2話 12歳まで|Because this is the world
小学校という場所は、私にとって、突然「世界が広がった」ように感じる場所だった。
けれど、その広がり方は決して優しいものではなかった。
母の手の中でだけ感じていた“意味のある触れ方”は、そこにはなかった。
知らない誰かが私の腕に触れてくる。
けれどその触れ方には温度がなくて、方向も意図も分からない。
ただざらりとした違和感だけが、私の皮膚の表面に残った。
私は私なりに「挨拶」だと思って、手を差し出したり、背中を向けたりした。
でも、それがどう受け取られたのかは分からない。
むしろ、間違っていたのかもしれない。
ある日、背中に突然“強い衝撃”が走った。
誰かが押したのか、ぶつかったのか、私は理解できなかった。
体が前に倒れ、地面の冷たさが手のひらに伝わる。
笑い声は聞こえない。
でも、揺れる空気が肌を通して伝わってきて、
「ああ、今、誰かが笑っているんだ」と分かった。
別の日には、ランドセルのひもを引っ張られ、私は後ろに倒れそうになった。
その瞬間、足の裏が震えた。
地面が揺れる感覚がして、私はただ固まるしかなかった。
何が起きているのか、誰がそこにいるのかまったく分からない。
「分からなさ」が、そのまま「恐怖」になっていく。
逃げても、暗闇。
立ち止まっても、暗闇。
光がない世界では、動いても止まっても、どちらも同じ。
世界は常に一定の距離を置いて、私を拒んでいるように感じた。
そんなある日、私は初めて“違うぬくもり”に触れた。
それは人の手よりも大きくて、柔らかくて、
そして何より――“あたたかかった”。
鼻先が私の手の甲を軽く押した。
驚きで体が跳ね、息が詰まりそうになった。
すぐに、母が私の手を包み込み、何かを伝えるように指を動かした。
触れ方で「大丈夫」と教えようとしてくれているのが分かった。
やがて、私の手に再びその大きなぬくもりが触れた。
今度は逃げなかった。
慎重に、少しずつ触れてみると、その存在はゆっくり尻尾を揺らした気配があった。
私の手のひらに、確かな鼓動が伝わる。
――これが、「シシゾウ」。
盲導犬として、私に寄り添うために来た存在。
シシゾウは、私が不安で身体をこわばらせると、前に立って守るように動いた。
膝に触れる体温が、今まで知らなかった安心をくれた。
人の手は、私を押すことも、笑うこともあった。
でもシシゾウの体は、ただそこにいて、私が触れるのを待っていてくれた。
学校の廊下で立ち止まると、シシゾウはそっと鼻で私の手を押した。
「進もう」と言っているようだった。
その優しい合図に従って歩くと、見えないはずの道が少しだけ“分かる道”に変わった。
シシゾウのぬくもりだけが、私の小学校での光だった。
暗闇の世界にも、確かに光はあるのだと、私は彼の背中から学んだ。




