ドラゴン登場
まぶしい。いつの間にか、天井が真っ白なところで寝ていた。身動きしようとすると、すぐそばに人がいたらしい。
「目が覚めた?良かったわ、ああ、まだ動かないで。」私の麗しき初老の上司である。状況がよく呑み込めず、目を瞬かせていると、
「帰宅途中に、自転車にぶつけられたのよ。脳震盪起こして気を失っていたの。」
「…すみません、ご迷惑をおかけしてしまって。」しゃがれた声が出た。
「あなたが誤ることじゃあないわ、帰宅途中のことだし会社にも関りがあるのよ。ああ、でも山本さんにはお礼を言ってね。たまたま病院から連絡あったとき、彼女しかいなくて私が来るまで付き添ってくれていたのよ。」
「そうなんですか。」今度は幾分スムーズに声が出た。山本とは入社が一月違いの後輩である。一番下の子はまだ小学生と聞いた、迷惑かけちゃったな。
「お母様に連絡がとれないのよ。」少し困ったように言いながら、私の頭の上のナースコールのボタンを押す。
「すみません、いつも留守電にするように言ってあるんです。用があるときは携帯に連絡するからと…」
「お母様はご高齢でいらしたわね、今は物騒だから、それが良いわね。」
「はい、以前騙されそうになったことがあって…」
「まあ、そうなの。」マネージャーの美しく整えられた眉が、わずかだが持ち上がった。
「兄が亡くなった8年前の直後のことだったのですけど、息子さんは借金を残しているとかなんとか、そんな電話が来て。」
「まあ。」
「動揺していたらしくて、普段なら歯牙にもかけない話だったのに、慌てたようで
お金を用意していたのです。」
上司のきれいにセットされた頭が、ゆるく振られる。言葉を発しようと唇が動いたとき、看護師が部屋に入って来た。カーテンの隙間から見る姿は美しい。子どものとき周りの大人たちが、どんな娘でもナース服を来ていると美しく見える、と言っていたが、なるほどと思う。
看護師はにこやかに近づいてくると「目が覚められましたね。」と穏やかに声を発した。薄いピンクの制服を着た若い看護師だが、ベテランといっていいのだろう、きびきびとした動きだ。ご気分はどうですかと言いながら、手首に手を当てて脈を測り、「落ち着いていますね、一応熱を測っていてください。」と体温計を出して私に渡し、てきぱきと血圧をも測ると、笑顔のまま職業人の鋭いまなざしで私を観察し、医師を呼んでくると、上司に会釈をして出て行った。
「三十、いっていないわよね。若いのに有能な感じね。いくつくらいかしら?」
「マネージャーもそう思いました?ここICUですよね。」カーテンを隔てた隣からはピッピッと規則正しい計器の音がする。「そうすると、やっぱりベテランですよね。でもまだ二十代ですよね。」などと、どうでもいいことを話していると、先ほどの看護師を伴い医師がやってきた。
中肉中背の男性である。口を真一文字に結び、眉間にしわを寄せている。こちらに気付くとにっこりと笑った。途端に厳めしさが取れて一気に若返る。医師というより優しい保父さんという感じだ。丸顔で子供っぽさも見える。そのことに、コンプレックスを感じているのかもしれない。ゆっくりと、口を開いた。
「気分はどうですか?まだ薬は効いているので痛みはないと思いますが。」
「はい、いま特にどこも痛くはありません。」
「そうですか、頭は少し縫いましたが、2センチくらいです。深くはありませんし、MRI画像もみましたが、今のところ異常はありません。ただ足首が折れていて、左手首と鎖骨にひびが入っていますので、一週間ほど入院してください。」
「骨折しているのですか?」私より先に、医師の後方から声がした、背広を着た男性、私の営業所の所長だ。押っ取り刀で駆けつけた途端に、予想以上のことを聞かされたらしくポカンと口を開け間抜け面になっている。
「所長、わざわざすみません。」この度もまた、私より先に枕元のマネージャーが口を開いた。遅れて会釈する。途端にめまいがし頭痛がした。怪我の状況を説明された為か、あちこち痛くなってきた。
「単純骨折でしたし、骨も二十代の方と遜色ありませんから、長引く心配はありません。むち打ち症などの後遺症がむしろ心配です。」
「あ、いや私は、脳震盪を起こして部下が病院に運ばれたとしか聞いていなかったもので。失礼しました。私はこういうものです。」内ポケットからさっと名刺を出して挨拶する。医師は厳めしい顔に戻って、名刺を受け取り見つめながら、
「運ばれてきたとき、ご本人の意識がはっきりしていましたので、ご要望通りの手配や手術もしましたが、病院としてはご家族に連絡を取りたいのです。保険会社の方ならよくお分かりと思いますが。」
「あ、すみません。今連絡をします、バックの中に携帯・・・」言いながら身じろぎして頭を動かすと、ぐにゃりと視界が曲がった。いつの間にか傍に来ていた看護師とマネージャーが支えてくれる。
「急に動いたら駄目ですよ。」看護師がちょっと厳しい声を出す。「脳震盪は甘く見ていてはいけないのですよ。」くらくらしながら、つらつら考える。運ばれた時、意識がはっきりしていたって本当?全く覚えていないし、今もこんなにふらつくのに。それに今まで考えてなかったけど、入院費用やら着替えがいるし、心配しているはずだし。ああ、数日でも仕事も休むことになる。ノルマが達成できるだろうか?それにマネージャーや所長に顔向けできない。ろくに営業成績を上げられないのに、入院に付き添ってもらったり様子を見に来てもらったり、面倒ばかりかけている。せめて早く母に来てもらい、マネージャーや所長には早く帰ってもらわなくては。
「すみません、でもあの…色々知らせとかないと。」
「そうですね。でも入院費用なら心配いらないですよ。あなたにぶつかった方がすべて払ってくれますから。気前の言い方ですからね、安心されるといいですよ。」看護師が突拍子ないことを言い出した。えっ、と思ったのは私だけではないようだった、支えてくれていたマネージャーの体もピクリと動いた。看護師の声には何故か自慢げな響きがある。
「申し訳なかった、差額ベッド代から何から何まで僕が支払うから、不自由ないようにしてやってくれと言っていましたわ。普段から礼儀正しくて優しい本当(、、)に(、)いい(、、)人(、)ですよ。」
医師がわざとらしく咳払いをする。有能そうに見えた若い看護師の話は続く。「ぶつかった後も逃げたりせずに、救急車を呼んでちゃんと付き添ってきたでしょう。意識があったから覚えていますよね。社会的にもちゃんとした地位のある人ですし、信じて大丈夫ですよ。」私を見る目に何か有能な看護師以外のものがある。
「いい加減にしなさい。」咳払いが通じなかった医師は、厳めしい表情のまま、低い声を出した。はっと我を取り戻したという風情の看護師は、真っ赤になると挨拶もそこそこに部屋を出て行った。
「申し訳ない、彼女は優秀ですが時々若いせいなのか、ああいう、なんというか・・・」
「いえいえ、きちんとした方が保証をちゃんとすると、仰しゃって下さっているのなら、私の部下にとって悪いことはないですから。」三十代半ばで、支店長目前と言われている所長はそつが無く返答した。
「治療費等の責任は負うというお話は確かにありました。社会的な地位がある方ということも本当です。ただ、こんな風に患者さんにお話しすることではなかった。」
医師の恐縮した姿には嘘はなかった。ただ聞いていてげんなりしたのは確かだ。私はしばらく思うように動けないようだ。入社して半年は、ノルマが達成できなくても何か一つ契約を取れれば首にはならないが、(そこで自分で加入して誤魔化した)もう一年になる私は首になる可能性がある。動き回れなければ成果は上げられない。それだけでも泣きたい状態なのに、これはあんまりだと思う。
ぶつかったと思われる道はほんの6~70メートルの長さの狭い生活道路だ。車止めが入口と出口についている、人がすれ違うのがやっとの狭さの道だ。その道を出たところに私の小さなマンションがあり、その道に入る前の記憶はあるので、事故の場所はその道のどこかだ。どう考えても、そこに入ってきた自転車が悪い。
それなのに、ぶつけられた私よりも、加害者ともいうべき彼に同情的な看護師に面倒をみられるというのは、うれしいニュースではなかった。先ほどの話からすると、どういうわけか以前からこの病院と関係があるようだ。唇を噛み、うつむいた私に、申し訳ない、ご家族に連絡取れたら教えてくださいと言って、医師は出て行った。
「大丈夫よ、今は早く良くなることを考えなさいね。」とマネージャーが優しく背中をたたく。
「でも査定がすぐですし、ノルマが…」と言うと、所長が、
「こういった場合は、査定の一時停止があるはずだから安心するといい。」と顎に右手を当てて思案顔になる。そして
「君をはねた人がどういう人かはわからないが、第三者にまで色々言っているのだから、保証はしっかりしてくれるだろう。もし何かあっても、保険会社として経験は豊かだから安心するといい。」と頼もしい笑顔をくれた。でもその二人の目の中に少しだが、疎ましさの影があるのを見て取れてしまう。寂しさが胸に募る。ここには、100%味方になってくれる人はいない。大人の、それも職場での関係だから仕方ない。そうは思うが、私のために真っ赤になって怒っていた少女の姿が浮かんだ。男の子も私を必死に引っ張ってくれていたな。
どこでの事だったかしら?ああ、夢だ。地獄が舞台のとんでもない夢。でも、なんだかもう懐かしい…
誰かが何か言っている。
「みぃ、起きてぇ。木のとこまで頑張って。」女の子の声がする。
「ね、寝ている暇、な、ないんだってば…」
ゼイゼイ、いう声に目を開ける。あれ?私、何していたっけ?
そこへ、凄まじい臭いと羽音、ギンギンと金属のぶつかり合う音がした。
がばっと、跳ね起きる。でも今一つどう行動していいか、迷っていると、
「足元にいる、白と黒を連れて木まで走れ!」という明確な指示があった。反射的に声に従い、片手に白、片手に黒と抱え上げた。
「!」
どっと汗があふれた、鼓動がどくどくどくどくと、耳に反響する。
これは何だ。
少なくとも生きた子供ではない。
体温を感じない、肉の柔らかさもない。そして、軽い。風船か何かの軽さだ。
手を放すこともできず硬直したまま、目だけ動かすと強張って白くなった顔と、涙がみるみる目に上がり、泣き出す寸前の顔に出会った。
そして次の瞬間、子供の泣き声が響き渡った。幼子の声なのに甘えを含まない、悲しみと絶望の泣き声。この空間全体に悲しみが広がっていく。
気合を入れるためを食いしばった。子供のこんな悲しい声は聞いていたくない。ましてこのまま疑心暗鬼に支配されて立ち尽くすのは嫌だ。私の夢なんだから、私の好きな結果になるに決まっている、木のところまで行く。
そう思うと、パンプスを履いた足は思うより軽く動いた。髪がなびくのが分かった。気持ちいい。木から流れてくる風は気持ちいい。あそこに行きたい。
その瞬間に、一気に木にたどり着いた。木の根元は青々と草が茂り、梢が鳴り陽光がきらめく。たわわに実った黄金の実が美しい。別世界がそこにあった。
しばらく両脇に白と黒を抱えたまま、無言で木を見上げる。神社や教会などに来た時のような神聖な気持ちになった。目をつぶって浸っていると、いい加減おろしてやれ、と言いながら、ショウが走り寄ってきた。引っかき傷だらけの姿で笑う。左右を見ると、涙の跡でぐちゃぐちゃの顔と真っ白に血の気の失せた顔が見上げていた。ゆっくり下して、そのまま頭を撫でる。白の強張った顔が緩んだ。涙を一筋落とし、ぽつりとつぶやくように言った。
「私たちのこと怖くない?」
「そうね、怖くない、不思議ね。」
「変な奴だぜ。」
そのまま、口を閉ざすので私も黙った。私はしばらく二人の頭を撫で続けていた。
突然、ドラゴンが一際高く鳴いた。
「そろそろ、痺れを切らしたか。」白から渡された手拭いで、血をふき取っていたショウがやれやれ、とばかりに一言漏らす。深手はないようだ。
「あのドラゴンは、どうして襲ってくるの?」
「あれは、なんて言ったかな、ラードーンとかいう、この木のまもり手なのさ。この木は西洋の神からの借り物で、実を採るのは一応、一日に一個という取り決めがあるから、怒っているのだと思う。」
「それって、まずいんじゃあ…」
「平気さ。」何でもないことのように、さっきまで泣いていたカラスがいう。
「つまりね、この一日何個かっていうのは、さっき話したような理とは違うの。一応の取り決めだから、変更できるのよ」
「でも勝手に決めてはいけないでしょう?」
「勝手になんて決めるもんか。」
「ちゃんと、木に聞いたのよ。木に聞けと女神さまも仰しゃっているというから。そしてね、毎日採らなければ、日に十二はいいって。」
「さらに突っ込んで優秀な俺様が、じゃあ、一日置きならいいのかって聞いたら、一週間に一度にしてくれってさ。お地蔵さまにも、よく聞いた、黒は優秀だって褒めてもらったんだ。」と本当に自慢そうに鼻の穴を膨らまして言う。
ショウはただ微笑しているが、白は少し悔しそうに「たまに褒められたからって、威張っちゃって。」と漏らした。それを聞いた途端、思わず、吹き出してしまった。白が怒るかもしれないと思ったが、笑いだしたら止まらなくなった。一人笑い続けていると
「やっと笑ったぁ」と黒が立ち上がって言う。
「緊張が解けたかい?よく笑う子だと聞いていたのに、笑わないから心配していたよ。」とショウにまで言われる。最後に白が
「でも、笑いすぎよ。」と少し顔を赤くして言った。
「とにかく、あの金の実を採って欲しいの。私たちの背丈で届くところは採ってしまったのよ。あの実を亡者らにあげて欲しいのよ。」
「な、なんで。あんな気味の悪いものに、あんな綺麗な実を上げてどうなるのよ。イヤよ私。亡者なんて何か悪い事した人でしょう。罰を受けるのは必要なことじゃあないの?」先ほど見た、食べた途端に怪我が治った獄卒たちを思い浮かべる。ああいう神の恵みみたいな代物は善人が食べるべきだ。
「う~ん。そうきたか。確かに一理あるような・・・」と黒が言うと、白が横目で咎めるように見て、ため息をついた。
「みぃは昔は、虫も殺せないし、可哀想って言って、何でも助けようとする子だったのに…」
ちくん、と胸が痛んだ。そんな時もあったかもしれない。相手が悪人だろうと、人間が人間を助けなくてどうする。そんな風に思っていた時もあった。でも、どうして白が知っている?
「みぃ、どうしても嫌?」
静かな声がした。姿勢を正してまっすぐ見つめてくる。深い色を湛えた瞳だ。
押しつけがましいわけではない。だが人の心を動かす力がこもっている。
何度も目を瞬かせて「うん。やるよ」と言おうとした。でも声は出てこない。私は怖いのだ。自分がやると言って失敗するのが。そして責められるのが。そんなことばかり経験してしまった。まして白と黒は私に変に期待している。失敗したら、さぞがっかりするだろう。そして、もう味方ではなくなる。
私がこんな風にぐじぐじ悩んでいると、いつもなら聞こえてくる「もういいよ」の言葉が発せられない。代わりに
「お願い、採って」
「うん、わかった」不思議と今度はするりと声が出た。どうせ夢なのだから失敗するはずはない。それも木の実を取るだけだ。ばかみたいと思う。
「じゃあ、みぃが実を取っている間、ラードーンは僕が引き付けておくよ」
「やっぱり、攻撃してくるの?」
「あいつ、頭固いんだよな、いっくら説明しても納得してくれないんだ」との黒のぼやきが聞こえたかどうかはわからないが、ラードーンが木すれすれまで急降下してきた。突風が襲い掛かり、葉が大量に舞う。
「きゃあー」「わあー」
「木を守っているのじゃあないの?」
「葉はほっておいても落ちるものだから、関係ないみたいだよ。時々葉っぱを食べているし。」地面にへばりつくようにしてショウが言う。そして「これ渡しておくよ。」と言って、植木ばさみを取り出した。
「これ、植木ばさみね。」
「なかなか、これが優れたアイテムなんだ、ラードーンからの襲撃率も上がるけどね。」
嬉しくないことを言ってくれる。ショウが採ればいいのに、と思ったことが通じたのか、
「ショウにはラードーンの気をそらしてもらうわ。でないと、しょっちゅう、こうやって
攻撃されちゃうわ。それにこれは、みぃにお願いしたいのよ。」
「どうして?」
「理由は言えないわ。」
「・・・」
面白くない言葉だが、先ほど白と黒がまともな人間ではないと知れたのに、信じてしまったのは私だ。ここで四の五の言うくらいなら、あの時信じなければよかったのだ。
「もう、やけくそだわ。」
そういうと、苦笑したような気配が周りから伝わってきた。
だが、木を見上げて驚いた。木の高さが先ほどとは全く違う。つま先立ちになれば届きそうなところにあった実が、木登りしなければどうやったって届かないところで揺れている。木の下に駆け込んできたとき、しみじみと見上げたので間違いないと思う。
どうしてこうこの世界は、いちいち人の癇に障る変化がすぐ起きるのだろう。私は木に登れない、やってみて駄目だった過去がいくつもある。まして今日の姿は、ジャケットに後ろスリットのタイトスカートだ。やっぱり地団太踏んでみようかしら?と思った時に、ショウがじゃあ、行くよ。後はよろしくと木の下から出て行ってしまった。
さすがにショウは剣が上手い。ドラゴンを私たちから引き離しつつ戦っている。
振り上げたり下ろされたりする尾の威力は凄い、まともに当たったら骨の一つも折れるだろう。それを俊敏にかいくぐり、攻撃に転じる。時に目が開けられないほどの突風を起こされても怯むことなく戦っている。だが、時々ラードーンの爪に抉られたとみられるショウの血が跳ぶ。深手は負っていないようだがヤバい。
けれどこの木の高さは異常だ。どうするか。
私は無言で4、5歩下がった。目指すは、地上1メートルほどの所にある木の窪だ。そこに足をガッとかけて勢いで体を持ち上げ、更に1メートル20センチほどの所にある枝を掴みちょっとでも登って、反対側の枝をしならせ実を採るという塩梅である。
緊張で手に汗はかくし震えたりもするが、目の前でラードーンとショウが戦っているのに出来ないは、ない。
「えい!」
狙い通り木の窪に足をかけられた。グッと身体を持ち上げ枝に手を伸ばそうとした。
失敗した。
足を滑らせ背中から地面に落ちる。
「ぐっ、うう」
思わず声が漏れてしまうが同時に、
「まだか!」
とショウから切羽詰まった声が飛ぶ。被さるようにグキャアアというラードーンの声。急がなければ!
「白、黒!手を貸して!」 わかったぜと男の子である黒が
「でもセクハラとか言うなよ」
とシニカルな笑みを浮かべて応じ、白が
「わかったわ。急いで」
とこちらは短く応じる。
「いまみたいに落ちそうになったら支えて、よっ」 と言いつつ、窪みに足をかけ身体を持ち上げる。今度は絶妙なタイミングで補助してくれたので(具体的にはお尻を押してくれたので)実に手が届いた。
しかし、もげない。
精一杯引っ張っても、もげない。その上、下にいた時よりもドラゴンの巻き起こす風にまともに煽られて、一気に頭に血が上る。
「採れない。どうしよう」
「落ち着けって!」
「ショウから貰ったはさみは」
「そうだった、忘れていた、あ、」見事に落としてしまう。慌てて黒が拾うが、私に届けられる位置にいない。
木から実をもぐのがこんない大変だなんて思ってもいなかった。生きている木は当り前だが、水分をたっぷり含んでいる。枝は大切な実を守って撓っているのだろう。
突然、ラードーンが首をこちらに向けてきた。
改めて見ると、首に羽にあちこちに目がびっしりついている。恐ろしい姿だ。
ショウが気をそらしてくれていたが、ついに私たちに目を向けた。
恐怖のあまり、両手で実に抱きつくように丸くなると、どうした事だろう、簡単に実がもげてしまった。とたん、ぐらりと身体が傾く。
「危ない!」
白と黒が助けてくれようとするが、ラードーンの方が早い。その鋭い爪に襟を引っ掛けられ、身体を高く高く持ち上げられる。
見たこともないほど巨大だと思った木が、あっという間に遠ざかる。身体は前後左右に大きく揺れ、絶体絶命の危機に陥った事が否応なく確認できた。
不思議と心は静かだった。
いつの間にかパンプスは脱げ、枝に引っ掛けたのだろう、伝線しまくったストッキングと血の滲んだ足をぼんやりと見る。
そういえば、もいだ実はどうしたっけ。ふと思ったときに、爪に引っ掛けられた襟がビリビリと破けた。支えを失った身体は、どちらが上か下かも分からない空間をゆっくり移動していく。
もいだ実を池に投げる、そんなことも出来なかった・・・そんな事を思った。