春野菜とアクアパッツァ(陸)
色々な兼ね合いから不定期更新です。
作者の気が向いたときに書きます。
毎話、何かしら料理を。美味しいお酒とともに。
「今日の夕飯、何が食べたい?」
恭子にメールを送ったのはお昼休み。
返信があったのは午後三時。ちょうど仕事の休憩時間なのだろう。
内容は「候補求む」の四文字。
テーマは春、タイトルは海か山。それだけすぐに送ると、数十秒で「両方」の二文字。
了解と短い返事をして、僕は家を出る。
今ならスーパーもぎりぎり混雑していないだろう。
家から歩いて一分のスーパーは安さが売りだ。
それが当たり前といえばその通りだけれど、最近は高級志向の小売店も増えている。とくに高級住宅地にはそういったスーパーが多いようだ。
薄利多売も考え物だけれど、僕のような人間には大助かり。
スーパーに入ると、僕の思った通り、まだ買い物客は多くなかった。かといって少なくもない。レジで待つのが嫌いだから、この時間に来て正解だった。
カゴを持って真っ先に野菜売り場へ。
目に入ったのはアスパラガスと春キャベツ。
奥には山菜もあったけれど、めぼしいのがなくて今回はスルー。
筍は水煮をワンパック。
それから魚売り場で浅蜊を見つけてカゴに放り込む。
そのまま肉売り場に行こうとしたけれど、アコウの半身が三百円だったので、思わず手に取ってしまった。
仕事も一段落ついたのだから、ちょっとオシャレな料理でも作ろうか。
いつもは和風が多いけれど、恭子はどちらも好きだから。
美味しそうにご飯を食べる恭子の顔を思い出すと、僕は自然と早足になった。
*
「ただいま、陸さん」
「おかえり、恭子さん」
恭子はいつもより少し早く帰宅した。
夕飯に期待して仕事を早く終わらせたのだという。
いつもそうすればいいのに、と言ったら、それが当たり前になるのは嫌だと言われた。
残業はない会社だと言っていたけれど、まさか自分の裁量でさっさと終わらせて帰ることまできるだなんて知らなかった。
「ニンニクの良い匂いがする」
「食欲湧いた?」
「うん。手伝うよ」
そういって、恭子は部屋に消える。着替えて戻ると、エプロンをつけた。
二十五歳の彼女のエプロン姿は、どう見たって新妻だ。
「どうかした?」
「いつもだけど、似合うなって」
小首を傾げる彼女はどこか飄々としていて、けれどどこか愛嬌があった。無愛想なようでいて、変わり映えしない表情に隠れて、淡く金色に輝く宝石をちりばめたような瞳が印象的だった。
今だってほら。僕の言葉に素っ気なく肩を竦めてみせるのに目元は綻んでいる。
そういうところが、なんだか人懐っこくも見えて微笑ましい。
「野菜を切ってもらっていい?」
「うん。どう切る?」
「一口大で。キャベツはざくざくがいいな」
「おっけー」
恭子はセミロングの髪をポニーテールにして手をよく洗う。
そうして包丁を手に取ってまな板の上に乗せたキャベツを勢いよくざく切りにする。
筍の水煮は流水で軽く洗い、隅に残った白いカスを丁寧に拭い取る。それから食感が残るように薄く切る。
アスパラガスは根元の筋をピーラーで剥いて斜めにカット。
「色合いが足りないね」
冷蔵庫から赤と黄のパプリカを取り出して、短冊切りに。
全部まとめて蒸し器に放り込む。
タイマーは五分。
沸騰したら蓋をしめてスタート。
「はい、これ」
「いいね。絶対美味しいやつだ」
恭子はにこやかに微笑む。
刻んだアンチョビと潰したニンニク。
ソース用の小さな鍋でたっぷりのバターを溶かしてアンチョビとニンニクをこんがり炒めたら、レモン果汁を少しと、料理用に買った安い白ワインを一振り。黒こしょうを振って、ワインのアルコールを飛ばしながらよく混ぜる。
最後にちりめんじゃこを混ぜ合わせて火を止める。
「そっちは?」
「もうすぐ焼き上がりかな」
フライパンの蓋を取れば、アコウの半身が顔を出す。
皮目がパリッと焼けて美味しそうだ。白くなった目がなぜか食欲をかき立てる。
下処理をしっかりしたから、生臭さもなさそうだ。
「魚だけ?」
「まさか」
冷蔵庫から取り出したのは砂抜きしておいた浅蜊だ。
魚の周りに並べて、白ワインをかけたら、火力を上げて蓋。
「アクアパッツァだ。オシャレだね」
「たまにはこういうのもいいかなって」
「洋風だね」
蒸し焼きにされた浅蜊が開くまで数分。
蓋を開けば白ワインの香りにニンニクと鷹の爪ががつんと鼻腔をくすぐる。
おいおい忘れるなと言わんばかりに磯の香りが追いかけてくる。
「ねえねえ、陸さん。あとでパスタにしようよ」
「考えることは一緒だよね」
やったね、と恭子は小声を漏らして少し跳ねた。
*
ダイニングテーブルの上に鍋敷きを置いて、取っ手を外したフライパンをそのまま乗せる。
蒸し器から取り出した温野菜は木のボウルに入れて、温め直したアンチョビバターのソースを回しかける。
いつもはご飯がつきものだけど、今日は洋風。あとでアクアパッツァの残った汁を使ってパスタだからお預けだ。
小皿と箸を用意して、ついでとばかりに、冷蔵庫で眠っていたモンラッシェを開封。
「奮発したね」と恭子が喜んだので後悔はしない。
どうせもらい物。僕にワインの講釈を垂れる素養はない。
たぶんこれはそんなにグレードの高いやつじゃないと思う。モンラッシェといえば高い白ワインのイメージだけれど、様々だ。
「じゃあ、今日も一日お疲れさまでした」
「かんぱーい」
こつんと優しくグラスをぶつける。
本当はいけないらしい。
まずはワインを一口。
果実を思わせる芳醇とした香りに、優しいがインパクトのある酸味。
飲み下せば、舌の上には豊富なミネラルを思わせる硬さが残る。
「いいね。さすが」
僕よりも、恭子の方がワインに詳しい。
というか、彼女はお酒全般に明るい。日本酒三合で限界の僕に比べたら、彼女は一升飲んでも平気な部類だ。いわゆるザルというやつなんだろう。
羨ましくもあり、同時に不憫だ。
いくら飲んでも酔わないのは金がかかって仕方がない。
グラスを置いて箸をとる。
恭子も同じ考えだったらしく、一番最初にとったのは浅蜊だった。
貝柱をこそぎ取るように外して、口の中に。
潮を含んだ浅蜊は、口の中を磯の香りで満たしてくれる。
そこにまたワイン。
「美味しいね」と恭子。僕は笑顔で頷いた。
夏になったら岩牡蠣とシャブリなんて、小洒落て飲むのもいいかもしれない。
続いて、アコウ。
箸で骨に沿って身を割る。
火の通りは悪くない。これ以上焼いたらきっとボロボロになってしまう。
フライパンの底に溜まった汁をたっぷりつけてパクリ。
癖のない上品な白身がニンニクと鷹の爪の風味を帯びて、さらに浅蜊の塩気で変貌を遂げる。
「美味い。大成功だね」
「大正解だよ、陸さん」
「お褒めに与り光栄だね」
「私の専属シェフは腕がいいから」
恭子の軽口のせいもあって、お酒が進む。
仕事も一段落したのだから、これぐらいの贅沢は許されるはず。
忘れかけた温野菜。
しっとりした見た目とは打って変わって、まだ生のシャキッとした瑞々しさは残っている。
アンチョビの塩気とバターのまったりとした濃厚さを、レモン果汁が爽やかにまとめている。
時々顔を見せるちりめんじゃこは飽きない脇役だ。
キャベツの甘さはよく合うし、筍の風味も喧嘩しない。
アスパラガスはもはや鉄板。
パプリカの瑞々しさはアンチョビの塩気を和らげてくれる。
ちらりと視線を向けると、空になったグラス。
恭子のグラスにワインを注ぐ。
彼女はありがとうと軽く微笑んだ。
「仕事はどう?」
「好調だね。陸さんは?」
「貯金がちょっと増えたかな」
「ああ、だからだ」
納得した様子で恭子は食卓の料理を眺める。
心なしか見透かされた気分で恥ずかしくなった。
僕は以前、中堅どころの証券会社に勤めていた。
今はその経歴を活かして、個人向け投資アドバイザーの真似事をしている。
基本的には在宅で、仕事といえば相談に乗るくらいだけれど、ほとんどの時間は自分の個人資産を運用しているだけだ。
大学を卒業して、十五年ほど勤めた会社の退職金と貯金や定期預金、実家の財産整理で得た資金を元手にしている。
不動産をいくつかと、堅実な経営をしている企業の株を持っている。たまにベンチャー企業などに出資することもあるけれど、こちらはまだ結果が出ていない。
時々、勤めていた元の会社から依頼を受けることもあるが、これは滅多にない。年に一回あるかないかだ。
資産的には困っていないけれど、資金的にはかつかつだ。それなりの生活はできるけれど、毎日贅沢ができるほど稼いではいない。
二足のわらじをしてもいいけれど、色々な事情から身体と心を壊して今のスタイルになった。
一方で、恭子はただの居候だ。
別に僕の妻ではない。
というか、僕はそもそもバツイチだ。
彼女が独身となった僕の家に転がり込んできたというか、詳らかに話すには面倒な事情がある。いや、それほど大層な理由もない。端的に言ってしまえば、彼女は僕の家の一部屋を間借りしている同居人。それが全てなのだ。
今の関係のきっかけは僕にある。
会社を辞めたのも、身体を壊したのも、離婚が原因だ。
僕と元妻は結婚してから五年間子どもができなかった。
何か原因があるのだろうと二人で相談して、一緒に検査を受けたのだが、彼女の方には何も問題がなく、僕に原因があることが発覚した。
僕は先天的に子どもを作ることができなかった。
言ってしまえば、種なしというやつだ。
元妻は僕を慰めてくれたし、子どもができなくても夫婦二人で仲良く生きていこうと言ってくれた。しかし、僕らの間に夫婦の営みは消失した。肉体言語で愛を語り合うことがなくなって、元妻は僕を愛することができなくなったのだろう。
一年としないうちに、彼女は誰とも知らない男の子どもを身ごもった。
彼女が離婚届を食卓に広げて待っていた日のことを、僕は未だに夢に見る。
元妻は何度も謝って、僕には何の責任もないと言った。
ただ、自分の身勝手さで、僕以外の男に抱かれた。そうして出来た子どもを中絶するつもりだったけれど、できなかったと。
一応、元妻は僕の伴侶を貫こうと、精神的には努力してくれたのだろう。けれど、それは嬉しいはずもなく、逆に僕の傷を深くした。
唯一の救いは、彼女が全て自分の責任だと言ってくれたことだった。
けれど、その心遣いは僕にとってとても苦しい言葉でもあった。
彼女は結婚する前から子どもが欲しいと何かにつけて言った。
それは自分の血が繋がった我が子であって、どこからか連れて来た養子ではなかったのだ。
本当は私と貴方の血を引いた子どもが欲しかった――その言葉の虚しさが、未だに僕の耳の奥に残って消えないでいる。
きっと一生消えないのだろう。
その言葉を忘れることができたなら、きっと何も知らなかったころの男に戻ることができるのだろうけれど。
「考え事?」
「うん。少しね」
唐突な質問。僕は笑ってごまかした。
けれど、恭子はさらに尋ねる。
「明日の朝ご飯?」
「ううん」
「じゃあ、夕ご飯だ」
「ははっ、何がいいの?」
「筍の炊き込みご飯と鯛のお吸い物がいいな。でも、その前に」
「パスタでしょ?」
「うん。絶対美味しいよ」
そうだね、と僕は席を立つ。
恭子は僕の機微に鋭い。
そんなに顔に出るタイプではないはずだけれど、僕が嫌なことを思い出すと、決まって何か他のことを言い出して、いつの間にか考えていたことを忘れてしまう。
そういえば、とパスタを茹でている間に恭子が言った。
「来月昇進だって。名ばかりだけどね」
「すごいよ、おめでとう」
「そんなことないよ。給料も大してあがらないし」
「それでも、恭子さんの力が認められたってことだよ」
「そうかな」
「うん。そうだよ」
そうだといいな、と恭子は頬を緩める。
年相応の微笑ましい表情に、僕は自分がアラフォーであることを少し寂しく思ってしまった。
彼女の素直さが時折羨ましくなる。
「あっ、もうモンラッシェなくなっちゃった」
「もう?」
恭子は空になったボトルの底を明かりに透かす。
僕はまだ一杯目すら飲み終わっていないのに。
前言撤回――遠慮をしない若者は少し厄介だ。
「もう一本開ける?」
「まだあるの?」
「モンラッシェじゃないけどね」
そう言って冷蔵庫の奥を探す。
白はもう一本あった。気まぐれで買ったテーブルワイン。
なんだかんだ言って、僕は彼女の飲みっぷりが嫌いじゃない。
「うん。こっちの方が気軽でいいね」
恭子は一口飲むなり言った。
その割にはモンラッシェをがぶ飲みしていたくせに。
下手くそな気遣いも年相応だ。