体育館
「保健室」の少し前の話です。
昼休み。いつものように気の合った連中と、体育館でバスケをしていた。ギャラリーには女子生徒たちで構成された人の塊がいくつか見受けられ、ただの遊びだというのに黄色い歓声が沸いている。
彼女たちの目当ては、夏で引退した三年に代わり、秋から男子バスケ部のキャプテンになった佐久間伸。俺が同じく副キャプテンになる以前からの、俺の連れだった。
今は部活じゃないからディフェンスやオフェンスといったポジション分けをしているわけでもなく、伸も俺も他の連中も好き勝手に動き回っている。そんな中でも身長が一八七センチもある伸は、特に目立っていた。
伸がシュートを決めるたびに沸き起こる黄色い歓声に、俺をはじめ他の奴らも気勢が削がれてしまう。伸が悪いわけではないし、見るのをやめろとも言えないから始末が悪い。
「佐久間はいいよなあ、引く手数多でさあ」
仲間の一人がぼやく声に、伸は僅かに口元を歪めた。
「好きでもない相手に騒がれたって、嬉しくもなんともないさ」
呟くような伸の言葉は左隣にいた俺の耳にしか届いていなかったらしく、他の奴らからの反応は全くなかった。
伸がどこか一点を見ていることに気付き視線の先を追ってみると、二年生の女子五人が群れていた。伸の視線に気付いて色めき立つその中の一人に、俺の目が釘付けになる。
他の女子があからさまに喜ぶのを苦笑を浮かべて眺めている彼女は、伸を見てはいない。にもかかわらず、伸の視線は確実に彼女に向けられていた。
川田久美。それが彼女の名前だ。少しおっちょこちょいでドジで明るい、けれど控えめなどこにでもいるタイプの女の子。一年のとき俺と同じクラスだった。そして、今現在の伸の片想いの相手でもある。
そうこうしているうちに昼休みの終了を告げる予鈴が鳴り、女子生徒たちが散っていく。俺たちもボールをステージ脇の倉庫に返し、半ば駆け足で体育館を後にした。
六時間目の体育は、いつも体育館だった。しかも今日は雨が降っているからと、珍しく女子もいる。体育は通常二クラス合同で行われ、男女は別々になる。この時間の女子は大抵外で、雨が降っても卓球場だとか柔道場なんかを使い、一緒になることは珍しかった。
そんなわけで、今は隣のクラスに分かれた川田も女子の群れの中にいるのを確認する。いつもなら鬱陶しいはずの雨も、今日ばかりは感謝したい気持ちになった。
が、それは俺に限ったことではなく、両クラスの男子生徒の多くが感じていることだった。たとえジャージ姿で生足を拝めないのだとしても、そこに女子がいるだけで、むさくるしいだけの体育館が一気に華やぐのだから。
ストレッチとランニングが終わり、男子はバスケット女子はバレーボールをすることになった。バスケは経験のない奴でもそれなりに走り回っていればかっこがつくが、バレーボールはそうもいかないらしい。
下手打ちで繰り出された川田のサーブは相手コートに届かず、ネットに引っかかって自コートに落ちた。自滅点が相手チームに入ってしまい、慌てて手を合わせてチームメイトに謝る姿が微笑ましくて、つい口元が緩んでしまう。
そして俺のだらしなく緩んだ口元と視線の向かう先に気付いた体育教官の高宮に、いきなり後頭部を叩かれた。
「こら、橋本! 女子に見惚れていないでさっさとコートに入れ!」
高宮は男子バスケ部の顧問でもあるため、結構無遠慮に俺のことを叩いたり蹴ったりする。もちろん体罰なんてほどのものではなく、ほんのじゃれあい程度ではあるのだが。
しかしその高宮の大声に、男子だけではなく女子からも笑いが起こった。伸ほどではないがそこそこ人気者の自覚がある俺のこと、注目を浴びるのは仕方がない。とは言え、やはりそれなりに恥ずかしいと思う程度の感性はある。なんとなくいたたまれない。
「透流ー。誰に見惚れてたんだー?」
居心地の悪い視線を浴びながらコートに入ると、同じバスケ部の盛永が肘でつついてきた。悪い奴じゃないんだが、こいつも伸と同じく川田狙いだと知っているだけに、気付かれたくはない。
「へっへーん。当ててやろうか?」
黙秘権を行使している俺に盛永が耳打ちしてきた名前に、体が強張った。
「お前、バレバレだって。自覚ないのかよ?」
愉快そうな盛永に、不機嫌まっしぐらの俺。バレている? 誰に? まさか伸にも?
「俺も川田見てたから、お前の視線に気付いたんだけどな」
ゲーム開始のホイッスルの音が、どこか遠くから聞こえてくるような奇妙な感覚に包まれ、すぐには動けないでいた。盛永の他には何人の奴が俺の気持ちに気付いている?
「ま、お互いフェアでいこうぜ、フェアで」
盛永に肩を叩かれようやく我に返った時には、すでに四ポイント先取されていて、高宮の雷が落ちてきた。
放課後のバスケ部の練習でも、俺はボロボロだった。伸の顔をまともに見ることができず、紅白戦ではあっさりとフェイントを決められてしまった。
川田に対する伸の気持ちを、伸自身の口から聞いたことはない。ただ、一番近くにいる機会が多かったから、あいつの視線に気付いただけだった。多分、俺も川田を見ていたから気付いたんだろうとは思うけれど。
そのとき、妙に頭が冴えた気がした。そうか。盛永が言っていたのはこのことだったのかと。盛永は川田のことを好意を持った目で追っていた。だから俺が同じ目で川田を見ていることに気付いたんだと言っていた。俺が伸の気持ちに気付いたのも同じ理由だ。
「フェアでいこう」
盛永はそう言っていた。その言葉の意味も、突然理解できた。
「そうか。そうだよな」
更衣室でシャツを首にかけたまま考えに耽っていた俺に、周りにいた奴らが驚いたように飛びのいた。俺は妖怪か何かか。
「透流。大丈夫か、お前?」
どことなく心配そうに見下ろしてくる伸に、俺はにやりと笑いを返す。
「フェアでいこうな、伸」
伸は一瞬何のことだか分からないといった風に首を傾げたが、間もなく何か心当たりがあったのだろう。
「お互い、遠慮はなしってことでいいんだな」
俺と同じようににやりと笑って頷いた。やっぱり気付かれていたらしいと分かって気まずさを感じないわけではなかったが、伸が笑っているのだから気にしないことにした。
「てことで、抜け駆けー!」
それまでの緩慢な動作とは比べ物にならないくらいのスピードで着替え終わった俺は、鞄とボストンバッグを手に取ると一目散に更衣室を後にする。後ろから盛永が何かを叫んでいたのと伸が驚いたように目を見開いていたのに気付いたけれど、どちらも無視した。
毎週この曜日、川田は図書室にいるはずだった。翌日の英語の小テストのための勉強を、友達の中村鏡子と早坂恵那との三人でしていたはずだ。
図書室の閉館時間まであと七分。俺は四階への階段を一気に駆け上り、センター校舎から西校舎に走った。
帰り支度をしている三人の姿をガラス越しに確認してから、深呼吸して乱れた息を整える。引き戸にかけた手に力を入れると、からからと軽い音が、静かな室内に響いた。
図書室には司書の先生と川田たちの四人だけしか残っていない。どうやら図書委員の当番は、早坂だったようだ。四人は漏れなく驚いた顔つきで俺を見ていた。人が少なくてよかった、としみじみ感じた。
向けられる視線をものともせずに、俺は川田に歩み寄る。
「川田!」
「はっ、はいいっ!?」
思わず大声で名前を呼ぶと、川田が飛び上がらんばかりの勢いで答えた。実際、肩が跳ね上がっていたと思う。
「ちょっとつきあってくれる?」
「はい? って、今から?」
「そ。今から。中村、早坂。川田、借りて行くな」
「どーぞ、どーぞ。なんならそのまま、お持ち帰りでもいいわよー」
目を白黒させている川田に対して、中村が陽気に手を振っている。その隣では、まだ机の上に残っていた川田の筆記用具を手早く纏めて鞄に放り込む早坂の姿があった。物分りのいい奴らで助かった。
早坂に差し出された川田の鞄に手を伸ばして受け取ると、俺は一足先に図書室を出た。
「じゃあね。くーこ、バイバーイ」
まだ呆然としていた川田が友人たちに背中を押され、半ば無理矢理追い出されてくるのを確認して、センター校舎の西階段に向かう。
途中下から上がってきたらしい伸が驚いたような表情で何かを言いかけ、けれど結局何も言わずにすれ違って行った。明日の朝、伸にはちゃんと報告しよう。心の中でそう思った。
昇降口に着いて靴を履き替えるときも、自転車置き場にチャリを取りに向かう間も、俺と川田は無言だった。お互い妙に緊張してしまい、話しかけるきっかけを見つけられずにいたのだ。
俺はチャリに二人分の荷物を積み、押して歩いていた。川田はそれを追うように後からついて来る。時折川田の様子を窺うと、困ったようなはにかんだようななんとも言えない表情で俯き加減に歩いていた。
「あ。俺、肉まん買って行くわ。川田は? 何か食う?」
コンビニなんてしゃれたもんじゃなくて、昔ながらの普通のパン屋の前を通りがかったとき、ようやく俺が発した言葉がこれだった。いつもクラブの帰りに、部員たちとここで買い食いをするのが習慣になっている。急いで来たからまだ誰にも会っていないが、あと五分もすれば、狭い店が男子バスケ部員で溢れ返るだろう。
「んー。じゃあ、ピザまん」
「ピザまんー? なんでそんな中途半端なもん食うんだよ?」
「だって、けっこう美味しいよ?」
川田の味覚が信じられない。肉まんあんまんはともかく、ピザまんはないだろうと思うんだが。いや、ピザまんが悪いとは言わないが、少なくとも俺の周囲では買ってまで食う奴なんていなかった。
おばちゃんからピザまんと肉まんを受け取って、俺は二個分の代金を支払った。
「あ、私の分、払うから」
「いいよ、これくらい」
「じゃあ、飲み物は私が買うから!」
慌てて財布から小銭を取り出そうとしている川田の律儀さを、少し呆れながらも可愛く感じてしまうのは、やはり惚れた欲目なんだろうか。
バスケの連中が来る前にと思い、早足でパン屋の前を離れる。数メートル先を右に折れ、その先の公園のベンチに腰を下ろした。雨は上がったものの相変わらず雨雲が広がったままの空を見上げ、肉まんを一口かじる。
「橋本、君? 私に何か用があったんじゃないの?」
川田の声が、心なしか震えているように聞こえる。俺だって緊張しているんだから、当然だろう。
「川田、いつも体育館に来てるだろ?」
そう言ってから一呼吸置いて彼女の表情を確認すると、目を大きく見開いて驚いている。どうして知っているんだと言わんばかりに。
「誰を見に来てるのかなとか、気になってたんだけど」
「気に、って、橋本君がどうして気にするの?」
まだかじられていないピザまんを両手で持ちながら小首を傾げているその様子が妙に子供っぽくて、けれどそんな仕草をやはり可愛いと感じている自分がなんとなくおかしくなる。
何と答えようか。そう考えたとき脳裏に、いつも俺と同じようにギャラリーを気にかけていた伸の顔が浮かんだ。
「ピザまん」
「えっ?」
「早く食わないと、冷めるぞ?」
「え。あ。やだっ」
なにが嫌なのだろうかと思ったら、どうやら手に力が入ってしまっていたらしく、ピザまんがその手の中で潰れかけていた。
「んもー。って、笑わないでよー」
気がつくと俺の方が小刻みに揺れてしまっていた。あまりに可愛くて、無意識に反応してしまっていたらしい。
「悪い、悪い。川田があんまり可愛いからさ」
だから正直に思ったことを口にしてみると、一瞬きょとんとした川田の顔がすぐに真っ赤になった。
「何、言ってるのー。私なんて十人並みじゃない」
「なんで。川田、可愛いじゃん。ずっと目に付いて、気になってた」
伸の顔が脳裏をちらついたけれど、この際意識の外に追い出しておく。後で罪悪感に苛まれるかもしれないけれど、これだけは譲れない。赤い顔でうろたえている川田を前に、そう思った。
「だから川田が体育館に誰を見に来てるのか、ずっと気になっててさ。川田の目当てって、誰?」
「う。え、えええ!?」
一年のときからずっと見ていたけれど、その間川田が男と付き合ったことがないらしいのは知っていた。だから男慣れしていないだろうことは想像がついてはいたのだけれど、まさかここまで動揺するとは思ってもみなかった。
「どうしよう」
「は? なにが?」
「川田、可愛すぎ」
面白いやら可愛いやら、とにかく目が離せない。そんな自分がやばいなと思ったときには、体が先に動いていた。
小柄な川田の体は、両腕の中にすっぽりと納まる。まるで俺のために誂えたかのように、なんて思うのは馬鹿な男の自惚れだろうけれど。
「は、橋本君」
「なに」
「これってどういう状況なのか、聞いてもいいですか?」
平静を保とうとしている川田の声は、けれど時折上ずり、体が小刻みに震えているのが制服越しに伝わってきた。なんで敬語になるんだか。
「俺が川田を抱きしめています」
だから俺も敬語で応えてみた。
「もう一つ、聞いていいですか?」
「どうぞ?」
「私はどうして橋本君に抱きしめられているのでしょうか」
「川田が可愛いから抱きしめています」
「橋本君って、可愛いと思ったら誰でも抱きしめちゃうの?」
「俺ってそんな風に見られてるんだ?」
「ち、違うけど。だって、じゃあ」
川田が言いたいことは分かっている。それは俺が川田に伝えようとしていることだった。
「好きな子にしか、こんなことはしない」
真っ赤に染まった耳元に唇を寄せて、一語一語はっきりと伝える。
「一年のときから、好きだった。毎日体育館に来る川田が見ているのが俺だといいなと思っていた。これでいい?」
心臓がばくばくと激しく鼓動を刻む。正直、告白されたことは何度もあったけれど、自分からなんてこれが初めてだ。今まで俺に告白してきた女の子たちは、みんなこんなに緊張していたのだろうか。
まるで判決を待つ容疑者のような心境で、川田からの言葉を待つ。けれど川田は何も言わず、身動ぎ一つしない。無反応と言っていいほどだ。受容するでも拒絶するでもなく、俺の腕の中で体を竦めたままになっている。
やはり川田の視線の先にいたのは、伸だったのだろうか。そんな考えが頭を過ぎったけれど、それならばそう言うなり抵抗するなりしそうなものだ。にもかかわらずのこの状況を、一体どう判断すればいいのだろうか。
「川田? おーい」
腕の力を緩めて顔を覗き込むと、困ったような表情を浮かべたまま、面白いくらいに赤く染まっていた。どうやら動かなかったのではなく、硬直していたらしい。
「何も言わないと、勝手に都合よく解釈するけど?」
言いながら顔を近づけると、さすがに我に返ったらしく、慌てて顔が背けられる。うっすらと涙が滲んだ目尻に唇を押し付けると、川田の細い肩が大きく震えた。
「嫌ならそう言えよ?」
一応の逃げ道は作ってやった。だから動かないのは川田の意志だ。そう勝手に解釈した俺は、更に背けられた唇を追って、自分のそれで塞いだ。
さすがに途中で逃げようとしたものの抗議の声が上がらなかったのをいいことに、ひとしきり川田の唇の感触を堪能した。それでも離れるときは名残惜しく、すっかり色づいた唇をぺろりと舐めた。微かな悲鳴が上がるが、聞かなかったことにする。
「で。結局くーこは俺のことどう思ってるわけ?」
仲のいい友人たちにそう呼ばれているのを知っていた俺は、本人の了承も得ずに勝手に「くーこ」と呼んでみた。
「橋本君の都合のいいように解釈してくれて、いい、です」
消え入りそうな声で告げられた言葉は、俺が期待していたものとは少し違ったけれど。
「マジ? 伸とか他の奴じゃなくて?」
「どうしてそこで佐久間君が出てくるの?」
川田が驚いたように顔を上げ、眉間に皺を寄せた。それが示す結果に心底ほっとした俺は、けれどそんなことは面に出さない。
「いや、なんとなく」
「なんとなくって、だって佐久間君は恵那ちゃんと、っととと」
川田は言いかけた口を慌てて両手で塞いだ。伸がなんだと言うのか。
「恵那ちゃんって、早坂のことだよな? くーこの友達の」
「えーっと。もしかして橋本君、佐久間君から聞いていないの?」
「だから、なにを」
俺が知らない伸のことを、よりによって川田が知っている。その事実に俺の胸の裡がざわついた。
「い、言っちゃっていいのかしら」
「言わないんなら、言いたくなるようにしてやろうか? まあ、俺としてはそれでもかまわないけどさ」
制服の裾から手を忍び込ませて脇腹を撫で上げると、川田が小さく悲鳴を上げて身を捩った。
「だっ、だだだ、ダメ!」
「じゃあ、白状しろよ」
川田の目が宙を泳ぎ、やがて俺に戻ってくる。
「佐久間君と恵那ちゃん、半月くらい前から付き合ってるの。佐久間君、ファンクラブがあるくらい人気者だから、公表はしていないけど」
「はあっ? マジ?」
なんだそれは。伸の奴、俺に何も言わないなんて、水臭いもいいところだ。いやむしろ伸も俺と同じように川田に気があるのだと思っていたのだから、それを知っていれば俺ももっと早く気持を告げることができただろう。
「佐久間君、橋本君も恵那ちゃんのことを好きじゃないかって思っているみたいだったから」
「俺が? 早坂を? なんで」
「橋本君がいつも、恵那ちゃんがいるギャラリーの方を気にしているから、そうなんじゃないかって思ってるみたい」
「俺は早坂の隣にいるくーこを見ていたんだ」
それじゃあ俺も伸もお互いに、お互いの思い人に気があるのだと勘違いしていたということなのか。そう思った俺は、別のことにも思い至った。
「もしかしてくーこも、俺が早坂に気があるとか思ってた?」
少しだけ考え込むような仕草を見せ、川田が小さく頷いた。
川田の話では、川田と早坂といつも一緒にいる残りの一人である中村だけが、俺が川田を好きなのではないかと言い当てていたらしい。しかし伸の勘違いのせいで、それを信じる気にはなれなかったのだとか。
「勘弁してくれよ」
「ごっ、ごめんなさい」
恐縮している川田をそれ以上問い詰めたところで何の解決にもならないことは、俺にも分かっている。
「伸の奴、明日覚えてろよ」
そう呟いてみたものの、腕の中の可愛い彼女に免じて許してやろうか、なんて寛大なことを考えている俺は、案外お人よしなのかもしれない。
「喧嘩はだめよ」
「くーこが慰めてくれるんなら、手加減してやってもいいけど」
「私?」
慰めるという言葉に含まれた意味に思い至らないらしい川田は、可愛らしい目をくりくりさせながら小首を傾げている。 その仕草が可愛くて、俺は右手で顔を覆って天を仰いだ。
「あー。帰したくなくなるから、そういう顔するなよ」
駅までの短い距離を肩を並べて歩きながら、流れていく雨雲をぼんやりと見上げ、川田に気付かれないようにこっそりと溜息を吐く。
いくら俺でも、こんな無防備な天然少女に無体なことを強いることはできそうにない。男の本能はさておき、それが惚れている女の子ならなおさら大切にしたいのが男心ってものだ。
もっともこの理性がいつまでもつのかは、自分でも自信がないけれど。隣で無邪気に笑う川田を見ながら、俺はもう一度大きな息を吐いた。