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今日の夕飯、何が食べたい?

 恭子が失踪して十日が過ぎ、僕はひとつの確信を持って家を出た。


 燦々と降り注ぐ日光の中、確かな足取りで歩んでいく。

 この先に恭子が待っているのだと自分に言い聞かせて。


 もちろんそんな確証はなかった。

 けれど、恭子の言葉を思い出してみると、不思議と彼女が何をしようとしているのかが思い浮かんだのだ。


 ご飯はきちんと食べているだろうか。暑いから熱中症になってやしないだろうか。まるで親にでもなったように心配ばかりが浮かんだ。


 半日ほどかけて、僕はその場所にたどり着いた。

 目の前には大きなマンションがある。


 今となっては寂れたニュータウンの残滓とも言えるそのマンションは、夏の茹だるような暑さの中でもしっかりと建っていた。

 ベランダに干された洗濯物から、このマンションに多くの人が未だ住んでいることはすぐにわかった。けれども、傍らにある公園の遊具はどれもこれも塗装が剥げ赤錆が浮いている。平日の十六時を過ぎたばかりだというのに、子どもの声は一切聞こえなかった。


 それが余計にこの場所の衰退を意味しているような気がして、この暑さの中で佇む建物の威風が妙に見栄っ張りにさえ見えた。


 そして、やはり恭子はそこにいた。


 ひっそりと、マンションの陰にあるベンチに日傘を差して座っていた。

 誰かを待っている風にも見えて、ぼんやりと虚空を眺めるその様は熱中症の患者にも見えた。


 彼女は僕を見つけると、驚くでもなく、むしろ僕が来ることをわかっていたかのように目を伏せた。そうして顔を上げると、今度は薄気味悪く笑みを浮かべる。それがいかにも困っているのを隠したがっているように感じられて、僕は微笑み返すことができなかった。


 あるいはその笑みは自嘲にも似た諦観であったのかもしれない。

 そう思ったのは恭子から声をかけてきたからだ。


「どうしてわかったの?」

「さあ、どうしてだろう」


 彼女の隣に腰を下ろす。

 すぐ傍に小さな花を挿した空き缶があった。

 やはり、と思った。


「不思議。ついさっきも陸さんに会いたいって考えてたのに、いざ見つけられるとどうしていいのかわからない」

「そんなものかもしれないよ。僕も恭子さんを見つけてかける言葉を必死に考えていたのに、今はもう忘れてしまったくらいだから」


 街路樹に止まった蝉がけたたましく鳴き続けていた。

 その騒音さえなければ、夏の熱気も感じずにいられたかもしれない。

 この場所は、背筋が寒くなるような冷たさに満ちていた。

 そのくせ額は熱気に汗を流している。


 けれども、空き缶の小さな花を眺めていると、不思議とその薄気味悪さが溶けていくような錯覚があった。


「恭子さん」


 彼女は答えない。


「僕は悲しいよ。恭子さんがいないと、毎日ご飯を作るのも張り合いがなくて困るんだ。一人分を作るのは案外難しくて、少なく作ったつもりでもやっぱり二人分ができあがる。お風呂を沸かすのも自分だけだからシャワーでいいのに、つい浴槽を洗い始めて恭子さんがいないことに気づいたり、買い物に出かけたら恭子さんは今日何を食べたいかなって考えて野菜を手に取ってみたり、そうして君がいないことが僕の心を重たく冷たくしていくんだ」


 長い沈黙のあとで、彼女はもう一度僕に尋ねた。


「どうしてわかったの?」


 今度ははぐらかすことはしなかった。


「ずっと考えていた。君が僕に何を教えてくれたのか」


 恭子は海部和弥という父親に性的虐待を受けた。

 さらに母親は助けてくれず、犯される彼女を罵倒したのだ。


 心を壊すか、閉ざすことでしか、平静ではいられなかっただろう。

 恭子の場合はどうだったのだろうと考えると、僕は彼女が一度壊れたのだろうと思った。

 そうして何もかも諦めたから、彼女は支配されることに安堵していたのだろうとも。


 彼女の痛みを、苦しみを、ほんの少しでも共感することができたなら、僕はきっと進んで追体験を選んだだろうと思う。

 頭では理解できていても、実感のない知識としてのそれは、ひどく空虚だった。


 彼女がどうしてそんな苦痛にその身を晒してきたのか、僕にはずっと疑問だった。

 慣れという可能性もあったけれど、そうじゃないと思った。


 はじめ、母親の自殺を海部和弥の犯行と供述したのは、父親に対する報復だったのだろうと思っていた。事実、そういう一面もあったのだろう。


 けれど、恭子の頭の中には違う感情があったのではないか、と僕は考えた。

 それを推し量ることは余りにも無粋で、ただの傲慢でしかないのかもしれなかったけれど、その考えに思い至ったとき、僕は彼女のことを他人事だとは決して思えなくなってしまったのだ。


「覚えてるかな。僕の母さんのこと」


 恭子は無言で頷いた。

 以前に教えたことがあった。

 あれはいつだっただろう。

 彼女が僕のことを知りたいと言ったことがあった。


「母さんは僕にどうなって欲しかったんだろうって、今でも考えることがあるんだ。いい会社に入って、結婚して、子どもを作って。それで孫を抱く自分の姿を夢想していたのかもしれない。そんな風に考えたことは何度だってあるし、実際母さんはそれを夢見ていたんだろうと思う。なんてことはない、ありふれた人生の一ページで、それでいて普遍的な喜びなんだろうなって」


 母は、僕のために死んだ。

 どれだけ言い繕ったところでその事実は変わらない。

 僕の未来のために死んだのだ。


 母は強かったのだろうと思う。

 僕を守るために、僕に幸せになってほしくて、最期に倒れるまで遮二無二働き続けた。


 きっと余計なことを考える暇なんてなかったのだ。


 恭子の母親はどうだったのだろう――そう考えたとき、僕は恐ろしくなった。


 もしかすると、恭子が心を壊すよりもずっと早く、彼女の母親は海部和弥の犯行に気づき、そして心を壊していたんじゃないか、と。

 彼女の母親が娘である恭子への愛情よりも、海部和弥への愛情を優先したのだと、素直に信じる方がおかしかった。


 海部和弥に狂わされたのだ。


 僕はどうだったろう。

 僕は、母を苦しめただろうか。きっとそうだろう。

 父は晩年酒浸りになり、発作を起こして急逝した。酒を飲むと小さな仏壇の前で何度も泣いて、何度も謝っていたことを覚えている。僕の怒りはその時憐れみに変わってしまったのだ。


 僕は父の背中を蹴った。

 そしてもっと痛めつけろと言われて拳を振り上げたのに、父を殴ることはできなかった。


 怒りが霧散したとか、やりきれなくなったとか、そういうことじゃない。


 あの時の父は、僕だった。

 僕は父の背中を蹴り、胸ぐらを掴んで初めて、彼の感情が僕のそれと同じだということに気づいたのだ。

 だから、殴れなかった。

 自分を殴ることはできなかった。


「恭子さん、君は君だ。他の誰でもないし、誰に支配されているわけでもない」


 恭子にとって、母の自殺は、恭子の自殺だったのだろう。

 僕にはそうとしか思えなかった。


 僕が僕自身を父に重ね合わせたように、恭子も母親に自身を重ね合わせたのではないか。だから、母親の自殺を海部和弥の犯行にすり替えたのではないか。

 そうすれば、恭子は海部和弥に殺されて、崩壊した自分を受け入れることができたから。全てを納得させることができたから。


 全ては推測だ。

 けれど、僕はそれを否定できないでいる。

 だって、僕もそうだったから。


「帰ろう。もしかすると君は死ぬつもりなのかもしれない。でも、それは嫌だ」

「どうして?」


 そんなの決まってる。

 僕はもう、孤独を愛せない。

 もしこの世界が終わって、何もかも投げ捨てなきゃいけなくなったとしても、僕は絶対に君の手を離さない。

 家や財産を失っても、君を失う孤独に比べられるはずがない。


「君に何を言えばいいのかと考えていたんだ」


 どんな言葉をかければ、恭子が戻ってきてくれるだろう。

 それをずっと。


 僕のために、あるいは僕が君を失いたくないから。そんなことはすぐに思いついて、すぐにどこかへ消し去った。

 それは恭子の生きる目的が「僕」になってしまう。それではいけない。

 そんな共依存の先にあるのはあまり好ましくない未来でしかない。


 だから、僕は僕の願いを彼女に押しつけるだなんてできなかった。

 それは彼女をまた支配することでしかないから。


「でも、浮かんでくるのは聞こえのいい言葉ばかりで、どれも少し違った。君と離れたくないと思ったし、離したくないと思った。けれど、それは違うんだ。僕の本心とはほんの少しずれていて、必要十分に説明できそうにない」


 傲慢な考えは全て消し去って、そうして残った思いはひとつだけだった。


「恭子さん、君は自分の脚で立って歩かなきゃいけない」


 誰に左右されることもなく、誰に手を引かれることもなく、ただ自分の意志で、自分の両脚で。


「僕は君に前を向いて自分の脚で歩いて欲しいんだ。ゆっくりでいい、一歩ずつでいい。たまに立ち止まったって誰にも文句は言わせない」


 与えられた目的に何の意味があるのだろう。

 そんなものはどぶに捨ててしまえばいい。


 陳腐かもしれない。いや、陳腐だ。

 でも、それでもいい。

 僕は本心からそう思うのだから。


「君に笑っていて欲しいんだ」


 ただ、君に笑顔でいて欲しい。

 小難しい言葉なんていらない。

 素直に思ったことを口に出してみると、自分で思っていたよりもずっと深く自信を持てた。


「陸さん」と恭子は空を見上げた。


 青い空に小さな雲が浮かんでいる。

 大空を漂う雲もその清々しさの陰で、孤独を悲しんでいるのかもしれない。


「ずっと傍にいてくれる?」

「いるよ」

「一緒に歩いてくれる?」

「もちろん」

「泣きたくなったらどうすればいい?」

「たくさん泣けばいい」

「悲しくなったら?」

「悲しみが薄れるまでじっとしていればいいんだ」

「苦しくなったら?」

「逃げていいんだ」

「どうやって報いればいいの?」

「嬉しかったり楽しかったり、そういうときに心の底から笑ってくれたら、僕は満足だよ」


 君が感じることを、僕は知りたい。

 君の苦しみを、少しでも減らしてあげたい。

 君の喜びを、一緒に喜びたい。


 君と長い一瞬を、分かち合いたい。


「恭子さん」


 彼女は微睡むような瞳を潤ませて僕を見つめた。


 帰ろう、僕らの家に。

 もう一度、始めよう。


 ――今日の夕飯、何が食べたい?


 恭子はくしゃっと微笑んだ。

 頬を伝った滴が落ちて、空き缶が優しく鳴った。

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