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 Side 1  It's a bit too early for a Gimlet.

恭子の同僚、小春ちゃんのサイドストーリー

 どこで間違えたのか、自分でもわからない。


 午後十時を過ぎたころ。

 恭子ちゃんとのお食事会は終わりを告げた。

 それなりに良好な関係だと思う。でも、彼女は毎回同じ時間に帰ってしまう。

 きっと、帰りを待っている人がいるから。


 早足で駅へと向かうの後ろ姿を見送って、小さなため息をつく。

 羨ましい――ふと思う。


 恭子ちゃんは社内でも美人の部類。でも、本人はそれを意識していない。

 たぶん、自己肯定感がとっても低い。


 十代の頃からいっぱい告白されただろうし、男性経験が豊富でもおかしくない。今でこそぼんやりした薄化粧で顔立ちのきれいさが和らいでいる。素材がいいのだ。子どものころはきっと親も自慢のかわいい娘だったはず。父親が娘を嫁にやることなんて考えられないくらいには。

 でも、彼女のふとした表情に垣間見る逮夜(たいや)のような闇が、そんなわたしの浅はかな想像を否定する。


 もしかして、恭子ちゃんは恋を知らないのかもしれない。

 そう考えると、彼女の態度はすとんと腑に落ちる。


 まるで、自分の運命が明日終わってしまうみたい。全てを人任せにして。


 でも、今のわたしと何が違うのだろう。

 わたしだって、そう変わらない。


 鞄から取り出したスマホに一通のメール。

 送り主は見るまでもない。

 開いてみれば、やっぱり彼だ。


 ――都内ホテルのバーにいる。

 ただそれだけの文面。

 電車で行くよりもタクシーの方がずっと早い場所。


 当然のように、わたしは彼の待つホテルへと急いだ。

 下町風情溢れる繁華街を抜け、大通りを通りがかったタクシーを呼び止める。

 車が発進してしまえば、にこやかな笑みを下町の影に放り捨てる。


 これから向かう場所に、緩衝材のための笑顔なんかいらない。


 そのホテルを、彼はわたしと会うためによく使う。

 安くはないのに、月に数回は平気で払ってしまうのだから、いくら高給取りとはいえ、少し呆れてしまう。かといって、陳腐(ちんぷ)な愛を語るには、ラブホテルじゃ不釣り合いだ。

 外箱が大きくて派手な方が、見えない中身を想像するのも楽しくなる。セックスのためだけに与えられた小屋じゃ酔いきれない。


 ホテルに着くと、エントランス脇のエレベーターに乗り込んで最上階へ。

 廊下の奥、重厚感のある扉は思ったよりも軽くて、いつも勢いよく鐘が鳴る。


 従業員はわたしの顔を見慣れていて、顔をあげるなりにこやかな微笑みを向けてくれる。

 嫌味のない営業スマイル。

 きっと色んな客を見てきたはず。言葉少なに、けれど優雅な接客をする彼は、その微笑みの裏側で何を考えているのだろう。

 ――どうでもいいこと。


「いつもの席でお待ちですよ」


 落ち着いた従業員の声色に微笑んで、わたしはその席へとゆっくり歩く。

 店内は薄暗く、会話を邪魔しない程度にトリオのジャズが流れていた。


 東京都内の夜景を一望する窓際の席に、彼はいる。

 物静かに、濃淡(のうたん)折り重なる夜の街並みを眺め、紫煙を(くゆ)らせる。


 彼はわたしに気づいても隣の椅子をそっと引くだけで口を開かない。

 カクテルグラスを傾けるだけ。中身は見なくてもわかるマルガリータ。


 席に座ると、先ほどの従業員がやってきてオーダーをとる。

 一杯目は決まってコスモポリタン。我ながら似合わない。

 でも、これはお芝居なのだ。必要な小道具。

 代役であろうと、切望したからにはその役になりきらなきゃいけない。


 でも、少しだけ意地悪なわたしがつい口を挟む。


「今日はどうしたんですか? 舘川部長」


 部長は目を(ほころ)ばせて軽く笑う。

 その呼び方はやめてくれ、とわたしのいたずらを受け流す。


「わたしにだって、予定ぐらいあるんですよ」


 智秋さん、と見え透いた嘘をついて、彼の腕に手を伸ばす。

 彼は身じろぎひとつしない。

 皺一つないスーツ。這うように手を末端へと差し向ける。

 でも、いつもその左手には届かない。

 薬指の指環に、わたしの指先はせき止められてしまう。

 まるで見えない壁に阻まれて。


 触れない。それだけは。


「海部さんと飲みに行ったんだって?」


 唐突に彼は言う。いつもそうだ。わたしの話なんか何にも聞いちゃいない。


「佐々木がうじうじして鬱陶(うっとう)しかったよ」

「そう」

「脈はありそう?」

「ないですよ。恭子ちゃん、佐々木さんには興味ないって言ってましたから。好きな人もいるみたいですしね」

「そいつはお気の毒だな」


 智秋さんは他人事のように笑う。

 佐々木もそろそろ身を固める頃合なんだがな、と思ってもいないことを言って。


 そんなことを言うのなら、どうしていつも左の席を空けているのだろう。

 どうして、いつもその指環が見えるように左手を遊ばせているのだろう。

 わたしの気持ちなんか、これっぽっちも考えていないみたいに。


 ――わがままだ。

 どうしてわたしは、この人を好きになってしまったのだろう。

 彼に出会う前のわたしが、恋を知った気になってるだけの初心(うぶ)だったなんて。

 惨めだ、とても。


 はじめて言葉を交わしたときから、わたしは彼の左手にまとわりつく愛に毒されてしまった。

 きれいな指環。

 彼はそれを大切にしている。傷がつかないように。

 まるでその指環に忘れたくない思い出が詰まってるみたいに見つめて、寂しそうに笑う。


 諦観(ていかん)に支配された(あざけ)りを、わたしは愛おしいと感じてしまった。

 思い出の薬指を奪ってしまいたい、と。


「今日は、帰らなくていいんですか?」

「帰る場所なんて、ないからな」


 わたしはずるい女だ。

 彼に妻がいることをわかっている。

 その人がもう目覚める見込みのないことも知っている。

 彼がその抜け殻を今も愛していることだって。


 だからわたしは、彼の弱みにつけ込んだ。

 (ふさ)ぎ込む彼の寂しさを、この身体で受け止めるように誘惑した。


 それ以来、彼との関係はずるずると続いている。

 まだ半年ちょっとなのに、戻れそうにない。

 最初はわたしから。今は彼がわたしに会いたがる。

 家に帰っても誰もいないのに、奥さんの遺物が家中に残っているから。


 病院のベッドに横たわる肉の塊にいくら愛を誓っても、微笑みすら返してくれない。

 その寂しさを忘れるために、彼はわたしを抱く。


 都合のいい女。

 そんなこと知ってる。

 でも、彼が指環を外したその時だけは、わたしは彼の女でいられる。

 顔の違う代用品だってことくらいわかってる。

 快楽でまだらな熱を帯びたわたしの身体に、妻の肢体を重ねていることも。


 彼がわたしの名前を誰かと間違えても、わたしは怒らない。

 それどころか優しく微笑んで抱き締める。

 気まずい顔で謝る智秋さんに、代わりでいいよと言ってあげられる。


 一度だって、離婚して欲しいなんて言ったことはない。

 わたしは(わきま)えてる。

 死を待つだけの人を放り出せ、だなんて言えない。

 そんな残酷なことを言えるほど薄情にはなれない。


 そのせいで智秋さんがわたしとの関係を断ち切れずにいることも、わたしを抱けば抱くほど彼が傷ついていくことも、全てわかっている。


「明日、お休みですね」

「ああ」

「お見舞い、行くんですか?」

「……帰りだよ。今夜は」

「じゃあ、明日もゆっくりできますね」


 マルガリータを飲み干して、彼はカクテルグラスの底を眺めながら頷いた。

 そのグラスを通した向こう側に、在りし日の妻を思い浮かべるみたいに。


 歯痒さを感じて、わたしもグラスを傾ける。

 弁えろ。そう自分に言い聞かせて。


 煙草をもみ消して、彼は指環に右手を伸ばす。わたしはそれを優しく止めた。

 ――ギムレットにはあと一言足りない。


 わたしが彼を愛するほどに、彼は苦しそうにわたしを抱く。

 若い女の身体に溺れて、全てを忘れようとする彼が愚かなら、わたしはもう人でさえない。

 人の道を一度外れてしまったわたしは、そう在り続けるしかない。

 たとえそれが、わたしの心を引き裂いているとしても。


「今夜もたくさん、して?」


 彼の耳元でそっと(ささや)くわたしは、人を惑わす悪魔か何か。

 苦痛に顔を歪めてわたしを抱く彼が、狂おしいほど愛おしい。


 でも、悪魔を見つめるもうひとりのわたしが泣いている。

 何度も何度も呪詛(じゅそ)を吐く。

 この喜劇の終幕を待ち望みながら。

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