最近、妹の様子(以下略)
この頃妹のようすがどうもおかしいんだが。
じゃなくて、今日おかしいんだが。
母さんの墓参りから帰って来てから、——と言うか帰る途中から舞は僕にぴったりとくっついて離れない。
「ぴったり」も、「離れない」も比喩的な表現はまるで入っていなく、腕にがっしりとしがみついたり、背中から抱きついたり、ちょっと離れると慌てて駆け寄って来て、僕の胸に顔を埋めたりする。
今も、ソファーに僕が座ると、さっと近づいて来たかと思うと膝の上にうつ伏せに体を乗せて、僕をがっしりと押さえつけて固める。
「どうかしたの?」
「……………………なんにも」
顔を下に向けたまま舞が言う。
「そうか? そうならいいけど」
いったいどうしたんだろうか?
天音に狭間の世界に連れられて行って、戻って来た時に、偶然同じように墓参りにきていた舞に会ったのにもびっくりしたが、その後の、なんだか半狂乱と言って良いほどの妹の慌てぶりにもびっくりした。
世界一可愛くて、賢くて、性格の良い、そのうえ気が利いて、明るくて、優しくて……なんでも素晴らしい、イコール天使の舞があんな狼狽した様子を僕は初めて見た。
なんで?
何があんなに彼女を怖がらせて、動揺させたのだろう?
天音に僕が連れ去られたことなんて知るわけもない舞が不安に思うことなんて、なんかあの時にあったのだろうか?
舞に見えていたはずのものは、コン子と一緒に墓参りに行っていた僕の姿と墓地と周りの自然だけで、——コン子が珍しく少し悩んでいたのでいつもと違う雰囲気であったが、さすがにコン子が僕に何か危害とか加えるとか思ってないだろうし、墓地だからって昼から幽霊でもないだろうし、自然豊かな葉羽市とは言っても、幾ら何でもクマとか出て来るような場所でもないし……
もしかして?
僕は、なんだかスーッと寒くなるような感覚が背中に走りながら、——思いつく。
舞は知っていた?
見ていた?
僕が、天音に連れられて狭間の世界に行ってしまったこと。
そのことを知っていたのではないか?
僕がこの世界から消えるの見ていたのではないか。
そんなことはあるはずはない。
と僕は思う。
普通の——いや可愛さは世界一だが——中学生である舞が、天音に僕が連れられて行ったことなど知るわけもない。
狭間の世界にいたあの時間は、こっちの僕らの世界では一瞬に過ぎなく、事実コン子は、僕がいなくなったことに全く気づいてなかった。
ならば、舞も僕のいなくなったことに気づくわけはない。——のだが……
——舞は知っている。
そんなありえない考えが、僕の心にふと浮かぶと、それはなぜかとても強固な確信を持って、僕の頭の中で何度も何度も繰り返し現れる。
なぜなら……
——世界創造者。
僕は繰り返し言うのだった。
——世界創造者。
その耳慣れぬ言葉が、なんとなく他人めいた自分の声で、何度も何度も心の中に響き渡り、その度に、僕は、自分がそれを知り——知らないことを確信する。
それは有り——無い。
無いはずのものがある。
いないはずの妹がいる。
僕はそれを知るゆえに——知らない。
僕は知っていることを知らない。
知るゆえに、知らない。
世界の創造者はその創造の自己言及の矛盾の穴——世界のちょっとしたバグをつき——自らをそこに当てはめた。
それは世界の生まれる前。有の生まれる無の、さらに前にあったことだ。
それを知るわけがない。知ることが起きる前のことであるのだ。
でも僕はそれを知る。
——世界創造者。
僕は繰り返しまたその名を言う。
僕は知られぬことを知る。無いことを知る。
そして、その言葉を心の中で言う度に、僕は、今膝に覆いかぶさっている少女の背中を強く見つめ、するとその背は何かに耐えるように、ビクッと震え……
——ビクッ!
——ビクッ!
——ビクッ!
「んっ?」
僕は、多分緊急自体を告げる、その動きの奇妙さに、はっと我に返った。なんだかいろいろ考えてぼうっとしていた僕だったが、——気づけば、舞が、膝の上でぶるぶる震えているのを見て——
ピンと来た。
それは、視線に敏感に気づいてビクッときたとか言う域を完全に超えていて……
うん、これはまずい。
——これは、
「舞……おしっこがまんしているだろ……」
「………………」
図星だったようである。
「なんで今日はそんなにくっつきたがるか、よくわからないが、さっさとトイレ行ってきなよ」
「………………違う。世界一可愛い舞はおしっこなんてしない」
なんだかよく分からないが、意地でも離れようとしない舞であった。
でも、
「そんな昔のアイドルみたいなこと言っても、……小さい頃ころおねしょして叱られてたのなんども見てるよ。ほらほら、そんなバカなこと言ってないでさっさと……」
トイレに行くようにと言いかけるのだが、
「……昔? ああ、兄さんが叱るお母さんからかばってくれたの思い出した……うん。なら大丈夫」
「大丈夫? 何が大丈夫なんだい?」
なんだか怪しい雲行きに僕は悪い予感がする。
「このまま、ここで漏らしても、父さんから兄さんがかばってくれるなら平気かも」
「はい?」
「……ともかくここから動かないからね。今日は、おしっこ漏らしても、兄さんから離れない」
予感的中。舞は、なぜだかおしっこを漏らしてもここから動かないと言い張るのだった。
「ま、待って。なんで今日はそんな甘えん坊のか分からないけど……それはまあ兄として受け止める気が満々だけど……さすがにおしっこ漏らすのをだまって見ているのは兄として看過できないよ」
とは言え、そんなのは許すわけにはいかない。甘えん坊は兄としてうれしくないこともないが、やはり人間としてやって良いことと悪いことの区別ははっきりさせなければならない。
しかし、
「大丈夫よ」
「大丈夫? 今度は何が大丈夫なんだい?」
また怪しい雲行きで、
「私のおしっこは綺麗なおしっこだから」
はい?
「私の親衛隊の三人なんてお金出して買いたいって言ってるくらいよ」
親衛隊? ああこの間の業羅騒ぎの時に出て来た舞のことが大好きな女の子三人組。確か、志佳ミカン、出都エリー、八田チカだっけ? 俺と、生涯をかけて舞への愛を競いそうな強敵たちだっだ。
「兄さんは、あの三人に負けるのかしら?」
舞は、少し煽るような口調で言う。
「負けるって何を!」
僕は、その口調に、少し「何を!」って気持ちになって語気を強めるが、
「私のおしっこへの愛で、女子中学生に負けるのかしら」
でも、
「……いや、ちょっとまて」
さすがにそれは負けてもいいのではとちょっとひく。
しかし、
「私への愛はそれくらいのものなのかしら?」
弱気の俺に舞の言葉がガツンとした一発をくれるのだった。
すると——。
そんな風にまた煽られると、
「そんなわけあるか! 俺が舞への愛で誰にもまけるわけないだろ!」
俺はつい声を荒げながらそう言うのだが、
しかし、
「本当にそうかしら、ミカンなんて私の体から出たものならおしっこでなく、う○こでも欲しいって言ってたのよ」
「………………えっ」
なんとなく負けても良いのじゃないかと言う気分に一気に変心。
「どう? 本当に兄さんは勝てるのかしら? エリーとチカは私がトイレに行ったら個室の外で耳をすませておしっこの音を聞いてたくらいなのよ。私に関連するのならおしっこの音でさえ愛してるのよ。そんな、——あの三人に兄さんは勝てるのかしら?」
いや、やはり勝てなくても良いのでは。
と言うか、あの三人。妹の近くにこのまま置いといて良いのか? と思ってしまうような、初めて知る舞の中学校生活の一コマであった。
「どう? 兄さんの愛はその程度なの?」
しかし——まあそれはともかく——兄たるものが、やはり妹の愛で負けると思われるのも悔しい。
と僕は思った。
煽られて、乗せられているのは重々承知の上で、親衛隊三人に負けたと舞に思われるのは僕のプライドがいたく傷つけられる——のに耐えられない。
ならば、
「いいぞ……」
と僕は言うのだった。
「兄さん……」
「構わない——やれ。僕は全てを受け止める。あんな小娘三人なんかと愛の格が違うことを見せつけてやる。トイレなんか行くことはない。この場で——しろ。僕はなんの微動だもせずにその事実を受け止めてみせる」
「うん……」
「正直妹がこの歳になっておしっこを漏らすところを直視するのは『ないわー』と思う。でも、親衛隊の連中のように、喜んでそんなことを見ようとする連中よりも僕らは崇高だ。そんな事実の後でも、妹への愛は全く揺るぎはしない。そんなことでは崩れない長年の肉親への愛が僕らの心をつないでいるんだ」
と僕は失禁を無理やりなんかいい話に持って行って自分を納得させる。
すると、
「うん、わかった。じゃあもう耐えられないので、そろそろ……」
もう限界の模様の舞は言うのだった。
それに、
「……うむ。迷うな舞!」
僕がエールを送ると。
「はい! 兄さん!」
覚悟を決めた舞の声。
「いけ、舞!」
僕はさらに鼓舞をする。
すると、
「はい! じゃあ……そろそろ——ふうぅぅ……」
舞は、僕の膝の上で、震えを止める。まるで全ての雑念を払い悟りを得た僧のような自然で無理のない佇まい。このあ姿を見たならばあの天音も偽涅槃などとは言えまい、僕はそう思うのだった。
そして、無の境地にいたり、神々しくさえ見える姿の妹は、少し体の力を抜き、下半身に力を入れて、今一度体がブルっと震え……ついに……
「馬鹿者!」
*
結局……
僕らのやり取りを隣の部屋で聞いていたのだが、僕ら二人の馬鹿げた展開に耐えきれずに乱入してきた父さんに怒られて、舞のおもらしは直前で阻止された。舞はすぐにトイレに直行し、リビングに起きてしまいそうになった大惨事は回避されたのだった。
そして、僕は、呆れ顔の父さんに睨まれながら、舞のペースに飲まれて、勢いでロクでもないことを見過ごしそうになったことを恥じて下を向くのだったが、
「まったく、そんなにくっついて止めてなくたってもうカケルは別の世界に行ったりしないよ」
小走りにトイレに向かう舞の後ろ姿を見ながらポツリとつぶやいた父さんの独り言、
「——今のうちは」
まだこの時はその意味を知らないその言葉になんだか不思議な胸騒ぎを覚えるのだった。