2h物書き1
タイトル通り、「深夜の真剣物書き120分一本勝負」に投稿した作品。捨てるのも勿体無いし折角だから投稿させてもらいました。
「やっと終わったか…」
午後7時。ため息とともに、彼は殆ど誰も居なくなったオフィスで伸びをする。そして分厚いコートに手袋、マフラーを身につけ、そそくさと職場を後にした。
コートの上からも感じられる、刺されたのではないかと錯覚する程の鋭い冷気に、思わず体を震わせる。つい先日降った雪が凍りつき、滑りやすい足元を注意しながら歩き始める。
下を向いたままだったからだろうか、ふと彼は自分の今までの生活を振り返り始めた。
大学を出てからずっと、残業に次ぐ残業。家に帰る頃にはぐったりして、殆ど寝る為だけに戻っているような状態。もちろん恋愛などしている暇などなかった。学生の頃に付き合って居た彼女とも、気づけば疎遠になっていた。田舎に住んでいる両親も結婚をせっついてくるが、そもそも相手が居ないのだからどうしようもない。
そんな彼は、浮ついたクリスマスの空気の真っ只中にある街角に、彼は内心で呪詛の言葉を吐き捨てる。寒さで人肌恋しい季節などと言われることもあるが、彼は今現在それとは無縁であるのだから。人口だけは無駄に多いこの街の中で、彼は孤独を噛み締めつつ歩いて行った。
最寄駅から自宅に歩いて戻る途中、いつもは町の背景として見ており、特に意識して居なかった洋菓子店の手書きの看板が目に飛び込んだ。
「ケーキ 半額」
いつもは甘味など嗜まない彼であるが、特別賞与も出て懐も暖まっていたこともあり、思わず吸い込まれるようにして店に入って行った。
ガラスケースの中は殆ど空になっており、ケーキが数切れと1つ二百円程度のシュークリームが
5~6個残っているのみであった。
彼がどちらにしようか迷っていると、別の男性客が入って来た。
「じゃあこのケーキ3切れ下さい」
迷っている間に、その客にケーキの方をほぼ全て買われてしまい、彼は残ったケーキ一切れとシュークリームを慌てて買って、そそくさと店を後にした。
「ただいま、っと」
もちろんなんの応えも返ってこないが、いつもの習慣という奴である。
夕食はいつもの通り、出来合いのものを温めるだけである。袋を開けて、皿に適当に盛り付けて、電子レンジにかける。そして、電子レンジが回っている間に、先ほど買った洋菓子の箱を開けて、安酒を呷る。
着信など迷惑メール以外ほとんど無く、もはや「カメラ機能付きの目覚まし時計」と成り下がった携帯をふと見ると、母親よりメールが来ていた。
「件名 今年は帰れますか?待ってます
本文 なし」
今年の年末も忙しくなることはわかって居たので、彼はすぐに返信した。
「件名 Re:今年は帰れますか?待ってます
本文 今年も帰れません。どうかお身体をご自愛ください。」
そして、そのまま携帯を見ることなく、洋菓子と電子レンジで温めた惣菜を口にして、眠りについた。
結果として、彼が母親と携帯メールで連絡を取ったのはこれが最初で最後になった。この直後に母親はくも膜下出血で倒れたのだ。
彼が「母が倒れた」という内容の連絡があったことに気づいたのは翌朝のこと。仕事も特に無かったため、急いで帰省ラッシュでごった返す新幹線に乗る。
昼前には母が担ぎ込まれたと言う病院にたどり着くも時既に遅く、母親は既に息を引き取っていた。「孝行のしたい時分に親は無し」と言うが、せめて結婚相手の顔を見せることくらいは出来るだろう、と当然のごとく思っていた中での出来事であった。
ついぞ親の死に目にも遭えなかった後悔に苛まれながら、彼はとぼとぼと病院を後にする。流れる涙を抑えることはできなかった。冬晴れの暖かい日差しは、来たる年に思いを膨らませる者にも、そしてもちろん彼にも、平等に降り注いでいた。
彼はそれ以来、例の洋菓子店によく足を運ぶようになった。母のことで感傷に浸りたいのと、シュークリームが亡き母の好物であったのと。どちらであったかは、彼にも分かっていない。
ある日、そこの女性店員に話しかけられた。
「最近、よくご来店いただいているようですね」
「ええ、まあ。母がシュークリームが好きでして、こうやって買いに行ってます」
こんな当たり障りのない会話から始まったやりとりも、何度か通っているうちに気のおけないものへと変わって行った。そして、彼が店に足繁く通う理由に「その女性店員と会話を交わすため」と言う理由が加わるにも、そう時間はかからなかった。母の死というものを経験し、かなり人とのやりとりに飢えていた面もあったのだが。
彼が抱き始めたこの想いが今後どうなるかは、神のみぞ知ると行ったところか。
「あれから、もう一年経つのか」
彼の家には真新しい仏壇が置かれ、それの様子からはまめに掃除されていることが伺える。
彼は、母の命日となる日の前の晩に、例の洋菓子店で買って来たシュークリームとケーキを仏壇の前に供える。勝手な感傷に過ぎないが、この日に供えるべきはこれ以外にないと思ったのだ。
そして、彼は手を合わせてから、いつも通りに会社に向けて出勤して行った。
彼の携帯には、母の死の直前にやりとりしたメールが、消されずに残っている。
街の様子は、既に聖夜の喧騒から一夜明け、もうお正月ムードになり始めていた。