回鍋肉
視点切り替えあり。
【陸】
「岡野さん、あなたの愛は深いのでしょうね。まるで神の愛のように、誰を憎むこともなく、ただ許してしまう」
元妻と離婚したあとに、友人から紹介された神父はそんなことを言った。
宗教というものに抵抗があったけれど、彼は僕を信徒になりませんかと誘うこともなく、ただ世間話を聞き流すように僕の話を聞いて、そしていくつかの言葉を返してくれる。
いつだったか。
僕が宗教とは何なのかと尋ねたとき、彼は肩を竦めて言った。
「さあ。私にもさっぱりですよ。神職にあるまじきことだと思いますか?」
僕が首を横に振ると、彼はこう続けた。
「でもね、私は生きるということに疲れ、苦悩し、俯いて歩く人たちの顔を、せめて空に向けてあげたいのですよ。その手助けができたらいいなと、そう思うわけです」
その言葉を聞いて以来、僕は毎月一度、神父のもとを訪れる。
オフィス街の少し寂れた一画に、彼のいる教会はぽつんと建っている。
ところどころ剥がれた石畳と、素人目にもわかる塗り直しが必要な壁は、どこか貧乏性に見えて、一方で厳かですらある。
けれど、その外見とは打って変わって、一歩教会の中に足を踏み入れると、そこはもう宗教的空間だ。いくつか並んだ長椅子の最前列で、神父はいつも僕を待っていた。
彼は背もたれに身体を預け、その身を教会の中に溶け込ませる。まるで、彼も教会の一部のように。
「別れた奥さんをお恨みになっても、誰も怒りませんよ。我々の教えはそれを許しなさいと言いますが、裏を返せば、人が人を恨むこと、裏切られて怒りを抱くということは、自然に出てくる感情なのですから。もちろん、復讐を企まない程度に、ですがね」
神父は俗っぽいでしょう、と笑う。
どこか人懐っこい笑みだった。
「人は、愛という言葉に幻想を抱き過ぎているんです」
「幻想、ですか」
「ええ、幻想です。まあ、この場合の愛とは、教義におけるものとはずいぶん違いますが」
そう前置きをして、神父は教会のステンドグラスを見上げた。
聖母マリアの慈愛に満ちた瞳が僕と神父を見下ろしている。
どこまでも優しく、その温かな光で包み込むように。
「全てにおいて完璧な人間などおりません。神ですら、完璧ではないのです」
それは神父が言う台詞としては不適切に思えた。
戸惑う僕に彼は苦笑する。
「だって、そうでしょう? 神が完璧ならば、神の作ったこの世界も完璧でなければならないのですから。ところがどうです? この世界は不完全なことばかりではありませんか。まあ、矛盾だらけなのですがね。聖書の教えも。我々の理解が足りないのでしょう。あるいは素直さが」
神父はそう言ってカラカラ笑った。
そんなことを言っているから神学校ではいつも怒られていた、と自嘲して。
「岡野さん。あなたは神様を信じる前に、もっとご自分のことを信じておやりなさい。もっとご自分のことを大事になさい。ご自分が大切だと思うものに、真摯に向き合いなさい。自分を愛せぬものに他人を愛することが、どうしてできましょうか。あなたに必要なのは人を許すことではなく、まずご自分を許すことではありませんか」
今日はこれで終わりにしましょうか、と神父は胸の前で十字を切った。
お決まりの文句を呟いて。
教会から出ると、今朝から続く曇り空は少しだけ青空を覗かせていた。
光の梯子が大地に降り注ぐ。
その光景に神秘性を抱くほど、僕は素直にはなれなかった。
「自分を許す、か」
それができたら、どんなに気楽だろう。
元妻が離婚を申し出たとき、僕は自分を責めた。
彼女を責めたことは一度もない。
僕が自分に子どもを作る能力がないとわかったとき、遅かれ早かれこうなるのではないかと思っていたから。
とうとうこのときが来たか、とその程度の感覚だった。
いつからだろう。
愛している――その言葉が薄ら寒く聞こえるようになったのは。
*
駅前の桜並木は、青々と新緑が芽吹いていた。
道端には散った花弁すら落ちていない。
普段は自宅と近隣のスーパーや銀行を行き来しているだけのせいで、季節の移ろいに無関心だった。
こうして外出すると、もう春が過ぎ、すぐそこまで夏が迫っていることに驚く。
時間が進むのが早くなったのはいつからだろう。
毎年のように、いつの間にか春がやってきて、夏が過ぎ、秋が顔を見せたと思ったら、冬が終わろうとしている。そして、また春がやってくる。
そんなものなのかもしれない。
腕時計を見ると、ちょうど正午を過ぎている。
平日の昼間とはいえ、お昼時は人も多い。
人気店には多くの行列ができていた。
たまには昼食ぐらい外で食べようと思ったけれど、この様子なら家に帰った方がいいかもしれない。
今頃、恭子はお昼ご飯だろうか。
いつも僕が作ったお弁当を空にして返してくれる。
今日は一日外回りでいらないと言われたけれど。
それにしても、恭子は僕と暮らし始めて三年が経つというのに、彼女のプライベートはどうなっているのだろう。
二十五歳といえば、もっと友人や恋人と一緒に過ごしてもいいだろう。
確かに彼女の事情を考えれば、恋人をおいそれと作る気にならないのは想像がつく。
けれど、それにしたってもう少し女性の友達と一緒に出かけてもいい。
たまに付き合いで飲みに行くこともあるけれど、決まって夜の十一時には帰宅するのだ。
休日には時々出かけるけれど、友達と遊びに行くこともなく、近所の本屋に行って帰ったり、美容院だけ行って帰ったり。
もっと遊んでくれば、と一度尋ねたことがある。
すると恭子はこう返した。
こっちに友達いないから、と。
会社の同僚はどうかと重ねて尋ねると、それは同僚であって友達ではないと言われた。
そう言われたらもう返しようがない。
駅前の公園のベンチに腰掛けてぼうっとする。
湿った地面に鳩が首を揺らして歩き回っていた。
まだ三歳にも満たない男の子が鳩を追い回している。近くでそれを見守っている母親は幸せそうな笑顔とは対照的に、どこか疲労を訴えていた。
元妻は今頃どんな生活をしているのだろう。
彼女が産んだ子どもは、今はあの男の子ぐらいに成長しているはずだ。
結局、不倫相手と再婚することができなかった彼女は、一度だけ僕のもとに返ってきた。
一週間だけ置かせて欲しい、と。
実家からも追い出されたのだという。そのとき初めて、間男にも妻子がいたことを知った。
すぐに住む場所を見つけて出て行くからと言ったけれど、僕はそれを了承できなかった。
恭子が間借りしていたから、空き部屋がなかったのだ。
もし恭子が住んでいなかったら、僕はきっと元妻に部屋を貸していただろう。
彼女とよりを戻すつもりはなかったけれど、彼女の顔を再び見たとき、僕は素直に嬉しかったから。
僕は元妻を追い返すしかなかった。
財布に入っていた現金を全て渡して「これきりにしてくれ」と。
それは元妻にとって最後の情けであったろうし、僕にとっても最後の別れだった。
以降、元妻から一切の連絡はない。
気づけば、母子はどこかにいなくなっていた。
天敵がいなくなったからなのか、鳩の群れは安心したように何かを啄みながらうろついている。
朝ならば忙しなく駅に入っていく人並みも、今は疎らで、ゆったりとした時間が過ぎている。
ぼんやりと眺める光景はひどく緩慢で、ベンチに腰掛ける僕だけが、移ろいゆく季節に引きずられているようだった。
「夕飯、何にしようかな……」
おかしいな。
まだお昼も食べていないのに。
それがなんだかおかしくて、僕はメールを打つ。
今日の夕飯、何が食べたい?
雲間に覗く、すっぽり空いた青空を添えて。
【恭子】
興味のない男から言い寄られるのは、いっそ嫌悪感すらある。
そのことを目の前の男は少しも考えたことがないらしい。
「海部さん、このあとは会社に戻るの?」
「いえ、課長が今日は直帰でいいと」
私の部署は、基本的に取引先と直接対面することがない。
こうして会社の外で取引先と直接やりとりをするのは新鮮で、けれど面倒でもあった。
担当の営業マンに連れられて行ったはいいものの、積算の私はそれほど役に立つわけでもない。
用意した資料で十分だった。
いくつかすぐには答えられない質問もあったけれど、可能な範囲で大凡の見通しを示せば、相手はそれで納得してくれた。
営業も持ち前のトークスキルで商談を上手くまとめた。
その様子を見ると、社内で営業が偉そうにしているのも理解できた。
確かに、彼らには仕事をとってきて会社の利益を出しているという自負があるのも頷ける。
「海部さんってさ、彼氏いないの?」
取引先の社屋から出て数分のところで、営業の佐々木は私に尋ねた。
どうでもいい世間話のつもりなら、わざわざ質問しないで欲しい。
「いませんが、それが何か?」
「いや、別に。ただちょっと興味があって」
興味というのは、ずいぶん一方的だ。
少なくとも私は佐々木に小指の甘皮ほどの興味さえない。
「ほら、海部さんって美人なのに無愛想っていうか、なんか冷たい雰囲気あるだろ?」
「意識したことはありませんね。業務に差し障りがあるようなら改めます」
「ああ、そんなつもりで言ったんじゃないから、そこは安心してよ」
安心するも何も、私の無愛想で誰かに迷惑をかけた覚えは一度もない。
背が高くて顔もよく、営業成績も好調な佐々木の明るさからすれば、確かに私は暗い人間なのかもしれない。
「ただ、もったいないなって。笑ったらきっともっとかわいいのに」
唐突に頬に触れられて、私は彼の手から逃れるように一歩後ずさる。
不思議そうな顔で驚いている彼に、冷静に注意した。
「触らないでください。驚きます」
「これは失礼。気をつけるよ。でも、そんなに怒ることないじゃないか」
佐々木は困った顔で肩を竦める。
私からすれば、赤の他人である男から急に触れられることほど嫌悪感が募る出来事はない。
でも、こうして反応できるようになった自分に少しホッとする。
それと同時に、自分が変わっていく不安もある。
たぶん、陸さんの優しさに触れてしまったからだ。
裏のない同情と、濡れた憐憫の温かさに抱き締められてから、私は自分を騙せなくなった。誰かの欲望に身を任せることが怖くなった。
いや、それも違う。
私はずっと怖かった。怖くて逃げ出したくて、でも、誰かに支配されることに安堵していた。乱暴で、虚飾に塗れた偽物の愛とやらでさえ、とてもかけがえのないものだと信じていたのだ。
マナーモードにしていたスマートフォンを取り出す。
メールが一通。送り主は陸さん。
「ねえ、海部さん。このあと一緒に夕飯でもどうかな。連れていきたいお店があるんだ。きっと気に入ると思うんだけど」
「いえ、遠慮しておきます」
陸さんが夕飯を作って待っていてくれるのだ。
どうして好きでもない男と二人きりで食事をしなくちゃいけない。
「ええ、別にいいじゃない。せっかくだからさ」
それは佐々木にとってのせっかくであって、私にとって一抹の惜しさもない。
「夕飯を作って待ってくれてる人がいるので帰ります」
「海部さんってひとり暮らしだったよね?」
「それ、いつの情報ですか?」
そういえば、火事のあと、とくに誰かに説明もしていなかった。
課長には間借りしたと報告したけれど、誰の家とも言っていない。今頃間借りだなんて珍しいと言われたぐらいで。
それではまた明日、と駅に向かって歩き出すと、佐々木は私の腕をつかんだ。
軽い痛みに思わず顔をしかめた。
「……なんですか?」
「今日がダメなら、次はいつ空いてる?」
「基本いつでも空いていますけど」
「じゃあ、明日はどうかな。一緒にご飯」
「二人きりで、ですか」
「もちろん」
「お断りします」
唖然とする佐々木の手を振り払って言う。
「社長も業務に不要な付き合いには出席しなくていい、と仰っていましたから」
女性社員にモテるからといって、私がほいほい付いて行くと思ったら大間違い。
佐々木みたいに強引な男を、私は好まない。
でも、少し笑ってしまう。
きっと一昔前の私なら、断ることもせずに付いて行って、そこそこのレストランで食事をして、安っぽいラブホテルに連れ込まれていただろうから。
そうして、飽きて捨てられる。
パンケーキより薄い愛してるに騙されて。
「わかった。じゃあ、最寄り駅まで送るよ。それぐらいはいいだろ?」
「不要です」
「まあまあ、男の義務ってやつだよ」
佐々木は何が楽しいのか私の隣を歩き始める。
駅のホームで電車を待つ間も、彼は浮かれている様子だった。
この調子なら、駅に着いても家まで送ると言い出しそうだと思ったら、案の定そうなった。
「ついてこないでくれますか?」
「だから、家まで送るって。女の一人歩きは危ないし」
「全然明るいですけど」
「まあまあ、そう言わずに」
彼はきっと押しの強さで女性をものにしてきたのだろう。
男前だし、普通の女性がこの強引さに負けてしまうのはなんとなく理解できた。
このまま帰宅して家の場所を知られるのも嫌で立ち止まる。
ほとほと困り果てた私を、聞き慣れた声が呼んだ。
「恭子さん?」
とっさに振り向く。
そこにはスーパーのレジ袋をぱんぱんにして両手がふさがった陸さんがいた。
いつも通りの温かい微笑みを浮かべて。
彼は私の隣にいる佐々木を一瞥して、それから困ったように小さく息をつく。
「おかえり、恭子さん」
「……ただいま、陸さん」
佐々木は混乱しているようだった。
そんな彼に、陸さんはゆっくりと歩み寄り、私に尋ねた。
「こちらは?」
「うちの営業の佐々木さん。出先から送ってきてくれたの」
「そう」
陸さんは私が見たことのないよそ行きの笑顔を貼り付けて佐々木に言う。
「わざわざ送っていただきありがとうございます。うちの恭子がご迷惑をおかけしたみたいで」
佐々木は顔の前で手を横に振る慌てようだった。
まさか私を待っているのが男だとは思わなかったのだろうか。
それにしても、うちの恭子だなんて台詞は初めて聞いた。
方便で助けてくれようとしているのはわかっていても、どうしてか心が落ち着かない。
「お宅の社長はお元気ですか?」
「え?」
「先日お会いしたときはお疲れの様子でしたから」
「あの、失礼ですが……」
佐々木の怪訝な表情に、陸さんはレジ袋をひとつ私に預け、胸ポケットから器用に片手で名刺を取り出した。
「こういうものです。岡野陸と申します。猪川さんには長らく懇意にさせてもらってます。最近はちょっとご無沙汰気味ですが、どうぞよろしくお伝えください」
陸さんの名刺を初めて見た。
肩書きに投資アドバイザーとある。
彼がうちの社長の名前を知っているなんて、私も佐々木と同じように驚いてしまった。
「それじゃあ、帰ろうか」
陸さんは私に預けたレジ袋を優しく奪い、佐々木に軽い会釈をして歩き出す。
しばらく歩いてから振り返ると、佐々木が意気消沈した様子で駅に向かう後ろ姿が見えた。
「ねえ、陸さん」
「なんだい?」
「うちの社長と仲いいの?」
すると彼はカラカラと笑った。
「あんなのデタラメだよ。嘘じゃないけどね」
詳しく聞くと、以前勤めていた会社で担当していた顧客のひとりが、うちの社長だった。
退職の際、挨拶をしたけれど、その後も投資関連のセミナーなどでしばしば顔を合わせる仲なのだという。
「だから、個人的な親交はないよ。ビジネストークの範疇だったでしょ?」
確かに。仲がいいような口ぶりだったけれど、肝心なことは何も言ってない。
「佐々木さんが社長に報告したらって思わなかったの?」
「猪川さんが僕を忘れていても、逆に怒られるのは彼だと思うけどなあ」
「どうして?」
「だって、僕は彼の名刺なんてもらってないもの」
「ああ、なるほど」
社長の性格を考えると、確かに怒られそうだと思った。
何かにつけて、相手を見て商売相手かどうか考えるやつは馬鹿だ、というのが社長の口癖でもある。社員ひとりひとりが歩く広告塔である、と内定式で言われたことは今でも覚えている。
「それにしても、恭子さんのところの社長はやっぱり変わってるよ」
「そうかな。いい経営者だと思うよ。残業もないしね」
「まあ、あそこは重役のバイタリティーで稼いでるところあるからね。それに彼ね、びっくりするくらい記憶力がいいんだ。とくに人の顔と名前は何年経っても絶対に忘れない」
「ああ、それは……」
ちょっとだけ、佐々木が不憫になった。
「ねえ、陸さん」
「なんだい?」
「陸さんもあんな営業スマイルできたんだね」
「昔取った杵柄ってやつだよ」
入社して一ヶ月はずっと笑顔の練習だったからね、と彼はおぞましいことを言った。
社長から陸さんに電話があったのは、それから数日後のことだ。
【陸】
恭子の姿が目に入ったとき、僕はなぜか高揚した。
けれど、その傍に見知らぬ男がいることを知って困惑する。
自分の気持ちに納得ができないまま、僕は恭子に声をかけた。
隣にいた男は佐々木という彼女の同僚だった。
ずいぶん男前だ。背も高いし、慌てた様子でも声に芯がある。
きっと営業マンとして促成栽培されたのだろう、と益体もないことを考える。
見た目は三十歳を過ぎたぐらい。ちょうど男盛りだけれど、相手を前にして慌てた時点でもう負けだ。
すごすごと帰って行く佐々木の後ろ姿を見ることもなく、僕は恭子を連れて帰宅した。
「ごめんね。メール返せなくて」
「仕事中にメールした僕が悪かったんだ」
靴を脱ぎながら恭子はそんなことを言う。
彼女の申し訳なさそうな顔に、佐々木の慌てた様子が思い起こされて、なんだか釈然としない。
「着替えてくるね」と恭子は自分の部屋に入った。
僕はレジ袋を持ってキッチンに行き、食材を冷蔵庫にしまって小さく息をつく。
麦茶で喉を潤して、今日の夕飯について考えた。
いつもは行かない駅近くのスーパーに立ち寄ったら、キャベツと豚肉が安かった。
豚肉は冷凍することを考えて少し多めに、キャベツはとりあえずひと玉。
冷蔵庫の調味料を確認すると、甜麺醤と豆板醤を発見。
棚の香辛料を見れば八角もある。
「うん。今日は回鍋肉にしよう」
「中華だね」
いつの間にか、恭子がエプロンをつけて後ろに立っていた。
少し驚いて、すぐに取り戻す。
まずは豚肉。
ブロックで買ってよかった。
豚バラの塊から余分な油を切り取る。紹興酒、長ネギ、八角に塩と砂糖を加えたお湯を沸かして、その中に。
中火で三十分も火を通したら取り出し水気を切る。
塊肉を五ミリ幅の一口サイズに切り分けたら、軽く片栗粉をまぶす。
フライパンにサラダ油をひいて、煙が出るくらい熱したら、強火で焦げ目をつけるように炒める。
もう火は通っているから、中の柔らかさを損なわないように表面だけ。
そうしてざく切りにしたキャベツを入れて、油を絡めるように炒めていく。
色味が足りないので、野菜室にあったピーマンを手早く切って放り込む。
キャベツがしんなりして、まだ瑞々しさを残した色合いになったら、そこに甜麺醤と豆板醤を適量。
恭子は辛いのが苦手だから、甜麺醤を多めに。
全体に絡んだら茹で汁を少量加えて、水溶き片栗粉でとろみをつけて完成。
色んなやり方があるけれど、僕は後片付けとか調理のしやすさとかの理由でこういう作り方に定着した。
「いい匂い。早く食べよ」
「うん。もう一品」
「冷めちゃうよ?」
「切るだけだから大丈夫」
冷蔵庫から冷たいトマトを取り出してスライス。
食べるラー油とポン酢を混ぜて上からかける。あっという間に中華トマトの出来上がり。
「食べよっか」
「今日はなんにする?」
恭子はそう尋ねるけれど、手はもうビールをつかんでいる。
それぞれ違う種類だけれど、今日は中華だから辛口のスーパードライで。
冷蔵庫で冷やしておいたグラスに泡を立てるように注いだら、落ち着くのをまってゆっくり注ぎ足す。
激しい炭酸が適度に落ち着いてくれる。
「じゃあ、乾杯」
「かんぱーい」
妙に間延びした声に苦笑してビールを一口。
がつんと炭酸が口の中で暴れ回る。けれど、喉を通れば癖になる清涼感。
会社勤めをしていたころは、帰宅したらまずビールだったっけ。
「んー、美味しっ」
今日はなんだか恭子さんの声も明るい。
早速回鍋肉に舌鼓を打っている。表情があまり動かない彼女がにんまりと微笑んでいるのを見ると、僕もなんだか嬉しくなる。
僕も箸を手に取って回鍋肉を小皿に分ける。
やっぱりこれは豚肉とキャベツのバランスが大事。
分厚い豚肉にキャベツを二枚、いや、三枚。
甘辛いタレをしっかりまとわせて、舌に乗せるように口の中へ。
噛めばキャベツのざくざくした食感がやってきて、豚肉の甘みが広がる。
キャベツの甘みを感じると、すぐに甜麺醤の甘みが追いかけて、しつこくなりそうなところを豆板醤がしっかり締めてくれる。
飲み下せば鼻から抜ける八角の香り。甘さに隠れたほろ苦さがコクを演出する。シナモンよりもずっとスパイシーだ。見事に安い豚肉の臭みを打ち消してくれている。
忘れてなるものかとビールを流し込む。
なんだか口の中が慌ただしいったらない。
けれど、美味い。
僕が二十代ならこれでご飯三杯はいける。もちろん、全部大盛りで。
恭子は、ビールの方が進むみたいだ。
「聞いてよ、陸さん」
「どうしたの?」
「佐々木さんのこと」
「ああ、さっきの」
恭子が愚痴をこぼすなんて珍しい。
素直に耳を傾ける。
「今日は課長から直帰していいって言われてたから、まっすぐ帰りたかったの」
「うん。それで?」
「そしたら、取引先出たところで佐々木さんがいきなり彼氏いるの? って」
「なんて答えたの?」
「いないって答えたよ。そしたらこれから夕飯一緒にどうかって聞かれて断ったの」
「それはまた急だね」
「うん。今日は無理って言ったら、じゃあ明日はって。いつでも空いてるけど、私あの人とは一緒に夕飯なんて食べたくないな。でも、断らない方がよかったかな?」
「さあ。仕事の付き合いならまだしも、とくにそういうのじゃないんでしょ?」
「わかんないけど、そうだと思う」
「だったらいいじゃない」
佐々木はモテそうだと思ったけれど、恭子を狙っていたのだろうか。
見た目で判断するのもどうかと思うけれど、彼が恭子に興味を持つのは、なんだか違和感がある。
我が家では無愛想もなりを潜める恭子だけれど、彼女曰く会社では根暗な部類らしいし、あまり佐々木から好意を抱かれるとは思えない。
それも僕の想像だから、本当は佐々木が彼女の魅力に気づいただけなのかもしれないけれど。
それに彼はおそらく三十歳を過ぎたあたりだろうから、色んな女性に手を出したいお年頃なのかもしれない。
「美人なのにもったいないとか言われちゃったよ」
「へえ、そうなんだ」
「私って別に美人じゃないと思うんだけど」
「そう? 恭子さんは美人だよ」
すると、恭子は意外そうに目を点にした。
そして、何かに気づいたように顔を赤くする。
そういえば、あまり褒められることに慣れていないんだったっけ。
「でも、やっぱり私はあの人苦手だな。嫌いとまでは言わないけど」
「どうして?」
「なんだか強引なんだもん。自分が好意をもたれて当然って態度がちょっといけ好かない」
「イケメンだもんね」
「仕事もできるしね」
「そうなんだ」
「うん。会社の女の子からは人気あるよ。独身ってのもあると思うけど。恋人がいるって話も聞かないし」
「詳しいね」
「聞かなくても耳に入るんだよ。興味なくても何回も聞いたから覚えちゃった」
なんだかモヤモヤする。
どうしてだろう。
恭子が佐々木の話をしていると、妙に落ち着かない。
心なしか懐かしい感覚だ。
まるで恋をしているみたいに。
きっと、年の離れた妹を心配する兄みたいな心境なのだろう。
そう思うと、心なしか腑に落ちた。
恭子と佐々木という組み合わせを見たときの焦燥感は、きっとそういうことだったのだ。
「その気がないなら、はっきりと断るのも相手のためだよ」
「角が立たない?」
「色恋沙汰なんて、引き延ばす方が残酷だよ」
「そっか。そうだよね」
そう。引き延ばされても、何もいいことなんてない。
無駄な優しさでその場を取り繕っても、どうせ後で綻びるのだから。
「ねえ、陸さん」
「うん?」
中華トマトを口の中に入れたまま顔をあげる。
真剣な目つきの恭子が僕を見つめていた。
「陸さんは、その……。ううん、やっぱりいいや」
「気になっちゃうよ」
「なんでもないよ。気にしないで。大した話じゃないから」
困ったようにビールを飲む恭子の様子は、僕の心に踏み込むのを躊躇しているように見えた。
それは、今まで通りの日常を守るための遠慮だったのかもしれない。
もう一歩。その小さなきっかけを、自分から切り出せない僕を、彼女は卑怯だと思うだろうか。
恭子との平穏な日常に甘えている僕を。
【恭子】
再婚は考えてないの?
ただそれだけの質問を、口に出すことはできなかった。
できるわけがなかった。
それは、私たちの間にある暗黙のルールを壊すことだったから。
でも、どうしてだろう。
どうして急にこんなことを聞こうとしたのだろう。
自分でも、自分がわからない。
つきまとう佐々木に困り果てたとき、陸さんが現れたのは偶然だった。
でも、その偶然に私はホッとしたのを覚えている。
彼の顔を見た瞬間、硬かった自分の顔が意図しないうちに柔らかくなったのも。
佐々木を追い払った陸さんの作り笑顔には驚いたけれど、知らなかった彼の一面を見ることができて、不意に嬉しかったことも。
私はこの感情に説明ができないでいる。
もし、陸さんが私の知らない女性を連れてきて、再婚するからこの家を出て行けと言ったら、私はどんな気持ちになるのだろう。
それは想像しただけでなんだか胸が苦しくなる。
彼の幸せを思うと、私はきっと邪魔になる。
だったら今のうちから出て行けばいい。
でも、もう少しだけ、もう少しだけでいいから、彼の傍にいたい。
彼の傍で、一緒にご飯を食べて、一緒にお酒を飲んで、下らない話に花を咲かせる。そんな日常を望むのは、私のわがままなのかもしれない。
こんなことをいつまで続けるのだろう。
もう三年が経った。
最初はただの同居人。
いつの間にか、私は陸さんのことが頭から離れなくなっている。
陸さんはどうなのだろう。彼は私のことを、今でもただの同居人だと思っているのだろうか。
もしそうだとしたら、なんだかちょっぴり切ない。
いつまでも子ども扱いされてるみたい。彼は私を大人の女として見てくれているのはわかるけれど。煮え切らない――それも違うけれど、なんだかモヤモヤする。
今日の夕飯はなんだろう。
そのとき思い浮かべるのは、料理のことじゃない。
向かいの席で私を見つめて苦笑する、陸さんの顔なんだ。
たぶん私は、この生活に変化が起きることを恐れている。
陸さんとの同居生活が安穏としすぎていて。
「ずるいよね」
「何が?」
口に出してしまって、慌てる。
不思議そうに私を見つめる陸さん。
ビールを飲んで首を横に振る。
空っぽになったグラスの底には一粒の泡が取り残されている。
陸さんが――その言葉を代わりに飲み込んで。
なんだか酔っているみたいだ。
彼の微笑みに溺れて。
「陸さんは、私がずっと居座って迷惑じゃないの?」
「どうして? 僕はむしろ恭子さんと一緒にご飯を食べるのが毎日楽しいのに」
「そっか。ならいい」
「うん」
首を傾げつつも頷いて、陸さんはそれ以上何も言わなかった。
もしここで、私が抱いて欲しいなんて言ったら、彼はどんな顔をするのだろう。
そんなイタズラ心は、きっと彼を傷つけてしまうだけなのに。
時々、彼はお酒を飲み過ぎると別れた奥さんの話をする。
最初から結婚しなければよかったのだと、妻に辛い思いをさせてしまったのだと。
悪いのは不倫した元妻なのに、陸さんは今でもその女性の人生を狂わせたのだと後悔している。
それがなんだか悔しい。
陸さんがどれだけ奥さんのことを愛していたか。私はよく知らない。
でも、もし時間を巻き戻せるのなら、彼が離婚する前に戻って、その女に何時間だって説教してやりたい。
離婚するならすればいい。私はあなたよりずっと彼を知っている。彼の全てを受け入れて許してしまうところも、悪くないのに自分を責めてしまう臆病さも、本当は苦しくて悲しくて寂しいのに、それを全部自分の中に溜め込んで、それでも私のために泣いてくれるほど優しいことも、全部。
だって、私は陸さんを――唇を噛む。
違うビールに変えたから、妙に苦みが舌に残った。
本当に言いたいのはそんなことじゃない。
本当に聞きたいのは、そんなことじゃない。
陸さんは色んなことを諦めている。
誰かから期待されることも、誰かにわがままを言うことも。
「どうしたの? 具合でも悪い?」
「ううん、大丈夫。ちょっと考え事」
それでも彼は、私を心配してくれる。
それが本心からなのか、形だけなのか、私にはわからない。
でも、それを嬉しいと感じてしまう私は、とてもずるい女なのかもしれない。
別れてくれた奥さんに感謝する、もう一人の恭子が私の中にいる。