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ずっと探していたこと

おまたせっ

「人殺しの娘」


 少女はそう呼ばれていた。

 十五歳になって入った養護施設で、彼女はいつも孤独だった。

 誰と近づくこともなく、事務的な作業のように言葉を交わした。


 施設の大人が少女に同情しても、彼女は心を開くことはなかった。

 養護施設に入ったことは、少女にとって幸福への一歩だったに違いない。狂った家庭から解放されたのだから、赤の他人に囲まれた養護施設の中といえ、安心できる場所を得たことは幸福に違いなかった。


 不幸があるとすれば、それは少女が美しかったこと。

 嫉妬と羨望と。

 少女は他人の瞳に隠された本能を読み取ることに長けていた。

 それはとくに男に対して力を発揮したのだ。


 施設の男性職員ですらも尊ぶべき職責にありながら、少女の美しさに本能がうずくのを、彼女は見逃さなかった。

 けれども、その仄暗い熱を感じる一方で、彼らの理性に感心した。


 内心で何を考えていようとも、彼らはよき理解者でいようと接してくれたし、決して少女を傷つけなかった。

 父親のように彼女の身体を我が物とすることはなかったのだ。


 少女は、普通の男というものを初めて知った。


 それは安穏としていて、とにかく平和だった。

 いっそ退屈だと思えてしまうくらいに。


 養護施設に入ってしばらくすると、少女は高校生になった。

 普通科の高校には行けなかった。どこで自分の出自が発覚するかわからなかったからだ。

 事件は報道こそ小さいものだったけれど、その陰険さに事件のあった地元では少女のことを噂する悪意が充満していた。


 そういう理由もあって、少女は通信制の高校に入った。

 アルバイトをしながら勉強をした。

 生来の真面目さもあって、彼女はよく働き、よく学んだ。


 そして少女はひとりの男と出会った。

 高校を中退して働く男だった。

 少年とも青年とも言えないモラトリアムな憂鬱を汗で忘れようとしているところがあった。


 彼は少女に恋をした。

 けれど、少女は彼の告白を一度は断ったのだ。

 自分がいかに汚れているか、彼女は淡々と話して聞かせた。


 少年は意気消沈し、そして次に彼女の前に現れた時には、以前にも増して熱意を瞳に宿していた。


 若い情熱と無知ゆえの優しさだった。

 長い、長い時間をかけて、少年は少女の心を開いた。

 少女もこの男ならば、自分の知らない愛を教えてくれるのではないかと思った。


 そして、少女は彼に抱かれることを決めた。

 本当にいいのか、と問う少年は優しさに溢れていた。少女が無理をしているのではないかとしきりに心配した。

 けれども、少女の決意は固かった。


 下手くそな愛撫と、慣れない手つきでコンドームを着けようとするあどけなさに、少女は彼をかわいい、愛しいとさえ思ったのだ。


 しかし、少年は少女を抱けなかった。

 少女の胸を支配する大きな傷を見て、恐れてしまった。


 少年がいくら弁明の言葉を重ねても、彼の瞳に嫌悪感が宿っていることを少女は見逃すはずもなかった。

 少女は裏切られたのだと察した。


 そうして、自分を抱ける人間を探すようになった。


 少女は知る。

 胸の傷がどうであろうと、男は女の状態なんてこれっぽっちも気にしていないのだと。

 むしろ、あの少年が珍しい部類だったのだ。


 色んな男に抱かれた。

 少しく欲望を隠さない男を見つけては、自ら歩み寄りさえした。


 同世代の男から、脂の乗った男まで、見境なんてものはなかった。


 地位のある男ほど、彼女の行動を責めた。

 もっと自分を大事にしろ、と言った。

 けれど、散々に抱いて満足したあとに言われても説得力はなかった。


 そうして何人もの男に抱かれているとわかることがあった。


 男は女を独占しようとする。

 中には大勢で犯すのが好きな物好きもいた。けれど、大多数は彼女を自分だけのものにしたがった。


 彼女の傷を見て動じない男もいれば、気味が悪いと明け透けに言ったものもいた。

 そういうとき、決まって後者の方が彼女をいたわり、そして彼女の美貌を隠したがった。人目に触れさせることをよしとしなかった。


 服装から髪型に始まり、自分以外の男と話すことさえも嫌悪した。

 そうして彼女が「なぜ」と尋ねれば、男は決まって「愛しているからだ」と言った。


 彼女は悩んだ。

 愛して欲しかった。

 ただ普通の愛が欲しかった。

 男女の愛など、本当は欲しくなかったのかもしれないと思えて、けれども彼らの言う「愛しているから」という行為の数々が、彼女には安心できたのだ。


 誰かに支配されている。

 行動のひとつひとつが管理されている。

 それは何も考えずに済んで、同時に気楽だった。


 愛しているという言葉が例え虚飾だったとしても、セックスの痛みに伴う「愛してる」は確かに彼女の傷跡に染みこんだ。

 そして男は言うのだ。


「こんな傷物を愛してやれるのは俺だけだ」


 いかにも感謝しろと言わんばかりに。

 けれど、彼女は知っている。

 幾人もの男が同じ台詞を吐いたことを。


 無駄なことをしている。その自覚はあっても「愛してる」が欲しかった。

 散々に傷つけられても、そのあとに優しく抱き締められると愛されている実感が湧いた。


 そうして考えてみると、あの父親は本当に自分を愛していたのではないかと思うようになった。そう思う一方で、それを蔑みまやかしだと叫ぶ自分がいた。


 大学に入っても彼女の生活は変わらず、社会人になっても変わらず続くのだろうと思っていた。


 けれど、その予想はすぐに打ち砕かれた。


 ひとりの男と出会った。

 男は酔っていた。口説き文句に誘われて彼の家に行ったのに、抱かれなかった。


 裸になって彼に迫っても、彼は彼女を抱くどころか、胸元の傷を見て泣いてしまった。

 そうして「辛かったね」とうわごとのように繰り返して彼女を抱きしめた。


 男の体温なら知っている。

 幾度となく重ねてきたのだから。


 けれどもその熱は、男から感じるぬくもりではなかった。

 凍った心の芯から伝う熱だった。


 覗き込んだその水底にはひとりの少女がいた。

 心を開いた男に裏切られ、硬い殻に籠もった少女がいた。


 けれども、少女は泣いている。

 貝殻の隙間から嗚咽が漏れ聞こえている。

 希望を打ち据えられて絶望に浸っても未練がましく。


 その少女はかつての自分だった。

 何もかも諦めて捨て去って、仮初めの平穏に居場所を求め、そうして悲しみなんて知らないことのように、苦しみなんて感じたことがないように、そう振る舞っていれば平気でいられた頃の。

 気づいてほしかったんだ、私は――ただそれだけのことだったのだ。



 *



 ずっと考えていた。


 私は何のために生まれてきたのだろう。

 そんな考えても仕方がないことを、ずっと。


 テレビや本は、幸せのためにだとか、誰かのためにだとか、そんな聞こえのよい言葉をいつも嘯いた。

 私を抱いた男のひとりはふざけて「俺と出会うため」だなんて言って、そうして真面目な顔で、

「まあ、実際意味なんてねえさ。俺たち動物だぜ? 種の保存ってやつだろ。この前テレビでやってた」

 そんな冷めたことを言った。

 けれど、私はその意見を否定する気もなくて、むしろそうだったなら気楽だとさえ思った。


「じゃあ、愛ってなに?」

「なんだよ、恋しくなったのか。心配しなくても俺はお前を愛してるって」


 彼はふざけて、けれどやっぱり真面目な顔を取り繕って、

「盛大な勘違いさ。でも、その勘違いのおかげで幸せになれるんだ。人間ってのはめでたい動物だよな」


 ある意味、彼の言葉は正しかったのかもしれない。

 愛してるなんて嘯いて、そうして私に飽きて「もういらない」と捨てた。


 陸さんだったら、なんと答えてくれるのだろう。

 きっと彼のことだからいつもの苦笑でごまかしてしまうのかもしれない。

 それは私の求めた答えじゃないけれど、彼が「わからない」というのなら、私はそれでもいいと思うのかもしれない。


 夏の真っ盛りだというのに、その場所はやっぱり冷たかった。

 マンションの陰になっていて日が当たらないからだとわかっていても、立ち上る熱気が吹き抜ける風にさらわれて、その異様な静けさの中でひんやりと肌を洗う。


「お嬢ちゃん、どうしたんだい。こんなところに突っ立って」


 作業服姿の男性が私に声をかけた。

 還暦を過ぎたくらいに見えて、頭は薄毛が目立った。

 私が無言でいると彼はため息をついて、


「あんまりいい場所じゃないんだ。昔、ここに突き落とされた女がいてね。即死だった。かわいそうに、自分の旦那に突き落とされたって話だ」


 見上げた先に、かつて住んでいた部屋のベランダが見えた。

 今もその部屋は誰も住んでいないのだろう。雰囲気が違った。


 男性はどこかで摘んだ小さな花を空き缶に刺してベンチの上に置いた。

 小さくても可憐な花だ。黄色い花弁が風に触れ、か細い茎がたわむ。


「おれも昔このマンションに住んでたんだがね、気のいい奥さんだったよ。娘さん思いでね。旦那に殺されるなんて、あんまりじゃねえか」

「そう、ですね」

「その娘さんも今じゃどこに行ったのやら。ひどい話だ。弔いには足りねえだろうけど、これくらいはしてやりたいじゃないか」

「母も喜んでいると思います」


 私がそう答えると、彼は怪訝に私を見つめて、ハッと目を見開いた。

 そうして決まりが悪そうに頭をかいた。


 彼は知らないのだ。

 母が本当は自殺だったことも、私に向けた悪意や嫉妬、罵詈雑言のなにもかも。


 知らないということは幸せだ。

 何もかも美談に仕立て上げて「かわいそうに」という一言で、自分の恵まれた幸福を大事にできるから。


 男性が何かを言いかけて、私はそれを遮った。


「これからも、できるだけ花を置いてあげてくれませんか?」


 男性は頷いて、

「お嬢ちゃんはこれからどうするんだい? この辺の人じゃないだろう」

「私は……」


 全てを精算しなければならない。

 ただそれだけのために、ここに来たのだから。


「生きてる人間ができることなんざ、そう多くない。なあ、お嬢ちゃん」


 男性はそう言って私と同じようにマンションを見上げた。

 私が何をしようとしているのか、彼は察しているらしかった。けれど、それ以上何を語るわけでもなく、ただ私と同じ方を見上げて黙っていて、去り際に一言だけ告げた。


「会いたい人はいないのかい?」


 ハッとして振り返ったときには、彼はもう遠くにいた。

 脳裏に浮かんだのは陸さんだった。


 会いたい。

 会いたくないわけがない。


 けれど、私は陸さんが大切なんだ。

 だから、彼から離れなくちゃいけない。

 大切だから、傍にいちゃいけない。


 この感情は身勝手なわがままなのだろうか。

 それとも私が求めていた〝愛〟なのだろうか。


 もしそうだとすれば、私はずいぶん倒錯的な人間だったのだと愉快になれる。

 まるで自分が悲劇のヒロインにでもなったかのよう。


 くだらない。

 自己犠牲の末にある本当の愛だなんて、悲劇だなんて呼ばない。

 本当の悲劇には誰も目を向けようともしない。

 舞台で演じれば、観客の心が壊れてしまうから。


「父さん、私はここにいるよ」


 ――一緒に死んであげる。

 お母さんを殺した共犯者だもの。

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