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筍の炊き込みご飯と真鯛のお吸い物(恭子)

 仕事が終わったのは十九時を回った頃だった。


 急な納期の前倒しだなんて、お得意様じゃなかったら無視している。

 私だって断れるものなら断りたかった。

 課長が泣きそうな顔で「わかりました、なんとかやってみましょう」だなんて、営業部長相手に請け負ってしまったのだから、私の立場ではどうしようもない。


 前倒しになったのは来月の発売を予定している、他社とのコラボ商品だった。

 理由はよく知らないけれど、課長のなんともいえない顔を見るに、あまり納得できない理由なのかもしれない。


 私の勤める会社は、従業員五十名ほど。

 パソコンなどの周辺機器に特化したメーカーだ。

 とくに高性能な品質と、無駄のない洗練されたデザインで、高価格帯ながらユーザーからのリピートも多い。


 うちの会社の社訓は「メリハリ」の四文字。

 勤務時間外に仕事をしようものなら馬鹿だと怒られる。

 一方で、勤務時間内にだらけようものなら、烈火の如く怒られる。


 社長の語録集には「与えられた仕事は与えられた時間で終わらせる」というものがある。それに続くのは「できないやつは不要」という救いのない一言だ。


 けれど、私の性格にはとても合っている。


 誰だって、残業なんてしたくないし、仕事を持ち帰るのも嫌だ。

 それに異を唱えるのは仕事が趣味の人間だけ。

 仕事が楽しいのは良いことだと思うけど、だからってみんながみんな仕事のために生きているわけじゃない。


 今日は特別だ。

 課長の涙に免じて、私は一般企業では普通にあたる一時間の残業をした。

 うちの会社ではとても珍しい。


 何より、うちの会社の社員の選考基準は「没頭できる」こと。

 面接に行ったときは驚いたものだ。

 挨拶もそこそこにテーブルにお皿二枚と箸を置かれ、片方のお皿に乾燥した大豆が数十粒出される。

 一分以内に大豆を全てもう片方の皿に移してください、と言われた。


 まだ学生だった私は、こんな会社に入社できるか! と憤慨(ふんがい)して、大豆の乗った皿を手でつかんで、もう片方に転がして入れた。


 唖然とする面接官の一人を前に「箸を使えとは言われませんでしたので」と返したら、もう一人いた初老のおじさんが急に笑い出したのだ。


「面白いやつだ。採用しよう」


 そのおじさんが実は社長だと知ったのは内定式。

 ちなみに、その大豆の試験中は面接官が盛大に騒音をまき散らしたり笑わせようとしてきたりするのだと、同期入社の新入社員が教えてくれた。

 彼女は大いに集中を乱したようだけど、箸の使い方は母親からみっちり叩き込まれたからなんとか間に合ったのだと言っていた。


 試験内容に大いに疑義(ぎぎ)が生じた瞬間だった。



 *



 電車に揺られて二十分。

 駅から歩いて十五分ほどの閑静な住宅地に、私の間借りしている家はある。


 家主は陸さん。

 きっかけは三年前。就職して間もない頃、私の借りていたアパートが火事になって住む場所がなかったとき、偶然居酒屋で出会った。


 私と出会った頃の陸さんはちょうど離婚した直後の三十七歳。

 不運な人だとは思う。

 居酒屋のカウンターで隣同士になったけれど、私は最初無視するつもりだった。


 けれど、陸さんは日本酒の徳利(とっくり)を数本並べた状態で酔っ払っていて、しかもその瞳が今にも死んでしまうように見えて、私はつい声をかけてしまった。


「仕事も辞めた。妻とも離婚。家に帰っても一人。だから得意じゃない酒を飲んでるんだ」


 彼は自嘲(じちょう)するような笑みを浮かべてそう言っていた。

 私の自宅が火事で全焼し、住む家がなくて困っていることを伝えると、彼は私に同情して尋ねた。


「じゃあ、今はどこに住んでいるの?」

「友人の家に泊まらせてもらっています」

「そんなすぐには新居も見つからないでしょ?」

「はい。でも、実家も遠いですし、保険が下りるのもまだしばらく先ですから」

「じゃあ、うちに来ればいいよ。部屋も空いているから」


 思わず素っ頓狂(とんきょう)な声を出したのは、仕方がないことだと思う。


「不思議だな。君と話していると、なんだか落ち着くよ」


 口説き文句のあとに名前を尋ねられて、私は「恭子です」と短く答えた。

 フルネームを教えるのはなんだか(はばか)られたのだ。

 陸さんはふっと笑った。


「恭子さんか。良い名前だね、とっても」


 そのときの寂しそうな、それでいてどこか嬉しそうな表情の意味を知ったのは、彼の別れた奥さんが、私と字が違う「きょうこ」だと知ったときだった。


 けれど、そのときの私がそんなことに気づくはずもなく、彼は私を口説いてお持ち帰りするつもりなのだと思っていた。


 陸さんは顔も悪くない。道ですれ違っても絶対に振り向かないけれど、よく見たら整った顔立ちをしている。

 当時は三十七歳だったけれど、アラフォーが恋愛対象に入るかと言えば、微妙なところだった。

 なにせ十五歳も離れている。

 正直話題が噛み合う気もしなかった。


 けれど、そんなことはどうでもよくなった。


「まあ、恭子さんが良ければ、の話だよ。ちなみに、うちに泊まっても、僕に下心なんてないから安心して」


 男はみんなそう言うのだ。

 私は彼の下心を証明するつもりで「いいですよ」と言った。

 どうせ汚い身体なのだ。

 今更行きずりの男がひとりやふたり通り過ぎたぐらいで変わるわけでもない。


 そう思って彼の自宅に付いて行った。


 そして、今は自分の脚で彼の家に帰る。


「おかえり、恭子さん」

「ただいま、陸さん」


 陸さんは私が帰宅すると、いつも決まって母のように温かい笑顔で迎えてくれる。

 私の顔色を見て、ご飯の前にお風呂を提案したり、少し急いで夕飯の準備を進めてくれたり。とにかく私の気分や体調を敏感に察知する。


「ご飯にしようか」

「うん。匂いで我慢できなくなっちゃった」


 ダイニングに充満した炊き込みご飯のなんとも言えない醤油の焦げる匂い。

 これは絶対にお焦げができているに違いない。


「すぐできるから、着替えておいでよ」


 ワクワクして炊飯器の前でじっとしていたら、陸さんから呆れられてしまった。

 彼の苦笑は、恥ずかしい一方で、ちょっぴりホッとする。


 間借りしている部屋に入って、私は部屋着に着替える。

 姿見の鏡の前でブラウスを脱げば、胸元や腹部に今も傷跡が残って見える。


 外傷はいつか消えるけれど、心の傷は消えないだなんて嘘だ。

 残った傷跡は、いつまでも心の傷を深く抉り続ける。


 この傷を見て、私に言いよった男はほとんど全員気持ち悪そうに目を背けた。

 そうじゃなかった人は私とは関わらない方がいいと判断した。


 これを見て、私の代わりに泣いてくれた人を、私はひとりしか知らない。


 あの夜のことを、私はきっとずっと忘れない。


 宣言通り、彼は私を抱かなかった。

 それがなんだか悔しくて寝室に押しかけて服を脱いだら、彼はびっくりしていた。

 陸さんは酔っていたからなんて言い訳をするけれど、あの時の彼は確かに私を抱き締めてくれた。

 下心のない、憐憫(れんびん)と心からの同情だった。


 思わず気持ち悪くないんですか、なんて聞いてしまったけれど、彼は首を横に振って「辛かったね」と何度も私の頭を撫でた。


 何もせずに、出会ったばかりの男の人に、優しく抱き締められて泣かれるなんて、きっともう二度と体験することはないと思う。

 静かに嗚咽(おえつ)する陸さんの腕の中で、私はいつの間にか眠っていた。


 起きたら、これでもかと美味しい朝食が食卓に並んでいたのは、嬉しい誤算だったかもしれない。


 ダイニングに戻ると、彼は炊き込みご飯を茶碗によそっていた。

 学生時代に料亭の厨房でアルバイトをしていたという彼の腕前は、出会った当初よりも上がっているように思う。

 そう褒めたら、きっと陸さんはプロには遠く及ばないと得意な苦笑で返すだろうけれど、私の専属シェフはすごいのだ。


「あっ、ごめん。冷蔵庫からおかず出してくれる?」

「うん。まだあるの?」

「箸休めだよ」


 頼まれるまま冷蔵庫を開けると、ラップをかけられたお皿があった。


 食卓には筍の炊き込みご飯と、鯛のお吸い物。

 真っ白になった鯛の切り身の上には香りを演出する紫蘇の実がちらり。なんとも憎たらしい。

 大きなお皿のラップを剥いだら、そこには焼き野菜が冷たい出汁に(ひた)っていた。


「じゃあ、食べようか。今日はどうする?」

「ちょっぴり飲もうかな」

「そう言うと思ってた」


 じゃーん、だなんて。子どもみたいにはしゃぐ陸さんはちょっと珍しい。

 冷蔵庫の奥から冷えた日本酒の瓶を取り出して、彼はガラスの徳利にそれを移す。


 琉球ガラスのお猪口(ちょこ)に注ぎ合って乾杯。

 すっきりした辛口のお酒は料理の香りを邪魔しない。

 舌触りは滑らかというよりも、さらりとしてまるで水のように渇きを潤してくれる。


「これ、銘柄は?」

上善如水じょうぜんみずのごとしだよ。ちなみに純米吟醸」

「名前の通りの味だね。好き」

「それはよかった」


 こういうときの陸さんは、本当に嬉しそうに微笑む。

 その笑顔が見たくて、私は彼の厚意が嬉しいと、つい素直に伝えてしまう。

 陸さんが本当のお父さんだったらいいのに。そう思いかけて、沈む気分を無理やり振り払う。


 きゅっと飲み干したお猪口に、彼はまたとくとくと音を鳴らしてお酒を注ぐ。


「焦らなくても、誰も奪って飲まないよ」

「うん。美味しかったから」


 まるで水が流れるように、陸さんの笑顔は私の暗い気分をどこかへ押しやってしまう。


「じゃあ、今度こそ。いただきます」

「いただきます」


 まずはやっぱりお吸い物。

 上品な真鯛の出汁を鼻でいっぱいに吸い込んで堪能(たんのう)したら、今度は一口。

 口に入れると、わずかに香ばしさを感じる。


 首を傾げていると、陸さんが得意気に言った。


「出汁用のあらを先に焼いたんだ。薄塩も振っておいたんだけど、臭みが残ったら嫌だと思って」


 なるほど。こういう手間を惜しまないから美味しいご飯ができるのか。私は素直に感心した。


 箸で摘まんだ真鯛の白身は、今にも崩れてしまいそうなくらいほろほろ。口に入れると、その繊維を残しながらも解けるように砕けていく。

 身の筋繊維の隙間に詰まっていた出汁が逃げ出すようにじんわり溢れてくる。


 飲み下すと、ほんのり柑橘(かんきつ)の香りが鼻に抜けた。

 きっと私の知らない下処理をこの切り身に(ほどこ)したに違いない。

 得意そうに私を見つめる陸さんに尋ねるのが悔しくて、私は茶碗を持つ。


 最初はもちろん筍。

 うっすら醤油色に染まった筍は、まだ食感を残している。

 山の豊かなミネラルを彷彿とさせる独特な香り。

 醤油の香りをまとった甘いご飯で追いかければ、もうそれ以上言うことはない。

 もぐもぐと口を動かして、時折しゃくしゃくと音が鳴る。


 ほろ苦さを感じるお焦げは、それでもやっぱり美味しい。

 これ以上焦げたら大失敗。パリッと焦げたご飯は硬いところと少しねっちょりしたところのバランスが大事。


「陸さん」

「うん。どう?」

「今日は百二十点だよ」

「そいつは光栄だね」


 忘れちゃいけない箸休め。

 陸さんの言うそれが、単なる小鉢料理でないことを、私はこれまでの経験上よく知っている。


 焼き目のついたスナックエンドウやアスパラガス。

 くし切りの玉ねぎに、こんがり色づいたジャガイモ。


 焦げ目の隙間から忍び込むように、冷たい出汁が野菜の中に浸透している。


 口に入れればひんやり。噛めば中から溢れ出す。

 がっつりと利いた鰹出汁は醤油の風味がない。味付けはきっと塩だけ。


 揚げ浸しよりもあっさりしていて箸が休まない。


「いいね。癖になる味」

「程ほどにね。それ結構塩分強めだから」

「うん。お酒が欲しくなる味だよね」


 そんなつもりはなかったな、と陸さんはお猪口を傾ける。

 今日は良い日だ。

 何か良いことがあったのかもしれない。


 炊き込みご飯をおかわりする頃には、陸さんはすっかり頬を赤くしていた。

 シャツのボタンをひとつ開けて、少し熱そうだ。


 彼は思い出したように席を立つ。

 寝室から小箱を持ってきて私の前に置いた。


「これ、もらってくれる?」


 首を傾げてしまう。

 今日はとくに何もなかったはず。

 それに、私が陸さんからプレゼントをもらうだなんて、そんな予定は記憶にない。


「いいから開けて」


 言われるままに小箱を開封すると、品のいい洒落たピアスが入っていた。


「これ……。高いやつですよね」


 同居を始めてすぐの頃に禁止された敬語が思わず出てしまう。

 でも、陸さんはニコニコ笑って「いいから」と繰り返した。


「なんか、悪いよ」

「いつも美味しく食べてくれるお礼だよ」


 陸さんに感謝しているのは、むしろ私の方なのに。

 けれど、今の私に、彼に釣り合うプレゼントを贈る金銭的余裕はまだない。

 毎月家賃と食費、水道光熱費を込み込みで二万円だけ渡している。最初は少なすぎるからもっと出すと言ったけれど、彼は二万円しか受け取ってくれなかった。


 今となっては、彼の厚意がとてもありがたい。

 授業料や入学金のほとんど全額を借りた高校大学を合わせた奨学金の返済もあるし、一体何に使っているのかわからないほどお金は減っていく。元々必要なものしか買わない性分だけれど、それでも季節毎に衣替えはするし、付き合いがあれば交際費もかかる。


「そろそろ、それぐらいつけてもいいお年頃だよ」

「そうかな。不釣り合いじゃない?」

「そんなことないよ」

「でも、高そうだし」

「否定はしないよ。それなりにいいお値段はしたね。でも、ほら」


 陸さんはいつものように苦笑する。


「この石、恭子さんの瞳と似てるから、つい買っちゃったんだ」


 ほんの小さなイエローサファイアがダイニングの明かりを反射して輝いている。

 確かに私の瞳は色素が薄くて少し黄色く見える。

 なんだか小っ恥ずかしくて顔が上げられなかった。


 今日が居酒屋で出会って三年目だったことに気づいたのは、陸さんが飲み過ぎて眠ってしまってからだった。


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