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洋梨のキャラメリゼ

最終話。

【恭子】



 九月はもう目の前だというのに、夏の暑さは名残を惜しんで止まない。


 あの冷たいベンチの上で交わした会話はなんだったのだろう。

 私はただ陸さんの言葉に身を任せて、彼の――またこの家に戻ってきた。


 そうして陸さんが会社に連絡してくれて、私が口に出せない色んなことを、彼は上手く説明してくれた。

 細かい部分は伝えなかったみたいだけれど、長期の無断欠勤に関わらず、お咎めのようなものはなかった。さすがに決まりが悪くて辞職したいと申し出たのだけれど、社長から直々に電話があって「ゆっくり休みなさい。そしていつかまた社会参加できるようになったら、もう一度うちを頼ってくれると嬉しい」と言ってくれた。


 私には意味がよくわからなかったけれど、陸さんは「君が築いた信頼だよ」と言った。

 不思議だった。

 いつのまにか、私が惜しまれるような人間になっていたなんて。

 もちろんそれは仕事ができるかできないかという違いなのだろうけれど、それでも社長の心遣いが嬉しく感じられた。


 そうして仕事を辞め、私は毎日ソファーでぼうっとしている。

 何をする気も起きなくて、ただ窓の外で風に揺れる庭木を眺めたり、空に浮かぶ雲を数えたりした。


 陸さんは度々出かけるようになったけれど、三時間と家を空けなかった。

 私が心配ですぐに帰って来る。口には出さないけれど、顔を見ればすぐにわかる。

 帰宅して私の顔を見ると、露骨にホッとする。


 それが最近ちょっぴり楽しくて、嬉しくて、なんだか私もホッとする。


 そんな午睡のような日々を過ごしていたら、私はそわそわするようになった。

 元々ぼうっとするのが得意じゃなかったのかもしれない。


 十六歳から全て自分でやらなければならなかったから、陸さんが家事をこなして仕事もして、その中で甘えているのが申し訳なくなったのだと思う。


 けれど、そう思うのも束の間、陸さんは私を外に連れ出すようになった。

 明るい青空の下で、公園を散歩してみたり、水族館で魚を眺めたり、動物園で象に餌をあげたり、登山に行ったり、海沿いをドライブしてみたり、遊園地で一日中はしゃいだり。


 そんな風に遊び呆けていたら、申し訳なさなんてどこかへ吹き飛んでしまった。

 だって、全て新鮮なことばかりで、どれも初めてのことだったから。


 陸さんが顔をくしゃくしゃにして笑うなんて知らなかったし、ちょっといたずら好きなところがあることも知らなかった。

 水族館で見たイルカは優しい目をしていたけれど、餌をもらったときはとても嬉しそうだった。動物園の象は優しそうだったけど、想像していたよりも無愛想だった。朝の涼しい気温の中で歩く登山道は清々しく、山頂から眺めた眺望は心を洗ってくれた。海沿いの熱気と潮風は爽やかさだけど、べたついていた。遊園地のコーヒーカップは回しすぎると気持ち悪くなった。


 けれど、そんなに遊び回っても不意に闇が紛れ込む。

 そんなとき、陸さんは私を抱き締めて、まるで子どもをあやすように背中を撫でてくれる。

 彼の胸に頭を寄せると、不思議と心が落ち着いていく。

 とくん、とくん――彼の心音が私の闇を次第に明るくしてくれる。


 でも、私は陸さんの顔に差す一瞬の陰りに気づいてしまう。

 彼が小さな子どもや子ども連れの家族を見る度に、その色は彼の網膜を見えない何かで覆ってしまう。

 本当は陸さん本人も子どもを望んでいたんじゃないか、と思った。

 私が彼の子どもを産めたなら、彼はきっと喜んでくれるのだろうとも。

 でも、彼にその能力がないように、私も無理を重ねてきた手前、今更望んでも無駄だとはわかっていた。


 そうしてふと父のことを思い出した。


 急に恐ろしくなって私は陸さんに尋ねた。

 すると彼は、


「大丈夫。もう、全部終わったんだ」


 そう言ってまた私を優しく抱き締めた。

 捕まったのだろうか。本当のところはわからなかった。

 けれど、陸さんが大丈夫というのだから、きっと大丈夫なんだろうと思った。


 まるで優しい揺り籠の中で微睡んでいるみたいに平和だった。



【陸】



 海部和弥が死んだ。


 自殺だった。

 あのマンションの屋上から飛び下りた。

 しかし、直後にはまだ息があったらしい。

 発見者がすぐに救急車を呼び、意識不明のまま一週間、彼は静かに息を引き取った。


 自身の妻と同じ場所で飛び下りたのは、僕が恭子を見つけて連れ帰った翌日のことだった。


 はじめ、僕は彼が何をしたかったのか理解できなかった。

 もしかすると恭子を見つけていたのかもしれないと思った。そうだとするならば、どうして恭子と再会することを選ばずに自殺を選んだのか。


 わからないことばかりだった。

 遺書もない。

 着の身着のまま、彼は身を投げ、そして死んだ。


 その事実を僕は恭子に告げることができなかった。

 それを告げれば、なぜだか彼女まで自殺を選ぶような気がしてしまったから。


 海部和弥はどうして死んでしまったのだろう。

 妻を自殺させ、娘を犯した。安易にその罪を償おうとしたとは思えなかった。


 もし彼に良心というものがあったならば、まずあの場所で自殺する意味はない。むしろ更生することを選んだだろう。

 彼は犯罪こそ起こしたが、性格的には真面目一辺倒だったのだ。仮釈放中の監視下から逃れるにはかなり大きな理由があったはずだ。


 僕は海部和弥ではないから、彼が何を考えていたのかはわからない。


 けれど、彼を一番知っている恭子がとった行動から考えると、彼はやはり恭子に会おうとしていたのではないかと思う。


 恭子が支配者である海部和弥と決着をつけようとしていたように、彼もまた所有物を取り戻そうとしていたのではないか。


 そう考えると思い出すことがあった。


 海部和弥と妻は、妻が未成年のときに結婚している。

 ほとんど同時に恭子を身籠もっている。


 そして、海部和弥が恭子に初めて暴行を働いたのは、彼女がまだ中学二年生だったときだ。

 中学二年生といえば、まだまだ子どもだ。


 嫌な気分になった。

 妻が死んだのは三十四歳のときだ。

 夫婦関係がどうだったのかはわからないが、二十歳が初産だというのにそのあとは子どもを作っていない。海部和弥の職業を考えると、ふたりめを不安に思うようなこともないと思うのだが、こればかりは夫婦それぞれの事情があるから安易な想像はできなかった。


 しかし、考えれば考えるほど、僕は自分の想像が正しいものに思えてならなかった。


 海部和弥は恭子という所有物を取り戻そうとしていた。

 しかし、いざ恭子を見つけても、大人になった彼女に失望してしまった。


 そう考えると、彼が自殺した理由にたどり着けるような気がした。


 ふと脳裏に浮かんだのは、母親になった匡子の姿だった。


 一度は愛した女性が、自分の知らない子どもを抱いて幸せそうに笑っている。その後ろ姿が脳裏に焼き付いていた。


 あのとき、僕は確かに喪失感を抱いていた。

 健全な過程を踏んで、妻が母になるその変化を見ていたならば、僕はきっとあの喪失感を抱かずに済んだのだろう。むしろより一層匡子を愛することができただろうと思った。


 理解はできそうにない。

 けれど、納得を拒絶することもできなかった。


 海部和弥は自分自身の欲望の末に絶望した。

 あっけない結末だ。


 しかし、彼は望み通りに死に場所を選ぶことはできなかった。

 一命を取り留め、一週間もチューブに繋がれて、無駄に生かされた。


 誰に看取られることもなく、機械的な電子音で死を告げられるのはどういう気分なのだろう。


 ふと、彼の一生が不憫に思えて、同時に胸くそ悪くなった。


 いつも相談に乗ってくれる神父はなんというだろう。

 隣人を愛せ、許せと言うのだろうか。

 いや、彼のことだから、内心ではそう思っていても、僕の気持ちに同情してくれるだろう。


 けれど、そうして自分を納得させようとしても、海部和弥という犯罪者が司法の手によって殺されなかったことに、僕は不満を隠せなかった。

 彼が実際に殺人を犯したわけではない。死刑に相当な罪状でないことは僕もわかっている。けれども、不完全ながらでも自ら死を選んだ海部和弥の高笑いが聞こえてくるようで、ひどく陰鬱な気持ちになった。


 しかし、そう思う一方で、何もかも終わったのだと思えた。

 海部和弥という支配者が死んだことで、恭子を縛り付けるものはなくなった。


 もし次に恭子を支配するものがいたとすれば、それは僕なのかもしれない。

 彼女が僕に依存していることはわかっている。

 急げば急ぐほど、彼女は僕の操り人形となるだろう。


 それだけは嫌だ。

 僕は自分の思い通りに動く人形が笑っても、何も嬉しくなんかない。


 山もあれば、谷もある。

 恭子にはできるだけたくさん笑える人生を歩んで欲しいと、僕は思う。

 誰に強制されるわけでもなく、ただ自分の思うままに歩む道を、笑って進んで欲しい、と。



【恭子】



 二十六歳の誕生日だった。

 平日の夜、私は陸さんに連れられて高級ホテルのレストランに行った。


 陸さんのスーツ姿は久しぶりで、私もドレスなんて初めて着た。

 前日のうちに陸さんとドレスを買いに行って選んでもらったし、昼間は彼が美容院を予約してくれた。


 生まれ変わった気分、といったら大げさかもしれない。けれど、二十六歳にもなって年相応にオシャレをして、今更ウキウキしてしまうのはなんだか大人げない気もする。でも、わかっているのにやっぱり浮ついてしまう。


 こんなに楽しくていいのかな、と思っても、今日だけだからと自分に言い聞かせてしまう。

 それなのに、陸さんは合流するなり、


「とってもきれいだよ」だなんて。


 まるで自分がお姫様になったような気がして逆に恥ずかしい。


「少女漫画に出てきそうな台詞だね」と言ったら、陸さんは照れ笑いを浮かべて、

「でも、嘘じゃないよ。本当にきれいだ」と念を押した。


 それがまた恥ずかしくてもじもじしていると、彼は私の隣にやってきて肘を少し曲げる。


「さあ、行こうか」と言われて、その隙間が私に腕を掴んでほしいのだと気づいて赤面した。それでも素直に手を添えると、陸さんはにっこり笑って歩き出した。


 なんだか陸さんが年の離れた男性だということを改めて理解した。


 レストランでは美味しいフレンチを、夜景を眺めながら食べた。

 こんな風にデートをするのは珍しい。


 なんだか大人だなと正直に言ったら、陸さんは「だって誕生日だからね」と笑った。


 デザートと一緒に運ばれたバースデーケーキに、きれいな花束。

 花束なんてもらったのは初めてで、反応に困ってしまった。

 素直に喜べばいいのに、どう答えればいいのかわからない。


 でも、煮ても焼いても食べられないし、宝石みたいに高価でもないのに、なんだかドキドキした。

 面と向かって、


「恭子さんにはその色が似合うと思ったんだ」


 なんて言われたら、悪い気はしない。


「今日の陸さんはなんだか女たらしだね」

「古いタイプのね」


 陸さんは自虐するように言って、頬をかく。


「僕だって、こんなやり方は慣れていないし、今どきこういうのってちょっとね。そう思ったんだけど、恭子さんもこんなことされたことないようだし、あえてやってみるのもいいかなって」

「大正解だね。今日はずっとドキドキしてる」

「それはよかった」


 本当に嬉しそうに彼は笑った。

 それがおかしくて、私も笑ってしまう。


 いつもの調子が崩れてしまっても、彼の微笑みはやっぱり変わらない。

 それがおかしくて、面白くて、ひどく安心した。


「デザートどうしようか。ケーキまでは食べられないよ?」

「持って帰ることもできるから安心して」


 陸さんはいつもの苦笑を浮かべて私を安心させてくれる。

 デザートは洋梨のキャラメリゼにヨーグルトのソルベが乗っていた。


 洋梨のねっとりした甘みとカリッとした焼き目が思ったよりも濃厚で、ヨーグルトのソルベは熱い洋梨を冷たさと爽やかな酸味で包んでくれる。


 最後まで美味しいフルコースだった。

 ふと陸さんが言う。


「知ってる? 洋梨は収穫したあとに追熟させるんだ」

「リンゴみたいに?」

「そう。青いうちに収穫して、最初の十日は四度ぐらい。そのあとは二十度ぐらいで熟すのを待つんだ。すると香りもよくなるし、柔らかくなって、収穫してすぐよりずっと甘くなる」


 見た目は凸凹していて悪いけれど、じっくり待ってあげれば味は逸品。

 そういうところがちょっぴりかわいい。


「たまにはいいね。外で食べるのも」

「私は陸さんの料理も好きだよ」

「ありがとう。ほら、洗い物をしなくていいから」


 私が笑うと、陸さんも笑った。


「来週はちょっと遠出してみようか。旅館に泊まって温泉につかるのもいいかな」


 陸さんは少し考えながら視線を上に向ける。


「浴衣姿の恭子さんも絶対きれいだから、期待しちゃうね」

「陸さんもなで肩だから似合うと思うよ?」

「地味に気にしてるんだから、言わないでよ」


 くすくす笑って、私は彼の手に触れた。

 温かい。触れ合った肌からじんわりと彼の熱が流れ込んでくる。


「それよりも、陸さん」


 彼は優しく微笑んで私を見つめる。


 なぜだか心がふわふわして、ちょっぴり苦しくて、でも熱があるみたいに揺らめいている。

 肺に溜まった空気と一緒に、私はこの思いを伝えたかった。


 でも、やっぱり恥ずかしくて、口を開くには度胸が必要だった。


 ふと、彼が私の手を握り返す。

 まるで言わなくてもいいよ――そう囁かれたみたいだった。


「気づいたことがあるんだ。幸せに決まった形なんてないってこと。ずいぶん時間がかかっちゃったけどね。恭子さんと一緒にいるだけで、僕はいつも心の奥が温かくなる」


 すっかり赤面した私の手を開いて、彼はポケットから何かを取り出した。

 それが何か、私には全然わからなくて、すぐには理解できなくて、察することもできそうになくて、間抜けな顔で彼の指先を眺めていたかもしれない。


 でも、どうしてだろう。


 こんなに苦しいのに、胸が詰まって、彼の顔がまともに見れなくて、見ても歪んでしまって、肩も声も震えてまともに口を動かすことだってできないのに。


「これは君を縛り付けるためのものじゃないよ」


 そう言って、彼は私の顔を覗き込む。


「これからも、恭子さんの隣にいさせてくれないか?」


 言葉を返すこともできない私は彼の手を握って頷くことしかできなかった。

 どこからともなく拍手とおめでとうございますという野次が聞こえてきても、私は恥ずかしいとか嬉しいとか、そんなことを考える暇なんてなかった。


 目元を擦って彼を見上げる。


 陸さんはいつものように苦笑して、言い淀み、そして口を開く。

 虚飾のないその一言は、彼の心音のように私の心に響いた。



 ――完。

本作はこれにて完結です。

最後までご覧いただきありがとうございました。

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