2 牛すじカレー(恭子)
陸さんは家庭的な、野菜がゴロゴロ入ったカレーが嫌いだ。
理由は、ジャガイモをスプーンで割ったときにカツンと音が鳴り、それを母親から怒られたから。
六歳ぐらいの頃の思い出を、彼は未だに引きずっていて、それが原因で具材を入れたがらない。
彼らしいというか、たぶんそれは嘘だ。
陸さんは仕事柄のせいか合理的な考え方をしているし、たぶん好みの問題。
それに、結局カレールーと一緒に煮込まないだけで、お肉以外の具材は別添えになるだけ。
「ほら、見てよ。トロトロだ」
「いいね。早く食べよ」
しっかり煮込まれてトロトロになった牛すじと、今にもほつれてしまいそうな牛肉。
真っ白なご飯の隣にルーを注ぎ、その上からグリルした野菜が並ぶ。
皮付きのジャガイモに玉ねぎ。
茹でたブロッコリーに、赤と黄のパプリカ。
彩りもいい。お腹の虫が鳴く。
陸さんは申し訳なさそうに苦笑した。
「ごめんね、待たせちゃって」
「だから、いいってば。早く食べよ」
冷蔵庫から缶ビールを二本取り出す。
冷えたグラスに注ぐのはラガー。
椅子に座るなり、乾杯。
いただきますもどこかおざなり。
すっかりお腹が減っている。
まずはルーだけスプーンですくい上げて口に。
最初に感じるのは玉ねぎと人参の甘味。
嫌味のない甘さが広がって、それをスパイスの香りが刺激的に変えてくれる。
癖のない旨みは丁寧に下処理をした牛すじの出汁。
臭みもない、爽やかなカレーだ。
牛肉や牛すじの脂っぽさがなくて、むしろさっぱりしている。
白いご飯と合わせて口に運べば、スパイシーな味わいを土鍋で炊いた銀シャリの優しい甘味で包み込んでくれる。
ビールで流し込むように飲み込んでもう一口。
パリッとしたお焦げもルーを吸って少ししんなりしている。
香ばしさも加わってどんどん食べてしまう。
額から流れる汗に気づいてホッと一息。
ティッシュで汗をぺたぺた拭って、シャツのボタンをひとつ外す。
「いい食べっぷり」と陸さんが苦笑する。「クーラーいれちゃおうか」
六月にクーラーを使うだなんて、なんだか負けた気がすると言っていたのは陸さんなのに。でも、甘えることにした。
クーラーから出てくる冷たい風で、汗が冷やされていく。
でも、それ以上にカレーを食べて発生する熱の方が大きい。
「陸さん、おかわり」
「はいはい、ゆっくり食べてね」
皮付きのジャガイモは、外がカリカリで中はホクホク。
くし切りの玉ねぎは少しだけ辛味を残しつつ、あとからじんわり甘みが押し寄せる。
瑞々しいブロッコリーとパプリカは目を楽しませてくれるし、瑞々しい食感はパンチの効いたカレーにはいいアクセントだ。
「カレーのときは食い気が勝るね」
陸さんにからかわれて自分のグラスを見る。
まだ半分以上ビールが残っていた。
「夏になったらさ」
「うん?」
「トマトたっぷりの夏野菜カレーもしようよ」
陸さんはにっこり笑って頷いた。
いいね、それ――思った以上に大きな声で呟いて。
***
十一時を過ぎた頃。
満腹感の幸せな苦しさも少し収まって、ようやく入浴。
一日の汗を流すとさっぱりする。
でも、鏡に写る自分の身体を見る度に、奇妙な感覚に囚われる。
いつまでこの傷跡に人生を左右されるのだろうか、と冷静に考える自分がいる。
この傷から逃れるために、何度も私は自分の人生を終わらせようとした。
自分が生きている価値を見出そうとして、何度も傷つけたり、痛みに命を実感したりした。
でも、肌の温もり以上に、強制的に与えられる快楽以上に、生きている実感が沸き立つものはなかった。
セックスの快感は、痛みに似ている。
そこに愛があるかどうかはあまり関係がない。
身体は勝手に反応するし、毎月決まって生理はやってくる。
例えそれが、もはや形骸化した女の残滓だとしても。
もっと自分を大事にしろ、と何人もの人が常識論を突きつけてきた。
そんなもの、何の役にも立たなかった。
この身を誰に触れさせることもなく守ることが、どうして自分を大事にするということになるのか、私にはわからない。
もっとまともな男と交際しろと言う人もいた。残念ながら、まともな男はこんな傷だらけの女を相手にしない。仮にそういう関係になったとしても、後先を考えられる男は私から離れていく。
まともだとか、普通だとか、常識だとか。
それは、そういう枠の中でこぢんまりと生きている人間たちが使う言葉。
父親の性欲を晴らすための人形だった私が、父親の呪縛から逃れるためには、他の誰かの人形になるしかなかった。ただそれだけのことなのに、誰も私を理解してはくれない。
理解してもらおうだなんて思わないけれど。
風呂から上がると、陸さんと入れ替わる。
自分の部屋で髪を乾かして、リビングに戻ってソファーに座る。
適当にテレビを眺めながら、陸さんが上がるのを待つ。
バラエティー番組では、最近売れている若手芸人が大して面白くもないやりとりを繰り返していて、ベテラン司会者が何かを言うと聞き覚えのある笑い声が湧き上がる。
台本通りに進む白々しいトラブルとやらも、液晶画面の枠の中ではそれなり。
そういえば、昔からテレビ番組の面白さがいまいちわからなかったと思い出す。
幼児向けの教育番組の方が安心できた。
何も考えずに、淡々と。きれいなお姉さんが振りまく笑顔と、図体の大きな着ぐるみが動き回る。そこに意味なんてない。誰の苦しさもない。
テレビ画面に貼りつく子どもたちの後ろで、若い親たちは何を思うのだろう。
幸せを感じるのだろうか。
それとも、育児の大変さに疲労感を滲ませるのだろうか。
「寝るならベッドに行かなきゃ」
いつの間にか陸さんが隣に立っていた。
昼間の疲れから、私はうとうと瞼を開いたり閉じたりしていたみたい。
「連れてって」
「甘えん坊だね、恭子さんは」
「うん。お願い」
なんでだろう。
陸さんに、全てを伝えてしまったせいかな。
彼が私を軽蔑しないと知って、私はひどくわがままになってしまった。
どんなわがままも、彼は笑って許してくれる。
困ったみたいに、眉根を寄せて。でも、微笑みを絶やさずに。
「ほら、捕まって」
彼の首に腕を回す。
私の両膝を揃えて、陸さんは私を抱きかかえる。
男らしさなんて感じない陸さん。それでも、こうして軽々と持ち上げられると、彼も男なんだと実感する。
私の寝室の前で、彼は扉を開けようとする。
でも、私は首を横に振る。
「陸さん、今日もいいでしょ?」
「困ったね。でも、うん。いいよ」
そうして、彼は私を自分の寝室に連れて行く。
かつては奥さんと一緒に眠っていた部屋。
生活感のない殺風景な内装。
ダブルベッドに真っ白なシーツ。
サイドテーブルには無骨な置き時計。
今も伏せられたまま、ぽつんと放置された写真立て。
それを見る勇気は、私にはなかった。
優しくベッドに寝かせられ、彼は私にタオルケットを被せる。
でも、陸さん。お願いだから、傍にいて欲しい。
言葉もなく見つめれば、彼はお得意の苦笑で応じてくれる。
隣にごろんと横たわり、腕をそっと出す。
私は陸さんの腕に頭をおいて、彼の胸元に顔を寄せる。
「ぎゅってして」
「いいよ」
温かい。
彼の吐息が髪を揺らす。
お風呂上がりの石鹸の匂い。
清潔な匂いの中に、陸さんの匂いがする。
自分を主張しない、少し謙虚で、臆病な匂い。
そのくせ頑固なところがありそうな。
「ねえ、陸さん」
こんな甘えん坊でごめんね。
そんなこと、口に出したら図々しくいられない。
「好きだよ、大好き」
陸さんは私の気持ちに言葉で応えてはくれない。
でも、ぎゅっと抱き締めて、頭を優しく撫でてくれる。
電気を消して、背中に当てた大きな手で、ぽんぽんと規則的に優しく叩いて。
なんて安心するリズムなんだろう。
温もりの中に微睡んで、聞こえてくる彼の心音に流されて。
なんて贅沢なんだろう。
私は、彼の優しさを享受できるほど、きれいな女じゃないのに。
「陸さん……」
「いいよ。大丈夫。何にも心配ないから」
私の声が震えても、彼は私を包み込んだまま離さない。
どうしてだろう。
涙なんてとうの昔に枯れてしまったと思っていたのに。
今は、彼の優しさが怖い。
このぬるま湯から抜け出せなくなることが。
違う。
私は……。
あれから。
私は毎晩、彼の腕の中で眠る。
彼の温もりの中でしか、眠れない。
今までなら、どんな男に抱かれても、捨てられることに怖れなんて抱かなかった。
次の男を見つけるだけ。次の支配者を探すだけ。
そんなもの、わざわざ探さなくてもいいくらい、簡単に見つけられる。
でも、違う。
陸さんのぬくもりを、私は手放したくない。
とってもわがままだ。
私は、怖い。
彼に拒まれることが怖い。
彼の優しさから遠ざかるなんて、もうできない。
考えたくもない。
どうしてだろう。
彼のぬくもりに触れて、わがままを言って、いっぱい甘えて。
幼子をあやすように撫でられて。
じっとりと貼りつくような彼の肌に安堵して。
自分でも理由がわからない。
自分の全てを知ってなお、彼は私を抱き締めてくれる。
いっそ知らなかったころよりも優しく、熱く、労るように。
それが嬉しくて、怖くて、切なくて。
この涙を、私は知らない。
悲しくもない。
怖いのに、彼から逃れられなくなっていくだけなのに。
陸さんの温かい心に包み込まれている今が、私の心を熱くする。
胸が苦しくなるわけでもない。
ただ、ただ。
彼の注ぐ慈雨に浸されて、私の心が震えている。
――繋がりたい。
彼と、もっと、深く。
もう、戻れない場所まで。
潜っていきたい。
溶けてしまいたい。
全てを狂わせて、全てを投げ出して、蒸発するように。
この身を形作る線がふやけてしまうみたいに。
壊れてしまうみたいに。
どろどろに溶けて、小さな粒になって、風に流されるように混ざり合って。
そうして陸さんにもう一度、新しい私を積み上げてもらうんだ。
レンガで家を建てるみたいに。
もう一度、恭子という私を。
「眠れない?」
そっと顔を上げると、陸さんは微笑みを返してくれる。
暗闇の中で慣れた目が、彼の瞳の輝きを見つける。
こんなはずじゃなかった。
こんな思いを抱くはずじゃなかった。
これじゃあまるで、子どもみたい。
違う。こんなの求めてない。
こんな風になりたかったわけじゃない!
「恭子さん?」
そっと彼の腕から抜け出して、彼の身体をまたぐように乗る。
困惑した陸さんの顔が見える。
「キス、したい」
「いきなり、どうしたの?」
「陸さんと、キスがしたい」
苦しそうな顔。
まるで、そこから先は戻れない場所だと言いたげな。
陸さんは上体を起こす。それにつられて、私は彼の膝の上にずれた。
ぎゅっと抱き締められる。彼は私の肩に頭を乗せた。私も、彼の首筋に鼻先を埋める。
腕を回しても、彼の背中は大きくて、少し遠い。
「恭子さん」
「なあに?」
「ゆっくりでいいんだよ。勢いに身を任せても、何もいいことなんてないよ? 焦らなくていいんだよ」
「焦ってなんかないもん」
とんとん、と私の背中を大きな手の平が優しく叩く。
「私の気持ち、嘘だと思うの?」
「ううん」
「好きなんだよ。本当に」
「うん。嬉しいよ、とっても」
「陸さんは私のこと嫌い?」
「そんなことないよ」
「大切?」
「うん。とっても」
彼はどうして私の気持ちに応えてくれないのだろう。
子どもができないから?
そんなの、私だって似たようなものなのに。
セックスができなくてもいい。
それでも、キスぐらいあったっていい。
じゃなきゃ、私はこの気持ちを納得させられない。
震える胸の苦しさに、息も詰まるような鼓動に、説明ができないのに。
確かめたい。
今、私が生きている証拠を。
痛みで、快楽で、熱に浮かされた勢いに身を任せて。
「ごめんね」
陸さんは呟くように言って、私の頭を撫でた。
どうして彼が謝るのだろう。
わがままを言っているのは私なのに。
「女々しい男で、幻滅した?」
「そんなことないよ」
「そっか」
「うん」
彼は声を漏らさないように鼻息で笑う。
自嘲するようなものとも少し違った。
「頭では、もうわかってるんだ。僕も前に進まなきゃって」
「うん」
「けれど、僕に子どもができないのは前にも話したよね?」
「でもそれは……」
「うん。恭子さんがそれを気にしないと言ってくれるのは素直に嬉しいよ。君のせいじゃないんだ。君の未来のためを思って、でもない」
「じゃあ、どうして?」
「どうして、だろうね。僕にもわからないよ」
ただ――彼は声を震わせて呟いた。
「怖いんだ、僕は」
一際強く、彼の腕が私を捕まえる。
優しさの中に、逃がさない意思を垣間見て、私は胸が疼いた。
求められることに、怖れよりもぞくぞくと背筋を走る快感があった。
私は、こんな私を知らない。
でも、とても似ている。
私はこの感覚にかつて支配されていたことがある。
違いがあるとすれば、それは暴力によるものか、ただの依存。
飢えていた。
肉体ではなく、恭子という私を、この魂を、求めてくれる誰かに。
あるいは、そのぬくもりに。
砂漠を漂浪する人が、誰も知らないオアシスを見つけたみたい。
壊れていく。
私が今まで築き上げたものが。何もかも。
この泉を、私だけのものにしたい。
私だけを包む繭にして、他の全てを燃やしてしまいたい。
払いのけて、この温もりの中で、安穏と過ごしたい。
誰に邪魔されることもなく、ゆらゆらと揺り籠が傾くように。
「困ったね、陸さん」
「うん。そうかもしれない」
ねえ、陸さん。
人を好きになるって、こんなに心をめちゃくちゃにすること?
あなたを大切にしたいと思うのに、自分だけのものにしてしまいたいと思うこと?
陸さんの心の中を、全部私で埋め尽くしたいと思うこと?
あなたの視線を私だけに向けさせたいと思うこと?
嫌われたくないのに、つい邪魔をしたくなること?
過去に囚われずに幸せを掴んで欲しいと願うこと?
あなたの未来のために、障害になりたくないと思うこと?
ねえ、陸さん。
矛盾ばっかりだよ。
本当にこんな支離滅裂な思いが愛だとするのなら、狂ってる。
こんなものを声たかだかに素晴らしいと絶賛する映画も、ドラマも、世の中全て、歪んでる。ひっくり返ってる。
愛があれば、だなんて。そんなのは嘘。
都合の良いお為ごかし。欺瞞。
愛してるだなんて、そんな浮ついた言葉だけならいくらでも口にできるもの。
もしかして、あなたも私と同じように、この矛盾に苦しんでいるのだろうか。
――ねえ、陸さん。
その倒した写真立てにいるのは、だあれ?




