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揺れる者

作者: 富士見 恒

ぎぃぎぃぎぃ。


庭の木に掛かっている縄の軋む音がした。

少しだけ気になったので、膝の上の日記をめくる手を止める。

窓辺から文字通り視線を落とすと、庭の桜の木に人がぶら下がっていた。


ぎぃぎぃぎぃ。


力なく垂れ下がった二本の足が、てんでばらばらに風に揺られて、まるで不揃いの暖簾のように見える。

揺れる人影の短い黒髪が、桜の花を孕んでさらさらと揺れた。

何だか眠くなってくる光景にほんの少し目を細めたけれど、すぐに興味を失い、また手元の日記に視線を落とした。


くあ、と一つあくびをしてページをめくる。

何だか眠い。瞼が重くて仕方がない。

もう一度ちら、と視線をやると、桜の木にぶら下がった彼はまだ風に揺られていた。


ざさあ、と風が鳴る。

穏やかな日差しと、のしかかるような眠気が脳を圧迫する。

眠気に耐え切れなくなり、日記を閉じる。

腰掛けていた窓枠から立ち上がり、畳に寝そべった。

畳の上にぐうっと体を伸ばしたと同時に、意識は夢の世界へと落ちていった。


気付くと畳が目にしみるような橙色に染まっていた。

気だるい気分で身を起こし、開け放した窓をぼうっと眺める。

空は春の夕暮れ色に染まり、桜の花びらがまるでこの世の幸せ全てを煮詰め固めたかのように淡く光っていた。

風がびゅうと吹き込み、畳の上に桜の欠片をいくつか落とす。

ざさあ、と風が鳴り、桜の枝が大きくしなった。


しばらくぼんやりとした後に、背伸びをして立ち上がると、庭の桜の木の側に誰か立っているのが見えた。

そっと窓に近寄り、窓の下半分に付いた格子を掴んで身を乗り出すと、桜混じりの短い黒髪とつむじが見えた。


その誰かは桜の木の方を向いて立っている為、顔を伺う事は出来なかったが、かろうじて頬と目のくぼみ、斜めから見た顔の輪郭を捉えることが出来た。

袴姿の青年だ。彼は何をするでもなく、桜の木を見上げている。


何をしているのだろう、と眺めていると、彼の頬を橙色の雫が滑り落ちるのが見えた。


桜を眺めながら、その青年は泣いていた。

声を押し殺して、手をぎゅっと固く握り、頬を伝う涙をぬぐうこともせずに、ただ静かに泣いていた。


そうしてしばらくすると、彼はふらりと桜の木に近寄った。

よろめく体を支えるように左手を桜に当てて、その根元から辿るように視線を上に向けた。

その真っ黒な瞳が確実に二階にいる自分の眼と交差したはずなのに、その顔を見る事は出来なかった。

何故だか、涙に濡れた黒い瞳の強さだけが印象に残った。


彼は少し空を眺めた後、家の玄関方面へと向かった。

一瞬、彼の姿が視界から消える。

そうしてしばらくすると、彼は木製の梯子を手に戻ってきた。

その梯子を桜の幹に立てかけ、梯子を登ると一番太い枝に縄をかけた。

縄の先は輪になっており、左右にふらふらと揺れている。

彼は風に揺れる縄を捕らえると、その縄を躊躇うことなく首を掛けた。

そして何かを呟くような声が聞こえたかと思うと、彼はそっと桜の木から身を離した。


あ、と思う間も無く、彼の足は梯子を離れ、その自重で体が一度、大きく跳ねる。


桜の枝が大きく揺れたと同時に風が唸り、花弁を巻き上げた。

窓辺に立つ自分の視界に幕が掛かり、ほんの少し彼の姿が見えなくなる。


ぎぃぎぃぎぃ。


桜の木の枝が揺れ、縄は重みに文句を言うように軋む。

風が吹き、地面の桜の花弁を巻き上げ、その欠片がはらはらと庭の池に落ちて波紋を広げる。


袴姿の青年の体は、桜の風に攫われるようにゆらゆらと宙を漂っている。


夢のような光景だった。

まるで一枚の絵のようなその光景を、確かめるようにもう一度。

ゆっくり瞬きをした本当に一瞬。

次に目を開けると、昼の日差しに白く光る畳が目の前に広がっていた。


黙ったまま、温い畳から体を起こして窓辺に近寄る。


庭の桜の木には、縄がゆらゆらと揺れているだけ。

そこに彼はいなかった。


畳の上の日記が風にめくれ、ぱらぱらと乾いた音を立てた。

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