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500円玉を追いかけたら異世界でした─価値は視点で姿を変える

作者: ひびき
掲載日:2026/02/06

 それはとても暑い日だった。

 全身に汗が噴き出し、スーツがじっとりと濡れている。

 会合の手伝いを終えて外に出た私は、喉がカラカラで、冷たい紅茶に吸い寄せられた。


「あっ!」

 駐車場脇の自販機で、冷えたアールグレイの紅茶を買おうと財布を取り出した瞬間、締まりの悪いファスナーの隙間から硬貨がこぼれ落ちた。


「待って! 私の500円玉」

 よりにもよって一番高額な硬貨だ。

 あれをなくすと、お昼代一食分が吹き飛んでしまう。


 私は慌てて追いかけた。


 その途端、足がツルリと滑った。

 坂でもないのに、体が前へと吸い込まれるように転がり落ちる。

 視界がぐるぐると回り、思わず頭を抱えて体を丸めた。


「痛っ……なんなのよ、一体」

 あちこちをぶつけて体が痛い。

 けれど、手の中にはしっかりと500円玉が握られている。

 明日のお昼は守られた――そう思って立ち上がろうとした、そのとき。


「えっ?」

 つい今まで目の前にあったはずの自販機も、アスファルトの黒い地面もない。

 ビルも駐車場も消えていた。

 心臓がドキリと跳ねる。今まで見ていた風景が、どこにもない。


 空には大きな月が浮かんでいる。

 昼間の空の色の中でうっすらとしているけれど、まるで土星のようなリングをまとっていた。


 ゴツゴツとした石畳の道。

 連れ立って歩く少年たちの話し声。

 白く輝く大理石の建物――。


 私は気づくと、見知らぬ世界に立っていた。


「ここ、どこ?」

 私はキョロキョロと辺りを見回した。

 異国風の服を着た人たちが歩いている。ゆったりとした上着に、足元の見えるズボン、サンダル姿だ。

 彼らはチラリチラリと私を見る。目を向けるとスッと視線がそらされた。


 建物の角に屋台が出ていて、香ばしいかおりが流れてくる。

「クレープ? ガレットかな」

 ゴクリと唾を飲み込んだ。


 焼いた肉を葉野菜に乗せ、それをクレープのような皮で包んでいる。

 隣では、お土産なのかアクセサリーや小物入れといった品が売られていた。

 輪のある月をモチーフにしたものや、虹色の石が使われているものなど、どれも日本では見かけない物ばかりだ。

    

 私は好奇心に駆られて身を乗り出した。ネックレスのひとつに目を引かれる。

「手に取って見てもいいですか」

「どうぞどうぞ。よかったら買っていってね」

 そう言われ、フックに掛かっていた物を指先で摘まむ。

 銀色の月の周りの輪がクルクル回っている。光を弾いてとてもきれいだ。

 不思議なことに、チェーンとペンダントトップの間が少し離れている。

 爪を差し込んでみても、テグスなどはない。


 磁石なのかな?


 そう思っていると、「それはエルフが作ったミスリル銀製の逸品だよ」と声が掛かった。

 ミスリルって、あのゲームに出てくる魔法の銀? それにエルフって。


「あの、これおいくらですか?」

 デザインが気に入って、欲しくなった。

「お姉さんお目が高い! 240Gだよ、毎度!」

 そう言われて戸惑った。240ゴールドと言われても、日本円しか持っていない。


「これで、足りますか?」

 一万円札を出してみた。小さな銀ならそれくらいだろうか。

「いやだなぁお客さん。うちはゴールドでしか受け取れないよ」

 試しにクレジットカードを出してみたけれど、「魔法カードならギルドへ行って」とけんもほろろに扱われてしまった。

 

「ん?」

 周りから視線を感じる。

 金髪や明るい栗色などの人々の中で、黒髪の私は明らかに浮いている。

 それに服――仕事着そのままのスーツは、とても人目を引く。


「失礼しました~」

 後ろ髪を引かれたけれど、慌ててその場を立ち去った。


 視線を浴びるのはどうにも居心地が悪い。その時、背中に人の気配を感じた。


「あの、すみません。少しよろしいでしょうか」

 背後から柔らかな男性の声が掛かる。

 見上げると、金髪に近い茶色にグレーの瞳。

 学者のような白い服を着ている、整った顔立ちの男性が立っていた。


「はい、何でしょう」

 私は少し警戒し、一歩下がった。

 こんな道端で男性から声を掛けられるなんて。勧誘なのか、ナンパかもしれない。

 

「あなたは――他の世界からの迷い人――ではありませんか?」

 そう言いながら、遠慮がちに小首を傾げた。


「は?」

 なにそれ。

 ここは何かのイベント会場。もしくは、キャストが紛れ込み、客を楽しませるタイプのテーマパークなの?


「失礼、驚かせましたね。私はこの芸術と学問の国セリオンの学者で、フィロと申します」

 男性は名乗った。

 しかし――セリオン? 聞いたことがない。近年分かれた欧州の新興国か、それとも本当に別の世界なのか。


「こんなところで立ち話もなんですから、あちらへ入りませんか」

 彼は大理石でできた、白亜の塔のような建物を指さした。


 ここはどこなの。この人は一体――。


 私はキツネに化かされたような混乱に陥っていた。


「結構です。知らない人にはついていかない主義で」

「でも疲れているでしょう? とても辛そうだ」


 今日は一日仕事で立ちっぱなしだったため、足が限界だった。

 おまけに先ほど買った紅茶を口にする暇もなくて、喉がカラカラだ。

 その様子を、彼はすぐに見抜いたのだろう。

「……わかりました」

 私は仕方なく、フィロと名乗る男性の後について行った。


「どうぞこちらにお座り下さい」

 20人ほどの人が座れる、ガランとした食堂のような部屋に案内された。

 椅子に腰を下ろし、ふぅとひと息ついていると、一旦姿を消した彼が、手にトレイを持って戻ってくる。 

「どうぞ」

 ティーカップが二つ乗っている。

 紅茶だろうか、ふわりとベルガモットの香りがした。それに、焼き菓子が添えられている。

「いえ、結構です。これがありますので」

 私は自販機で購入した、ペットボトルの紅茶を取り出した。


 ――別の世界――と言っていた。

 万一それが本当だったなら、ギリシャ神話のペルセフォネのように、異界の物を口にしたら戻れなくなってしまうかもしれない。


 私はペットボトルの蓋を開け、彼の目の前でごくごくと飲んだ。

「――信用されていませんね」

「それは、そうでしょう。セリオンなんて国は聞いたことがない」

 どう見ても彼らの見た目は日本人ではない。

 それなのに、流暢な言葉をしゃべっている。

 とても違和感があった。


「あの、どうして私をここへ連れてきたんですか」

 あのまま通り過ぎても何も問題はなかっただろう。

 私も帰れるならば、真っ直ぐ家に帰って――いたはずだ。


「異世界からの迷い人には、親切にするようにと言われていてね」

「どうしてですか」

「それは、――前例がいくつもあるからだよ」


 過去に何人も、他の世界から偶然迷い込んだ人がいる。

 彼らが持ち込んだ価値観は、この地に小さな変化をもたらし、静かに世界へ根付いていった――。


 日本にいくつも例がある、漂流者のようなものだろうか。

 確かに昔の人たちも、異邦人だと追い立てることはなく、穏やかに迎え入れていたはずだ。


「いくつか質問してもいい?」

 彼はどこからか羽ペンとインク、それに紙を取り出した。

「キミの名前は? どこから、どうやって来たのか――」

「名前――」


 真の名を知られ、操られてしまった人の物語が頭をよぎった。

「そんなに心配しなくても、何もしないよ」

 見透かしたように、フィロが苦笑する。

柏木葵かしわぎあおい――です」

「あおい――いい名前だね。とても爽やかな響きだ」

 彼は遠いどこかを眺めるように目を細めた。


「ここへはどうやって?」


 彼に言ったら笑われるだろうか。

 500円玉を追い掛けたら、異世界へ来てしまったなんて。


「それはとても興味深いね」

 真面目な顔で、ペン先にインクを付けて書き込んでいく。

 見たこともない、ミミズのような文字なのに、なぜか読める。

「日本――から、来ました。仕事帰りで、家に戻る途中だったんです」

 独り言のようにつぶやいた。


 もう今頃は、部屋でくつろいでいるはずだったのに。


「あの」

 私は彼の手元に目を留めた。

「羽ペン……? 使いにくくないですか」

 何度もチョンチョンとペン先にインクを付ける動作が気になってしまう。

 

 意外なことを言われたのか、頭を上げて目を見開き、彼は動かしていた手を止める。

「私たちは、こういう物を使っていますけど」

 トートバッグの中から、いつも使っている多機能ボールペンを取り出した。

 一本で済むため、外出先用にこれを持ち歩いている。


 仕事で使ったパンフレットも出して、余白に線を引いてみせた。

 黒、赤、青、それにシャープペン。

 彼はひどく驚いた顔をする。


「へぇっ、便利だね。インクは付けなくていいの」

「一日二日では切れません。書く量にもよりますが、私は半年以上使っています」

 彼はキラキラとまるで少年のように目を輝かせる。

 知りたそうだったので、軸を回して分解もして見せた。

「素晴らしい。――本当にキミは別の世界から来たんだね。それにそちら」

 チラリとパンフレットに目を移した。


「これは――何かの説明用のものかい。いろいろな技術が紹介されている」

 今日行われた小規模な技術交流会のものだった。私はこれを手に、得意先の方々を案内した。


「実はキミは観察されている。ここに現れてから、ずっとね。その姿、髪型、化粧、服装に靴――。全てが新鮮で珍しい。ここは芸術と学問の国セリオン。街の人は皆キミに注目していた」


 彼は自分で煎れた紅茶をひとくちすする。そしてもう一度私に向き直った。


「キミさえよければここに滞在して欲しい。こういったことを、僕達はとても――知りたいんだ。学者の本能的な欲求と言ってもいい」


 彼のグレーの瞳が真っ直ぐに私を射貫く。

 それはとても澄んでいて、心からそう望んでいると訴えていた。

「好奇心旺盛なキミならば、この世界に変化をもたらしてくれると確信してる」


「――お断りします」

 私は即座にそう言った。

「とても疲れているんです。早く帰ってベッドで寝たい」


 それに、見知らぬ世界で初めて会った人に頼るのは怖かった。

 嘘偽りのない言葉だ。

 明日もまた仕事がある。こんなところで遊んではいられない。


「――そう」

 彼は短くそう言った。

 心なしか、ションボリとした子犬のように、顔に影が掛かっている。

「興味はない?」

 輪のある月に白亜の塔。クレープのような美味しそうな食べ物にアクセサリーや小物。

 それに何より私に向かって興味津々な彼の瞳――。


「少しはあるかもしれないけど、本当に疲れているんです」

 立ちっぱなしだった足は棒のようだ。体も真っ直ぐ立ってられない。

「休日に来られたら、楽しそうだけど」


 彼は一瞬視線を外し、考え込んだ。けれどすぐに顔を上げ、笑顔を向ける。

「ありがとう。これを受け取って欲しい」

 

 彼は男性にしては細い指から、銀色の指輪を外した。そして私の手のひらに置く。

「また話を聞かせてくれないか」

 目を細め、彼は穏やかに微笑んだ。


「今日はこの辺にしておこう。落ち着ける部屋に案内する。長々と、失礼した」

 そう言って椅子から立ち上がる。


 ひとつ上の階にある小部屋に案内された。

 ソファとベッド、それに小さなテーブルが備え付けられているだけの、シンプルな部屋だ。


「ゆっくり休むといい。また会えることを願っているよ」


 パタリとドアが閉じられて、私はひとり部屋に残された。

 白亜の塔に整った顔の男性――。

 夢の出来事なのか、現実なのか、ソファに身を沈めた私はそのまま深い眠りについた。


 翌朝、自分の部屋で目が覚めた。

 化粧も落とさずスーツのまま寝てしまったため、顔も服もぐしゃぐしゃだ。

「あーもう」

 脱力しながら服を脱ぎ、熱いシャワーを浴びる。まだ出勤には時間があった。冷凍しておいたパンにチーズを乗せて焼き、ひとくちかじる。


 昨日のことは、夢だったのかな。


 やけに鮮明に覚えている。

 天井の高い部屋で、穏やかに話しかける男性――フィロ。


「あっ、500円玉!」

 落とした硬貨を思い出した。スーツのポケットに入れっぱなしだ。ハンガーに掛けたズボンのポケットに手を突っ込む。

 そこでカチリと金属の音がした。


 500円玉と――銀の指輪。


 ――夢じゃなかったんだ。


 あれは本当にあったことだったのか。


 別の世界に連れて行ってくれた硬貨を財布にしまう。コイン入れではなく、御守りと同じその場所に。

 指輪を見ると内側に何か文字が刻まれていた。


《価値は、視点で姿を変える》


 彼らは私の姿形、化粧、服に靴――全てが興味の対象だった。

 ボールペンやパンフレットですらも。


 バッグに入っていたパンフレットを取り出した。

 余白にボールペンで試し書きをした線が残っている。パラリと開き内容を見ると、とても新鮮だ。

 ただお客さんに説明をするだけのパンフレットが、生活をより良くする物の紹介なのだと気がついた。


 太陽光を使った浄化システムなんて、あの世界ではきっと画期的だ。

 不便な羽ペンを使うあの地では、どれだけ役に立つだろう。

 今の私なら、人々の生活を少しだけ豊かにする、そんな手伝いができるはず。

 昨日まで当たり前だと思っていたものが、輝いていた。


《価値は、視点で姿を変える》


 もう一度、その言葉を頭に刻み込んだ。


 銀の指輪が月と同じ色にキラリと光る。

「……また、行けるかな」

 ペットボトルのアールグレイの香りが、異世界に誘っているように感じられた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


本作は長編作品と同一世界観の短編です。

長編『異世界投資でゆとり暮らし始めます』は、2026/2/13に投稿開始しています。

よろしければそちらも覗いていただけると嬉しいです。

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