会えない初夏
花びらを散らした桜は、あっという間に葉桜になった。
季節は春から初夏へと、少しずつ移動していった。
丘から見る景色の薄桃色だったところは、黄緑色に変わっていった。
桜の花が無くなったのは寂しいが、その代わり、新緑がまぶしく見える。
風も、暖かいものに変わっていた。
馬に乗ってきて、熱くなっている体を冷ますには物足りないが、これはこれで気持ちがいい。
「最近、頻繁にここに来るな」
横にいた信春に言われた。
信春の言う通りで、最近よくここに来る。
というのも、信春の顔が見たいときは、ここに来れば必ず追いかけてきてくれるから、頻繁に来るのだ。
あれから、百合と話をして、やっぱり信春が好きなことを伝えた。
百合は自分の事のように喜んでいた。
最初は、好きという気持ちがわかっただけで嬉しかった。
そのうち、一目顔が見れれば嬉しくなり、そして目があえば、言葉を交わせれば、会えればになっていった。
「恋をすれば、欲張りになるものです」
と、百合は言っていたが、その通りだ。
一目見れればそれでいいと思っていたのに、今では会えないと切なくなってくる。
胸がギュッと締め付けられるような感じだ
どうしてこんなにも欲張りになってしまうものなのだろう。
会えなくて、切ない思いを抱いていた時、百合が
「いい方法があります」
と言って教えてくれた方法がこれだ。
「信春様は、姫様が馬を出すと必ずついてくるので、会いたいときは馬を出せばいかがでしょうか」
そう言われるとそうだけど、それを期待して、馬を出して来なかったらどうする?
最初は不安に思いながら馬を出した。
来なかったらどうしよう。
いつもの丘に行き、信春が来るのを待っていた。
信春は文句言いつつもいつも来てくれた。
信春の姿を見た時は嬉しかった。
そして、話をして、景色を眺めて城に帰った。
それだけだけど、とっても楽しかったし、嬉しかった。
そして恋は、楽しいものなのかもしれない。
この時まではそう思っていた。
「桜が馬に乗りたいのはわかるが、しばらく我慢してほしい」
それはどういうことだ?
「俺がしばらく城からいなくなる。頼重様と一緒に隣国に使いに行くことになった」
頼重様とは、兄様のことだ。
「使いって、なんの使いなの?」
私はそんな話は聞いていなかった。
一国の姫にする話でもないし、知る話でもない。
「同盟を更新しに行く」
隣国とは同盟を結んでいる。
戦を避けるためだ。
小国は、戦を避けるために隣国と同盟を結び、お互いの国に危機がおとずれた場合は助け合うという同盟を結んでいる。
同盟を強化するために、結婚をして親戚関係になる場合もある。
うちの場合は、私の亡くなった母様が隣国の人間だ。
「大丈夫なの? 無事に帰ってこれるの?」
いくら親戚関係であっても、無事に同盟を更新して帰ってこれるとは限らない。
戦国の世だから、なにがあるかわからないのだ。
突然の裏切りがあり、殺されることもある。
もし、信春に危険なことはあったら……。
怖くて考えられない。
そんな考えが顔に出たのだろう。
「そんな不安そうな顔するな。大丈夫だ」
と、信春に言われた。
信春がそう言うけど、心配は心配なのだ。
「桜の祖父にあたる人だって、隠居しているがまだ生きているし、頼重様に会えるのを楽しみにしているらしい」
「祖父って言ったって、今回初めて会うのよ。それに、今は違う人が国を納めているのでしょ。その人が同盟は更新しないなんて言ったら……」
殺されるかもしれないじゃないか。
「そうならないように、ちゃんと手回しはしてあるから大丈夫だ。俺の事より、俺がいない間に馬を出し、桜に何かあった場合、侍者が切腹をすることになることの方が俺は心配だ。今のところ、馬に乗って桜に勝てるのは俺ぐらいだからな」
「大丈夫よ。私ならそんなことない」
それより、信春が心配だ。
自分の兄様より信春の方が心配だと思うのはどうかとも思うけど、でも、兄様と信春どっちを取ると言われたら、間違いなく信春を取る自分がいる。
「いや、心配だから、約束してくれ。俺がいない間は馬に乗らないって」
信春がいなければ、馬に乗る理由なんてないじゃないか。
私は、信春に会うために馬に乗ってここまで来ているのだから。
「わかった。乗らないから、無事に帰ってきて」
目に涙がにじんでいたと思う。
会えないのかという思いと、無事に帰ってこれるのかという心配と、心の中は、悲しみと不安でごちゃごちゃだ。
「泣くことはないだろう」
そんな私を見て微笑む信春。
「泣いてない。涙が勝手に出るんだ」
そして、強がる私。
「姫様が泣き顔見せたら、みんな驚くだろう」
信春は、手で優しく私の涙をぬぐってくれた。
私の心臓の音が聞こえているだろうか?
信春に聞こえそうなぐらいどきどきと胸を打っている。
「無事に帰ってくる。安全な旅だから、心配するな」
「わかった。私は馬に乗らないで信春が帰ってくるのを待つ。だから、信春は無事に帰ってきて」
「頼重様の心配はしないのか?」
信春は笑っていた。
兄様か?
「ああ、忘れていた」
本当に忘れていた。
信春さえ無事ならいい。
信春はそんな私を見て笑っていた。
この笑顔にしばらく会えないと言う事か。
それに耐えることが出来るか?
きっと会いたくなったら、いつもと同じように、ここに馬を飛ばしてくるかもしれない。
馬に乗るなと言われれいるのに、ここに来れば会えるような感じがして来てしまうかもしれない。
そして、来ないとわかったとき、自分はどうなってしまうのだろう。
会えなくても耐えられる何かがあれば、大丈夫かもしれない。
「信春」
私が名前を呼ぶと、私より背が高い信春は私をのぞき込むようにしてみた。
「なんだ?」
「手を出してほしい」
私がそう言うと、信春は手を出してきた。
細く長い指をした手。
力なんて出ないような綺麗な手だけど、弓の弦を引いて持つほどの強い力を持った手。
その手を私はにぎった。
信春は驚いた顔をしたけど、私の手を握り返してくれた。
この手を記憶しておこう。
信春に会いたくなったら、ここで手を握ったことを思い出そう。
そうすれば耐えられるかもしれない。
信春との約束もちゃんと守って信春を待つことが出来るかもしれない。
私が強く握ると、信春も握り返してくれた。
このことを忘れないようにしよう。
手をつないだまま信春を見上げると、下を向いて私を見ていた信春と目があった。
ドキッと胸が鳴った。
何か言われるんじゃないか?そう思ったが、信春は笑顔で私を見つめていた。
だから、私も目をそられなかった。
信春のこの顔も覚えておこう。
ここで手をつないで見つめあったすべてを覚えておこう。
「私、ちゃんと約束守って待っているから、だから、もう少しだけこうしてていいか?」
信春は、優しくうなずいた。
ありがとう。
信春の手の上に、もう片方の自分の手を重ねた。
信春はされるがままになっていた。
何か言われるかなと思いながら信春の顔を見ると、信春は優しく笑っているだけだった。
その綺麗な顔も会いたくなったときに思い出すからね。
次の日の夜明け前。
侍女や侍者たちがバタバタと行きかう音で目が覚めた。
信春たちの出発前の準備で追われているのだろう。
夜明け前に出発すると言っていた。
その時間に起きれるか心配だったけど、その心配は無用だったらしい。
現にこの慌しさで目が覚めてしまった。
上半身を起こすと、百合が近くに寄ってきた。
百合しかいなかった。
他の侍女たちは支度に追われているのだろう。
「百合様、まだお早い時間ですが、起きますか?」
百合が素早く私のところに来た。
「見送るから、起きる」
そう言って立ち上がると、百合が急いで着物を着せてくれた。
「信春様もきっと驚きますよ」
そりゃ驚くだろう。
こんな早くに出立する人間を見送ったことがない。
女の私はそう言うことに関与しなくてもいいので、誰かが重要な用事で出かける時とか、見送ったことがない。
だから、私が出てきたら、父様とか驚くだろう。
なんと言い訳しようかとか考えるけど、今は、信春の顔を見ることが最優先だから、そんなことはどうだっていいと思ってしまう。
普段の私だったら、父様や兄様に何か言われることの方が気になり、絶対に見送らないのだけど、もしかしてこれが信春との最後になってしまうかもしれない。
そんなことは考えたくないけど、いつ最後になってしまうかわからない。
悲しいことだけど、覚悟も決めなければいけない。
これが、戦国の世なのだから。
支度が終わり、百合と一緒に広間に出た。
支度はもう終わったらしく、みんな広間に揃っていた。
父様が一つ高いところに座り、みんなを見回しているところに私が入ってきた。
「桜、ずいぶんと朝が早いな。まだ寝ていてもいいんだぞ」
そう言う父様の隣に着物を正して私は座った。
「兄様たちをお見送りしようと思い、早く起きてきました」
本当は、兄様なんかに用はない。
信春を見送りに来たのだ。
でも、信春を見送りに来たなんて、なんか恥ずかしくって言えない。
だって、兄様がいるのに、兄様を差し置いて信春だけをなんて言った日には、城中大騒ぎになるだろう。
少し高いところに座っているので、みんなの顔がよく見える。
信春はどこ?その姿を探してしまう。
きっと背筋をぴんと伸ばして、まっすぐ前を見て座っているのだろう。
流鏑馬の矢を射る時のように。
「今回は、朝早くからご苦労だった」
父様の話が始まったが、そんなものは聞いていない。
信春の姿を必死で目で探す。
そして、その姿を見つけた。
やっぱり、背筋を伸ばしてまっすぐ見ていただ、そのまっすぐ見ていた目が合っていしまい、恥ずかしくなってうつむいてしまった。
ずうっと探していたのを見られていたのか?
チラッとまた信春を見ると、私の方を見て笑顔になっていた。
その笑顔を見てほっとした。
また、絶対に帰って来てその笑顔を見せてくれるよね。
私の思いが通じたのかわからないけど、信春はうなずいた。
大丈夫だ。
そう言っているような感じがした。
大丈夫だから、待っていてくれ。
勝手にそう解釈してしまった。
待っている。
ずうっと、帰ってくるまで待っているから、早く帰ってきて。
父様の長い話が終わった。
いよいよ出発だ。
長い列の先頭に馬に乗った兄様がいた。
その隣に信春がいた。
信春は兄様の信頼が高いのだなぁと、周りの人は思っただろう。
小さいときから私のそばにもいたけど、兄様のそばにもいた。
そして、馬も上手に乗りこなすし、矢も使いこなす。
こんな人間がそばにいたらさぞかし心強いだろう。
そんな信春がかっこよくて頼もしく思えたけど、そんなに目立つことばかりするから、今回みたいなことに選ばれちゃうんだ。
選ばれることは嬉しいけど、無事に帰ってこれるかわからないからとっても不安だ。
信春は大丈夫と言っているけど、本当に大丈夫かわからない。
庭に出て父様と見送る。
兄様の短いあいさつが終わると、門が開き、行列は外に向かって歩き始めた。
先頭の兄様が一番最初に門の外に出て、次に信春が出た。
後ろ姿しか見れなかった。
りんっと背筋を伸ばして馬に乗っている後姿が門の外に消えても、私はずうっと門を見ていた。
行列が全員門の外へ出た後も、ずうっと門を見ていた。
やがて門は閉じられた。
行ってしまった。
私は立ち尽くしていた。
それを朝早くから起きて疲れただろうと父様は思ったのだろう。
「桜は、部屋に帰って横になるといい。まだ朝も早い」
と、声をかけて城の中に入ろうとしていた。
「父様」
父様の後姿に向かって私は呼び止めた。
「今回の兄様の任務は、本当に安全なものなのですか? 兄様は、無事に帰ってこれるのですか?」
本当は、信春が心配なのだ。
信春が無事に帰ってくるのかが知りたい。
「なんだ、急に兄思いになったな」
父様のその言葉にギクッとしたけど、ここで顔に出したら父様になんと思われるかわからないから、平常を装った。
「心配するな。頼重は敵国ではなく、自分の祖父母がいる親戚の所に行ったのだ。きっと向こうも喜んでくれるだろう。安心しろ」
それは信春からも聞いた。
「でも、今、国を治めているのは、祖父ではありません」
「確かに違う人間が納めているが、その人間にとっても頼重とは甥と叔父の関係になる。桜が心配することは何一つない」
ハハハと豪快な笑い声とともに父様は城の中に入った。
「私たちも中に入りましょう」
百合に言われて、私も中に入った。
今から追いかけて行ったら、まだ間に合うよね。
そんなことを思ってしまう。
でも、ちゃんと留守番をしていると信春と約束した。
それを破ってしまったら、信春が帰ってこないかもしれない。
門の外の誘惑を断ち切るように、中に入った。
でも、門の外が気になっていたのだった。
信春たちが出発してから数日が経過した。
「まだ帰ってこないのか? いつ帰ってくる?」
もう今日まで何回同じ質問を百合にしたのだろう。
会えないのが、こんなにもつらいとは思わなかった。
最初は、なんとか信春の事を思い出して、必ず帰ってくるから、頑張ろうと思って乗り越えることが出来た。
しかし、日にちが経過するにしたがって、会えないと言う事が胸を切なくしてくる。
今何をしているんだろう?
初夏の空を見上げてはそう思う。
空も、切なくなるぐらい青くて綺麗だった。
そう言えば、一年のうちで今が一番空が綺麗な時期だって聞いたことある。
誰から聞いたんだ?確か、信春だ。
昨年の今頃だっただろうか?
馬でいつもの所に行ったら、信春もやってきて。
あの時は、何とも思っていなかったから、またやってきたよぐらいにしか思わなくって。
それで、一緒に空を見上げて、雲一つない青空を見て信春が言ったんだ。
「梅雨に入る前のこの時期の空が、一年で一番綺麗な空なんだ。俺はこの時期の空を見るのが好きだ」
そう言ったんだ。
今、そんなこと言われたら、信春の好きな物すべて好きになってしまう。
でも、その時もこの言葉だけは本当だと思っていた。
あんなにたくさん会えた昔が懐かしく感じる。
昔と言っても昨年の話だけど、それでも懐かしく思う。
ああ、信春は今頃何をしているのだろう。
もしかして、向こうに綺麗な女性がいて、その人と仲良くなっちゃうなんてことないよね。
信春は侍女たちから人気があるから、心配だ。
「姫様、信春様を驚かすために、女をみがいてはどうでしょう?」
百合がそう提案してきた。
女をみがく?
「琴や、お茶や色々なことをして、女をみがくのです。信春様が帰ってきたら、きっと驚きますよ」
百合の一言で、私の頭の中にいる信春が動き始めた。
帰ってきた信春が、私が琴を弾いている音を聞いてやってくる。
「えっ、桜が弾いていたのか? ずいぶん上達したなぁ。桜だと思わなかった」
そう言って驚く信春。
確かに、女をみがくのも悪くないかもしれない。
よし、信春が帰ってくるまでに琴の腕をあげて驚かしてやろう。
しかし、それも最初だけだった。
最初は琴も何も必死になってやっていた。
やっているときは、信春のことを考えられないぐらい必死になっていたので、それなりに効果はあったと思う。
でも、それも本当に最初だけ。
しかも、年がら年中琴を弾いているわけにはいかない。
引き終わると、信春に聞かせたいなぁと思い、最後には、いつ帰ってくるんだ?と言う事になる。
もう待つのはうんざりと感じていた。
いっそのこと、迎えに行ってやろうかしら。
でも、馬に乗らないって約束しちゃったしなぁ。
それなら、歩いて行ってやろうか?
これ以上帰ってこなかったら、本当に歩いていくぞっ!
「姫様、朗報です」
百合が、バタバタと走ってやってきた。
「何?」
信春が帰ってくると言う事以外は、全然朗報じゃないからね。
「頼重様が数日のうちに帰ってくるそうです」
ほ、本当に?
「信春も一緒だよね」
「もちろんです」
よしっ!帰ってくるぞ。
「出迎えの準備をしなくては」
「姫様、まだ早いですよ。数日のうちなので、いつ帰ってくるかわかりませんよ」
百合のその言葉が無ければ、私は、今からでも出迎えに行っていた。
数日後だけど、数日外で待つ勢いだった。
でも、私一人で待つわけじゃない。
私が出れば、侍者、侍女がついてくる。
彼らを私のわがままにつき合わすわけにはいかない。
やっぱり、数日後に帰ってくるとわかっても、私には待つという事しかできないのだ。
信春たちが帰ってくると言う知らせを聞いてから数日がたった。
数日がたったけど、まだ帰ってくる気配がなかった。
この数日で変わったことと言えば、梅雨に入ったと言うことぐらいだろう。
毎日雨が降っている。
ただ降っているだけなら何でもないことだ。
むしろ、恵みの雨だと喜んでいたことだろう。
しかし、この雨は止む気配がなかった。
止むどころか日に日に強く降っているような気がする。
この雨で足止めされているのだろう。
今回だけは、この雨が信春との距離を広げているような感じがし、恨めしく思う。
「こう雨が続くと、山が崩れないか心配ですね」
外を見ながら百合が言った。
「川もあふれないか心配です」
他の侍女もそう言った。
私は、信春が心配だ。
信春は今どこで何をしているのだろう。
うちの城下は、山と川がある。
こう雨が続くと山と川が心配の種になる。
父様は、山と川の近くに住む住人のために城内を解放した。
城内は人がたくさん増えたのと、住人のための炊き出し等が始まったので、侍女たちは忙しくなり、猫の手も借りたいと言う状態になった。
そんな状態なのに、私がぼけーと奥で座って信春のことを考えつつ、降りやまない雨を見ているわけにもいかない。
むしろ、こういう時こそ一国の姫である私は侍女たちを指示し、城内に避難してきた住民たちを安心させなければならない。
たすきがけをして着物の袖をあげ、広い台所を全部見渡せるようなところに立ち、侍女たちに指示を出すことになった。
「お米をどんどん炊いてっ!」
かまどを指さして私が大きな声で言うと、侍女たちが動き出す。
米が炊けると、それを食べやすいようにおにぎりを握る。
そうなるともっと人が必要になってくる。
私がのんきに指示ばかりしているわけにはいかない。
高いところに立っていたけど、米が炊けると侍女たちと一緒におにぎりを握った。
普段なら止める人間もいただろうけど、今は非常時だ。
誰も止める人間はいない。
「桜、ご苦労だな」
父様の声が聞こえたので、侍女たちは手を止めて、父様の方を見て頭を下げた。
私も侍女たちを一緒に頭を下げた後、すぐに顔をあげた。
「今は、一人でも人が必要なときです。私一人が奥にこもっているわけにはいきません」
こういう時、母様が生きていたら、この役目はきっと母様の役目なのだろう。
しかし、母様は私を生んですぐに亡くなったので、この役目をする人間は兄様が結婚するまでは私の役目だろう。
「頼んだぞ、桜」
その証拠に、父様はそう言った。
「はい」
私は頭を下げてそう言った。
その時、
「申し上げますっ!」
と、慌ただしく侍男が入ってきて、父様の前で膝をついて頭を下げた。
「どうした?」
普通じゃない侍男の様子を見た父様は、その侍男を見下ろしてそう言った。
「山が崩れました」
これはある程度予測していた。
だから周辺に住む住人を城内に避難させた。
「そうか」
父様も予測していたのか、驚かず普通にそう言った。
しかし、普通の状態が崩れたのは次の侍男の言葉だった。
「その崩れた山の中に、頼重様たちが巻き込まれました」
「なにっ!」
頼重様たちが巻き込まれた。
私にとってはたちという言葉の方が気になる。
その中に信春は入っているの?いないの?
侍男につめよってそう問い詰めたい。
「すぐに救助にむかえっ!」
「はっ!」
父様は侍男に大きな声でそう言った。
「桜、わしも行ってくる」
父様は私にそう言うと、足早に去っていった。
ちょっと待ってっ!私も連れて行ってっ!
そう叫びたかったが、現実に目の前にあるのは、炊けた米の山だった。
私がここを去ったらどうなる?
指示を出す人間がいなくなるから、侍女たちのまとまりが無くなり、避難してきた住民たちに心配をかけてしまう。
それだけは避けなければならない。
城に住む人間が住民に心配をさせるようなことはしてはならない。
私たちは住民を守るために城に住んでいる。
いざとなったら、命をかけてでも住民を守らなければならない。
それなのに、その住民さえも守れなくなってしまったら、おしまいだ。
私もすぐにでも城を飛び出していきたいが、今やるべきことは、目の前の米を使っておにぎりを握ることだ。
冷静になれ、私。
信春はきっと大丈夫。
そう思いながら、ひたすらにおにぎりを握る。
目の前の米の山がほとんどおにぎりとなった時にやらなければならないことは、みんなにおにぎりを配って歩くこと。
その時に、みんなを元気にさせるために一言声をかけなければならない。
心は外の崩れた山に行っているのに、実際の自分は城の中。
でも、この仕事も私以外にできる人はいない。
今、これを投げ出すわけにはいかないのだ。
やまない雨を見ながら、
「すぐにやむから、大丈夫ですよ」
と声をかけ、いつやむかわからない雨を見ながら、
「空が明るくなってきたから、きっともうすぐやみますよ」
と言っている自分。
本当にすぐにやむのか?空は明るくなっているのか?自分で言っていて、心の中では別なことを思っている自分。
でも、みんなを元気にするためには、こういう事も言わなくてはならないのだ。
本当は、私だっていつやむんだろう?本当にやむんだろうかと不安でたまらないのに。
おにぎりを配り終ると、とりあえずの仕事は終わった。
また夕方あたりから働かなくてはならない。
他の侍女たちには、今のうちに休んでおくようにと言った。
侍女たちは各々自分たちの部屋へ帰って行った。
みんなが疲れ切っていたので、誰も私に気を使う人はいなかった。
今のうち、今のうちに城を出て山崩れを起こした場所まで馬で飛ばしたらすぐ着けるだろう。
馬小屋に走って向かった。
しかし、馬を見て気がついた。
信春が帰ってくるまで馬に乗らないって約束したんだ。
ああ、私は何もできないのか?
崩れるように座り込んでしまった。
このまま信春が帰ってこなかったら、一生馬に乗れないってことだろう?
それより、信春が帰ってこなかったらって考えるのが怖い。
怖いと思うだけで、何もできない自分がもどかしい。
馬も出せないなんて。
助けにも行けないなんて。
しばらく、馬小屋の中で馬を見ながら座り込んでいた。
馬小屋の出入り口から、馬の声が聞こえた。
誰か帰ってきたのか?
この馬小屋を使えるのは、父様と兄様と私。
そして、馬を扱わせると右に出るものがいないと言うぐらいの馬の名手である信春だ。
もしかして、信春が帰ってきたのかも。
そう思いながら、急いで馬小屋から出た。
そこにいたのは、信春の馬だけだった。
馬の背には、蔵だけがついていた。
泥だらけの馬が一頭、雨の中馬小屋の前で立っていた。
「信春は?」
泥だらけの馬の顔に自分の顔をすり寄せながら聞いたけど、馬は同じ顔をして立っていた。
馬だけ返ってきたと言う事は、信春も巻き込まれてしまったのか?
それとも、無事を知らせるために馬だけ先に返したのか?
どっちにしろ、今やらなければならないことは、馬を馬小屋に入れて、怪我をしていないか色々見てやらないと。
それと、雨の中走ってきたのだから、世話もしてやらないと。
お腹もすかしているのかもしれない。
馬を馬小屋に入れ、信春がやっていたように、馬の体をふいた。
ふきながら、あふれてくる涙をぬぐった。
信春は?信春はどうしちゃったの?
泣きながらひたすらに馬を手入れした。
泣くのはここだけ。
ここを出たらもう泣けない。
私が泣いたら、他の人たちが不安になるから。
でも、今だけたくさん泣こう。
涙が枯れるまで泣いてしまおう。
帰ってきた信春の馬は、怪我一つなかった。
泥が綺麗に落ちたら、元通りの馬になった。
信春も大丈夫かもしれない。
きっと大丈夫だよね。
馬を見ながらそう思ったけど、馬は黒い目を私に向けただけだった。
もうすぐ夕方になる。
私もそろそろ戻らなければ。
涙をふいてから、信春の馬をなでた。
「行ってくるね」
馬は、ブルブルと言って黒い目を私に向けて送り出してくれた。
夕方になり、再び忙しくなってきた。
昼間、崩れた山へ向かっていた城の者たちも、夕方になると一人、また一人と帰ってきた。
だから、炊いた米の量も昼間より多かった。
おにぎりの数も多くなった。
「桜、ご苦労だったな」
父様が帰って来て声をかけてきた。
「どうでしたか?」
本当は、信春がいたかいないか聞きたかった。
でも、兄様もいるのに、他人である信春のことを聞くのは明らかにおかしいと思い、平静を装って聞いた。
「ひどいものだよ。住民を避難させておいて正解だったな」
信春は?信春はどうなの?
「頼重は無事だ」
いや、この際兄様はどうでもいい。
信春が無事か聞きたいのに、聞けないもどかしさ。
自分自身に腹が立ったり、落ち込んだりしている。
こうなったら、現場に行ってしまおう。
もうこれ以上は待てない。
今から馬を飛ばせば、暗くなる前には現場に着くだろう。
「ちょっと出かけてくるので、後を頼む」
忙しく働いていた百合に一言そう言った。
「姫様、どこへ行くのですか?」
百合の声が聞こえたけど、返事はしなかった。
返事をしている時間さえ惜しかった。
早く馬に乗って、現場へ行かなければ。
外に出たら、雨は止んでいた。
晴れ間も出ていて、夕方の赤い光の筋が下に向かってふりそそいでいた。
馬小屋へ行き、馬を外に出した。
「馬に乗るなって、約束したよな?」
馬を外に出した時に、ずうっと聞きたかったその声が聞こえてきた。
空耳かと思ったけど、それにしてははっきりと聞こえすぎていた。
もしかして、本当に、帰ってきたのか?
そう思いながら顔をあげると、私が今一番会いたいと思っていた人間がそこにいた。
「信春?」
本物なのか?最後の挨拶に来たとか、そういうことはないよね。
恐る恐る信春に近づき、信春のぬれて泥だらけになっている腕をさわった。
本物だ。
思わず飛びついてしまった。
「桜、汚れるぞ」
信春は上から下まで泥だらけだった。
「かまわない。心配していたんだぞ」
気がついたら、私の目から涙が出ていた。
会えなくて苦しい思いをした分、思いっきり泣いた。
そして、心配させた分、信春の胸をたたいていた。
「ごめん。崩れた山に埋もれた人たちをほっとけなかったんだ」
そう言った信春は、私の背中に腕をまわし、力強く私を抱きしめた。
「ごめん」
今度は私の耳元でそう言った。
その時には、私も信春の胸をたたくのをやめ、信春の泥だらけの着物の中で信春を感じていた。
信春が、帰ってきてくれた。
崩れた山で亡くなった人はいなかった。
兄様を先頭に歩いていた列が通り過ぎようとしていたところに、山が崩れてきたのだった。
数人が生き埋めになったので、急いで土砂を掘って助けた。
大雨の中の作業だったので、被害はたいしたことなかったが、助け出すのに時間がかかってしまったらしい。
付近の住民たちも、早くから避難していたので、亡くなった人がいなかったのは幸いだった。
しばらく城で避難生活を送っていたが、いつまでも世話になっているわけにいかないと思ったみたいで、雨が止んだら各々家に帰って行った。
家が無くなっていた者は、近所に世話になったり、親戚のところへ行ったりした。
そして、避難していた住民たちはやっと生活のめどが立ち、全員が各々の生活に帰って行き、やっといつも通りの城下に戻った。
私と信春の生活も、やっといつも通りになった。
いつも通り、私は馬を走らせ、信春はそれを追いかけてきた。
小高い丘から見える城下の町は、山が崩れた災害にあったとは思えないぐらい、平穏な街に戻っていた。
大雨の後季節が少し進んだのか、城下に見えた新緑の黄緑が、まぶしいぐらいの強い緑色に変わっていた。
季節は変わっていたが、私たちの関係は今まで通り変わらなかった。
きっと、これからもこのまま平和な日々が続くだろうと思っていた。