箸休め お粥と玉子スープ
【陸】
珍しく風邪を引いた。
五月の半ばを過ぎて、夏日が数日続いたこともあり、扇風機を回しっぱなしにしていたせいかもしれない。五月雨と、それに伴う急な冷え込みにやられた。
いや、きっかけはそれじゃない。
恭子がどこかから風邪をもらってきたので看病した。
体調を崩しても、恭子は食欲が減衰しないタイプらしく、食事だけはしっかり食べていた。
比較的あっさりしたメニューにしたはずなのに、お肉が食べたいなんて言い出してちょっと呆れたくらいだ。
それだけなら微笑ましいエピソードのひとつなのに、見事に風邪をうつされてしまった。
僕は恭子とは正反対で、風邪を引くと食欲が失せる。
長引かないタイプだけれど、丸一日何もせずに寝てしまうのだ。
「今朝は簡単でごめんね」
「十分豪華だと思うけど……。大丈夫?」
朝食はご飯と味噌汁。それから甘塩の鮭に目玉焼き。
キャベツの浅漬けはすりゴマを振って、ほうれん草は白和え。
つくづく昨晩のうちに仕込んでおいて正解だった。
「大丈夫。一日寝れば治るよ。昔からそうなんだ」
「お薬は?」
「ひとまず解熱剤は飲んだかな。明日もこの調子なら病院行くよ」
「今日行きなよ」
いつになくきつい口調で恭子が言う。
心配してくれるのはありがたいけれど、僕は病院が嫌いだ。
小さい頃からなんだか苦手なのだ。とくにあの消毒用アルコールの匂いが。
「行けそうだったら行くよ。でも、今はちょっときついから、もうひと眠りしてからにする」
恭子は決まりが悪そうに頷く。
「ごめんなさい。私が風邪なんてもらってきちゃったから、陸さんにうつしちゃったね」
「恭子さんのせいじゃないよ。最近暑かったからちょっと油断していた僕の自己責任。自己管理ができないだなんて、四十歳なのにちょっと情けないよ」
「風邪のときぐらい甘えていいのに」
風邪でも甘えられないのが四十歳。
咳は出ないし、鼻水もない。
けれど、とにかく頭がガンガンして熱っぽい。関節痛もひどくて怠さのせいか力が入らない。
「もう一回寝るよ。食べ終わったら汚れ物はシンクに置いたままでいいから。起きたらやっとく。余ったのは――」
「ラップかけて冷蔵庫だね」
「うん。ごめんね」
「謝らないで。陸さんにはいつも感謝してるんだから」
彼女の不安げな瞳に促されるように、僕は寝室に戻るとベッドに倒れ伏した。
記憶が途切れたのは、恭子が玄関を開けるよりもずっと前だ。
【恭子】
陸さんが体調を崩した。
珍しい。彼は滅多に風邪を引かない。
原因はきっと私だ。
数日前にたちの悪い風邪をどこかでもらい、陸さんが三日三晩看病してくれた。
熱がひどくて、陸さんは私が寝ている間、一時間おきに濡れタオルを取り替えてくれるほど献身的だった。
普通そこは逆じゃないのか、と自分を諫めたのはあとの話。その時はそれどころじゃなかったのだ。
陸さん本人は自己責任だと言うけれど、たぶん私を昼夜問わず看病した疲れが出たんだと思う。
それでも朝食はいつも通りだ。
確かにいつもより一品少ないけれど、それで手抜きだとは思わない。
というか、陸さんの作る朝食は理想に過ぎる。
彼の作った朝食はいつも通り美味しかった。
とくにほうれん草の白和えは干し椎茸の風味が香る一工夫。
でも、ひとりで食べるとなんだか味気ない。
正直、私も陸さんに甘えていたんだと思う。
出社する前にこっそり寝室を覗いたら、彼はこんこんと眠っていた。
まるで意識を失ったみたいに。眠っているのだからその通りなのだけれど。
枕元に水差しとグラスを置いておく。
いつも優しい笑みで送り出してくれる陸さんの「いってらっしゃい」が聞けないのは、ちょっぴり――いや、とっても寂しかった。
満員電車に揺られて会社に着くと、課長がコンビニのサンドイッチを食べていた。
彼は自宅が遠いので朝が早い。朝食は決まって会社に着いてから食べる。
半年に一度あるかないかの気遣いで、コーヒーサーバーから熱々のコーヒーを淹れて課長のデスクに置く。
彼は珍しいものでも見たように目を剥いて驚いた。仕方がない。
私はそんな気遣いを普通しない。会社のスタンスとして部下が上司の世話を焼くことはあまり推奨されていない。そんなことをする暇があるなら業務に集中しろと言われるのがオチだ。
たぶん今朝の陸さんを見たから、いつもの奥さんお手製のおにぎりではなく、市販のサンドイッチを食べている課長に気を遣ってしまったのだ。
今は始業時間前だし、これくらいしても罰は当たらない。
「海部さん、何か良いことでもあった?」
「課長こそ、いつものおにぎりではないようでしたから」
すると課長はそうなんだよね、とため息をついた。
「妻が昨日の夜から体調を崩しちゃってさ。働き者で世話焼きな性格だからね、きついのに俺の世話を焼こうとするんだよ。自分でできるから寝てろって無理やり寝かしつけたはいいけど、普段から家のことは妻に任せてるもんだから、キッチンなんてどこに何があるのかもわからなかったんだ。本当はおにぎりぐらい自分でできると思ってたんだけど」
妻がいなきゃ何もできないなんてちょっと情けないよ、と課長は苦笑する。今日は妻の好きな駅前のプリンを買って帰ろうだなんて言う彼は、きっと優しい夫なんだと思う。
奥さんの容態を訊くと、たぶん風邪だろうと返ってきた。
「海部さんも風邪が治ったみたいでよかったよ。仕事はちょっと溜まっちゃったけど、俺もできるだけやっておいたから。まあ、無理しない範囲で頑張って」
「はあ、どうも。ありがとうございます」
「いいって、そういうのはさ。海部さんは裁けるし、上司として頼りにしてるんだから」
課長は素直に考えを言うタイプの人だけれど、ここまで明け透けに褒められたことはなかった。少し顔がにやついていたのか、私の顔を見て苦笑する。
「普段から、それぐらい表情豊かだとかわいいのに」
「セクハラですよ」
「げっ、本当!?」
「冗談です。でも、人によるので気をつけてくださいね」
「基準を教えてくれよ、ほんと。軽口も言えないんじゃ息が詰まっちゃうよ」
とほほ、とわざとらしく声に出す課長は、なんだか少し面白かった。
もしかして、陸さんに褒められるときも、私はにやついているのだろうか。ちょっぴり恥ずかしい気もする。
「課長も、風邪が流行ってるみたいですから、気をつけてくださいね」
「俺は大丈夫だって。生まれてこの方風邪知らずだからさ」
それは羨ましい。
でも、去年の冬は鼻水を啜っていた。
もしかすると、風邪を引いたことに気づいてないだけの可能性もある。
言わない方がきっと課長のためだ。
【陸】
夢を見た。
子どもの手を引いて歩く元妻の後ろ姿。
子どもを挟んで反対には、僕の知らない男がいた。
後ろ姿だったのに、時折楽しそうに談笑する妻の横顔が見える。
絵になる典型的な幸せの形がそこにあった。
胸が苦しくなって、けれどその光景から目を離せない僕を、誰かが腕を引っ張って振り返らせる。
驚く僕。
その華奢な指先は、予想以上の強さで僕を引き寄せて抱き締める。
耳元で囁く声が聞こえるのに聞き取れない。
そっと顔を上げようとして、目を覚ました。
「陸さん、陸さん」
僕の額をそっと撫でる恭子の顔が近くにあった。
まだ夢かと思ってそっと彼女の頬に手を伸ばす。
嫌がらない。やっぱりこれは夢だ。
すべすべの頬は少し赤みを帯びて、撫でると彼女は目を細める。
「嫌な夢でも見た? すごい汗」
「ううん」
とっさに嘘をつく。
今、恭子と見つめ合ってお互いの肌に触れ合っている。
これはきっと良い夢だ。
さっきまでの苦しかった夢が一瞬で塗り替えられていくのが自分でも不思議だった。
僕は彼女に恋愛感情なんて抱いていないはずなのだから。
「起きたなら、ご飯にしよう。お粥作ったから」
緩慢な動作で立ち上がって、恭子は僕の寝室から出て行った。
しばらくぼうっとして、それからようやく僕の頭は覚醒する。
「……夢じゃなかった」
顔が熱い。
恭子には事情がある。
最初の出会いは衝撃的だった。
けれど、それが彼女の本質でないことを僕は知っている。
恭子は、本当は男が怖いのだ。
怖くて、遠慮なく触れるその手に怯えている。
その一方、暴力に等しい欲求を受け入れることで、彼女は自分が汚れた存在であることを確かめようとする。
支配されることで、自分の居場所を見つけようとする。
「しくじった」
まだ頭がぼんやりする。
いつもだったら、決して自分から彼女に触れようだなんて思わないのに。
こめかみを押さえてゆっくりと立ち上がる。
サイドテーブルの置き時計を見る。短針が七の位置にある。
ほとんど十二時間近く眠っていたようだ。
道理で少し、腰が痛い。
頭痛や気怠さは多少良くなった。けれど、まだ熱っぽさが残っていて、身体を動かすと力が抜けていくような感覚がある。
洗面所で顔を洗って口をゆすぐ。
少し意識がはっきりする。
鏡を見る。ひどい顔だ。
ダイニングの扉を開ける。
エプロン姿でキッチンを動き回る恭子の姿が目に入った。
その忙しなさはどこかぎこちない。けれど、その一生懸命な後ろ姿に自然と心が温かくなった。
「座って待ってて。すぐにできるから」
彼女は僕が来たことに気づいてそう言った。
言われるままテーブルにつく。
力なく椅子に腰掛けて、ぼうっと彼女の姿を見つめていた。
やがて、食卓には料理が並ぶ。
料理とは言っても、お粥と玉子スープ。それから冷蔵庫にあった梅干し。今朝の残り物のほうれん草。
「食べよ。食欲ある?」
「うん」
恭子は僕の対面に座って微笑む。
なんだか不思議な気分だった。
箸を手に取って玉子スープの入ったお椀に口をつける。
昆布出汁が渇いた喉を温めながら潤していく。
食道を伝って胃の粘膜を覆い、その形が感覚的にわかった。
溶き卵はふわふわと口の中で蕩けていく。
「おいしい」
「よかった。ゆっくり食べてね」
恭子の言葉に頷いて、僕はお粥を口に運ぶ。
僕のつくるどろりとしたものよりも、ずっと水っぽい。
さらさらしたお粥を流し込むように口に入れる。
粒の食感が微かに残る。米の甘みは優しさ。刺激もなく、ただゆっくりと染み渡るように舌全体に甘みが広がる。
飲み込むごとに、身体の内側が熱を持つ。
身体から抜けていった力が戻ってくるようだった。
【恭子】
いつもご飯を作ってくれる陸さんの気持ちが、なんだかわかったような気がした。
まだ気怠そうにぼうっとしている彼は、ゆっくりした仕草で食事を始める。
一口、二口と進むにつれて、いつもの陸さんに少しずつ戻っていくような、そんな感じがした。
陸さんは心ここにあらずといった様子で玉子スープを口に含み、呟くように感想を告げる。
続いてお粥を啜り、また「おいしい」と小さく言った。
「まだあるからね。おかわりする?」
茶碗の中身が少なくなったころ、私の問いかけに彼は少し頬を緩めて頷いた。
差し出された茶碗を受け取る。
なんだか専業主婦になったみたい。
ぼうっとしながらも、美味しそうに私の作ったご飯を食べてくれる陸さんを見ていると、不思議と次も頑張ろうと思えてくる。
私は、陸さんにとってただの居候でしかないのに。
二杯目のお粥に、陸さんは梅干しを乗せた。
箸で柔らかい果肉を崩して種をよけ、お粥とざっと混ぜる。
途端に真っ白なお粥が赤く染まる。
それをゆっくりと流し込むように口に入れて、陸さんは目を閉じて口をすぼめた。
酸っぱいのは苦手なのかもしれない。だったらやめておけばいいのに。
でも、顔をくしゃりと歪める陸さんは、珍しさもあってちょっぴりかわいかった。
私の作った料理を全て平らげて、ついでとばかりに、今朝の残り物であるほうれん草の白和えも食べきる。陸さんは人心地ついたのか、背もたれに身体を預けて小さく息をついた。
ぬるめに淹れたお茶を渡すと、ちびりちびりと飲んでまた息をつく。
そんな彼の物珍しさにつられて、私はつい陸さんの顔をマジマジと見てしまう。
彼が気づいていないから余計に。
整った顔立ちだ。
すっきりと通った鼻筋。浅くも深くもない彫り。わずかに伸びた無精ひげ。
寝ている陸さんを見ていても思ったけれど、彼は睫毛が長くて羨ましい。
それでも男前に見えないのは、きっと雰囲気のせいだ。
彼のまとった空気は、青白く凍った分厚い氷のように冷たくて、一度触れたら皮膚が貼りついて離れないような危うさがある。
私は、そうして離れられなくなってしまったのかもしれない。
最初は次のアパートが見つかるまでのつもりだった。
でも、今となっては探すつもりもない。
異性として、私が陸さんを好きと思う気持ちはそこまで強くない。
魅力的だとは思う。それに他の男と違って優しい。ただ優しいだけの男なんてどこにでもいる。陸さんの優しさは、そういう優しさとは違う。どこまでも深く、どこまでも明るく照らし、全てを絹糸で包み込むようにふわりとしたそれに相応しい言葉を、私はまだ見つけられないでいる。
彼ならば、きっと私を優しく、本当の愛を教えるように抱いてくれるんじゃないかと妄想もできる。
でも、何かが違う。
彼もきっとそう。
お互いに惹かれ合って、けれど男女の関係になるにはピースがひとつ足りない。
その一欠片を探すわけでもない。むしろそれを見つけたくないのだ。
見つけてしまったら、今の切なくてもどかしくて、けれど温かくてホッとするこの関係が、終わってしまいそうな気がするから。
唐突に陸さんが口を開く。
「ごめんね」
「何が?」
わかっている。彼が何を謝ったのか。
それに私は「いいよ、別に」と返せばいつも通りなのに、自分でもわからないうちに聞き返してしまった。
きっと弱った陸さんのせいだ。
見たことのない彼の弱さを見て、今まで抱いたことのない感情に翻弄されている。
いつも誰かに従って、思い通りに支配されることに安心していた私が。
「ごはん、作ってくれて」
「陸さんがきついときぐらい、私がするよ」
恭子という皮膚を被った私が、心の中で囁く。
今のうちにものにしてしまえ。彼の中に眠る獣を起こしてしまえ、と。
それは私であって、私じゃない。
ふわふわと形のないもうひとりの私が叫ぶ。
――愛という崇高な言葉で飾り立てて、思い通りに支配しようだなんて。
愛している。
一体どれだけ、その単純なワンフレーズに振り回されてきたのだろう。
所詮動物でしかない人間が、さも特別であるかのように作り上げた偽物なのに。
視線を落としてしまう。汚れたお皿が並ぶ。
お粥は本当に美味しかっただろうか。
誰だって簡単に作れるものだけれど。
玉子スープはどうだったかな。
料理なんて手伝いぐらいしかできないし、レシピも全くわからないから、帰りに本屋に寄った甲斐はあっただろうか。
陸さんは、私を居候以上に見てくれただろうか。
もう一度、慈しむように熱い頬に触れてくれるだろうか。
すっかり枯渇した私の涙の代わりに、私の苦しみを感じて泣いてくれるだろうか。
ふわりと優しく、逃げようと思えばすぐに抜け出せるような力で、また抱き締めてくれるだろうか。
「――ありがとう、恭子さん」
顔をあげる。
陸さんが笑っていた。
まだ熱が残っているのか、顔が少し赤い。
陸さんはどこまで人を深く引きずり込むのだろう。
これは恋なのだろうか。
世間の男女が抱く恋愛感情なんて、私にはわからない。
そんな「普通の」恋愛なんてしたことがない。
「明日の夕飯、何が食べたい?」
「無理しちゃダメだよ。まだ治ってないでしょ?」
私の言葉に陸さんは苦笑する。
その笑みに、これから私はどれだけ振り回されるのだろう。
でも、なんだか嫌な気はしない。
「大丈夫。恭子さんのお粥を食べたから」
根拠も何もない。
でも、陸さんの自信満々な顔を見ると、不思議とそんな気がしてくる。
まだ治っていないくせに。
でも……。
そうだな。
「ねえ、陸さん。何が食べたい?」
陸さんの喜ぶ顔が見たい。
この感情を、普通の人はなんと呼ぶのだろう。