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蟹のトマトクリームパスタ(陸)

二話連続更新なので、ご注意をば。

「そろそろ再婚考えてないの?」


 いつだって、不躾(ぶしつけ)な質問をするのはお節介な親族と相場が決まっている。

 突然叔母が電話をかけてきたのは、デスクを離れた午後四時すぐのことだ。


 スーパーに行こうと思った矢先のことでもあった。


「叔母さん、もうその話はしないって前に言いましたよね?」

「ちょうどいい人がいるのよ」

「人の話聞いてますか?」

「いいじゃない。会うだけ。会ってみたら気も変わるわよ。優しいし、かわいいお嬢さんなのよ」


 叔母からすれば、離婚した甥っ子への善意なのだろう。

 正直に言えば迷惑だ。(わずら)わしさに相応の見返りすらない。


 盛大なため息を隠さずに吐いて、叔母の話が終わるのを待つ。

 お相手のお嬢さんとやらは、気配り上手で、とびきり美人ではないが愛想がいいとか、ファッションセンスがいいとか。

 知り合いの社長の娘だそうだ。


「さっきから、お嬢さんお嬢さんって、だいたいその人おいくつなんですか?」

「三十五歳よ」

「三十五歳の女性は一般的にお嬢さんと呼びません」

「女はいくつになってもお姫様みたいに扱われたいものなのよ」

「還暦すぎてその台詞はちょっと……」

「んもう、失礼ね! 社長さんは娘婿に跡継ぎになって欲しいってまで言ってるのよ!?」

「朗報ですね。もっと嫌になりました。まるでメリットがないです」

「結婚はメリット・デメリットでするものじゃないでしょ!」

「その言葉、そのままお返しします」


 お節介な叔母の相手だけでも面倒だ。

 年に一度会うか会わないかという親族だって、親族である以上邪険にもできない。


 それに、叔母はお節介なだけで悪い人ではない。むしろ情の深い人だ。


「でもね、りっくん」

「叔母さん。僕はもう四十なので、その呼び方もいい加減やめてください」

「まあ、いいじゃないの。わたしにとってはいつまで経ってもかわいい甥っ子なんだから」

「はあ……。まあ、いいです。それで、何ですか? お見合いならしませんよ」


 叔母は電話口で軽く笑う。

 まあお聞きなさいな、と諭すように。


「独身の方が気楽ってのはそうだけどね。でも、伴侶がいた方がもっと幸せよ? 結婚して、子ども作って、育てて、見守って、ね」

「失礼。僕に子どもができないと知っててそれを言うなら、さすがに怒りますよ」

「……あれって冗談じゃなかったの?」

「冗談でそんなこと言いません」


 叔母に打ち明けたのは前回お見合いを勧められたときだ。

 あの時は僕も気が立っていて、事実を淡々と告げて一方的に電話を切ったのだ。

 それを冗談と受け止められていたなら(はなは)だ心外だ。


「それは……。悪かったわ。ごめんなさい。そういうつもりじゃなかったのよ」

「ええ、わかってますよ。叔母さんの心配はありがたいです。でも、そういうことなので」

「それなら――」

「叔母さん。デリケートな問題なんです。丁寧にお断りするのにも限度があります」


 叔母はしばらく沈黙して呟くように答える。


「気が変わったら、連絡ちょうだいね」

「その時は自分で探します」


 かわいくないわね、と叔母のため息が漏れた。

 四十を過ぎてかわいい甥っ子のままだったら、それはそれで大問題だろう。



 電話を切って、何度目かわからないため息を吐く。

 嫌な気分だ。

 ささくれた気分をなだめるためにコーヒーを淹れる。

 手回しミルでキリマンジャロをガリガリと。

 たまにはハンドドリップもいい。


 挽いた豆をペーパーフィルターに入れて、平らに均し、全体を湿らすようにお湯をかける。挽き立ての豆は膨らみ方が違う。

 十分に蒸らしたら、中心から細くお湯を注ぎ、のの字を描くように外側に向かって注ぎ、外周を残して中心へまた戻す。


 サーバーからカップに移して香りを堪能(たんのう)する。

 コーヒーの香りは気分を落ち着かせてくれる。

 若い頃は苦いコーヒーが好きだったが、歳をとってくると酸味とまろやかさのあるコーヒーが好きになってくる。好みもあるだろう。でも、中々どうしてコーヒーというものは存外に甘い飲み物だ。


 欲を言えば、軟水のミネラルウォーターで淹れたい。

 蛇口につけた浄水器でも十分なのだけれど。


「嫌だな、何もしたくない」


 そろそろスーパーに行って、夕飯に使う食材を買わなきゃいけない。

 冷蔵庫の中にはそれなりに食材が入っているけれど、冷凍できるものならともかく、生鮮野菜は乏しい。


 いっそ、うどんや蕎麦でも恭子は文句なんて言わないだろうけれど、個人的には手抜き感がある。


 ソファーに埋もれるように座って、コーヒーを飲む。

 優雅とはほど遠い、妙にうるさい午後だ。


 普段は気にならない音が耳に入ってくる。

 家電の稼働音に、時計の秒針。

 どうしてこんなに神経質になっているのかもよくわからない。


 叔母から不躾な話題を振られたからだ、と考えるのは安易な気もする。

 仲人(なこうど)媒酌人(ばいしゃくにん)なんて、今や絶滅したものと思っていたばかりに、身内に貴重なサンプルが生存していたことを嘆くしかない。


 悪い人ではないのだ。

 ただ、楽観的で、悪意がない。

 だから、厄介なのだ。


 無闇に人を傷つけるような人でないことは知っている。

 叔母がどれほど甥である僕を心配しているかも。

 けれど、それとこれとは別だ。


「なんでかな。もっと穏やかに聞き流せばいいのに」


 もしかすると、身内だからなのかもしれない。

 匡子に再婚のことを尋ねられたときは、こんな気分にならなかった。きっと他の誰に訊かれたってそうだろう。


 いや、それも違う。

 僕は叔母のことをよく知っている。彼女がどういうタイプの人間かも。

 いつもだったら平然と適当に受け流していることなのに、それができなかった。

 釈然としない煩悶(はんもん)を抱えている。

 考えてみれば、自然な道理なのかもしれない。


 自分が思い描いていた未来。

 ありふれた幸せの形。手に入れることが当然だと思っていた幸福。

 それが否定された原因は、僕自身にある。その言い草もなんだかおかしい。


 頭ではわかっている。先天的に生殖能力がないということが、僕個人の行動によって引き起こされた瑕疵(かし)でないことくらい。いっそ、自己責任であったなら、もう少し諦めもついたのかもしれない。あるいは、両親のせいにでもしてみようか。

 いや、それは無意味だ。

 結局のところ、生殖能力の欠如した個体は、男女を問わず一定の確率で生まれる。統計的な事実は清々しいほどに無味乾燥。


 僕は、僕の思い描いた幸福のあるべき姿を、他人から聞かされたくなかっただけだ。

 それはもう、忘れなければならないことだから。


 かつて描いた未来予想図を、今も捨てきれずにいる僕は、きっと女々しい男なのだ。


「いいや、もう。今日はあるもので作ろう」


 空っぽになったカップをシンクに置いて、冷凍庫を開ける。

 漁れば色々と出てくるものだ。


「これ、いつのだろう……」


 たぶん、お歳暮か何かでもらったタラバガニの脚。

 食べられないということはないだろう。


 戸棚の奥にはトマト缶があったはずだ。

 冷蔵庫を開ければ、牛乳がある。

 本当は生クリームが欲しかったけれど、十分だ。


 今日の夕飯は、蟹のトマトクリームパスタにしよう。



 *



 タラバガニの脚はキッチン鋏で適当な長さに切り分けて、バットに並べて電子レンジに。

 オーブンでじっくり火を通す。


 こんがり焼き目をつけて取り出す。

 バットについた焦げは水でこそぎ落として鍋に。


 加熱した蟹は中の身をきれいに取り出して、殻は鍋に入れる。


 鍋を火にかけて、タイムと白ワインを少量加え、弱火でじっくり煮る。

 丁寧にアクを取り、しっかり出汁を取ったら濾し器に。

 味見をしたら、少々物足りないので、コンソメ顆粒をひとつまみ。


 フライパンにオリーブオイルを。

 粗くみじん切りにしたニンニクを、弱火でじっくり加熱して香りを引き出したら、トマト缶の水煮を加える。ホールタイプだったので、木べらで実を崩しながら煮詰める。


 最初にトマトに火を通してあげて酸味を和らげる。

 砂糖をひとつまみだけ入れるとコクが出ていい。


 時計を見やると、七時前。

 調理を一旦止めて恭子の帰りを待つ。


 いつも通り、恭子は七時半よりも早く帰宅した。


「良い匂いがするね」

「すぐにできるよ。先にご飯にする?」

「うん、もちろん」


 着替えてくるね、と彼女は部屋に引っ込んだ。


 鍋にお湯を沸かして、少し太めのスパゲッティを茹でる。


 フライパンを温め直して、蟹の出汁を加えて煮詰める。


「珍しいね、パスタだ」

「うん。なんかスーパーに行きたくなくて」

「なんか手伝おうか。洗い物する?」

「お願いできる?」


 恭子はにっこりと微笑んで頷く。すぐに洗い物を始めてくれる。

 けれど、こちらの様子が気になるのかちらちらと視線を挟んでくる。


「なにパスタ?」

「蟹のトマトクリーム」

「いいね。豪華だ」

「冷凍だし、たぶん去年のお歳暮だけどね」


 パッケージに記載された時間よりも一分ほど早めに茹で上げ、しっかり水気を切ったそれをフライパンに。焦げ付かないようにかき混ぜ、最後に少量の牛乳を加えて全体に馴染ませる。

 赤いトマトの色が乳白色を帯びる。


 お皿に盛り付けたら、取り分けておいた蟹の身をてっぺんに。

 最後に刻んだパセリを振りかければそれなりの見栄え。


「美味しそう! 早く食べよ。ね!」


 ワイングラスを二つ。白のテーブルワインを注いで。


「なんか、手抜きでごめんね」

「これで手抜きとか言ったら、世の主婦たちからボコボコにされちゃうけどね」

「そんなに難しいことはしてないんだけどね」

「手間をかけないのが手抜きだよ。カップラーメンとか、インスタントとかね。陸さんのは手抜きじゃなくて、品数がいつもより少ないから物足りないって思ってるんだよ」


 確かに。言われてみればその通りかもしれない。

 家にいるからそれなりに手間をかけているだけで、外に勤めていたら難しい。


 グラスワインで乾杯。

 恭子はフォークをくるくると回してパスタを口に運ぶ。


「んーっ! 蟹だ」

「そりゃあまあ、蟹だよね」


 僕も一口。

 濃厚な蟹の味。ブイヤベースもどきも中々悪くない。

 生クリームの代わりに牛乳を使ったけど、案外こちらの方がさっぱりしていいかもしれない。


 トマトの旨みや酸味もちょうどいい。全体的にバランスが取れている。


 こういう味にはやっぱり太めのパスタが合う。

 今度、機会があったらタリアテッレなんか使うのもいいかもしれない。


「蟹ってすごいよね」

「うん? どうしたの、いきなり」


 恭子はフォークで蟹の身を麺に絡めつつ言う。


「だって、外は殻で堅く覆われてるのに、中はこんなに美味しいんだもん」

「まあ、そういう生き物だしね」

「ほら、見た目最悪でしょ? 虫だもん」

「それはあまり言っちゃいけないことだと思うけど」

「甲殻類ってだいたい虫みたいだけど、美味しいから正義だよ」


 最初に食べようと思った人は偉いね、と彼女は面白おかしく軽口を叩く。

 それを言うならフグを食べた人も偉いと言えば、彼女は何人死んだんだろうと肩を竦めた。


 正直、ありがたがるほどのものでもない。

 確かに美味しいけれど、度を過ぎれば飽きるのは何だって一緒だ。


「恭子さんは蟹、好きなの?」

「特別好きってわけでもないけど、滅多に食べないし」


 恭子はくすりと笑う。


「ほら、私って贅沢できるような環境で育たなかったから」


 高級な食材を知ったのは施設を出てから、と彼女は言った。


「大学通いながら、バイトいくつも掛け持ちしてた。まかないが出るところがあったら拝み倒したぐらいだもん」


 苦学生、という一言で済ませるのはなんだか物足りない。

 恭子には、一般的な苦学生以上の無理難題があったのだから。


「陸さんも、学生のころは苦労したって言ってたよね」

「僕なんか大したことないよ。うちは、両親が偏屈だったからね。貧乏ではなかったけれど、義務教育プラス高校まで金を出したんだから、大学ぐらいは自分で行けってね。高校からバイトしていて、全部貯金していたから、それが入学金とか授業料になったんだ。先立つ金があったから、一年バイトして貯めて、翌年の授業料になるって感じだった」

「それはそれですごいと思うけど」

「あんまり物欲がなかったからね。父親も稼ぎが多かったわけじゃないし、かといって奨学金を借りてもあとが怖かったから」


 そういう時代でもあった。

 僕ぐらいの世代が大学に進学するころ、世間は就職氷河期で、大学を卒業しても望ましい給与と待遇は得られないと、かなりの受験生が消極的な姿勢になっていた。


 当時はまだ、大卒の方が将来は安定するという意識が根強かったけれど、就職氷河期というショッキングな事実は、まだ実感を帯びるに足りなかったのだ。いや、正確には見ないふりをしていただけなのかもしれない。

 実際、大学ぐらい行かなければ、という危機感はあったものの、しかし卒業後はどうなるのかという危機感も同じくあった。けれども、ある種の楽観論があったのも事実だ。


 いざ入学してみれば、世間はそれほど大卒を求めていないという一定の真実を知る。


 同期の多くが、怠惰(たいだ)(むさぼ)る学生だったし、大学生の本分といえば、むしろその通りだった。

 社会に出るまでの猶予期間。ある種のぬるま湯。

 酒と煙草と女。

 パチンコと雀荘(じゃんそう)の場代に消えるバイト代。


 勉強熱心な学生ほど「ダサい」と言われる風潮。

 単位を落としても来年があると余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)の体たらく。


 思えば、僕はそういった一般的な大学生とは違った。

 真面目一辺倒ではなかったし、それなりに酒と煙草も(たしな)んだものだ。

 何人かと交際したこともある。


 けれど、単位は落とさなかったし、バイト代はほとんど貯金していた。

 堅実、というのも違う。

 そうならざるを得なかった。それだけのことだ。

 両親に頼れる財力もなかったから、僕は自分でやり繰りするしかなかった。

 たとえ、交際相手からつまらないと言われても、優先順位に縛られて引き留めるだなんて考えもしなかった。


 端的に言うならば、僕には大学を卒業したあとの明確な目標があったというだけだ。


 遊びほうけていた彼らが幻想を打ち砕かれる頃、僕は二社の内定を獲得していたのだから、間違ってはいなかったのだろう。あるいは運がよかっただけなのかもしれない。

 とはいえ、面接のときには、アピールポイントに事欠かなかったのも事実だ。


 世間はまだまだ買い手市場。厳選採用どころか、そもそもの求人数が足りず、内定格差という言葉すらほど遠い状況があった。僕が卒業して数年後に、ようやく売り手市場になった。不公平なことだ。

 新入社員の指導を仰せつかったときのやるせなさと言ったら。


 思い出してみると、不思議なことがたくさんある。


 匡子と出会ったのは、内定をもらったあとに友人から強引に誘われた合コンだった。

 あの時は、彼女と結婚するだなんて予想だにしなかった。

 お互いに興味を抱くこともなかったし、何よりその時の匡子は僕と同じ境遇で、友達から強引に参加させられたひとりだった。


 話が盛り上がる席で、僕と匡子はふたりで傍観していたことを覚えている。

 実はわたし、彼氏いるんだけどね――匡子はため息混じりに打ち明けて、僕は気の毒にと答えた。


 まさか、その十年後には夫婦になっているだなんて、想定外も良いところだ。


「おかわり、いる?」


 恭子がグラスを指して尋ねる。

 ひどく思考が緩慢だ。余念が過ぎる。

 軽く頷くと、彼女は並々と安いワインを注いだ。


「ねえ、陸さん?」

「どうかした?」


 彼女は首を横に振る。


「いつもありがとう」


 唐突だ。

 苦笑を返すだけで、胸が苦しくなる。


 当惑を押し隠す。


 囚われているのだ、僕は。

 何が何だかわかっちゃいない。

 彼女を救う手立てを模索して、その霧中(むちゅう)に自分の手足すらも見えなくなっている。


 心中に(うごめ)く複雑怪奇な化け物を、善意――それもなんだかピントがずれている――という蓋で閉じ込めている。


 彼女が僕に好意を伝えるたびに、僕はそれが本当に彼女の本心から抽出された言葉なのか、疑ってしまっている。

 恭子を悪い意味で疑っているわけではない。ただ、彼女が僕に一時的な、その場しのぎの愛情を求めているだけなのかもしれないと、不安に(さいな)まれている。


 ――怖いんだ。


 僕は、彼女の心に触れることを怖れている。

 まるで、自己防衛のために、見えない壁を作るみたいに。


 こんなに苦しいと思う、この感情が。

 恭子の未来を切り拓く一助になれば――そう考える僕は傲慢(ごうまん)極まりない。


 彼女の思いを疑って、自分だって彼女を求め始めていることに気づいているのに、彼女の未来のためには自分がその思いを事実とするわけにはいかないと、自分を欺こうとしている。


 薄汚いやり口だ。


 恭子の幸せを願う一方で、彼女の言葉を信じられずにいる。

 どうしてだろう。


 そんな疑問符さえも卑怯だ。

 わかってるさ。

 僕は怖いんだ。


 もう二度と、誰かに裏切られたくないだけだ。

 いずれ自分の傍から離れていくと思い込んでいる。

 実際に、そうだろう。そうなるはずだ。そうでなければおかしい。


 子どもを作るだけが夫婦の形ではない――そんなこと言われずともわかっている。わかりきっている。何度だって自分にそう言い聞かせた。


 けれど、真実それを共感して自らもそれを許容できる女性は、そう多くない。


 僕はこれ以上、傷つきたくないのだ。

 自分勝手だ。ひとりは寂しいくせに、裏切られたくないから受け入れられないなんて、矛盾も甚だしい。

 僕よりも、ずっと傷ついている人間を前にして、僕は平然とそんなことを考えている。


 けれど、一体どうして比べられる!?

 そんなことを言い出したら、誰の苦しみだって「大したことない」と(うそぶ)けるじゃないか!


「やめてよ、陸さん」

「え?」


 他愛もない話をしていた恭子は、突然ムッとして僕を睨む。


「その作り笑顔を私に向けないで」


 ――嗚呼。


 そんなつもりはなかった。

 僕は真性の馬鹿に違いない。


 途端に悲しみを帯びた苦笑を向ける恭子は、まるで鏡だ。

 どこまでいっても、僕らはお互いの心中を読み取ることなんてできやしない。

 いつだって、共有した時間を絆の深さと勘違いしてしまう。そんなもの、たったひとつの言葉で今すぐにでも破壊できる代物なのに。


 けれど、少なくとも。

 愛より軽く、恋よりも気楽だ。


 なんて都合のいい言葉なのだろう。

 いっそ、言葉なんて全て軽々しい代物に違いない。


 薄っぺらい言葉の隙間を埋める術さえあれば、多少の説得力もあるはずだ。

 けれど、どうやって。

 肉体言語か。

 スキンシップ。

 キス。

 ペッティング。

 セックス。


 どれも、実態を表すには空虚に過ぎる。

 誠実な純愛に満ちたセックスなんて、ただの妄想だ。


 なんて悪質な言葉遊びだろう。純愛と誠実さなんて最初から縁が遠い言葉の羅列(られつ)じゃないか。矛盾だ。著しく乖離(かいり)している。

 だとしたら、金銭的関係か、それとも戸籍上の?

 前提がおかしいのだ。


「何に怒ってるの?」


 ああ、そうか。

 ふと腑に落ちる。

 僕は苛立っていたのか。


 恭子に言われて気づく程度には、自分がわからなくなっていた。


 ――ひどく、人間くさい。



 ***



 どうしてか、僕は素直に心の(うち)を話すことができた。


 叔母に言われたこと、僕が思ったこと。

 思い描いていた未来。ありふれた幸福。

 現実。未来。

 制御が困難な僕の心を、だ。


 当然、そこには恭子に対する思いもあった。

 いや、それは正確じゃない。


 僕は卑怯にも彼女への思いを上辺で取り(つくろ)う。

 つまるところそれは、僕が彼女に対する疑いを抱いていないという嘘だ。


 それだって、まるっきり嘘というわけでもない。

 僕は恭子との安穏とした日々を好んでいた。

 それが続けばいいとも思う。


 けれど、尋ねずにはいられなかったのだ。


「幸せってなんだろう」


 ベッドの上で、タオルケットに包まり、恭子は僕の腕の中にいた。

 規則的な吐息は、寝息のそれではなく、彼女が冷静であることの証左にも思える。


「さあ、私に聞かれてもわからないよ」


 突き放されたように感じるのは身勝手だ。

 事実、彼女は幸福というものを形で捉えられない。


「陸さんは、どういうのが幸福だと思うの? 夫婦で子どもがいて、一緒に育てて、見守って、孫の顔を見てって、そういうごくごく普通な――ありふれた生涯?」

「そう思っていた、というのが正しいかもしれない」


 そうだよね、と恭子は小さく頷いた。

 彼女の髪からシャンプーの匂いが漂う。

 情熱に身を任せるために必要なあれこれを、僕は忘却したままだ。


「幻滅した?」

「ううん。全然」


 むしろ、と彼女は笑った。


「ちょっと安心した」

「安心?」


 恭子は僕の腕の中で寝返りを打つ。

 まっすぐ僕の瞳を覗き込んだ。


「陸さんってさ……」

「うん」

「自分のために泣いたこと、あるの?」


 僕は訝しみ、そして不満を抱く。

 けれど、すぐに混乱した。


「自分のために?」

「そう。陸さんが、陸さんのために」

「わからない」


 すると、彼女は僕の頭を抱えるように、自らの胸元に引き寄せた。

 突然のことに、僕は驚いて何もできなかった。


「聞こえる?」

「聞こえるって……」

「私の心臓の音。生きてるでしょ?」


 その意味を理解することは、今の僕には難しかった。


「私ね、陸さんの鼓動を聞くと、なんだか安心して眠っちゃうんだよ。とくん、とくんって」


 ねえ、聞こえる?

 彼女は僕の頭を優しく撫でつけて、耳元で(ささや)いた。


「私、怖くないよ。なんにも、怖くない。明日誰かに殺されても、いいぐらい」

「物騒だ」

「うん」

「君が殺されるなんて、僕が許さない」


 (ついば)むように、彼女は僕の額にキスをした。

 彼女の心臓は早鐘を打っている。

 その音色は彼女の言葉を確かなものにしてくれる。


 薄っぺらい言葉、意図の見えない言葉。


 けれども、その隙間は優しい音色で埋め尽くされている。

 君という演奏者を見つけた楽譜のように。

 タクトを振るのは、大人げない独占欲。


「知らなかったんだ」


 その台詞は、どちらの口から出たのかもわからない。

 恭子は僕の唇に指を添えて呟く。


「陸さん、ねえ」


 こんなにも、泥まみれで、汚くて。

 素晴らしい? ああ、そうかもしれない。


 約束したのだ。

 僕は、彼女を向こう岸へと連れて行く、その手助けを。

 一方的だ。


「――陸さんが欲しい」


 その一言を口に出せる君が羨ましい。

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