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春の流鏑馬(やぶさめ)

 馬に乗っていた。

 広い草原のようなところを馬に乗って走っていた。

 長い髪は、邪魔にならないように結い上げていた。

 着物は、乗馬用のものなのだろう。

 上は女物の着物だったけど、下はモンペのようなものをはいていた。

 季節は春なのだろう。

 風がちょっと冷たいけど、その冷たさがちょうどいい。

 丘の上のようなところに着いた。

 馬を下りて下に広がっている景色を見た。

 城下町が広がっていた。

 城下に広がる街の真ん中を、蛇行している川が通っている。

 その周りに薄桃色の桜の木があるのが見える。

 家々の間や、黄緑色に見える木や草の間にも薄桃色が見える。

 土色になっている畑も見える。

 空は霞みかかった水色をしている。

 春の空だ。

 そして、自分が立っている向こう側には、私が桜の間から見たあの城が、薄桃色の桜に囲まれて建っていた。

 ああ、ここで見たのか。

 私はあの城に住んでいる。

 そして、今日はあの城から馬に乗り、城下で一番高い丘の上に来たのだ。

 大勢の侍者を振り切り、一人でここに来たのだ。

 一人でここから見る春の景色が好きだ。

 馬から降りて、馬を木につないだ。

 馬は美味しそうに草を食べていた。

 馬で走ってきた体には、ちょっと冷たい春の風が気持ちよかった。

「桜、ここにいたか」

 侍者を全部まいたつもりでいたが、やっぱり今回も一人だけ私の後からやってきた。

 こいつだけはいつもまけないで、必ず私の後をついてくる。

 私がどんなに馬を早く飛ばしても、必ず後から来る。

信春のぶはる、なんであんただけいつも来るの?」

 信春は、長身な体で馬から降りて、私の馬の横に馬をつないだ。

 昔は、私より小さかったのに、いつの間に私よりはるかに身長が大きくなっている。

 生意気で、悔しいし、なんか腹が立つ。

「桜に馬を教えたのは俺だ。俺がお前にまかれるわけないだろう」

 信春は私の横に立った。

「風が気持ちいいな」

 春の風が、私と信春にふいた。

 信春のほつれた髪の毛が風に揺れていた。

 その姿が色っぽかった。

 男に色っぽいって言葉はどうなんだろうと思うけど、信春は色白で男とは思えないぐらい綺麗な顔をしているから、たまに色っぽく見えてしまうのだ。

「いつもあんただけ来て、腹が立つ」

「腹が立つなら、もうちょっと馬に乗る腕をあげろ」

 綺麗な顔をしているのだけど、言ってくる言葉は遠慮がない。

 私は、一応一国の主の姫なんだけど。

 あんたは私の乳兄弟で、侍者の一人なんだからね。

 私の母は、私を生んですぐに亡くなった。

 だから、私は乳母に育てられた。

 乳母の実子である信春と一緒に。

 小さいときから一緒だった。

 何をするのも一緒にやった。

 だから、信春だけは姫である私と普通に話していた。

「あんたねぇ、言う事が生意気なのよ。せっかく一人になれたと思ったのに」

「お前が一人になって何かあったら、誰が責任を取ると思ってんだ? お前がまいて来た侍者たちだぞ。一応一国の姫だからな。切腹だろうなぁ。わがままな姫に振り回されてさ」

 一応って何だ。一応じゃなく、正真正銘、一国の姫だ。

 わがまま姫って、大きなお世話だ。

「だからあんたが追っかけてきたってわけ?」

「そう、わがまま姫のお守りも大変だ」

 お守りって、私あんたと同じ年なんだけど。

「もう気が済んだだろう。そろそろ城に戻るぞ。今頃侍者たちが大騒ぎしていると思うぞ。お館様の耳に入るのも時間の問題かな」

 と、父様の耳に入ったら、大変だ。

 しばらく城から出してもらえなくなる。

「それは困る」

「それなら、帰るぞ」

 二人で馬がつないであるところまで戻った。

 二匹の馬は、仲良く草を食べていた。

「あんたたちの邪魔をして悪いけど、城に帰らないといけないから」

 馬にそう言いながらつないでいた縄をほどき、馬に乗った。

「馬にそうやって言い聞かせるんだ?」

 信春はちょっと笑いながら言った。

「馬だって人間の言葉がわかるのよ、きっと。だからちゃんと説明してあげないと、馬だってわからないから言う事きかなくなるでしょ」

「桜のそう言う考え方、いいと思うよ」

 そう言って、信春は自分の長身を馬の上にのせた。

「さ、行くぞ」

 先に走る信春の後をついて馬を走らせた。

 腹が立つ奴だけど、でも、いないと困る奴でもある。

 私と小さいときから一緒にいるから、私も信春のことはよくわかっているけど、信春は私以上に私のことをよくわかっているし、周りのこともよく見えている。

 だから、信春の言うことに間違いはない。


 信春の言う事を聞いて正解だった。

 城に帰ってきたら、あわただしく侍者たちが走り回っていた。

 もしかして、私が一人で馬を飛ばして行ってしまったことがこんなに大ごとになっていたのか?

「今日は、流鏑馬やぶさめだよ」

 信春がそう言った。

「俺も準備があるから、これで失礼するよ」

「流鏑馬に信春も出るの?」

「出るから、準備があるのだろう」

 そう言って信春は行った。

 私も私なりの準備が必要だったので、急いで城の中に入り、自分の部屋に帰ってきた。

 私も流鏑馬をやってみたくて、信春と兄様と一緒にやろうとしたことがあった。

 しかし、馬が走っていて不安定になっているときに手綱から両手を離して乗る。

 弓を射るために離すのだ。

 その間は、足で体を支える。

 それがまずできなかった。

 そして弓を射る。

 これも、弦を力いっぱい引っ張らなくてはならず、足で安定を保ちながら弓の弦を引っ張って的を射るなんて、とてもじゃないけど出来なかった。

 信春と兄様は軽々とそれをやってのける。

 私には無理だ。

 ここは、一国の姫として観覧するという役目をまっとうすることにした。

 観覧するからには、正装をしなければならない。

 部屋に帰ったら、侍女たちと、打掛が待っていた。

 侍女たちにされるがまま、打掛を着て、化粧もした。

 打掛の裾を引きずり、流鏑馬が行われる庭が見える場所に移動した。

 私に用意されていた席は、父様の横。

 それは特等席の隣で、2番目にいい席になる。

 これが、この城の中の序列を示している。

 この席は本当は兄様の席だけど、今回は流鏑馬に出場するので、今回は私が座った。

「桜、お前の兄がどれだけ的を射るか楽しみだな」

 父様が私に言ってきた。

 父様にとって流鏑馬は、自分の後を継ぐ兄様の実力を見、その実力を下々の者に見せる格好の場所になるだろう。

 本当に何が起こるか楽しみにしているという顔をしていた。

 合図とともに、馬が庭の端から勢いよく走ってきた。

 私たちが座っている前に3つほど的が用意されていた。

 弓を射る人は、私たちが見ている前で馬の上から矢を射ることになる。

 矢を射るだけならいいが、的に当たったか当たらなかったか、そこまでよく見えるのだ。

 馬に乗っている男が緊張している様子がわかった。

 私たちの前を馬で走り去りながら弓を射る。

 それは一瞬のことだ。

 走り去った後、的に刺さった矢だけが残された。

 的に当たればまだいい方で、全く当たらない人も大勢いる。

 いや、当たらない人の方が多い、

 その様子を父様と一緒に見ていた。

 何人もの男たちが私の目の前を馬で走り去っていき、矢を射た。

 みんなが同じ動きをするので、後半になってくるといい加減あきてくる。

 まだ終わらないのか?

 そんなことすら思ってしまう。

 兄様が一番最後に流鏑馬をするので、早く兄様が出て終わらせてくれるといいと思ってしまう。

 そう言えば、信春も出ると言っていたけど、ここまで見ていて全然姿が見えなかった。

 あいつ、出るとか言っていて、本当は出ないんじゃないのか?

 出たかったけど、出ることが出来なかったから、悔し紛れに嘘を言ったのだろう。

 今頃流鏑馬で使った馬の世話に追われているのだろう。

 これが終わったら、慰めの言葉でもかけてやるか。

 いよいよ最後の一人になった。

 その一人が出てきたとき、場内にどよめきが広がった。

 馬に手を離して乗り、両手で弓をもっている姿からして今まで私の前を走り抜けていった男たちと違ったのだ。

 ぴんと背筋を張り、弓の弦を張っている姿からして綺麗だったのだ。

 顔も綺麗だったせいもあるけど、まっすぐと目標を見ているその顔は、綺麗さの中にりりしさもあわせもっていた。

 これは、信春じゃないか。

 さっきまで私に見せていた男なのに綺麗な色っぽさは、綺麗でりりしく男らしい顔に変っていた。

 それだけでも、なぜか胸の鼓動がおさまらなくなっていた。

 信春の乗った馬が走り出した。

 その速度は、今まで出てきた男たちの中で一番早かった。

 あっという間に私たちの前を走り抜け、それと同時に、パンパンパンと、矢が的に当たる音を響かせて走り去っていった。

 信春が去った後に残ったものは、3つの的の中央に刺さった矢だった。

「見事だな。あれは誰だ?」

 父様が、自分の側近に聞いた。

「私の乳兄弟の信春です」

 そう言うだけでも、胸の鼓動がおさまらなかった。

 特に名前を言うとき、胸がきゅっと縮むような感じがした。

 これはいったい何なんだ?

「信春か。いい男になったな」

 父様は満足気に言った。

 自分の近くにいた男が、あんなにいい男になっていたとは、私も知らなかった。

 その後、兄様が出てきた。

 兄様も3つの的の中央に矢を命中させた。

 それを見て父様もご機嫌だった。

 跡継ぎの面目を保てたことになったから、安心すると同時に、どうだっ!と、周りの家臣たちに自慢したい気持ちもあったのだろう。

 それでも、私は信春の姿が頭から離れなかった。

 信春が矢をかまえる姿、馬を走らせる姿、矢を射って去っていく姿。

 その姿を思い浮かべる度に鼓動がおさまらなかったのだった。

 それから間もなく、流鏑馬に参加した男たちが庭に集められた。

 その中に信春もいた。

 私の視線は信春にくぎつけになっていた。

 今の信春の顔はいつもの顔だった。

「今回の鏑流馬もなかなか良かった。特に信春。お前はずば抜けてよかったぞ。後で褒美を出す」

 父様の総評があり、その中で信春は褒められた。

 私たちの前に出て、

「ありがたき幸せでござります」

 と言って頭を下げた。

 その動作さえ美しいと思ってしまった。

「今後は、頼重よりしげを支え、家臣として使えるがよい」

 頼重とは、兄様のことだ。

 兄様は次期頭首と決まっているので、今後も我が藩に仕えよと言う事なのだろう。

「ははっ!」

 信春はそう言って頭を下げたのだった。


 部屋に戻って打掛を脱いだ後も、信春の姿が思い浮かんでは胸の鼓動が鳴りやまなかった。

 なんだろう、この気持ちは。

 こんなこと今まで一度もなかった。

 きっと、今までと違う姿を見せられたから、いつまでも信春の姿が頭から離れないのかもしれない。

 今頃、馬の手入れをしているだろうから、私からも今日の鏑流馬の成功をねぎらってやろう。

 馬の手入れをしている、いつも通りの信春を見たら、この胸の鼓動もおさまるだろう。

 私は馬小屋に向かった。

 侍女たちが数人ついて来ようとしたけど、個人的な用事であることと、場内にいるからついてこなくていいと断った。

 馬小屋に行ったら、やっぱり信春の姿があった。

「のぶは……」

 名前を呼んで近づこうとしたけど、足は自然ととまった。

 信春は一人じゃなかった。

 この城のどこかに仕えている侍女なのか、その女といた。

 とっさに馬小屋の出入り口に姿を隠した。

 別に隠れなくてもいいのでは?と思ったが、気がついたら隠れていた。

 自分がやましいことをしているような感じになってきたから、黙ってこの場を去ろうとした。

「すまないが、これは受け取ることはできない」

 信春の声が聞こえ、思わず立ち止まってしまった。

 結局、出入り口で姿を隠したまま話を聞くことになってしまった。

 去りたいのだけど、ここでおこっていることが気になってしまうのだ。

「誰か、心に決めたお方でもいらっしゃるのですか?」

 侍女の声がした。

 これは、恋の告白と言うやつか?相手はどこの侍女だ?

 信春が誰から告白されようと関係ないはずなのに、気になって仕方なかった。

 ここからだと、侍女の顔が信春の背中に隠れていて見えない。

 もうちょっと信春が背中をずらしてくれたら見えるのに。

 そう思って身を乗り出すと、手が出入り口の扉にあたり、カタンと言う音がした。

 両手を出入り口の扉から離したけど、時すでに遅し。

 二人が出入り口を見ている。

 正確に言うと、出入り口に隠れている人間の姿を見ようとしている。

「誰だっ!」

 信春の声が聞こえると同時に、こちらに近づいてくる気配もする。

 逃げるか?しかし逃げ場所がない。

 走って城に戻ったら、馬小屋にいる二人から姿が丸見えになってしまう。

 少しでも見つからないようにと思ったせいか、自然と丸まって縮こまってしゃがみこんだ。

 それと同時に馬小屋から信春が顔を出した。

 信春と目があってしまった。

 信春は驚いたのか目を見開いていたが、次の瞬間、馬小屋のかげに私を押し込むようにして入れた。

 そうか、かげに隠れればよかったのだ。

 私はそこまでの機転が回らなかった。

 私を馬小屋のかげに押し込むと、何事もなかったかのように馬小屋へ戻って行った。

「猫が入り込んでいたらしい」

 信春は侍女にそう説明した。

 まさか、この城の姫が盗み聞きしているなんて言えないだろう。

「もうこういうことはしないでもらいたい」

 馬小屋の陰で姿は見えないけど、声は聞こえた。

「心に決めた方がいらっしゃるのですね」

 しばらくの沈黙が流れた。

「わかりました」

 侍女はそう言い残して去っていく気配がした。

 信春は、心に決めた人がいるのか?いつの間にそう言う人が出来たんだ?

 それは誰なんだろう。

 知りたいという気持ちが大きくなっていった。

 そんなことを知ってどうするのだろうとも思う。

 信春の好きな人を知って、自分は何をするつもりなんだろう。

 別に知らなくてもいいことじゃないか。

 そう思うけど、心の底の方から知りたいという気持ちがあふれ出ている状態だった。

 なんでそうなるのか、自分でもわからない。

 今日は、どうして自分でもわからなくなるようなことが多いのだろう。

「桜、待たせたな」

 馬小屋から信春が姿を現した。

 時間はすでに夕方に差し掛かっていて、赤い夕陽の光が信春の顔を綺麗に照らしていた。

 それがあまりに綺麗だったので、声が出なかった。

「ほら、出て来いよ」

 信春が私の手を引っ張って、馬小屋のかげから引っ張り出した。 

 信春に手を握られただけなのに、胸の鼓動が再び激しくなった。

 今までも何回もこういうことはあったのに、今回はなんで胸の鼓動が激しくなっているのだろうか?

「姫が盗み聞きなんて、前代未聞だぞ」

 信春は私を見下ろして言った。

 背が高いから、見下ろすような感じになるのだ。

 いつもなら顔をあげてにらみかえし、

「盗み聞きなんてしていない」

 というのだが、この日は顔をあげることが出来なかった。

 信春の顔をまともに見ることが出来なかったのだ。

「どうした? 何かあったのか?」

 信春は、私のあごに手をやり、無理やり顔を上にあげさせた。

 信春の顔をまともに見たが、さっと目をそらした。

 今日の私はなんかおかしい。

「今の話を聞いていたのか? 盗み聞きしていたのだから、聞いていたのだろう?」

 目をそらした私を見て、信春は言った。

「盗み聞きなんてしていないわよ」

 やっとその一言が出た。

「あんたが、流鏑馬で大活躍だったから、ねぎらいの言葉をかけてやろうと思ってここに来ただけよ」

 いつもの私に戻ってきた。

 少しほっとした。

「じゃあ、ねぎらいの言葉をかけてよ」

 信春は悪いことをたくらんでいるような笑顔をして言った。

 その顔がまた色っぽかった。

 さっきの鏑流馬の時の顔とえらい違いだ。

 これなら一言言える。

 そう思って口に出そうとしたけど、私を見下ろすの信春の目が合い、再び胸がドキンと鳴ったのだった。

 私の心臓、ちょっとは落ち着け。

 なにがあったのだ?

「早く」

 信春にせかされた。

 何か言わなければ。

「今日のあんた、かっこよかったよ」

 やっと一言言えた。

 しかも、顔を見ないで何とか言えた感じだ。

「それだけ?」

 信春は私に近づいてきた。

 私は信春から距離を取るために、近づいた分後ろに下がった。

 馬小屋にだって壁がある。

 いつまでも後ろに下がっているわけにはいかない。

 いつかは壁にぶつかる。

 信春は遠慮なく近づいてくる。

 私は下がる。

 それを繰り返していたら、背中が壁にぶつかった。

 信春の手が、私の顔の横に伸びてきた。

 もう逃げることはできなかった。

「俺の顔を見ないけど、どうしたの?」

 信春の顔が近づいてくる。

 私はどうすればいいんだ?

 声を出そうとするけど、声が出なくて口だけぱくぱくと動いている。

「どうして、俺の顔が見れない?」

 それは私も知りたい。

 さっきまでちゃんと見れたのに、流鏑馬の後になったら急に見れなくなったのだ。

「俺がそんなに気になるか?」

 いや、そうじゃない、それは違う。

 そう思って顔をあげた。

 信春の顔が目の前にあり、驚いた。

 そしてまたうつむいた。

 あんな目の前に顔があったら、気になって顔をあげることが出来ないだろう。

 やっぱり、信春が気になっているのか?

 再び私が顔をあげると、夕日に照らされた信春の綺麗な顔がそこにあった。

 あまりの綺麗さで、今度は見入ってしまった。

「あんたの顔、すごく綺麗に見える」

 やっと普通に声が出た。

 ちゃんと信春の顔も見れた。

「男に綺麗って、ほめ言葉なの?」

 信春は少し笑っていた。

「一応ほめているのよ」

 私がそう言ったら、やっと信春は私から離れた。

 いつもの信春に戻っていた。

 私も、いつもの私に戻っていた。

 さっきの胸の鼓動もおさまっていた。

「ところであんた、心に決めた人がいるの?」

 それがすごく知りたくて、胸の鼓動もおさまったことだしと思って聞いてみた。

 信春は、馬の手入れをしていたけど、その動きが止まって私を見た。

「やっぱり盗み聞きしていたんじゃないか」

「盗み聞きじゃないわよ。聞こえちゃったのよ。侍女に何かを返していたみたいだし」

「盗み聞きだけでなく、こっそり人の行動も見ていたのか」

 違う、たまたま見てしまっただけだ。

「侍女に恋文をもらったから、返しただけだ」

 信春は再び馬の手入れに戻った。

「心に決めた人はいるの?」

「それは、内緒だ」

 信春は、楽しそうに笑顔で言った。

 そう言われると気になってしまうじゃないか。

「気になるか?」

 私の様子をうかがうように信春は聞いてきた。

「気にならないわよ。あんたの心に誰がいるかなんて、あんたの勝手でしょ」

 心にもないことを言ってしまった。

 本当はすごく気になっているのに。

 どうしてこんなにも気になってしまうのだろう。

 信春の心の中に誰がいたって、自分とは無関係じゃないか。

「そろそろ戻った方がいいんじゃないか?」

 馬の手入れを終えた信春がそう言ってきた。

「侍女たちを部屋で待たせているのだろ? そろそろ帰らないと、姫様が帰ってこないって探し回っているぞ」

 信春の言う通りだった。

 そろそろ帰らないと、侍女たちが大騒ぎになってしまう。

「じゃあ、帰るわ」

 信春に背中を向け、城に向かって歩いた。

 自分の部屋に帰る途中も、帰ってからも、信春の心の中にいる人間のことが気になってしまった。

 それは誰なんだ?

 私の知っている人間か、知らない人間か?

 知らない人間ならいいが、知っている人間ならなんかいやだなぁ。

 なんでそんなことを思ってしまうのだ?

 信春が誰を好きになろうと、私には関係ないじゃないか。

 でも……と、考えが最初に戻ってしまう。

 これはいったい何なんだろう。

 今までこんなことは全然なかったのに。

 目を閉じれば浮かぶのは、流鏑馬の時の信春の姿だった。


 はあ。

 あの日以来、出るのはため息だった。

 信春の姿が頭の中から出てきてはため息をつくのだった。

 いったいこれは何なんだ?

 脇息を自分の体の前に持ってきて、そこに前かがみでもたれかかってははあっとため息をつき、横に置いてははあっとため息をついている。

 信春の事なんか関係ないじゃないか。

 頭の隅に何とか追いやっても、その姿はまたすぐに出てくる。

 いったい、あんたは何なんだ。

「姫様、さっきからため息ばかりついていますが、何かあったのですか?」

 侍女の一人である百合に言われた。

 百合は私と一番年齢が近い侍女だ。

 私が生まれた時に遊び相手になるようにと、父様が私より二つほど上の百合を付けた。

 百合は、小さいときは遊び相手として、そして大きくなっていくと、本来の仕事である侍女として私に仕えてくれている。

 今では、私のことを一番よく分かってくれる、いないと困る人物になっている。

「そんなにため息をついていた?」

 百合に聞くと、

「そりゃもう、脇息を転がしてはため息をついておりましたよ」

 と言われてしまった。

 そんなにため息をついていたか?

 信春の事ばかり頭に浮かんでいたので、全然気が付かなかった。

「何かあったのですか?」

「聞いてくれるの?」

「そんなにため息ばかりついていると、他の侍女たちも心配していますので」

 百合に気が付き、私は周りを見た。

 私の顔をちらっと見ながら侍女たちは自分たちの仕事をしていた。

 私とした事が、他の侍女のことを全然考えてなかったとは。

 小さいときから侍女たちは私のそばにいるので、自然と侍女たちのことを考えて行動することが身についているから、侍女たちが私を心配してと言う事はない。

 それが今はどうだ?たった一人の男のために、こんなことになってしまっている。

 そもそも、なんで信春が頭から離れないんだ?この原因がわかれば、すっきりするのだ。

「人払いをしますか?」

 百合に聞かれた。

 人払い、した方がいいのか?それすらわからない。

 どうすればいい?そう言う顔をしていたのだろう。

 百合は素早く人払いを言いつけた。

 部屋にいた侍女たちはささっと波が引くように去って行った。

 人払いが済むと、部屋の障子と襖を全部閉めた。

 もちろん、閉める前に人がいないかも確認していた。

「人払いが終わりました」

 人払いをするような話なのか?この話は?

 みんながあわただしく去っていくのを見てそう思ってしまった。

「さ、遠慮なくお話しくださいませ」

 百合は、私の前に着物を正して座った。

 遠慮なく話せと言われても、どうやって話していいのかわからない。

 でも、人払いまでさせてしまったのだから、話さないわけにはいかないだろう。

「信春の姿が頭から離れないのだ」

 一言そう言った。

 信春の名前を出すだけでも、鼓動が激しくなって顔も熱くなる。

「信春様ですか? そう言えば、この前の鏑流馬の時なんかお見事でしたよね。素敵な男性に成長されて、私も驚きました。一緒に見ていた侍女たちもうっとりしてみていましたよ」

 侍女たちもうっとりていたって、どういうことだ?

 普段なら、あらそう。ですむ話なのに、信春がからんでいると普通じゃいられなくなる。

「その侍女たちは、いったい何なのだ?」

 それを聞いてどうするつもりなのだ?自分でそう思ってしまう。

 明らかに、今の自分は普通じゃない。

「どうするって、どうするのでございましょうねぇ。恋文でも出すのかしら? 私にもわかりません」

 普通じゃない私に対し、いつも通りに接する百合。

 恋文という言葉を聞いて、馬小屋での出来事が頭の中によぎった。

 あの侍女も恋文を出していた。

 そして返されていた。

 心に決めた人がいるからと。

 それはいったい誰なんだ?

 なんでこんなにも、信春のことが気になるのだ?

「恐れながら申し上げます」

 百合がかしこまって言ってきた。

「何?」

 いきなりかしこまってきたから、驚いた。

「姫様は恋をされているのだと思います」

 私が、恋をか?

「相手は信春様ですね」

 その名前を聞いただけでも、鼓動が高鳴り、顔が熱くなる。

 その様子を見て、百合は間違いないと思ったらしい。

「でも、相手は信春だぞ。私が信春に恋をすることなんてないだろう」

 私が、信春を好きになるなんてありえない。

「姫様、人を好きになるのに理由なんていらないのですよ。あんな奴と思っていた奴に限って、ある日突然見え方が変わるのですよ」

「見え方が変わる?」

「はい。姫様の場合は、信春様だけ輝いて見えるのだと思うのですが」

 それは、まだわからなかった。

 あれ以来、信春とは会っていない。

 私は首を振った。

「しかし、姫様の症状は、恋をしている人間の症状ですよ。一人の人間がずうっと頭の中に浮かんでいませんか?」

 浮かんでいる。

「名前を聞いただけでも、鼓動が高まりませんか?」

 高まる。

「それはもう恋ですよ。姫様は信春様に恋をしているのですよ」

 それを信じることが出来ないのだ。

「それなら、姫様の気持ちを確かめる方法が一つだけございます」

 私の気持ちを確かめる方法?

「信春様にお会いすればいいのですよ。見るだけでも構いませんが、お会いした方がいいと思います。それで、鼓動が高まったり嬉しくなったりしたら、それはもう恋でございます」

 そうか、確かめるだけでもいいかもしれない。

「姫様が馬を飛ばせば、信春様はすぐに出ていらっしゃいますよ」

 百合はにっこりと笑って言った。

 それならば、ちょっと馬でも出してみようか。

 私は馬小屋に向かった。


 馬小屋の侍者たちに声をかけ、いつも通りに馬を出した。

 最初は侍者たちがついてきていたが、しばらくするといなくなった。

 私の馬の速さについて行けないらしい。

 いつも通り、丘の上へと馬を走らせる。

 丘について、いつも通り馬をつないだ。

 いつもと違うのは、城下の景色を見るのではなく、自分が馬で登ってきた方を見ていた。

 そろそろ来るはずだ。

「桜っ!」

 声が聞こえた。

 声が聞こえただけで、胸の鼓動がした。

 そのうちに下の方から馬でこちらに登ってくる信春の姿が、木々の間から見えたり見えなかったりしていた。

 木々の間から見えるたびにドキッとしたりした。

 そして、近づいてくるたびに嬉しくなってきた。

 馬に乗った信春が近づき、姿全部が見えた。

 やっと来た。

 来てくれた。

 嬉しかった。

 自然と笑顔になっていたと思う。

「桜っ! また侍者をまいただろう」

 姿が近づくとともに、声も近くなってくる。

 ああ、やっぱり、私、この人が好きだ。

 そう思ったら、心が落ち着いた。

 私の思いの場所に、この気持ちがすとんと落ち着いたような感じだ。

 信春が、好きだ。

「なに笑ってんだ?」

 信春が私の近くにつき、馬を私の馬の隣につないだ。

 馬が隣ってだけでも、嬉しいさと鼓動が激しくなる。

「やっぱり信春が来たと思っていただけ」

 やっぱり来てくれたという嬉しさで顔がにやけてしまう。

 それと、自分の気持ちがわかった嬉しさ。

「お前が俺をまこうなんてまだまだ早いからな」

 馬をつないだ信春が私の近くに来た。

「いい景色だな」

 信春と一緒に、城下の町を見た。

 桜が散り始めているらしく、ところどころで雪のように白いものが下の方で舞っているのが見える。

 桜って、どうしてこんなにためらいもなく散るのだろう。

「桜、どうした?」

 気が付くと、信春が私の顔をのぞき込んでいた。

「桜が散っている」

 のぞきこまれて顔が熱くなってしまった。

 一言いうのがやっとだった。

「桜は、散るから美しいんだ」

 信春が、城下で散り始めている桜を見ながら言った。

 その言葉は、ここで聞いたのだな。

「桜は散るから美しいが、お前は散るなよ」

 桜と同じ名前の私に向かって、少し笑って信春が言った。

 笑い顔がまぶしくて、思わずうなずいた。

 普段なら文句の一言でも言っていたのだろうけど。

「今日の桜はやけに素直だな」

 信春のせいだ。

 信春がまぶしく微笑むから、素直になってしまうのだ。

「そろそろ行くか?」

 そう言って馬の方へ歩き出そうとしていた信春の袖をつかんで止めていた。

「もう少し、もう少し一緒にいてほしい」

 まだ信春と別れたくない。

 もう少し、一緒にいたかった。

 こんな思いは初めてだった。

「今日の桜はなんか違うな」

「いつも通りだ。違うのは、信春だ」

「俺? 俺こそいつも通りだ」

 私から見たら、いつも通りに見えない。

 今までの信春は、こんな輝いて見えなかったもん。

「わかった、もう少しここにいよう」

 信春は私の横に戻ってきた。

 信春の横にいるってだけで、嬉しかった。

 今まであきるほど一緒にいたのに、今日は今までと違う思いを抱いている自分がなんかおかしい。

 おかしいけど、仕方ない。

 だって好きなんだから。

 と、それで納得してしまう。

 その一言で片付いてしまう。

 人を好きになるって、恋をするって、すごいなぁと思ってしまった。


 たまに横にいる信春をちらっと見る。

 その姿を見て、信春に会えてよかったと思った。

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