たぶん無理よ」
馬鹿だった、と彼女は我が子の寝顔に視線を落とす。
「困っていることがあるなら、言って欲しい」
「あっても言わないわ。そこまで馬鹿にはなれない。もう、散々傷つけたもの」
自業自得。本当に辛かったのはあなただったのに――匡子は呟くように言った。
それを言うなら、匡子の悲しみに気づかなかった僕も悪かった。そう思っても、彼女はそれを否定するのだろう。
「昨日、広島だったんだ」
「突然だね。さっき言ってたセミナー?」
匡子はふっと笑う。
僕は頷いて続けた。
「うん。帰りの新幹線に乗る前にあなごめしを買ったんだ」
「ああ。そういえば、宮島で食べてなかった?」
「そう。匡子は牡蠣を食べてた」
「大きなしゃもじにびっくりしたよね」
「フェリーの揺れで気持ち悪いって言ってたのに、吹き飛んじゃってさ」
「懐かしいね」
「うん」
匡子は苦しそうな表情で腕時計を一瞥し、時間だと告げた。
「五時からこの子の好きなアニメがあるの」
「そう」
「見逃したら一晩中泣いて困るから」
優しく子どもを抱きかかえる匡子。
僕はひとり取り残された感覚から逃げるように立ち上がる。
ひったくるように伝票を取った。
会計を済ませて外に出ると、彼女は小さくありがとうと言った。
僕は首を横に振って言う。
「会えてよかった」
「そう? とてもそうには見えない」
匡子には僕にもわからない僕の心の中が見えているようだった。
「そんなことないよ。少なくとも、元気そうで安心した」
「そうね。あなたも元気そうだし」
「ああ」
「それじゃあ、また。機会があったら、ね」
眠りこけた我が子を抱いて、彼女は一寸の名残惜しさも見せず立ち去っていく。
昔はちょっとした重いものでさえ持てなかったのに、今は我が子をずっと抱いている。
彼女の後ろ姿に、母親になった強い女の意志を見て、僕はひどく裏切られたような気がした。
瞬間、気づく。
僕は彼女が不幸であることを望んでいたのかもしれない。
自分自身に責任があったのではないかと思い悩む一方で、匡子の不貞を許していなかったのではないかと。
歩き出す。
滅多に来ない場所だ。
朧気な記憶を辿って駅へと歩く。
神父は僕に言った。
人を恨むのは自然な感情なのだと。
けれど、僕は匡子を恨むのが筋違いだと思っていた。
なぜなら、根本的な原因は僕の方にあったからだ。
彼女の願望を、夫婦としては一大事でもある願望を叶えるための、その能力が僕にはなかったからだ。
その能力がもしあったなら、僕は匡子を恨んだだろうか。
わからない。たらればの話をしても仕方がない。
頼りない。
この場所はどこだろう。
レールの上を進む電車が、駅で待っているはずなのに。
長い間、僕はその電車に乗るどころか、駅にもたどり着けないでいる。
自分を許すとは、どういうことなのだろう。
許したところで、一体何が変わるのだろう。
無性に、恭子に触れたくなった。