負け組でも冒険はできる
気分が悪い。
頭は重いし、吐き気もする。原因はわかっている、ストレスだ。
約一年前、やけっぱちになった私は生命保険の営業に転職した、いわゆる保険のおばさんだ。
前職場はブラック企業で、出社時間一時間前に来ないとやる気がないと罵倒され、夏休み正月休みを規定通りに取ると、またやる気がないと罵倒された。年老いた父親が具合悪くなり休みを取ると、職場の人間に迷惑だ、自分のことばかり考える身勝手な人間だと罵倒された。
おまけに後継者争いまであり、末端の人間まで巻き込まれ、仕事に関係のない命令が頻々と出て従わされ、その中には社長に反対する側の人間には、朝の挨拶のような、ごく平凡な日常行為さへするなというものがあった。そのような状況の中で、社員の間にもいじめが蔓延しギスギスした空気が支配していた。
その後、父は数か月の寝たきり状態を経てあの世に旅立ち、すっかり嫌気のさしていた私は退社したのだった。
そして、転職したのが今の保険の営業だ。
いじめや足の引っ張り合いが、全くないわけではないが社風と感じられるほどではない。チームワークが基本の仕事ではないので、その辺は楽である。
問題はノルマであった。
入社したてはノルマもあってないようなもの。7000万などという目の回るような目標額を挙げられたが、金額は、関係なく一件の契約が取れればOKであった。
でも、一年たった今はそうはいかない。
せめて目標額の半数は取らないといけない。取っても首にならないだけで給料は下がる。ノルマの7割は取らないと給料は下がる一方なのである。
「よし、行くか」
むくんだ顔にファンデーションを塗り、艶のない髪を整えて自分に言い聞かせる。マイナス思考は言葉に変わる前に封じ込める。でないと、隠れていたくなる。
そうだ、私は本当は隠れていたいのだ。
じっとしていれば、だれも私には気付かず安全に闇の中で丸くなっていられる。
そうして幼いころ、見ていた夢を追っていたい。
それは、幸せな夢だった。
内気で身体も弱かった私に、必ず「遊ぼう」と誘ってくれた小さな背中が二つあった。
毎日その二人と夢中になって遊んだ。ままごと、追いかけっこ、かくれんぼ。私の幼いころの楽しい思い出は必ず二人と共にあった。
なのに、彼らは本当はいないと言う。
父母も兄さへもそんな子たちはいなかったという。「夢見たのね」とずっと言われ続けてきた。
夢なら夢でいい。笑いながら二人の背中を追いかけたい。
それが長い間の私の夢なのである。
「それでどう?見込客は見つけられた?」
初老のそれでも十分に美しい上司が、ため息交じりに聞く。彼女にも私がなんと答えるかはもう分かっているのだ。
自制の利いた有能な上司の眉間に、わずかながらではあるがしわが寄っている。
「あなたなりに頑張っているのはわかってはいるけど、営業は数字が上がらないと意味はないのよ、わかっているわね?」
隣で精いっぱい背筋を伸ばして立つ私を覗き込むようにして、あくまで柔らかく話す。
「はい・・・」消え入りそうな返事をする。
保険の営業の世界は、数字を上げられなければ、生活するための給料さへ稼げない。一般の営業職員、「保険のおばさん」は正社員ではあるが、個人事業主として扱われる。会社の規定に従って、契約を取ればとっただけ自分の給料に上乗せされるが、契約を取れなければ、交通費や通信料、客への手土産代などの必要経費で給料は底をつく。
厳しい世界だと分ってはいた。だが、ブラック企業勤めでやけになっていた私は、どうにかなると考えたのだ。残った親も年を取り介護が必要になり始め、仕事をしてお金だけを稼げばどうにかなる時間は終わってしまった。仕事の合間を見て、家に様子を見に帰れるような、仕事の形態が気に入ったのだ。介護の必要な人間を一人残し、長時間家を空けられるほどには介護保険は役に立たない。
ほかに選択権はないように思えたのだった。
いま、ヒステリックに怒られないのもチームプレーでの仕事でないためだ。一応、グループ分けされ、責任者としてマネージャーがグループ内を統括しているが、大きな意味はない。期間内に目標が達成できなくても、困るのは個々人のみ。正に自己責任の世界である。どうにかしようと毎日汗だくになりながら営業回りしているが、結果には一向に結びついていない。
「すみません。これといった見込客はいません・・・」
自然に語尾は小さくなる。
「門岩さん、あなたは真面目すぎるのよね。あなたが緊張していると、声をかけられる方も緊張するのよ。警戒心も生まれてしまうわ・・・とにかく今日も頑張って外回りしてね。」
そう言って、優しい笑顔でうなづく。もう下がっていいとの合図だ。
「はい、頑張ります、マネージャー。」
惨めな気持ちで上司の前から下がる。頑張って努力して、少しでも成績を上げなければならない。心の中のつぶやきは無視する。頑張ったからと報われるとは限らない・・・。特に人間が相手だと・・・。前回うまくいった方法が今回通じるとは限らない・・・。それどころか、大失敗になってしまう事だとてある、等々。
しかし、毎日違った工夫が必要なことも、この仕事の面白さでもある。気分を変えて今日は北の方でも行ってみよう。継続は力なり。無理にでも気合を入れて、いつもと同じ朝に向かった。
そして同じ朝はいつもと同じように過ぎた。なんの変哲もない日常。なんのとりえもないおばさん。
だからと言って、常に前向きを求められる現代において暗い顔なんてしていられない。
ただ、少し下を向いて歩くだけの事。
それですべてが何事もなくすぎていく。
たとえ私が本心で、どんなにすべてを投げ出したいと思っていても、残酷な現実は、何事もなくずっと続いて行くはずだった・・・
ここはどこ?
はっと気づくと見知らぬ風景が目の前に広がっていた。信号はなく、見慣れたマンション群がない。個人住宅のものと思われる塀が、両側に続く一本道に立っていた。思わず、目を瞬いてから考える。
今日はお酒なんか飲んでいないはず。いやいや、それよりも何よりも私は正体なくすまでお酒なんか飲んだことはない。そもそも飲み会など今日はなく、いつも通り気落ちしながら事務処理を終え、電車に乗って自宅近くの駅までは、確かに何事もなく来た。
だが、そこからさきの記憶がない、一瞬、茫然とし、頭をぶんと振り、腕を組んで、再び目を閉じて考える。
下を向いて、周りに気を配らず歩いてはいた。でも、最寄り駅から自宅までのほんの数分の道のりで、きちんと歩道のある道のりで。自宅マンション脇の隘路までは確かに何事もなかった。
ふと、甘い匂いに目を開ける。
厭きれたことに風景が、ただの見知らぬ風景から、美しい見たこともない風景に変わっていた。組んでいた腕をほどき口を開けたまま、ぐるりとあたりを見渡す。
澄んだ空気、高い空。どこまでも広がる大地。どこからともなく香ってくるどこか甘い香り。そして穏やかに流れる風。これはもしかしたら、夢なのかしら?と気が緩んだ。
「きれい」
口をついて出た。しかし応えがあるとは、もちろん思っていたわけではない。で、あるので
「そうだろう。」
と声を聞いて、文字通り跳び上がってしまった。バクバクいう心臓をなだめながら、声に敵意がなかった事を確認しつつ振り向く。
すると、にやっという形容詞がふさわしい小生意気な顔が、私のお腹の高さくらいから見上げていた。なんと羽織はかまを着ている。
「みんな、そんな顔するんだよなー」
物おじ一つしない、曇りも陰りもない瞳の持ち主が、面白くないとばかりに唇をとがらかす。初対面の純粋な目の子供に〝生意気〟だの〝怪しい〟などと思った事を見透かされたようでまごついていると、
「ま、いいや。でも気が合いそうでほっとしたぜ。ここを見て綺麗という奴は少数派なんだ。俺はいつもキレイってこういうことだぜ!って思っているんだけどなーまったく大人って馬鹿だよ。おばさんもそう思うよな。」
と、まだ高音の、でもハスキーな声で滑らかにまくしたてられる。
「そ、そうね」
気圧されて、やっとそれだけ言うと相手は口を閉じ視線をじーっと注いだまま先を促してくる。
「そうよね。綺麗ってこういう風景をいうと思うわ」
目の前に広がるのは、幼いころ童謡絵本などで見たような美しい風景である。
一粒一粒が輝いているような白い砂丘。上に広がるのは青い、ラピスラズリを砕いてそのまま空にしたような、深い色の星空。月もなんとも神々しく、星星の上に女王のごとく君臨している。まばらに見えるヤシのような木もこれ以上ない絶妙な位置に配置されている。
「で、あんた、どんなものを見ているんだ」
ふいにわけのわからないことを言うと、私が反応できないうちに得意気に話が続いていく。
「俺にはここは青い野原なんだよ。花とかは咲いてないんだけどなー。」男の子は眩しそうに目を細め、手を目の上にかざしながら話す。「で、あっちに川があって滝もあるんだぜ。こっちにしばらく行くと林があって、カブトムシとかいるんだぜ・・・」
ようやっと、ゆるゆると恐怖というものが私の身体を震わせる。私にはどうやっても男の子がいうようなものは見えない。日差しも感じない、私には月夜であるままだ。
私はどうしてしまったのだろう。家に向かっていたはずだ。でも、帰り着いた記憶が、ない。鍵をあけ、重いバックを下ろし、お風呂に入って寝た記憶がない。
「あ、ああ」
「おい、落ち着けよ」
日常の細々とした事を意識して行わなくなって久しい。でも、帰宅途中いつもの道を歩いていて、次の瞬間が夢ということはない。少なくとも今まではない。事故にでもあった?そして死んだ?ありえない。そんなことありえない!手足ががくがくと激しく震えてきた、両手を身体に巻き付けて抑えようとするが治まらない。力が抜けて立っていられなくなってきた、背筋を冷たい汗が流れていく。
「あはははは」 突然、ゲラゲラと笑い声が響き渡った。
「あんたって、ほんとばかだよなー。そんなんじゃ周りとずれること多いだろう」きつーい一言。それに本当におかしそうに笑っている!
しかしどういうわけか、私は落ち着いてきてしまった。なぜか震えが治まる、目を向けるとニヤッと笑い、男の子は座り込んだ私の腕をぽんぽんと優しくたたいた。
改めて見ると、美しい子どもだ。瞳は大きくはないが、かまぼこ型の明るく澄んだ黒、いや紺色。顎までのおかっぱ頭の髪はつややかで、光を浴びると青にも見える。唇もつややかでふっくらとし、肌は日本人らしい黄色だが滑らか。男ではもったいない。女の子ならすごい美人なのにと思っていると突然、子どもの髪がすらりと肩まで伸び、振袖を着た女の子に!
今度こそ驚きのあまり腰が抜けてしまう。
「きゃー、ごめんね。怖がる事はないのよ。そ、そう。夢なのよ。だから何でもありなのよ。」
口調まで女の子に変わる。声からもハスキーさが取れて鈴の音のようだ。
「こういう夢、よく見ていたでしょ。遊んだこと覚えてない?もう何年も見ていない夢かもしれないけど、その続きなのよ。また一緒にしてほしい事があるの」
そういいながら、半ば倒れ掛かった私に目線を合わせ、優しく手を取られた。手のひらの温かさが伝わる。
麻痺したように警戒心が薄れ、恐怖心もどこかに行ってしまった、それどころか懐かしい気がする。
「でも私、勇者とかじゃないわよ。モンスターをやっつけるとか、人助けとか出来ないわよ」ふらふら立ち上がりながら言ってやると、
「それはいいのよ。他の人がやるから」
あっさりと言われる。否定もされないのかと、もやもやっとした気分が沸きあがってきた。
「じゃあ、私・・・」と言いかけると「黙って見ててごらんなさいな」と、したり顔で、黙らされた。ちょっとムッときたが、目の前の光景に
「いつの間に、こんなに人が、どこから来たの?」
「うふふ、驚いているわね」
男の子より背も高くなったようだ。胸の辺りから、いたづらっぽい視線で見上げてくる。
本当に何というところだろう。夢?夢だからといってこんなに、風景から何から一変してよいのだろうか。
先程まで、人の影のない砂丘だったのが、いまやゴツゴツし、ひび割れ乾燥した大地に変わっている。その上無言で動く人の数は一人二人ではない。強く乾いた風に吹かれながら、その人々は確かに存在している。
「でも、人助けって、あれが?」
「そうよ。見ていればわかるわよ」
「はぁ」
それぞれが勝手に奇妙な、踊りを踊っているとしか見えない。ある人は屈みながら両手を突き出し、手のひらを上にしていたかと思うと、急に飛び上がるを繰り返している。ある人は、両手を上げ右左にくねくねと身体を振り続けている。呆然と眺めていると、
「みぃには、あの木の実を採って欲しいのよ」
これまたいつ生えたのか、ほんの少し離れた小高い所にある一本の木を示される。
この乾いた大地にあって、その木の根元には草が豊かに生えている。木にも青々とした葉が茂り、実がきらきらと光っている。
「みぃったら、ちゃんと聞いてる?ほら見て、始まるわ」
「始まる?」
「やだもー。なんの意味もなくこんな多くの人が、踊っているとでも思ったの?あれは合図を送りあったり、激励したりしているのよ」
よくよく目を凝らしてみていると、だんだん全体が見えてきた。どうやら私のいるところは四方が崖のどこかから突き出た台地のようだ。それもキノコのような形をしているらしい。同じようなキノコ台地があちこちにあるが、さらに向こうには壁のような崖がずっと上方まで続いている。人は台地にもいるが、多くは壁のところどころにある踊り場にいて下の方を気にしている。踊りのような動きは、意思の疎通を図るための様だ。
ある人が踊ると、見ていたほうが一つ頷いて、違う踊りを踊るのだが、個人個人まちまちで一つとして同じものがない。あれでよく意思疎通ができるものである。
同じ目的のために働いているのに、リーダーもいなければ決まった合図の方法もないのかしら?とさらに目を凝らすと、人の姿が妙なことに気付いた。
老若男女の区別がつかないだけではない、なんと牙が生えたり、角まで生えたものもいる!
「え?な、何?」
「獄卒よ」
「ご、獄卒?それって、地獄のいじめっ子でしょ?」
くすっと、嬉しそうに笑うと、ちがうわよ、という。
「そんな、血の池でもがき苦しみながら、足を引っ張り合っている亡者たちをいじめたって意味ないでしょ?何かにつながるかしら?」
「それは、そうなんだけど。えっと、自分が犯した罪を自覚させるためでもあるって、ま、待って、いま、亡者とか、血の池地獄とかって言ったの?」
「言ったわよ。」
その言葉を聞いたとたんに、甘い良い匂いは、どこかにきえてしまった。
むわっとした熱風と強烈な悪臭に襲われ、圧迫される。ふらふらと後退りをすると、小さな手が、ばんと背をたたいた。
「だらしないぞ、みぃ。」なんと、変身して消えたと思った羽織はかまの男の子が、私の背を励ますように叩いたのだ。横には女の子もいる。
「よく見ていて、ここがどういう所だかわかるから。」
「そうそう、これから働くんだからな。しっかり見とけよ、わからなくなるぞ」
「・・・・・・」
言いたいことはあるけれど、なんと言っていいかわからない。
それにいろいろな変化が楽しくなってて来た。これは夢に間違いない。そう思って横を見ると穏やかに笑う女の子と目が合った。ほっとした気分になる。
落ち着いてじっと目を凝らし、首を伸ばしていくと空を発見した。ほとんどが雲に覆われて真っ暗だが、天の階というのだろうか、真っ黒い雲間から、ほんのり光指すところがある。そこから時々何か、きらりと光るものが出てくる。何か糸のようなものだ。
それをずーっと目で辿ってくると、先ほどまではっきり見えなかった壁の下、私の立っている台地のさらに下方が見えてきた。
何かが蠢いている。
ここは血の池地獄だといった。ではあの、蠢くものは、つまり、そういうことなのだ。
突然、すべてが鮮明に見えた。
そこには黒い蛆虫のような、柔らかいような、殻があるような、丸みを帯びたものが、うぞうぞと淀みの中で蠢いていた。それが浮かんだり沈んだりを繰り返している。そこから時々何か異様に細いものが生えてきて、悪意のある動きをしている。隣にある丸いものを押しのけたり、叩いたりしているのだ。嫌悪感を持ちつつ見ていると、その悪意ある細いものに手を伸ばすものがいる。
なんと獄卒たちだ。糸はその獄卒たちの体に巻き付き支えていた。赤や青の肌色の逞しく、そしてまがまがしい爪を持つ獄卒。その腕が精いっぱい紳士的に伸ばされ、蠢く蛆虫を助けようとしているのだ!
「なんで」
「なんでってことはないでしょう?」
「苦しんでいる者がいたら、助けるのは当然だぜ。」
それは、そうかもしれない。だが助けられる方に感謝のかけらもない場合も、そうなのだろうか。
亡者たちは、伸ばしてきた手に感謝を持ってつかまり、引き揚げてもらうのをまったりはしない。どちらかというと、「カモがきた」とでも思っているようだ。自分の代わりに落ちろ、とでもいうような態度で手を引っ張る。獄卒たちはお互いに支えあっているし、きらきら光る糸のようなものを、体に巻き付けているため落ちたりはしないが。
亡者たちは相手が動かないとみると、今度は踏みつけたり、かじりついたりして、獄卒たちの体を橋だか、とりつきやすい岩のように扱っている。それも一人の獄卒にうぞうぞと山のように群がり、その上で争う。目を覆いたくなる光景である。あのままじゃあ、獄卒たちは酷い怪我をするに違いない。助けに行きたい、でも怖い、でも何とかしたい、でも出来っこない、どうしたら・・・
「心配しなくても大丈夫よ。」
「ま、傍に行く方法もないし。」
すると、ふいに亡者立ちに集られていない獄卒たちが、一斉に手を上げて何かを掴んだ(ように見えた)。そのまま体を前後に揺らし始める。
それは荘厳といっていい光景だった。〝獄卒〟という存在は体格がよく角が生えていたり、牙があったりと強面である。そのつわもの達がだだっ広く、薄暗く、重たい臭いの場所で、真剣な顔で同じ行動をしている。
かっ、と光ったような気がした。
見る間に亡者たちは、獄卒の体から剥がされ、暗い淀みの中に戻されていく。
何が起こったかと目をうろうろすると、空の光の中で何かが動いた。
「かっこいー、じゃあなかった。ヤバイぜ!」
羽織はかまの男の子が、飛び上がって拍手を贈る。それに合わせるように、獄卒たちも生真面目な顔で拍手している。
「?」きょろきょろしていると、拍手に応えるように雲間が広がり、自身が白く光っている何かが出てきた。大きい。頭だけで2DKの我が家が入ってしまいそうだ。そして、そしてー
牙があって、目が8つある!
「きゃっ、」
「なに、みぃ、蜘蛛見たことないの?」女の子が不思議そうに聞く。
「く、蜘蛛?あれ蜘蛛?あんな大きいの知らないわ。」
「えー、現世の蜘蛛って小さいと聞いたことはあるけど、つまんねぇ。うんとじゃあ、これくらい?」さすが男の子というか、私が怯えて腰を抜かしかけていることには、興味がないらしい。両手を精一杯開いて見せた。
「小指の先くらいよ。それより、あ、あれ大丈夫なの?襲ってこない?」
「襲うわけないだろ。さっき糸をパーッと出してみんなを助けていただろ。失礼だぞ。」
「そ、そそ、そうだったの」
「お前、みぃ、何を見ているんだよ」
「やめなさい、黒。みぃは初めて見たのよ。現世の蜘蛛がそんなに小さいなら、驚くのも無理ないわ。」女の子は言いながら私の手を握る。「震えているわ。ごめんなさい、驚いてしまったわね。あの蜘蛛は神仏の御使いよ。お尻から糸を自在に出していろいろ助けてくれるの、黒のヒーローなのよ。」
小さいが温かく優しい手だ。見上げてくる瞳も深い、慈愛ともいうべき色を湛えている。
「わ、わたしこそ、ごめんなさい。騒ぎすぎてしまったわ。」顔が熱い。自分より幼い女の子に母親のように慰められてしまった。
しかし落ち着いた気分でいられたのも一瞬だった。
先ほどまで、亡者たちにもみくちゃにされていた、獄卒たちの姿が目に入ったってしまった。
体がかっと熱くなるのは意識できた。「あっ」「だめっ」と言う子供の声が耳には届いた。腰に抱き着かれ、腕を引っ張られて何しをたかが分かった。「駄目、ダメだよ、みぃ」黒と言われた男の子の声がする。次に必死な女の子の表情が目に入った。
私は足元にある石を手当たり次第掴んで、血の池の亡者たちに向かって、投げていたのだ。「・・・どうしてよ」自分の行動に驚いていたが、「間違ったことはしていないわよ!」声が周りに響き渡った。
「何がいけないのよ!石を投げられて当然でしょっ。」普段は意図しても出ない声量だ。
獄卒たちの姿は想像以上に酷い、凄惨というべき姿だった。擦り傷、切り傷などという怪我ではない、耳がちぎられている者もいれば、目から血を流している者もいる。手足はぬめぬめと光り、腹を押さえ蹲っている者もいる。おそらく血が滴り落ちているのであろう、無傷だった者たちが必死に、布か何かで抑えて血止めしようとしていた。
「あんな酷い、さすが、地獄に落ちる人間たちよ」そう言いながら、人間じゃないと思った。人間なら獄卒の、姿は鬼でも誠意ある態度を感じ取れたはずだ、いや、自分たちの攻撃に反撃がなかった時点で気が付いたはずだ。人間の姿をしていないのは、自分たちだって同じじゃあないか。痛めつけられるべきだ、血の池に浸かっているだけなんて、生温い!
「みぃ、お願い、やめて落ち着いて。」縋り付く手が震えている。女の子の顔は必死を通り越して蒼白になり、目には涙が浮かんでいる。
「安心しろ、白。みぃの投げた石は届いていない。」
と、突然、声変わりした後の男性の声がした。落ち着いているが、吐き捨てるような言い方だ。
思わず声のした方を見ると、悠々と腕を組む若い男が少し離れたところに立っていた。長い前髪が目にかかって、顔がよく見えない。
だが、敵意を感じる。
この世界では、どいつもこいつも悪意でできた化け物の味方をしたいらしい。私は悔しさから、動きを止め睨んだ。しかし白と呼ばれた少女は安心したらしい、縋り付いていた手を放し、力なく座り込みながら、ほっと息を吐いてつぶやく。
「本当?よ、良かった。」
「良くなんかない。当たれば良かったんだ。」意外なことに私より早く、その若い男が言った。白ははじかれた様に立ち上がる。
「なんてこと言うのよ、ショウ!」今度は真っ赤になり、肩までのおかっぱ頭を振り乱す。「石が彼らに当たっていたら、みぃがどんなことになっていたか、わかって言っているの?」「それがおかしいと言っているのさ。人の形さへ無くした極悪人どもをちょっと傷つけたからといって、罰せられるなんてありえない。それに、みぃは平気さ。現世の人間はここでは特別だからな。」
「・・・」突然口を閉ざした白を見ると、怒りで声も出せないのだと知れた。先ほど慈母のような光を湛えた瞳に、暗く鋭い光が見える。息をのむほど強い。一瞬にして、私の怒りさへ消してしまうほどに。
愕然としている間に、どう見ても愛らしい市松人形のような姿だったのが、揺らいでいく。
いや、姿そのものは変わらないが、これは、そう、人の負の感情が具現化した呪いの人形そのもの。空気が黒く変わっていくのが見える。かちっと歯があたったので食いしばった。震えが足元から上がってくる。
「ふん、本気で怒ったのか」ショウは、悠然と口だけで笑っている。
「愚かなことを・・・」白は先ほどとは全く違う、低い、怨念がこもった声を出した。
優しい可愛い娘だと思っていた。小さな子なのにと思いながら、いつの間にか頼っていた。それが目の前で、゛恐怖〟に変わっていく。こんなのは嫌だ。あんまりだ。すると突然、
「ばか白!」声とともに、仁王立ちだった白の姿が視界から消えた。
「なーにやってんだよ」黒が後ろからきて、蹴とばしたのだ。いわゆる、〝膝かっくん〟をしたらしい。顔から転んで鼻を打った白は、元の愛らしい市松人形に戻って茫然としている。
「だいたい、みぃも悪い。ぐずぐずしているからだ!」と怒られた。
「えっ?だってあれは、だって」
「そのことじゃない。」
「だったら、どうして怒られるの?」
「あそこの木の実を採ってって言っただろ。」
「でも、あの、何がどうして、えっと、」
もう、何が何だか訳がわからず半泣きである。
「黒、待って。」落ち着いたらしい白が鼻を押さえて立ち上がる。「ごめんなさい。私ったら我を忘れてしまった。黒もありがとう。」目に涙を溜めたまま、ペコリと頭を下げた。
そして、ついと私を見上げ、ついでにショウを一睨みすると、
「でも覚えていて、地獄の亡者たちを傷つけることは、絶対にしてはいけないことなの。」反論を許さないきっぱりと口調だ。
「みぃは、納得していないよだぞ」ショウは言う。
白は手をキュッと握ると、彼を無視し私を真っ直ぐ見つめてきた。
何を求められているかは分かる、でも嫌だった。
分かるように説明して欲しい。ショウの態度も気になるが、彼の言う通り私にはわからない。
強情な私を見て、白はみるみる悲しそうな表情に変わった。
「みぃも、もう小さな子供じゃあないわね。」こくっとうなずくと
「そうね、じゃあこう言ったら少し分かるかしら、これは規則とか規律の問題じゃあないの。理よ。どんなに嫌でも誰にもどうにも出来ない。産まれたら死ぬことから逃れられないと同じ理なの。」
分からない、分からないけれど、辛い。マネージャーに叱られるより胸に堪える。
謝ってしまった方がいい、でものどに何かが引っかかっている。
「騒いで悪かったよ」ショウが割って入った。「みぃ、君の感は正しいよ。白は優しく頼りになる存在だ、信じていいよ」
先ほどとは打って変わった穏やかな声で、微笑まで浮かべショウと呼ばれた少年、いや青年が言った。物腰も柔らかくなって面食らうほどだ。
そのうえ、近くで見るとなかなかのイケメンである。大きめの切れ長の目で、鼻筋もすっきりと通っている。口も大きめだが、男らしい野性味を与えている。ただ格好が全体的にいって古臭い。昭和4~50年代の感じがする。髪は長めで、上下とも青を基調としたあせたデニム。上は前ボタンを留めず開けており、下には黒のタンクトップを着ている。当時の人気俳優たちが、こんな格好した無軌道な刑事役をよく演じていた気がする。
彼が軽く俯いて穏やかに話すと場の雰囲気は一気に和んだ。特に黒は、嬉しそうに笑っている。しかし金色のりんごのような実をウエストポーチから取り出すのを見て、白と黒が目をむいた。ショウは軽く実を放りあげている。
「い、いつの間に!」
「そんな、ぞんざいな扱いしないで!」
「騒ぎなさんなって、とりあえず獄卒らだけにでも早く食わしてやりたいからさ。後はまかせるよ。」と言いつつ、無造作にりんごを二つ投げた。
あんな投げ方では絶対、届くはずない。さっき石を投げた感じで、この場所の広さがとんでもないことはわかった。建物らしきものが立っていないから目算が狂うが、一つのキノコ台地につき半径1~2キロは必ずある。血だらけの獄卒たちがいるのは二つ、三つとある、キノコ台地の向こう側なのだ。
ああ、美味しそうだったのに勿体ないことをと思っていると、案に相違してりんごは、ぐんぐん目標に向かって飛んでいく。初期スピードが落ちてきて、放物線を描き始める頃になっても飛んでいく。
また、蜘蛛?と思って目を凝らしても糸は光らない。絶対落ちるはずのスピードになってもふらふらと飛んでいき、獄卒の手に届いた。獄卒は、ショウに向かって軽く手を振ると、素手で実を割り食べ始めた。
そんなバカなと思っていると、もっとバカなことが起こった。一口食べると、怪我が治り、ちぎれていた耳がもとに戻り、つぶれていた目が開いた。怪我のない者も疲労が一気に飛ぶのか、しゃんとして、体が大きくなったように見えるものまでいる。唖然としていると、いきなり手を引っ張られた。
「ほらっ、ぼさっとしてないで逃げるんだ」小さいわりに強い力で、黒がぐんぐん引っ張る。前かがみにされて引っ張られるので、転げないためには必死に走るしかない。
「ちょっと待って、わ、私、足は速くないのよ。」
「そんなことは知ってるさ。でも追いつかれたら、ちょっと怖いぞ。」
「こ、今度は何?」
「とにかく走るの!」2~3歩前を行く白が横顔を見せて叫ぶ。説明とかは何もない。訳のわからないこと、聞きたいことはいっぱいあるのに、いつも無視され、誤魔化されている気がする。だんだんまた怒りを爆発させたくなってきた。とたん、集中力が切れたためか転ぶこととなった。
「きゃっ」
「あ、みぃ!」と二人同時に叫び、伸し掛かってきた。思わず「ぐえっ」と声が出てしまう。そこに、グアアといったような声と強い風が襲い掛かってきた。
「今のうちに行け!」耳もとで土をけり、走る音がする。続いて体の底へ響くような重く鈍い音、金属か何かが、ぶつかり合う音がした。「はやくはやく」とせかす二人に助け上げられて、音の方を見ると羽が生えて首が長くて尻尾があり、目が至る所にある巨大な生き物がいた。
思わず膝が崩れた。私が声も出せずに、汗びっしょりになり、震えていると、小さな四つの手が必死に引っ張る。「みぃ、動けよ。」「お願いみぃ、ドラゴンはショウが押さえてくれるから、立って頂だい。」「みぃ、しっかりしろよ。」「みぃ、逃げるのよ。」声が遠くで聞こえる。
あれは、ドラゴンなの、全くこの世界は驚かされるわ。
体は恐怖のあまりすくみ上っている状態なのに、心は変な状態に落ち着いていた。目はショウとドラゴンの戦いに釘付けになっている。どこに隠していたのか、ショウはゲームの勇者が持つような剣を振るっている。ショウはすごく剣がうまくて強いのね。足の運びから見て剣道を長いこと習っていたのかしら、と場にそぐわないことを思っていると、体が引っ張られて動いた気がした。
この子たちって一体なんだろう。みぃ、みぃって、本当に小さかった時に、本当に近しい身内だけが、呼んでいたあだ名を何で知っているのかしら?それにさっきから私のことに変に必死だわ。あれはきっと、ドラゴンから守ろうとして伸し掛かってきたのよね。今も引っ張って連れて行こうとしてくれている。私のほうが、小さい子みたい。
そのとき、ドラゴンに引っかかれて、ショウの血が細く飛んだ。知らず目で血の流れを追う。
そして世界が反転した。
続く