1話 6歳まで|In the invisible world
私の世界は、本当に、小さな手のひらの中にしかなかった。
広さも、色も、光も、音さえも知らない。
けれど、その手のひらの中だけは確かだった。
そこには、私だけの「世界の形」があった。
母・菜乃花は、毎日のように、私の手に触れてくれた。
優しく、時に迷いながら、けれど諦めずに、何度も何度も。
指が私の手の上を滑るたび、それが「意味のある動き」だということは、ぼんやりと分かっていた。
母の指先には、いつも少し震えがあった。
それは恐れなのか、祈りなのか、私は知ることができなかったが、
その震えは、私にとって確かな「ぬくもり」だった。
指文字、触手話。
それが“言葉”だということを理解するのには、時間がかかった。
最初はただ「いつも触ってくる動き」くらいにしか思っていなかった。
でもあるとき、母の指が“ほほえむような柔らかさ”で触れた瞬間、
私はその動きが、ただの触れ方ではないと気づいた。
そこに母の想いが、息づいている気がしたのだ。
父――紫藤連太郎。
私は彼の存在を、匂いでも声でもなく、「撫でる手」としてしか知らなかった。
大きく、指の腹があたたかくて、肩から頭へと静かに移動する手。
その動きは、母とは違う安心を私にくれた。
私は父のことを“優しい手の人”と呼んでいた。
もちろん声にはできないから、心の中だけで。
しかし、ある日を境にその手は来なくなった。
撫でられない日が一日、二日と続くうちに、私はようやく気づいた。
あれ、今日は来ない。
それは、不安というよりも、ただ世界の一部が欠けたような違和感だった。
母が泣いていたことも、家の空気が重く沈んだことも、私は知らなかった。
ただ、「撫でる手が来ない」という変化だけが、私にとってのすべてだった。
世界が変わったとき、私に分かるのは、それだけだった。
そんな日常の中で、黒猫のクロノは突然、私の世界に入り込んできた。
初めて触れたときの、あの柔らかい毛。
そっと触れれば、ふわりと動く命の気配。
しっぽが私の手首をくすぐるように撫でると、私は驚いて手を引っ込めた。
すると、クロノは再びそっと近づき、今度は胸のあたりに寄りかかってきた。
その温度は、まるで小さな焚き火みたいで、私は思わずその毛並みに手を沈めた。
世界って、こんなに“あたたかい”ものだったんだ。
私は心の中でそう思った。
クロノに触れるたび、自分の知らない世界が少しずつ広がる気がした。
形も色も分からないけれど、確かにそこには“命”がいた。
見えない世界。
聞こえない世界。
でも、その中でも私は確かに生きていた。
ただ触れるだけの世界でも、そこには私を包む温度があった。
私は、それだけを頼りに生きていた。
小さな手のひらと、触れ合う温度だけを道しるべにして――。




