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消失と回帰

お待たせ。

 恭子がいなくなった。


 その知らせは予期せぬところからもたらされた。

 恭子の上司から電話がかかってきたのは正午を過ぎたころだった。


「無断欠勤、ですか」

『ええ、何の連絡もありません。海部さんから、そちらでお世話になっているというお話を聞いていましたので、何かご存知でないかと』

「……いえ、今朝もいつも通り出勤しましたが」

『昨日、帰宅した海部さんにおかしな様子はありませんでしたか?』

「おかしな、ですか」

『ええ。昨日はどうも心ここにあらずといった様子で、仕事もミスが多くて、具合が悪いわけでもないみたいでしたが、何か思い悩んでいる様でしたから』

「いえ、何もそういうところは……」


 昨日の恭子は、とくに変わった様子もなかった。

 いつも通りだったように思う。むしろ、いつもより上機嫌ですらあった。

 もしかすると、あれは空元気だったのだろうか。

 このところ、僕と恭子の間には変化がありすぎて、彼女の様子に気を配る余裕がなかった――と思うのはただの油断なのだろう。


『そう、ですか。わかりました。お手間を取らせてしまってすみません』

「構いません。私の方でも彼女と連絡をとってみます。もし彼女が出社したら、お手数ですがご連絡いただいてもよろしいですか?」

『ええ、ええ。もちろんです』

「すみません。お忙しいでしょうに」

『いえいえ、頼りになる部下のことですから』


 電話を切ったあとで、僕は思案する。

 恭子が無断欠勤した。

 それは僕にとって信じられないことだった。


 有給を使わずに怒られるような彼女が、連絡もせずに欠勤するなんて考えられなかったのだ。それが憚られる職場ならまだしも、彼女の勤める会社は福利厚生がしっかりしているし、風通しもよいと聞く。


「何かあったのか?」


 口に出してみるが、その何かがわからない。

 ひとまずメールをしてみるがもちろん返信はない。

 数十分待って、電話をかけてみたが、こちらも出なかった。


 何かの事故に遭ったのかとも思ったけれど、それなら病院や警察などから、職場か僕に連絡が来るはずだ。

 身支度を整えて、リビングのローテーブルに書き置きを残す。

 家を出ると途端に真夏の熱気が身体に降り注ぐ。

 真上から照りつける太陽は空気や湿度の暑さよりも直に触れているような熱を感じさせる。


 果たして僕個人が脚を動かしたところで、彼女を見つけられるだろうか。

 少なくとも効率的でないことは自覚している。頭ではわかっているのに身体が真夏の熱気に浮かされたように動かずにはいられない。

 落ち着かない。我が子を見失った親のようで、もっと大きな半身が突然消えてしまったような切迫感があった。


 警察に連絡をしようかとも考えた。けれど、いなくなったのはここ数時間の話だ。今日中にけろっと帰ってきたら、と思うと迷惑に感じて連絡できなかった。


 そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか駅はすぐ目の前にあった。

 駅前のロータリーや構内を練り歩いてきょろきょろと顔を動かしてみるけれど、彼女は見つからない。

 僕には彼女の行きそうな場所なんて見当がつかない。

 こんなことなら、と思わないでもなかった。それどころか、どうしてこんな時に僕は彼女の支えになってやれないのだろうと責めた。

 無駄な自己否定だった。自覚しているだけに、正当化の裏返しに思えて虫唾が走る。自分のせいだ、と言うだけなら誰でもできる。その責に対する行動を怠ったツケを払わない限り、言い逃れする愚か者と変わらない。


「約束したんだ――」


 それを忘れて不甲斐なく囚われていたのは僕だ。

 入場券を買ってホームに上がる。

 恭子は毎朝このホームから電車に乗る。

 いつものように会社へ向かう道を、どこで逸れてしまったのだろう。


 僕にはこれっぽっちも想像がつかなかった。考えてみれば、僕は彼女のことを何も知らなかった。あれほど彼女が赤裸々に過去を語ってくれたというのに、僕は彼女の過去に固執するあまり、今の彼女を見ようとしていなかった。


 とぼとぼと駅から出て歩く道すがら。

 見上げた空は真っ青で、眩しく輝く太陽が僕を照らしている。

 この熱にやられて末端から溶けてしまいそうだった。

 それなのに身体の奥の方は冷たく凍っている。


 その時の予感は正しかった。

 恭子は消えた。

 戻らなかった。帰って来なかった。開け放した窓から逃げ出した愛玩動物のように、どこかへ飛び立ってしまったのだ。


 三日、四日と経って、僕は警察へと連絡をした。

 ひどく事務的な作業だった。


 空っぽになった自宅で、僕は久しぶりの孤独に苛まれる。


「自分のために泣いたこと、あるの?」

「お前には悔しいって感情がないのか?」

「踏み込んで欲しいのに、あなたは一歩引いたところで待ってる」

「ご自分が大切だと思うものに、真摯に向き合いなさい」


 どうしてこんなに僕は馬鹿だったのだろう。

 それともいい人であろうとしていただけなのだろうか。

 もしそうだったなら、なんて勘違いだ。


 いつから僕は諦めることに慣れてしまったのだろう。

 自分の気持ちを、思いを無視して。自分が情けないばかりに、と言い訳をつけて。いっそ怠惰ですらあった。


 どうにもならないことを、どうにもできないことにしたのは僕だ。僕自身が諦めたからだ。

 なんとかなる、とでも?

 なんとかしようともしなかったくせに。


 子どもができないとわかったときも、僕は安心すらした。

 逃げたからだ。匡子の思いに応えられない理由ができたから。それでも彼女を愛していたのに、彼女が僕から離れていくのを仕方がないと諦めていた。

 本当は気づいていた。匡子の心が僕から離れていくのを。

 僕に子どもができないと知ったからじゃない。違うんだ。

 彼女は一度だって僕を責めなかった。夫がいながら他の男に抱かれたのだ。寂しかったとか、もう僕を愛せなかったからとか、そんなことは一度も言わなかった。

 別れを切り出したあの瞬間でさえ、匡子は僕を愛してくれていた。僕を傷つけまいと、殺されても文句は言えないと、頭を下げたのだから。


 今ならば、僕はそう確信できた。

 きっと今頃、彼女は僕に愛想を尽かしているのだろう。

 それはそれでいいのだ。

 匡子は僕を見限って、違う幸せを見つけた。


 悔しかったというのも違った。匡子が夫である僕を裏切ったという事実は、僕を違う意味で傷つけていた。

 けれど、それを見ないようにしていた。

 いつだって大したことはない、僕は今の生活に満足している。そう思い込んでいた。

 そうしなければ、僕は平然としていられなかった。


 目の前からいなくなって、手元から失って初めて気づくなんて。

 いや、気づいていたのだ。

 気づいていて、怖くて、気づいていないふりをしていた。

 それとも何もかも諦観に支配されて達観したつもりになっていたとでも?


 違う。何もかも違うのだ。

 僕は許せなかったんだ。自分の描いた地図通りに進めなくなった僕自身を。


 僕は僕を仮定する。そうすれば、この気持ちも、過去を埋め尽くす情動も、台風一過の海のように腑に落ちる。

 けれども、その水底で何かがうねりをあげようと叫んでいる。


 僕は自分がわからない。

 僕という人間が何を求めているのか。


 それでも。

 ただこの胸の奥で、疼くように熱を帯びる気持ちだけは確かなのだ。

 ――恭子を見つけなくてはならない。


 彼女に会いたかった。


「嗚呼、そうか――」


 恭子に会いたいという気持ちが、僕の心の奥の奥、さらにその裏側で弾けて知った。


 無性に叫びたくなった。

 今まで僕を構築していた無機質で規則的な「陸」が崩れていく。



 恭子が消えて五日目の朝を迎える。

 ここ数日ほとんど睡眠がとれていないのに、妙に頭はすっきりしていた。

 サイドテーブルに伏せられた写真立てを手に取った。


 僕にとってその写真立てを伏せておくのはある種の儀式に他ならなかった。ずっと以前からそれはそこにあったのだ。


 写真立てには一枚の写真が入っている。

 僕は写真立てを壁に投げつけた。


 大きな音をたてて壊れた写真立て。写真だけを拾い上げ、そして力一杯に破り捨てた。



 *



 ひとりの男の子がいた。


 父はしがないサラリーマンで、母は専業主婦という普通の家庭に生まれた男の子だった。

 母は優しく、ときに厳しかったが、男の子にとって母は太陽そのものだった。


 父はいつも男の子が起きる前に出勤し、男の子が眠ったあとに帰った。


 男の子が少年と呼ぶに相応しい年齢となる頃、しばしば夜中に物音で目覚めることが多くなった。

 聞こえてくるのは父と母の声だった。


 いつもは数十分で終わるそれが、ある日一時間を超えて続き、少年は不安と好奇心から温かいベッドを抜け出した。

 明かりの漏れる扉の隙間から、少年は小さな瞳をめいいっぱいに開いて覗き込む。


 そこにはやはり父と母がいた。

 いつも自分の前ではにこやかな父が仏頂面で、その正面で母が見たこともない形相で金切り声をあげている。


「あなた今度の転勤が終われば本社で出世コースだって言ってたわよね!? どうするの!? また転勤だなんて! あなたが絶対大丈夫って言うから家も買ったのよ!? 返済だって毎月あるから私もパートに出るって二人で決めたじゃない! あなたが言ったのよ!? あの子の世話もできるようになるから一緒に頑張ろうって!」

「だから、大丈夫だ。次の転勤で最後だから。三年もすればこっちに戻ってくるさ」

「三年もどうするのよ! あなたは単身赴任で気楽かもしれないけど、私がパートに出たらあの子のことはどうするのかって聞いてるの!? だいたい、休日ぐらい寝てないで息子の相手をしてあげたらどうなのよ! 毎日毎日、育児をしているのは私だけじゃない!」

「それがお前の仕事だ。結婚したときも、専業主婦になるから家事も育児も全部任せてって言ったのはお前じゃないか」

「だからやってるじゃない! 育児もしながらあなたの世話だって毎日ちゃんとやってるじゃない!」

「俺の世話だ? 何を世話してくれてるんだ」

「全部よ! 外で頑張ってるあなたのために私だって努力をしているじゃない!」

「飯作って待ってるだけなのに、努力してるって? あんまり笑わせないでくれ」

「馬鹿にしないで! 育児もしながらあなたが帰ってきても温かいご飯を食べられるようにするのがどれだけ大変か! ご飯だけじゃないわ! 掃除も洗濯も、毎日着る服だって、晩酌のお酒だって、全部私が用意しているじゃないの!」

「だから、それはお前の仕事だろう。お前がやるって言ったんじゃないか。亭主の稼ぎで飯を食ってるくせによくそんなことが言える」

「違うわよ! 忘れたの!? あなたが会社は辞めて家庭に入ってくれって頼んだからじゃない! 俺は転勤が多いけど単身赴任で離ればなれになるよりも家族と一緒にいたいって言ったからじゃない! そうじゃなかったら辞めなかったわよ!」

「結婚だぞ? 夫婦になったんだから、お互いに我慢するのは当然じゃないか」

「あなたが何を我慢してるって!?」

「色々だ、色々」

「なんにも我慢なんてしてないわよ! 我慢してるのは私だけじゃない! そこまで言うならもっと家族を大事にしてもいいじゃない!」

「大事にしてるからこんなに遅くなるまで働いてるんだ! 俺がなんのために働いてると思ってる!? 全部家族のためだ! 家族のためだから下げたくない頭も下げて毎日頑張ってるんじゃないか!」

「家族のために夢のマイホームを買ったらまた転勤で単身赴任だなんて馬鹿みたい!」

「いいかげんにしろ! お前たちが住む家だぞ!? どれだけの覚悟で買ったと思ってるんだ!」


 少年は父と母が何を話しているのかまではわからなかった。

 けれども、二人が喧嘩をしているということはわかるのに、それを間に入って止める勇気がなかった。

 父はいつもの優しさを隠し、母は鬼のような形相だったから。


 その夜からほどなくして、父はいなくなった。

 母は父が遠くの土地で働いていると言った。


「お父さんはね、私やあなたのために遠いところでひとりで頑張ってるの。応援しようね。そうだ。今度一緒にお父さんに会いに行こっか」


 いつの間にか、母はいつもの母に戻っていて、少年はひどく安心した。


 少年は母と一緒に父を訪ねた。

 新しく広い家に住み始めた少年にとって、父の住むワンルームはとても狭苦しかった。

 けれども、父は久しぶりに会った息子を抱き上げて嬉しそうだった。


「よく来たな! ほら、見ろ見ろ! お前が欲しいって言ってたから買っておいたんだ!」

「もう、あなた。まだ早いわよ」

「いいや、こういうのは小さなうちからやっておかないとな。ほら、裏に広場があるから、そこでキャッチボールをしよう!」


 いつかの喧嘩が嘘のように、父と母は和やかだった。

 けれども、少年は父から母とは違う匂いがするのに気づいていた。


 母が気づかないはずがない。

 少年は根拠もなくそれを信じることができた。

 いつまた母があの鬼のような形相をするのだろうと不安でいっぱいになった。


 けれども、母は父のもとから帰ったあとも変わらなかった。

 いっそ以前にも増して優しくなったように思えたくらいに。


 しかし、母はやはり変わった。

 変わっていった。

 少しずつ、少年が気づかないうちに。


 父は月に一度は帰って来た。

 いつしかそれは三ヶ月に一度になり、やがて半年に一度になった。

 三年目にはお盆の三日間だけ帰って来て、少年が「来年は戻ってくるんだよね」と聞くと言葉を濁した。

 四年目になると父は手紙だけよこして帰ることはなくなった。


 けれども少年は不思議とさみしくなかった。

 物心ついたころから、父はたまに遊んでくれる大人の人でしかなかったのだ。

 それよりも、小学校に進学したころから母が働くようになり、家に帰っても母の「おかえり」を聞けないことの方がずっとさみしかった。


 少年はいつも母の帰りを待った。

 母はいつも疲れた顔で帰って来て、少年の顔を見るととびっきりの笑顔で彼を抱きしめた。


 そうして疲れも忘れたように夕食の準備を始めて、少年が学校であったことを話すと相槌を打って、その度に嬉しそうに笑った。

 少年は母の笑顔が好きで、鬼のように歪んだ顔が嫌いだった。

 だから、いつも楽しい話をした。


 学校でどんなに嫌なことがあっても決して口には出さなかった。


 あるとき、少年は予期せぬうちに母を怒らせた。

 テストの点数が悪かったのだ。


「どうしてこんな点数を取ったの!?」

「ぼく、がんばったよ」

「頑張ったのに八十点しか取れなかったの!? 結果が出せないのはね、頑張っていないからなのよ!?」


 そのテストは先生にもよく頑張ったと褒められたのに、少年は言えなかった。

 代わりに「クラスで一番だったよ」と答えた。

 すると母は言った。


「クラスで一番だから嬉しいの? 学年で一番じゃなくて?」


 少年にはクラスのことしかわからなかった。

 言い淀む少年に母は、

「一番になるの。誰よりも一番に。たくさん勉強しなさい。クラスで一番になって、学年で一番になって、学校で一番になるの。そうしたら今度はもっと大きな舞台で一番になりなさい」


 少年には母が何を言っているのかわからなかった。

 わからないことばかりだった。けれども、母の言うことは正しかったし、何より怒られることは嫌いだった。


 そうして今度はたくさん勉強をして百点をとった。

 すると母は満面の笑顔で喜んだ。


「やればできるじゃない! そう! よく頑張ったね! 偉い偉い!」


 やっぱり間違っていなかった、と少年は自信を持った。


 小学校が終わり、少年は私立の中学校に通うことになった。

 母がたくさん勉強しなさいと言うので、少年は母の言いつけ通りに勉強した。


 けれども、母は昔よりもずっと家を空けるようになった。

 昼のパートを辞めて、夜に働くようになった。

 父からは相変わらず手紙だけが定期的に届いた。


 もう何年も父の顔を見ていなかった。

 けれども少年はさみしくなんかなかった。


 それよりも少年が帰宅したころに母が出勤して、ひとりで冷たいご飯を食べているときが一番さみしかった。

 母はいつもお酒の匂いをさせて夜中に帰ってきた。

 崩れた厚化粧で少年の部屋を確認して、彼が勉強をしていると「そろそろ寝なさい」と言った。けれども、少年が先に寝ていると「どうして勉強しないの!? 他の子はみんな勉強しているのよ! そんなことだと置いて行かれるわ!」と怒鳴った。


 そうして怒鳴ったあとに、母は決まって泣き出した。


「ごめんね、ごめんね。怒られて怖かったよね? あなたが嫌いで怒ってるんじゃないのよ。あなたのために怒ってるの。お母さんが怒るのも、こんなに夜遅くまで働いているのも、全部あなたのためなのよ」


 いつも決まってそう言った。

 少年は母を「かわいそうだ」と思った。

 けれども、それを口に出すと母が怒りそうだったので言えなかった。

 それに少年がいい点数をとると母はとても喜んでくれる。


 少年はいつしか母を怒らせないように、母を喜ばせるためだけに努力するようになった。


 ある日、帰宅すると母が知らない男の人と一緒に少年を待っていた。

 かっちりとスーツを着込んだその男は優しい雰囲気のする男で、笑顔を絶やさない男だった。けれど、彼の目元はずっと笑っていなかった。


 母はその男を少年に知り合いだと紹介して、男は少年と遊びたがった。

 キャッチボールやサッカーをしようと彼が言ったので、少年は「そんなことしている暇はない」と答えた。


 本当は魅力的な誘いだった。

 父が誕生日に贈ってくれた新品のグローブが押し入れの奥にあった。けれど、父以外とそのグローブを使うつもりは全くなかった。


 男は苦笑して、母は困惑していた。

 少年を叱ろうとした母だったが、男がそれを諫めた。


「初めて会ったばかりなんだから、彼も戸惑っているんだよ」


 そう言って、母の頬を撫でた。

 母はしきりに頷いて、そのわずかな触れ合いに何か喜びを感じているように見え、少年は余計にもやもやした。


 それからその男は数日おきに来るようになった。

 母が出勤する頃に一緒にどこかへ消えるので、少年はその男を気にしないことにした。


 ある日、男は少年に言った。


「私が君の父親になったら、君はどう思う?」


 少年は少し考えて「どうでもいい」と答えた。父でもない男を「お父さん」と呼ぶ気にはなれなかった。

 男は「素直じゃないね」と困惑を見せ、財布から一万円札を取り出した。


「一緒に遊びたいんだけど、君は勉強の方が好きみたいだから、これで辞書か参考書でも買いなさい」


 少年は何度も断ったけれど、母が怒るので渋々受け取った。

 男が帰ったあとで一万円札を散り散りに破いた。


 そうしてしばらく経ったある日。

 少年が学校から帰ると、母が頬を腫らして泣いていた。


 母は何度も「ごめんなさい、ごめんなさい」と少年を抱き締めて謝った。

 少年は乱雑に散らばった部屋の中で母の背中をなで続けた。口には出さなかったけれど、母に罰が当たったのだと思った。


 高校は進学校を選んだ。

 母は少年が有名な私立の進学校に入学したことをとても喜んだ。


 少年は写真が嫌いだったけれど、母に懇願されて、桜の舞う入学式、校門の前で一枚の写真を撮った。


 あんまり母が喜ぶので、少年はより一層努力しなければと決意した。


 しかし、少年にとって進学校への入学は、母を喜ばせると同時に、苦難への道だった。

 一番をとることが、百点をとることが難しくなった。


 少年はただ母の笑顔のために頑張った。努力した。誰よりも机に向かって寝る間も惜しんだ。

 けれども母は少年が一番になれないことに不満だった。


「一体誰が学費を出してあげてると思ってるの!? こんなにボロボロになるまで頑張って働いて、全部あなたのためじゃない! どうして一番になれないの!?」


 そうして少年は壊れた。

 努力することが馬鹿らしくなった。


 けれども努力する姿を見せていないと母は怒るので、努力するフリをすることばかり考えるようになった。


 少年が青年に片足を踏み込むころ、母は一番になれとは言わなくなった。

 その代わりに言葉が変わった。


「立派になりなさい。転勤ばっかりで出世もできないような男になっちゃダメ」


 それが父を指していることはすぐにわかった。

 けれども、青年は頷くことしかできなかった。


 高校三年生の春。

 父が帰ってきた。

 リストラで、職を失ったのだ。


 母は怒らなかった。

 父はすぐに違う会社で働き始めたけれど、青年は母が通帳とにらめっこをすることが多くなったことに気づいていて、アルバイトをしたいと言った。


 父は反対しなかったが、母は烈火のごとく反対した。

 けれども、青年は母を説得する秘策があった。


「大学に行きたいんだ。でも、今以上に父さんや母さんに迷惑はかけたくない。遊ぶ金が欲しいわけじゃないんだよ。勉強もちゃんとする」


 母はそれでも彼のアルバイトを許さなかった。奨学金ですら彼の負債になるのだと反対して、アルバイトをする時間があるなら勉強しなさい、学費は私が稼ぐからと言って、今まで以上に働くようになった。

 昼も夜も、いつ寝ているのかわからないほどだった。


 父は母がどれだけ働いても何も言わず、夕刻に仕事から帰宅すると発泡酒を飲んで野球中継に手を叩いていた。


 青年はそんな父を見て、こんな男にはならないと誓った。


 母は青年にこう言った。


「立派になるの。いっぱい勉強して、いい大学に入って、いい会社に入るの。出世して、いい人と結婚して、子どもを作って、幸せな家庭をもつのよ。優しい人になりなさい。奥さんを泣かせるような男になっちゃ絶対にダメよ」


 そうして夏。


 母は突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。


 悲しみの中、青年は母が死んだことをどこか遠くの世界の出来事のように感じていた。

 呪縛から解き放たれたようにさえ感じて、けれども同時に胸中を埋め尽くす憤りに身を焦がしてしまいそうだった。


 父に貯金はなかった。

 葬儀代は、青年の進学のためにと母がせっせと貯めた学費がそのまま使われた。

 まるで自分の死を予知していたかのように、預金と葬儀代はぴったり同じだった。


 四十九日が終わった日。

 父は安月給で買った小さな仏壇の前にうなだれて言った。


「すまんが、学費は出してやれん。自分で働いて稼げ」


 青年は「わかった」とだけ答え、父の背中を蹴った。

 父は怒らなかった。それどころか「もっと痛めつけてくれ」と泣きながら言った。


 青年は父の胸ぐらを掴み手を振り上げた。

 けれども、殴ることはできなかった。


「お前は俺みたいになるなよ」


 青年は「誰がお前なんか」と叫んだ。

 父は泣きじゃくって何度も懇願した。

 見ていられずに青年は逃げ出した。

 知らないうちに、青年も泣いていた。

 ずいぶん久しぶりの涙だった。


 そうして母の残した言葉は青年の目標になった。


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