山芋短冊と梅水晶
【陸】
「女から逃げて酒を飲むなんて、いつぶりだ?」
同窓会だなんて嘘まで吐いて、と数年ぶりに会った友人は呆れていた。
錦糸町の路地沿いに彼の店はあった。
品のよい和食と、地酒の品揃えがよく、週末ともなれば二十席の小さな店が満席になる。
けれども、平日火曜日ともなれば疎らで、とくに九時を過ぎればあとは常連がやってくるぐらいで、その常連も長居はしない。
店主、富岡と出会ったのは僕が学生のころだ。
調理補助のアルバイトをした料亭で、彼が下働きとして修行していたのがきっかけで、年も近いからすぐに仲良くなった。
彼は専門学校に通いながら、毎日夜の営業にも出勤していて、立場的には同じアルバイトだったのだけれど、単なる調理補助の僕とは違って本気で料理の世界を目指していたから、板長も彼には厳しかった。
そんな彼が十五年ほど修行をして店を構えた。資金面での相談を数回受けたけれども、金の無心をされたわけでもなかった。彼が僕に頼んだのは事業計画の具体的な見直しだった。
変に気取らずに、けれども小洒落た内装。週末ともなれば、従業員は二人増えるが、基本的には富岡とあと二人で手が届く範囲なのだろう。
「そういうときは安い酒をがぶがぶ飲むのがいいんだろうが。なんでうちに来るかね。まあ、うちは金を落としてくれりゃあそれでいいけどな」
小言を漏らしながら、彼は冷酒の入った徳利を僕の猪口に傾ける。
「これは?」
「出羽桜の大吟醸。俺の奢りだ。心して飲め」
「一升瓶で奢ってくれるなんて気前がいいね、富さん」
「馬鹿言え。誰が一升も奢るか。徳利一本だ。あとは自分で払え」
呆れた様子でため息を吐いて、彼は続けざまに料理を出す。
山芋短冊には彼謹製の梅水晶が乗る。
それに枝豆もついてきたけど、彼にしては珍しい。
「枝豆を出すの?」
「いいから食ってみろって」
食べればすぐにわかる。
これは茶豆だ。
鞘ごと焼いて、昆布出汁に漬けていたのか冷たい。
でも、美味い。
「いいね、物足りない」
「あとがあるからな」
シャキッとした山芋の短冊は噛めばすぐに粘り気が出て、その淡泊ながらも滋味に富む味わいを、梅水晶のさっぱり感とコリコリとした食感が混ざる。
これがまた酒の進む肴だった。
けれど、らしくない味だ。富岡は手間の込んだシンプルさが好きだったはず。ちょっと味がごたついていた。
そんな感想も顔に出ていたのだろう。彼は澄ました顔で「これはダメか」と呟いた。
昔から、僕は彼の実験台だった。
手酌で飲みながら、富岡の仕事ぶりを眺める。
無駄のない動きだ。
従業員は若い男の子で、きびきびとした動きの中でも、彼の仕事をちらほらと盗み見ている。きっと若い頃の富岡と同じ類なのだろう。
富岡の仕事を先回りして、あれこれと動き回り、それをしながら客席の僕に注意を向けている。僕に声をかけようとして、富岡が「こいつはいい。俺の旧友だ」と言って遮った。たぶん次のお銚子を、とでも尋ねたかったのだろう。
僕が富岡の店を訪ねるのはもう何度目かわからない。
店を構えたすぐのころに何度か。それから気が向いたときにも数度。どんなに間が空いても三ヶ月に一度は来る。
その度に僕は何も頼まない。いや、頼ませてくれない。
勝手に料理や酒を出されて、帰るときにはしっかり金を取られる。それでも安いのだから文句は言えない。
ほとんどの客が酒以外を「お任せ」にしてしまうらしい。代金は倍近く違う。
オコゼの薄造りが出てくる。
かぼすを使ったポン酢ともみじ下ろしが抜群に合った。丁寧に濾してからすり鉢で練った、とろみのある肝醤油もまたいい。湯引きして刻んだ皮もこりこりした食感が楽しめる。
「で、何に悩む必要があるんだ?」
男なら女に恥をかかせるもんじゃないぜ、と富岡は言った。
「お前のこと全部分かった上で、それでもお前がいいって言ってくれたんだろ? じゃあ、いいじゃねえか。禊ぎはとっくに終わってるだろ」
「抱けないよ、僕は」
すると富岡は盛大なため息を漏らす。
埒が明かないと目で語る。
「お前、やっぱり病院行ってなかったな」
「嫌いだからね」
「そういう問題じゃねえだろ。いいから、行け」
「どうして?」
彼は店の中に客が僕だけになるのを見計らっていたのだろう。
「バイアグラでも何でもいいから、さっさとやっちまえばいいだろうが。やれば踏ん切りもつくだろうが」
「あながち間違いでもないだろうけどね。その踏ん切りが怖いって言っても、富さんはわかっちゃくれないだろうし」
「わからんね。だいたいお前は難しく考えすぎる。好いた女がいて、その女が自分を選んでくれた。それ以上、他に何がいるんだ。それでいいじゃねえか」
「富さんぐらいに気楽に考えられたら、僕もこんなに悩んじゃいないけど」
「そりゃそうだ」
富岡はからから笑って従業員の男の子に振り返る。
「でも、お前は若いから、やる前にちゃんと考えろよ。その場の空気に流されるのは若気の至りだが、あとで絶対に後悔するからな」
従業員は困ったように肩を竦めてみせる。身に覚えがあるのかもしれないと勘繰る程度には男前な顔をしていた。
「男と女のことだ。そりゃあ色んな事情があるさ。でもな、理想の相手は探すもんじゃない。自分がいつだって選ぶ側にいるとみんな勘違いしてやがる。妥協も何も、自分が選ばれるような人間かって話だろ? 経済力然り、人格然りだ」
「それはその通りだろうね。でも、僕はそういう意味で悩んでるわけじゃないよ。まあ、大っぴらに話せる内容でもないから、黙ってるしかないけど」
「相変わらず、お前は面倒くさい野郎だな。好きなら好きでいいじゃねえか」
そう言って鼻で笑い、彼は手を動かしながら続ける。
「俺はずっと料理のことしか頭になかった。自分の店を持つってのが子どもの頃からの夢で、そのために努力も重ねた。店を持つために、それ以外のことは切り捨ててきたんだ。そんな俺でも、迷った。店を持てるってなったとき、料理長にならねえかって話があって、家族もいるのにギャンブルする必要あるのかってな」
彼は手を止め、僕をまっすぐ見つめて言う。
「でもよ、上さんが言ったんだ。わたしはひたむきなあんたに惚れたんだから、余計なこと考えずにやり抜けばいい。あんたのことだから結果はあとからついてくる。悩むのはあとでいい――まあ、なんつうか、俺よりもずっと男らしいよな」
久しぶりののろけ話だ。僕がからかうと富岡は「悪いか」と笑った。
ひたむきな努力の結果が、彼の今を支えている。
「タカシ。暖簾下げてこい。今日はもう店じまいだ」
テーブルに置いた腕時計を見ると、午後十時を過ぎていた。
それにしたって閉店時間にはずいぶん早い。
腰を上げようとすると、彼は僕を止める。
「どうせ今日はもう来ねえよ。予約もキャンセルになったから。火曜日の十時過ぎは滅多に来ないんだ」
だから貸し切りだ、と彼は調理場から出てきて僕の隣に座る。
和帽子をきれいに畳んで置き、従業員に言いつける。
「適当につまみを出せ。お前のセンスでやれ。明日の予約分以外の食材なら何使ってもいいぞ」
「また無茶を言い出すね、富さんは」
いくら従業員とはいえ、まだ若い。専門学生か何かだろう。
師匠でもある彼から「お前のセンスでやれ」なんて言われたら緊張するに決まっている。
案の定、彼はどこか険しい表情で固まっていた。
富岡はヒントを与えるように教える。
「俺が言うセンスってのは、いつも口を酸っぱくして言ってるから耳タコだろう?」
タカシと呼ばれた従業員はぽかんと口を開けて、すぐに引き締める。
すると富岡は満足したのか鷹揚に頷いて見せた。
「料理人の仕事は、自分の得意な料理を自慢することじゃない」
お客に満足して帰ってもらうのが仕事だ、と続くその言葉は、富岡の師匠でもある板長の言葉だ。懐かしい言葉だった。
さあて、と富岡は立ち上がり、厨房に一旦戻り、すぐに一升瓶を抱えて戻ってきた。
「今日のお前には、こいつがお勧めだな」
「へえ、銘柄は?」
「而今。三重の酒だ。売りもんじゃねえぞ。完全に俺の私物だ」
そのお酒を僕はよく知らなかった。
「而今ね。変わった名前だ」
「今のお前にぴったりな意味だぜ?」
からからと笑いながら、彼は僕の猪口に直接それを注ぐ。
果実を思わせる芳醇さに反して、口当たりはすっきりとしている。それでいて、癖のない柔らかな甘みが口に広がる。
「……美味いね」
「今を生きてるって味だろ?」
そういって、富岡は手酌で注いだグラスを傾けた。
僕がこの店に来たのは他でもない。
富岡の話を聞くためだった。いつもあれこれと考えすぎる僕は、判断に困ると彼の顔を見たくなる。
富岡はお世辞にも頭がいいとは言えなかったし、自分のできることとできないことをはっきりと自覚しているタイプだった。その点で言えば、僕よりもずっと賢かった。
「陸。お前は何でも受け入れる懐の広さがある」
彼は唐突に言う。
それまでのふざけた調子を消して、急に真面目な顔つきで。
僕は苦笑してそれを否定したけれど、彼は「そうじゃない」と首を横に振った。
「そういう意味じゃない。俺はお前のそういうところがすごいと思うし、尊敬もしてる。だがな……」
――お前には悔しいって感情がないのか?
その一言は、僕の心中に深く突き刺さった。
【恭子】
日付が変わってようやく帰宅した陸さんが、お酒の匂いをさせていたのが気に入らなかった。
私はずっと待っていたのに、と思った。
陸さんをこんなに……それ以上は言えなかった。
そんな薄ら寒い言葉は口に出せなかった。
本当の愛なんて、どこにもない。
ただの独占欲。
違う。
私はあの男とは。
もう私はあの男の所有物でもなければ、あの男のように誰かを所有しているわけでもない。
でも、納得した。
キッチンで水を飲む陸さんの横顔を見つめて、ふと思ったんだ。
「ああ、そっか。私もあの男の娘なんだもんね」
怪訝に私を見る陸さんを見て、急に愛おしくなった。
でも、それがまた怖くて、とっさに蓋をする。水の溢れるグラスに手を被せるように。
「なんでもないよ。同窓会、楽しかった?」
陸さんは申し訳なさそうな顔で頷く。
――嘘だ。
同窓会だなんてきっと嘘。
でも、それを指摘したって意味はない。
ただ、私は陸さんに嘘を吐かれたことよりも、私が彼に嘘を吐かせてしまったことが苦しかった。
「ねえ、陸さん」
苦しそうに笑って、あなたは私からそんなに逃げたいの?
溺れてしまえばいい。
私から離れられないぐらい、狂ってしまえばいいのに。
翌朝になって、私は陸さんの見送りで出社する。
いつもの笑顔で送り出してくれる彼に振り向いても、彼は何事もなかったかのように微笑む。
昨晩の、無理やりに求めた彼の愛撫は、私の心を少しだけ慰めた。
少しずつ。少しずつでいい。
このまま気が狂ったって、いつか陸さんが私を追い出そうとしても、それだって構わない。
だって、私は――。
矛盾してる。自分の行動や考えに一貫性がなくて、自分でも何をどうしたいのかわからない。
本当はわかっているけれど、見失っているだけなのかもしれない。
私はただ、陸さんと結ばれたい。彼の腕の中で、彼だけのものになりたくて、同時に彼を私だけのものにしたいのだから。
唐突にスマートフォンが着信を知らせる。
駅前の雑踏の中で取り出して、改札を通りながら画面を確認する。
「はい、もしもし」
『お久しぶりです。弁護士の保科です』
思わず立ち止まる。
見知らぬ人が私の隣をすり抜けていく。
脚が震え始める。けれど、私は深呼吸をして答えた。
「お久しぶりです。ご用件は何でしょうか」
『今お時間大丈夫ですか?』
「少しなら」
『そうですか。では、簡潔にご説明しますね』
「はい」
嫌な予感がした。けれど、保科という弁護士とはかれこれ十年以上の付き合いだ。
『仮釈放中のお父さんが行方不明になりました』
雑踏の音が消えた。
めまいがする。
私だけ周囲から切り取られたみたいに、人が流れていく。
『海部さん? 大丈夫ですか?』
「……はい。大丈夫です」
『海部和弥は仮釈放中ですから、定期的に保護観察官が状況を確認しなければならないのですが、連絡も取れず、居場所も特定できていません。完全に行方を眩ませています』
保科は私に心当たりを尋ねた。しかし、私にそんな覚えがあるはずもない。
すると彼は言う。
『海部さん。身の回りには気をつけてください。もしかすると、海部和弥はあなたを探しているのかもしれない』
あくまでも仮定の話。そう決めつけることはできなかった。
きっと海部和弥という男の中では、私はまだ所有物なのだから。
それよりも、私は罪を完全に償ってもいない男が平然と姿を消せる、管理の杜撰さに失望した。軽犯罪者ならばいざ知らず、彼は一応殺人犯に違いないのに。
『近いうちに警察からも連絡があるかもしれませんが、何よりもあなたはあなたの安全のために行動してください。何か怪しいと思ったら、すぐに警察に連絡を。私の方でも構いませんが、私ができるのは法的手続きぐらいしかありませんから』
保科は自分にできることを割り切る男だったことを思い出す。そういうところがかえって信頼できた。
電話を切ったあとで考える。けれど、思考は世界にぼやけて、遠い輪郭を滲ませるだけ。
たまたまぶつかった男性が「失礼」と声をかけるまで、私はずっと動けなかった。
転ばないように踏み出した足を見つめたまま「大丈夫です」と答えても、心の中では大丈夫ではなかった。
不安が渦巻いて仕方がなかった。
なんとか歩き出して、いつの間にか会社に着いていた。
始業時間に遅れることはなかったけれど、仕事は何も手につかない。課長から二度ほど注意をされて、それでも心ここにあらずで心配された。
「この世の終わりみたいな顔して、どうしたんだい?」
この世の終わり。それは妙にしっくりきた。
確かに、海部和弥という父親との再会はこの世の終わりみたいなものだった。
今はまだ不確定だけれど、不安が拭えない。
あの男は必ず私の前に現れる。
それも重大な不幸を引き連れて。
確証はない。
でも、それだけは予想ができた。




