炉端焼き(恭子)
同僚から飲みに行こうよと誘われて、それを承諾するのはずいぶん久しぶりのことだった。
小春は同期入社の営業事務で、階は別なのにお昼は一緒に食べる仲だ。
とはいえ、私と小春の性格からして、若いOLの弾けた明るさとはほど遠い。
私は無愛想で表情が硬い。小春はおしゃべりではないけれど、いつもニコニコしている。
お昼は一緒にいるけれど、とくに何か話をするわけでもない。
一度、私とお昼を食べて楽しいのと尋ねたことがある。すると小春は「あんまりオシャレとか、色恋沙汰とか、そういうお話は得意じゃなくて」と教えてくれた。
特別美人というわけではない。でも、小春は愛嬌があるし、彼女のいる空間はとても和やかだ。
「今日ね、仕事終わったら一緒にご飯でもどうかなって。金曜日だし」
「いいよ」
私がすぐに了承すると、小春は急に真面目な顔をして驚いた。
「珍しいね。恭子ちゃんがご飯オッケーするなんて」
「小春の誘いだし、今日は帰ってもご飯がないの」
「ああ、間借りしてるんだったね」
「うん。講演があって地方に出張だって」
「聞く側?」
「話す側。彼、元証券マンなの。今は個人向けの投資アドバイザーみたいなことしてるんだって」
「ふうん。なんかすごいね」
「なんかね。たぶん私が知ってる以上にすごい人なんだろうけど、そういうところあんまり表に出さないから」
ふと顔をあげると、小春が面白そうに私を見つめていた。
「どうしたの?」
「ううん。恭子ちゃん、その人のこと話すとき、とっても優しい目をしてるなあって」
「そんなことないよ」
「そうかなあ」
不意を打たれた。顔が熱い。
「毎日恭子ちゃんの帰りを待ってくれるんでしょ?」
「それは在宅で仕事してるからだよ」
「夕飯作って、お風呂も準備してくれて、お弁当も用意してくれるんだ。在宅だから」
「間借りだけど、寮みたいな感覚なのかもね」
「ふーん」
「小春も珍しいね。今日はよく喋る」
彼女はきょとんと目を瞬かせて、すぐにいたずらっぽく笑う。いつも愛想よくニコニコしている小春らしくない表情だ。
首を傾げる私に、小春は短く告げる。
「それは、夜ご飯のときにでも話そ」
なんだかそれは、理由のようであって、後付けのお為ごかしにも聞こえた。
*
活気に満ちた居酒屋は、炉端焼きが売りのお店だった。
小春はよくこの店に来るのだという。
少し意外だった。彼女だったらもっとオシャレなお店が好きそうだったから。
「わたし、レモンサワー。恭子ちゃんは?」
ドリンクメニューを渡されてざっと眺める。
「じゃあ、ハイボール」
「恭子ちゃんってそういうチョイスが地味に渋いっていうか、ちょっとおじさんだよね」
「そうかな。食べ物に合わせたいじゃない?」
「それはそうだね」
ドリンクを待っている間、小春は今日のおすすめと書かれたメニューを吟味して注文する。
「アオリイカの活造りに、ハマグリの網焼きでしょ。それから、特大しいたけの炙り。あっ、銀杏もいいな」
「ちょっとずつ頼もうよ。頼みすぎて食べられなかったら嫌だから」
小春のはしゃぐ様子が珍しくて、つい口を挟む。
彼女は大丈夫の一点張り。でも、気になる料理が見つからなかったのか、とりあえずそれでと店員に微笑んだ。
すぐにレモンサワーとハイボールがやってくる。
重たいジョッキをカツンと鳴らして一口。
小春はその見た目からは想像がつかない飲みっぷりだった。
一気に半分も飲んで喉を鳴らす。
「はあ、美味し」
「いい飲みっぷり」
そういう私も、昼間が暑かったせいでハイボールをごくごく飲んだ。
お通しは和牛ロースの炙りにちょこんと雲丹が乗っていた。
「すごいね、お通しなのに」
「ねっ。これで三百円だよ。まあ、二切れだけど」
口に入れると最初にザラリとした岩塩のパンチがやってきて、それを和牛の甘い脂が包み込む。ほんのり磯の香りがしたと思ったら、たちまち雲丹のまろやかさが口いっぱいに広がる。肉の隙間に隠れていたレフォールがピリリと口の中をさっぱりしてくれる。
慌ててハイボールを口に注ぐ。
この香りは角ハイだろうか。炭酸と絞ったばかりのレモンが口の中をきれいに洗い流してしまう。
角の癖のない優等生ぶりは、ハイボールにすれば途端に抜け目ない切れる味。
「美味しいね」
「でしょ? 店構えは気取ってないのに、料理はしっかり美味しくて」
「うん。好きだな」
「気に入ってくれてよかった」
小春はいつもの笑顔で嬉しそうにレモンサワーを飲む。
「それはそうと、どうしていきなりご飯に誘ったの?」
「うーん、先にその話する?」
「大事な話なら酔わないうちがいいかなって」
彼女は腕を組んでみせる。
「大事な話じゃないかな。恭子ちゃんにとってはどうでもいい話。わたしにとっては傍迷惑な話というか、押しつけられて渋々な話」
想像がつかず、首を傾げる。
小春はため息をつく。
「本当はね、佐々木さんからセッティングしてくれって頼まれたの」
その言葉に私は思わず身構える。つい周りを見回した。
小春は「大丈夫だから、安心して」と苦笑した。
「ちゃんと断ったよ。聞いたら恭子ちゃんに一度断られたって言ってたし。だったら、わたしに誘わせようなんて、ちょっと卑怯だと思って。それにわたし、あんまり佐々木さんのこと好きじゃないから」
「そうなの?」
「そうだよ。イケメンだとは思うけど、タイプじゃないもん」
ちょっぴり意外。
顔に出ていたのか小春に肩を小突かれた。
「わたしだって相手くらい選ぶよ」
「誰だって選ぶよ」
「それもそっか」
小春はクスクス笑って、それからレモンサワーをお替わりした。
「話を戻すよ。えっとね、佐々木さんだけど、セッティングが無理なら、恭子ちゃんが今誰かと交際しているかどうか聞いて欲しいって。まあ、完全に恭子ちゃんを狙ってるというか……。正直に打ち明けてしまってもいい?」
苦々しい顔で尋ねる小春に、私は肩を竦める。
小春は新しいレモンサワーに口をつけてから話す。
「発端はね、恭子ちゃんが美人なのに浮いた話聞かないなって営業の間で噂になってたの。それで、彼氏がいるような雰囲気もないし、誰か行けば落とせるんじゃないかって。まあ、くだらないよね」
「そうだね。なんか、予想してたよりもずっと低次元だった」
私の言葉に小春は大きく頷いた。
「それで、佐々木さんが先輩からお前が行けよって言われて、最初は断ったんだよ」
「佐々木さんが?」
「うん。だってあの人、女に困るような人じゃないもん。勝手に寄ってくるんだから、誘えばデートぐらい簡単にできるし、彼女だってひっきりなしだもん」
「知らなかったけど、そうなんだ」
「まあ、それは置いておいて。問題は、佐々木さんが恭子ちゃんに本気になっちゃったってこと」
「へえ」
小春は私の顔をマジマジと見つめた。
「リアクション薄いね」
「だって、私には関係ないから」
「恭子ちゃんらしいよね」
彼女はどこか呆れているようだった。
「ちなみにどこが嫌?」
「嫌いってわけじゃないよ。強引なところは苦手だけど」
「あれ? そうなんだ」
「うん。でも、興味はないね。仕事以外で関わるつもりはないかな」
「あちゃー。お気の毒だね、佐々木さん」
小春は声をあげて笑う。私もなんだか面白くなった。
「じゃあ、恭子ちゃんは今誰かと交際してるってわけじゃないの?」
「彼氏はいないよ」
「じゃあ、佐々木さんが会った男の人は?」
「陸さんのこと?」
ちょうど店員がやってきて会話は中断した。
大きなしいたけが一枚。私の手の平よりずっと大きい。
醤油をちろりと垂らして食べる。
しいたけの旨みがにじみ出てくる。
香ばしさが鼻に抜けてなんとも言えない。
「好きなの?」
「うん。しいたけは好きだよ。エリンギはちょっと苦手」
「そうじゃなくて」
「なあに?」
「陸さんのこと」
ハイボールに口をつける前でよかった。
危うく噴き出すところだった。
でも、小春は真剣な顔をしていた。
そんな顔を見てしまったら抗議もできない。
「好きっていうか……。わかんない」
「わかんないって何。恭子ちゃんもう二十五歳だよ」
「知ってる。でも、わかんないんだもん」
「恭子ちゃんって交際経験あるよね?」
「あるけど……。私、たぶん人並みの恋愛なんてしてこなかったから」
「聞かない方がいい?」
「うん。そうして」
「わかった」
小春のそういうところが、私はとても好きだった。
「ねえ、陸さんってどんな人?」
その質問に、私は頭を悩ませる。
彼を一言で表現することは、私にはできない。
説明するにはとても複雑で、表面だけをなぞるならとても単純なのに、彼の人となりを伝えるためには、私の下手くそな言葉選びではとても難しい。
「陸さんは、不器用だと思う」
「自分、不器用ですから」
急に低い声を出して冗談を言う小春に私もつられて笑う。
「そういう不器用じゃないよ。こんなに優しい人っていたんだって思うぐらい優しいんだよ。でも、私も詳しく知らないけど、色々つらいことがあって、それで今の陸さんになったのかなって」
「色々?」
「うん。私の口からは詳しく言えないけど、彼バツイチなの。奥さんが不倫して、それで」
「裏切られたと思ってるんだ」
「ううん。陸さんはそんな風に考えないよ。たぶん今でも自分が傷つけたせいだと思ってる」
ジョッキの中身が空になって、私はハイボールをお替わりした。
口の中で炭酸が暴れる。
「陸さんはね、色んなことを諦めてるんだと思う。もう三年も同じ屋根の下にいるけど、彼が私に自分から触れたのって一度だけなんだよ」
「なんか卑猥な感じに聞こえるね」
「変なこと言わないでよ。陸さんはとっても紳士なんだから」
小春はやってきたアオリイカの活造りを箸でつつく。
食べ終わったあとの天ぷらが絶品だと教えてくれた。
「一度くらい、そういうことあった?」
彼女の口からそんな言葉が出てくるのを、もう意外とは思わなかった。
「なかったとは言わないけど、何も起きなかったね」
「そうなんだ」
自制ができる男なんだね、と小春は目を丸くした。
「そういうのとはまたちょっと違うと思うよ」
だって、彼が私を抱かなかったのは、きっと私に同情してくれたから。
私の傷を見て、目を背けずに、私の代わりに泣いてくれた。彼の温かい涙が、今も傷跡に染みこんで癒してくれているような気がするのだ。
「陸さんには幸せになって欲しいんだよ。あの人、色んなことを全部自分で抱え込んで、全部自分のせいにして、自分が辛くて苦しいのに、いつも他人のことばかり考えてる」
「ねえ、恭子ちゃん」
小春は私の目をまっすぐに見つめていた。
「やっぱり、恭子ちゃんは陸さんのことが好きなんだよ」
その言葉を、私は否定することができなかった。
私はただ陸さんを傷つけたくない。これ以上、彼の微笑みが濁るのは嫌だった。
きっと彼のことだから、誰にも見えない水底に澱を溜めるのだろう。
「もっと単純に考えていいんじゃないかな」
「単純に?」
小春は頷く。
「陸さんとの生活を続けていきたいと思う?」
「それは、うん」
「ずっと?」
「ずっと……。でも、彼にだってプライベートがあるし――」
「そういうのはいいんだよ。陸さんの傍にいたいかって聞いてるの」
それは、とても自分勝手だ。
私は陸さんにとって同居人でしかないのに。
でも、できることなら、今の生活がずっと続いて欲しい。
陸さんの笑顔を見ていたい。でも、それは――。
「もっと、わがままになっていいんだよ」
小春はマドラーで氷をからからと鳴らす。
「愛ってさ、物語に出てくるほどきれいなものじゃないんだよ。グロテスクで、いつも一方通行」
なんてね、と小春はいつもの笑顔を取り戻す。
この前読んだ小説に書いてあった、と言って。
「でも、ちょっと羨ましいかも」
小春はレモンサワーをぐびっと飲んで言った。
「素直になればなるほど、誰かを傷つける愛もあるから」
その誰かを思い浮かべる横顔に、私は声をかけることができなかった。
かける言葉を考えている間に、ハマグリの網焼きがやってきて、小春の横顔に差した陰りは消えてしまったから。
「これこれ。これのためにわたしはこのお店に来るんだよ」
さっとレモンを搾って口に運ぶ。
小春は幸せそうな笑顔で私の肩を激しく叩いた。
「んーっ! 美味しっ!」
「もう、大げさ」
私も一口。ハマグリの潮気に爽やかなレモン。バター焼きや酒蒸しも捨てがたいけれど、実力は十分。
お酒が進む。
「明日は休みなんだから、今日は飲もうよ」と小春。
本当は、小春自身が話したいことがあったんじゃないかと思った。
遅れてやってきた銀杏の殻を割って、彼女は呟く。
「この殻を割っても、中にはほろ苦い実しかないなんて」
でも、それが病みつきになっちゃうから厄介だよ。
今日の小春は、やっぱりおしゃべりだった。
作者基準でルビを振ってます。
頻出しないものなどを基準にしたつもりですが、
普段の読書ジャンルにもよりけりなので
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